Ⅲ 籠城戦術 大砲の威力が未発達であるような時代においては、戦争では要塞が全てであった。要塞は作戦行動を展開する軍隊を有機的に配置する支点を構成していた。ルイ十四世の戦争はとりわけ攻城戦の性格を帯びていた。ナポレオンがこの戦法を変えた。彼は要塞攻略よりも野戦を得意とした。そして、19世紀半ば以降となると、ナポレオンの好んだ塹壕を巡らした野営陣地はしだいにその重要性を減ずるようになった。火砲の威力が増すにつれ、この野営陣地戦法はむしろ相手の仕掛けた罠であることが多かった。このことは、メッスやスダンの攻防戦において、仏軍が敵によって故意に籠城するように仕向けられ、新式クルップ砲の餌食となった例に最もよくあらわれている。籠城戦にこだわるという点でも、フランスは遅れていた。 1870年、首都パリとライン国境との間には有事に備えてあらゆる都市が要塞化されていた。プロイセン軍の圧力の度合いに応じてそれぞれの都市の運命は様々の奇跡を描く。 トゥール[Toul、ロレーヌ州の町、後出、政府派遣部のおかれた町、ツールToursとは異なることに注意]は8月16日の最初の攻撃を受けて以来、40日の攻防の末、9月23日に降伏。ヴェルダンは9月8日の包囲の開始以後2ヵ月間抵抗をした末、11月8日に開城。同市守備隊のテレマン将軍は徹底抗戦の意志を示すが、住民はこれに反対して将軍を逮捕する挙にでた。敵に降伏を迫られて住民は1発の銃弾を放つことさえなく降伏した。ソワソンでも10月16日、同じように軍司令官に反対して蜂起した住民は戦わずして降伏勧告に応じた。 これとは対照的に、ストラスブールやベルフォールは果敢に抵抗した。前者は一ケ月半にもわたる壮絶な戦いを繰りひろげた。兵力、火力で圧倒的な優位に立ったプロイセン軍は早期決戦を挑み、二十万発に及ぶ砲弾をこのアルザスの州都に撃ちこみ、ようやくのことで勝利をおさめた。 後者すなわち、独軍をして「死者をつくる工場」と言わしめたベルフォールの戦いは歴史上あまりにも有名である。僅か正規兵3千しかもたないこの小都にプロイセン軍は3万以上を投入した。守備隊を指揮した勇将ダンフェール=ロシュローは独軍によるたびたびの降伏勧告を撥ねつけた。食糧難、医薬品不足による天然痘やチフス病の蔓延など数多くの犠牲を出しながら、満身創痍のこの小都は決して怯むことなく軍民一体となって厳冬の中を戦い抜いた。同市は独仏休戦協定の締結された後なおも15日間を戦い抜き、ようやく1871年2月13日、フランス政府自身の勧告で武器を置いたのである。周知のように、フランクフルト講和条約では、この英雄的な戦いのゆえにこの都市のみがアルザス州から切り離され、フランス領に留まることを許されたのである。 このほかファールスブールやビッチュの町など英雄的抵抗の余話は枚挙にいとまない。 籠城戦がすでに古臭い戦術となっていたのに、保守主義の支配した仏軍部はこの旧套にしがみついていた。パリ防衛についても然り。首脳部は200万人の人口を擁する大都市の完全・長期の包囲などのっけから不可能ときめつけ、何らの積極的な防御を企てなかった。 先ず軍隊と作戦の問題。当時パリには、スダンで主力が壊滅したのち、辛くもこの鉄鎖をくぐり抜けて帰還したデュクロ将軍麾下の精鋭3万がいた。この正規兵を中心に、遊動隊、国民衛兵合わせて約40万の軍隊が再組織されていた。20万対40万、単純に数の上だけからするならば、パリ軍は攻囲軍に対して優位に立っていたといえる。この外見上の優位が、パリ民衆の国防政府の弱腰に対する攻撃の拠り所となったのは言うまでもない。彼らは直ちに独軍に出撃戦を挑むべきであると考えた。 政府首班とパリ軍総司令を兼務するトロシュ将軍はそうは考えなかった。彼はモルトケが否定した作戦、つまり、独軍が正面攻撃を仕掛けてきたときにのみ、外部要塞の火力とパリ軍の共同の上に勝利の道が開けると見て、籠城作戦を採ったのである。パリ軍の勝機がここにしかないと見なした点では、トロシュは間違っていなかった。しかし、モルトケはこの戦法に乗らなかった。籠城戦は一方では時間と糧食の空費を招くゆえ、同じ待機作戦でも時間が経てば、自然と攻囲軍に有利になるべき性質のものであった。 しかも、仏軍の数の上でのこうした優位は実のところ何でもなかった。40万の軍隊のうち、真の意味での軍隊は7万~7万5千がせいぜいの数字であった。ヴィノワ将軍の軍団やラ・ロンシエール提督の海軍を別とすれば、残余は国民衛兵つまり予備兵であった。サンシール士官学校のデュシユー教授の言を借用すれば、「これ[国民衛兵]は、真剣でかつ情け容赦ないという意味での実戦には向いていない。