Ⅴ 熱気球 ここで話を76年前に戻そう。1794年、フランスが外国の侵入軍に対して防衛を余儀なくされたのはこの年であった。国民公会が執行権を集中させるために設置した公安委員会はありとあらゆる科学的発明、工夫の才を祖国防衛のために役立てる目的でひとつの委員会を発足させた。この委員会の委員ギトン・ド・モルヴォーは敵情査察のために繋留気球の利用を提案した。この提案は受理され、パリ隣接のムードンにクテルおよびコントの指揮下に航空学校が設立された。クテルはアントルプルナン[大胆]号に搭乗してジュールダン軍に従い、フルーリュスの戦闘などで大きな戦功を立てた。これが気球が実戦に用いられた最初である。 しかし、気球そのものの歴史はもう少し前に溯る。空気よりも軽い期待を詰めて空中を浮游する物体の可能性については、すでに13世紀のベーコンによって確かめられていた。アルデシュ県アノネーの紙細工人エティエンヌ・モンゴルフィエおよびジョゼフ・モンゴルフィエの兄弟は英国人化学者プリーストリーの書物から着想を得てゴム製風船に、湿らせた羊毛屑と藁を燃やして発生させたガスを充満させて、このガスの浮力により気球の地上浮游に成功した。ときに、1782年のことである。この最初の成功の後を受けて、熱気球をすっかり有名にしたのが、その翌年8月にシャルル(1746~1823年)教授によってシャン・ド・マルス大広場に30万の大観衆を集めて挙行された実験である。人を乗せた気球の実験はブーローニュの森で行われた。シャルルの作ったこの同じ気球に3人の勇敢な男が搭乗した。ベンジャミン・フランクリンはこの実験を目撃し、「気球は何の役に立つであろうか?」と独り言をつぶやいたと言われる。シャルルは気球をさらに改良し、ある程度の操縦性をもたせることに成功した。すなわち、栓弁、吊籠、綱索、底荷、ゴム製ドープの塗布、晴雨計の装填など、気球の走行に必要な基本的装備のほとんどは、この有人気球の発明者自身の手で考案された。 この新奇な物体について最初に目をつけたのは軍人であった。シャルルの3度目の実験飛行が大成功をおさめてから2日後の1783年12月3日、ムーニエ将軍はパリの科学アカデミーに対して早くも気球の実戦での活用を提案したのである。 フルーリュスの戦闘で嚇々たる戦功を挙げた気球には華々しい未来が約束されたかに見えた。事実はその逆、気球はフランス革命後は軍用はもとより民間用にも用いられることなく、長い不遇の歴史をもつことになった。ムードン国立気球学校の創設になみなみならぬ熱意を示したモロー将軍が退役すると、その後任にオッシュが就いたが、彼は空・陸の連携というこの新しい発想そのものに敵意を示した。公正・廉直なる騎士道の精神は革命後の軍人の中に立派に生き残っていたのである。エジプト侵攻中のボナパルト将軍も、遠征隊によって本国からもたらされた気球を実戦に投入しようとはしなかった。理由は定かではないが、おそらくは彼の猜疑心の強い性格からしてこの新しい補助手段、この大胆な発想の利用が彼の栄光の一部を台無しにしてしまうことを恐れたものと思われる。ボナパルトはエジプトから帰還するや、ムードンの学校を閉鎖し、その機材の一切を処分してしまった。 70余年後、普仏戦争が始まったとき、ムードンの制度はその痕跡さえとどめず、軍用気球は遠い昔の思い出話としてのみ人々の記憶の中に生きていた。 Ⅵ 気球郵便 パリ包囲網が完成すると、著名な写真家ナダール(1820~1910年)は政府に対し、繋留気球による敵情査察を提案。トロシュ将軍はこれを受理し、海軍の一部を割いてナダール計画の実施に当てた。モンマルトルの丘、イタリー大通り、ヴォージラール大通りに気球の繋留基地が設けられた。 これらの偵察行動はあまりに巨大な包囲網のためにさしたる成果を挙げえなかったが、発想の上で後の気球による「航空郵便」への道を開くことになる。パリで気球で郵便物を運ぼうとする計画が真剣に論じられているとき、メッスに籠城中のバゼーヌは外部との連絡に、至急報と伝書鳩を積載した小さな無人気球を飛ばそうとしていた。風向きが敵のいない方向に変わった9月16日、最初の気球が打ち上げられれた。けれども、この気球はプロイセン軍の真直中に落ちた。翌17日にも約5百通の手紙を吊籠に詰めた気球が打ち上げられた。今度は敵前線を飛び越え、ヴォージュ山脈の西山麓の町ヌフシャトー近郊に落下した。この気球は、バゼーヌ軍の物量が万全であり士気がきわめて良好であることを証拠づける情報を積んでいた。この朗報は翌18日、ただちに政府に打電され、首都にしばしの希望の灯を点した。これが気球による情報伝達の最初の実例である。 パリでも熱心に研究が進められていた。ウィフリド・ド・フォンヴィエルは無人気球による通信文の自動配達装置なるものを考案した。これによると、先ず気球の吊籠に固定された中心軸に通信文を入れた袋を留める。飛行中、風向きおよび速度に基づいて予め計算された時間が経過すると、この軸が自動的に回転して袋を切り離す。そこで落下点に駆けつけた郵便局員がこれを回収する、というもの。しかし、この計画は一度も実行に移されされなかった。また、パリでもメッスの例と同じように、宣言文と新聞を収納した小さな気球が打ち上げられたが、これはプロイセン軍の手におちた。