Ⅶ 飛行日誌 包囲下のパリを出発した最初の気球はネプテューヌ号である。これは、前掲の政令が公告される前に飛び立った、いわば実験気球であり、その後に就航を予定されたものよりひとまわり小型であった。これにはその所有者ジュール・ドリュオが搭乗した。9月23日午前8時、125キログラムの至急便とともにモンマルトルの丘を飛び立った同号は3時間後にパリから104キロ離れたエヴルー近郊のクラコンヴィルに着陸した。 実験は大成功をおさめた。ネプテューヌ号成功の後を受けて航空便事業は本格化した。前掲の政令の公告と並行して続々と気球の建造が急がれた。アルマン・アルベス号、ジョルジュ・サンド号、ルイ=ブラン号と、次々と新造の気球が姿を現した。この命名は最初ナダールが行ったが、それらは全て彼の友人の名であった。ネプテューヌ号が残さなかった飛行日誌は、第4便セレスト [天使]号に搭乗したガストン・ティサンディエが記した。彼はツールに飛んだのち、新聞『コンスティショネル』紙に寄稿。これが搭乗者自身の手で書かれた旅行記の最初のものとなった。当時の気球飛行がどのようなものであったかを知るうえで、興味深い。以下、これを引用する。 「昨9月30日金曜日、800平方メートルの容積をもつ気球セレスト号はいんいんたる砲声の轟くなか、パリ、ヴォージラールの工場でガスの充填を受けおわった午前9時30分、微風を浴びて飛び跳ねていた。出発準備完了。郵政局長官が私に百キログラムの特別郵便を引き渡した。これらの郵便物は、それが私と一緒にプロイセンの前線に落下しないかぎり、フランスの2万5千人を幸せにするはずの2万5千通の手紙であった。私は伝書鳩の鳥籠を中心に固定した。臨時政府の閣僚の一人から最後の勧告を聴いた。それは、ツールに対する特命を私に託すというもの。私は中程度のスピードで千メートルの高度に上昇した。数秒後、私はパリ要塞の上空を滑空しつつ、近くにプロイセン軍がいないかを探った。驚いたことに、ここでは私はプロイセン軍を発見しなかった。わが首都の周辺は一面遺棄された砂漠と化していた。路上には人気がまったくなく、セーヌ川は一隻の船も浮かべず、まるで住民に見捨てられた古代の城塞のようだ。しかし、私は遠くに幾筋かたち上ぼる煙を認め、また耳元まで上ってくる凄まじい砲声を聞く。かくて、パリ周辺で何らかの軍事行動が始まっていると理解できる。 やがて、足下に展開するのはヴェルサイユ、まさしく敵によって汚されたフランスの宝石たるヴェルサイユである。私は庭園のなかに徘徊する哨戒隊をこっちを見詰める前哨を、そして緑の絨毯の上でまどろんでいる槍騎兵を認める。この光景を見て私は悲しみに襲われた。そこで私は視線をヴェルサイユの東方に移した。そこには、プロイセン軍の小さな兵営があった。私は兵士の真直中に、ドイツ語で印刷された宣言文を撒いた。これらの兵士は銃撃の返礼を送ったが、銃弾は私が滑空している所までは届かなかった。太陽は焼けつくようだった。私の気球はなおも空中に吊されていた。目に見えない波の上を静かに滑っていくと、眼下にこの世の物とは思えない素晴らしい光景が開けた。地平線上には、遠くに広がる大平原を縁取る巨大な円形の霞みがかかっている。風は私を西方に導き、ほどなくランブイエの森の北端を通過する。 そこに私はなおまだ幾人かのプロイセン兵を見たが、ウーダンを越えると、それらは見えなくなった。森の上空500メートルを通過したために、セレスト号の亜麻布を膨らませているガスが冷え、この時から私はその舷側から多量のバラストを投棄せざるをえなくなった。やがて私は地平線上にドルーを認めた。私は地上50メートルまで降り、そして駆けつけてきた農民を見て、声の限りを尽くし『君達の所にプロイセン兵はいるのか?』と叫んだ。『いや、いない』という返事が返ってきた。そこは静かで信頼をおけそうだったので、私はバルブを開く気になった。が、吹き下ろしてくる風が不意に私をとらえ、驚くべき力で私を地面に叩きつけた。碇を下ろす間もない瞬時の出来事であった。私はひどい衝撃を受けた。吊籠はひっくり返り、私はすんでのところでそこから外に飛び出すところであった。私はもう一つだけ残ったバラスト袋を棄てたが、破裂の生じた気球はもはや上昇しなかった。幸いなことに、かなり激しく風に引き摺られている間にも私はナイフを掴み、ついに碇を投棄する機会を得た。ドルーの勇敢な住民たちは大急ぎでそれを掴まえた。 風はかなり強かった。私の気球は揺らぎを止めたときには、文字通り端から端まで引き裂けていた。 私は不運な官吏に何とひどい仕事をもたらしたことか。私はフランス全土および外国に宛ての2万5千 通の書簡を彼らに区分けさせることになった。郡長アルフレド・シルヴァン氏は私を大歓迎し、親切に も私のためにツール行きの特別列車を仕立ててくれた。」 ツールでティサンディエ氏を待ち受けていたものは質問攻めであった。人々はパリの勇敢な決意を聞いて狂喜した。そしてティサンディエはこの旅行記を次のような言葉で締めくくる。 『今日、われわれがもたらしたニュースは頻繁に更新されるであろう。なぜなら、気球郵便の業務が大規模に組織されたからである。著名なモンゴルフィエの祖国において気球が果たす偉業を誇らしく眺めるのは、それ相応の理由があるからだ。』」 Ⅷ クルップ気球砲 ティサンディエが予言したように、気球が以後ほぼ2~3日の間隔をおいてパリを飛び立った。むろんその最大の使命は地方向け郵便物の搬送であった。それらは多くの場合、地方からパリへの返信のために使う伝書鳩を積んでいた。郵便物はその最大重量のもので460キログラムに達した。 各郵便物にはこれまで通り消印が捺されたが、消印(円形)は外周に「フランス共和国」、内側に操縦士の名が刻まれていた。消印を捺された郵便物は袋に入れられ、セーヌ県郵便局長シャシナあるいは副局長ベシェの立ち会いのもとで気球に積みこまれた。技師エール=マンゴンは全ての気球の出発に際し、その技術指導に当った。彼は操縦士に風向きと風速を伝え、敵の前線の外に着陸するための滑空すべきおおよその時間を指示した。セレスト号の例で示されるように、無事着陸した飛行士はただちに最寄りの市町村役場に出頭し、その助力を得て馬車または貨車で荷物とともにツールに行く手筈になっていた。通信文の類はここで区分けされ、地方または外国へ配送された。 飛行が操縦士の勘と肉眼に依拠するところから、出発は明け方の時刻が選ばれた。とりわけ大切なのは、風向きと速度から割り出される飛行時間であった。短かすぎれば敵前線を越えることができず、また長すぎれば見当違いの場所に運ばれる危険性があった。実際、この判断の誤りから、全65隻の気球のうちプロイセン軍に捕獲されたのは5隻、海中に没して行方不明になったのが2隻を数え、なかには悪天候のためにノルウェーまで流された気球もあった。 気球は敵前線上空で撒くビラを携行した。このビラはフランス語とドイツ語で書かれていた。むろん、ドイツ兵の士気沮喪を狙ってのものである。これが効果を挙げたかどうかは分からない、しかし、前に引用したティサンディエの旅行記にもあったように、独軍を徴発する結果を招いたことは確かなようだ。ビスマルクは最初の気球が前線上空を通過するのを目撃したとき、「卑怯なり」と叫んだと言われる。それは当然のことであった。パリと地方の情報交換が可能になれば、パリ封鎖の効果は半減するからである。プロイセン軍は全力を挙げてそれを阻止しようとした。