万事風まかせ、幸運のみに期待をかけるようなこの計画は信用されなかった。 そこで、現実案として有人気球の方式が浮上してきた。パリには当時、私有の軽気球が7個存在した。それらは整備不十分で、即座の実用に適さなかった。そこで政府はその補修を命ずるとともに、これらの個人との間に契約を結んだ。この約定書はパリ籠城期には公表されることなく、開城後の1871年3月2日なってようやく 『官報』に掲載された。 その契約書は気球納入の期日、遅延の際の処置、気球の材質・容積・積載重量、運行1回当たりの賃貸料等の細目を定めている。気球は所定の日までに納入しなければならない。遅延料1日当たり50フランを政府に弁償する。それは最上質の綿繻子を使い、それを亜麻油引きした気嚢をもつ。そして、その気嚢は最低でも2千立方メートルの容積を有し、5百キログラムの最大積載量に堪えなければならない。吊籠は四人乗りとし、操船や着陸に必要な一切の装置を備えていなければならない、等々。 水素ガスの充填には十時間も要し、この間に気嚢のガス洩れの有無の検査が入念に行われた。細心の注意が払われたにもかかわらず、気嚢の完全な密閉には大きな困難を伴った。郵便局の借上料は1回当たり4千フラン (後に3千フランに減額)とされ、このほかに操縦士への俸給は2百フラン、ガス代3百フラン、付属装置引当金3百~6百フランが支給されるはずであった。これらの経費は、出発後、気球が視界から消え去った時をもって任務完了と見なされ、事業主へ支払われことになっていた。 気球の製造・艤装とならんで重要なもう一つの問題は、操縦士の訓練のそれであった。操船といっても装置は晴雨計のほかにバラスト、錨索があるくらいのものである。プロペラや方向舵はむろんなく、逆風に逆らっての操船はむろん不可能であった。それだけに上昇、下降、離着陸の技術には高度の熟練を要した。気球郵便が問題になった当時、熟練操縦士は数人いたが、それだけではまったく不足した。なぜなら、パリへの帰還飛行が望み薄であり、絶えざる補充を必要としたからである。そこで政府は海軍の剰員をこれに充当することを決定。実際、攻囲期間中にパリを出発した全65隻の気球のうち、約半数に当る30隻が水兵によって操縦された。勇気と技量の点ではこの水兵が他を圧倒していた。不幸にして海中に没したジャカール号の搭乗者プランスを除いて全員がその任務を果した。 俄かづくりではあったが、ランポン氏が有人気球による航空郵便制度を思いたって僅か2週間にして、それは実現へ向けて第一歩を踏みだした。1870年9月29日の『官報』は次のような2つの政令を発表した。パリが封鎖されてから12日目のことである。 [政令一] 第一条 郵政庁は有人飛行船の方法によってフランス、アルジェリアおよび外国へ向けての普通郵便を送達する権限を有する。 第二条 飛行船によって送達される書簡の重量は四グラムを超えることができない。これら書簡の輸送について徴収される料金はこれまで通り20サンチームに据え置かれる。切手の貼りつけこれを義務とする。 第三条 大蔵大臣は本令の執行を担当する。 [政令二] 第一条 郵政庁は繋留・無人飛行船の方法によって、表面に宛名を、裏面に通信文を記載した葉書を輸送する権限を有する。 第二条 葉書は最大で3グラムの重量をもち、縦11センチ、横7センチ規格の犢皮紙を使用する。 第三条 葉書の切手の貼りつけはこれを義務とする。徴収されるべき料金についてはフランスおよ びアルジェリア向けのものは10サンチームとする。外国向けの葉書には普通書簡の料金 が適用される。 第四条 政府は敵によって利用される性質の情報を記載した全ての葉書を拘留する権限を有す る。 第五条 大蔵大臣は本令の執行を担当する。 パリ 1870年9月26日 ランポン 本政令が述べているように、われわれは、無人気球が実際に用いられているのをみる。これは有人気球に先立って密かに研究されていた。ゴム引きの特殊紙でつくられたこの無人気球は最大で50キログラムの郵便物を積載できるはずであった。9月20日の実験では、4キログラムの通信文を積んだ最初の小気球が打ち上げられたが、それはプロイセンの前線を越えることができず、敵の間直中に落下してしまった。結局、試みはこれが全てであって、実用化されることはなかった。 風向きの偶然に任せる無人気球より、ある程度操縦性があり、とくに着陸点を選べる有人気球の方が確実性があった。実際、パリから地方および外国向けの郵便物はもっぱらこの手段によって運ばれた。籠城という不測の事態が強いた、全くの急場凌ぎの方策であったが、気球による「航空郵便」は十分に所期の成果を挙げた。財政的見地からみても、十分採算に見合うものであった。すなわち、1便当たりの総費用は5千フランを凌駕しなかったが、仮にこれに4百キログラムの郵便物つまり、概算で10万通の書簡を積載したとすれば、1通当たり20サンチームとして、収入は2万フランになり、他の経費を見越しても、採算上十分に引き合うはずであった。 |
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