ビスマルクは、この気球によって移動を試みた旅行者でプロイセン軍の手中に落ちた全ての者は、即刻軍法会議かけられ処刑されるであろうと宣言した。彼は気球を「騙り」と見なし、これをスパイ行為と同列に置いたのである。 「ビスマルクは大地を征服するだけで満足せず、同時に大気と大空をも没収せんとしている。包囲は地上に始まり、ついには星辰にまで及ぶのだ」。当時のパリ市民はこのように憤慨している。さらに彼は続ける。 「何ということだ。このガルガンチュアの何という野心。だが、万事言うは易し、行うは難し。これらの気高い宣言はプロイセン参謀の気遣いがどこにあるかを包み隠すためのものであると私は信ずる。 彼は困難な状況を悟り、そして大空と大地を一刀両断にすると自認することによって、ただ単に恐れを ごまかそうとしているにすぎない。 ビスマルク氏がヨーロッパを欺こうとしていることは、パリの状態に関してまったくでたらめな噂を 振り撒くという気遣いである。すなわち、パリ市民は餓死を避けるために植物園や馴化園の動物を食べ ざるをえなくなっているとか、われわれがあと数日分のパンと葡萄酒しかもっていないとかいうのだ。 まったく笑止千万の噂である。しかし、もしわれわれがビスマルクの眼に悪く映ったその気球をもって いなかったならば、ここで生じていることを知らないヨーロッパは、われわれが土壇場に追いつめられ、 地方が攻略されていると信ずることであろう。」 ビスマルクは気球を狙い撃ちにしてこれの捕獲を命じた。しかし、通常の銃や大砲では射程があまりに短く、気球に届かなかった。そこで司令部はクルップ兵器厰に新式砲の製造を命じた。全方位駆動の新装置をつけたこのブロンズ砲は「気球砲」と銘うたれて、四輪車台に固定された。これは2頭の馬で引くことができた。パリの内側から気球が舞い上がると、独軍斥候は即刻その旨を気球砲隊に打電し、追跡を開始する。気球砲は大急ぎで指示された場所に配置され迎撃態勢を敷いた。熟達した砲兵が気球を狙い発砲。高度800メートルで砲弾の炸裂音を聞いた気球操縦士は滑空高度を千メートル以上に上げ、この大砲の射程外に離脱した。フランス側では、すでにツールで砲弾の射程距離を調べるために繋留気球を用いて実験を行っていた。その結果、銃による攻撃では400メートル、大砲ではおよそ800メートルが最大射程であることが突きとめられていた。 にもかかわず、降下の途中で被弾することは避けられなかった。かなり多くの気球が上昇と降下の過程でプロイセン軍の銃砲撃を受けた。実際に被弾し、それが原因で墜落したのは、11月12日に出発した第26便ダゲール号の場合のみである。このため同号の飛行士はパリ近郊のフェリエールに着陸せざるをえず、そこで追跡していた敵兵によって気球もろとも捕虜になった。 プロイセン軍による狙撃がさほど実効を挙げなかったにしても、追跡の方は飛行にとって大いに脅威となった。ダゲール号と同じ11月12日に出発したニエプス号は安全圏と思われるマルヌ県ヴィトリ=ル=フランソアに着陸した。知らないうちにプロイセン兵の追跡を受けていたため、着陸と同時に捕獲された。乗員は辛くも難を免れてツールに辿り着いた。しかし、同号が積載していた通信用に使う予定のカメラや薬品はことごとく没収された。 郵政局はこの経験に鑑みて、以後、気球の出発を深夜にした。しかし、カンと肉眼に頼らざるをえない気球の操縦には一段と困難が増した。昼間でさえ誤認の危険性があるのに、夜の飛行とはもはや盲飛行以外の何ものでもなかった。見当違いの場所への着陸または行方不明などの事故は全て、夜間飛行中の出来事である。 |
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