……その兵卒の大部分は居酒屋で飲んだり、賭事に耽ったりする以外の能力をもたない」状態であった。また、クレマン・トマ将軍は12月17日、国民衛兵を閲兵したのち、次のような報告書を書いている。「大隊長は酒飲み、兵卒の半分は酒飲み、彼らで軍務を確保することはできない。前哨を交代させることが絶対的に必要。これらすべての要素は非常に危険である。」前に引用したゴンクールは12月12日の日誌に、「わが軍兵士は彼らが防衛し保護することを託されている人家のものを盗みだすために探り道具をもっている」と記している。これらの証言にはもちろん誇張や偏見が含まれているだろう。だが訓練や装備の点で欠陥をもっていたのは否定できない。 パリ防衛の頼みとする兵力がこのようであるとすれば、一方の防御施設はどうか?前にもふれたように、周辺の防御工事は開戦とともに取りあげられていたが、拠点の防御工事は大幅に遅れた。当初の予定では、首都からかなり離れた距離に防御拠点を幾つか構築するはずであったが、それにはあまりに多くの時日と労力を必要とすることから、計画は縮小され、防備固めはパリ隣接地域に限定された。外部要塞の補強工事、兵舎と火薬庫の装甲、敵の攻撃を利する民家や橋梁の破壊、要塞間を連絡する塹壕の掘さく等々がこれである。 また9月10日の法令は、プロイセン軍に避難所を与え、その移動を覆い隠すところの林や森は伐採すべきことを定めた。このようにして、パリ郊外のモンモランシー、ビュリーの森、隣接するブーローニュやヴァンセンヌの森の一部も上のような運命に遭った。ところが、このような限定された防備工事ですら、敵の移動があまりに速かったので、中途で放棄せざるをえなかった。 Ⅳ 通信の途絶 スダンの降伏の翌日すなわち9月3日、プロイセン軍近衛兵第3師団とザクセン侯麾下第4軍団はパリ進撃の命令を受けた。これらの軍隊は直ちに移動を開始した。もはやその進撃を妨害するものは何もなかった。しかしながら、慌てて突進するようなことはなかった。独軍はあらゆる奇襲に対する警戒をとりつつ自信をもって前進し、スダンからパリまでの道程240キロメートルを14日間も費やした。 9月15日、首都の周辺に最初の偵察兵が現れた。この槍騎兵はその迅速な行動で当時のフランス人を驚かせたものである。恐怖に襲われた郊外の人々は要塞化されたパリ市中に避難しはじめた。数日前からありとあらゆる種の車に家財道具を山と積んで市中に向かう行列が見られた。 9月17日夕刻、列車の発着が停止した。 9月18日早朝、これまで規則的に営業を続けていた郵便馬車が大急ぎで首都に引き返してきた。この日、パリがすっかり抜きがたい、鉄と火のサークルの中に閉じこめられていることが明らかになった。この日からパリは陸の孤島となった。これが4ヵ月余も続くとは、だれも予想しなかった。しかし、この時点で市民生活にまだ何らの支障は起きていなかった。食糧や燃料の枯渇問題はまだ生じていなかったし、パリ包囲はある程度予測された事態であったから、市民にさほどパニックは生じなかった。したがって、通信の突然の途絶のみが軍首脳や市民にとって、自らの孤立を印象づける出来事であった。 これより少し前、九月四日革命で、トロシュ将軍を首班として共和主義と祖国防衛を旗印とする国防政府が樹立された。この組閣とともに、旧帝政の主だった政治家や官僚が失脚した。郵政局や電信局にも人事の刷新がおこなわれた。オート・マルヌ県出身の代議士ステーナケルスは電信局長官に就任した。新長官の最初の仕事はパリ郊外の要塞や砲台を地下ケーブルで相互に連結することであった。この連絡網が完成すればこそ、軍司令部はパリの内と外の出来事を恒常的に把握し、状況に見合った命令を下せるというもの。各区消防署は下水道に敷設されたケーブルによって連結された。 九月四日革命の直後には、パリ包囲はまだ完成していなかった。が、その可能性はあったので、電信局は英国から特製のケーブルを取りよせ、密かにセーヌの川床にそれを敷設した。これでもってパリとルーアンを結び、包囲が完成した場合に地方との連絡に使用するつもりでいた。当てにされたこのケーブルは9月24日、プロイセン軍による浚渫で発見され、切断されてしまった。 一方、政府は9月13日、地方の電信業務の円滑運営を確保する目的でステーナケルスを政府派遣部のあるツールに派遣した。政府の要人クレミュー、グレ=ビゾワン、そしてフリション提督らも彼に随行した。ステーナケルスはパリ市内の電信業務の指揮を配下のメルカディエに委託した。 軍・官用電信線の確保もさることながら、民間用の通信、郵便業務の継続も重要な問題であった。九月四日革命の後を受けて郵政長官に就任したランポン=レシャン(ヨンヌ県選出の代議士)の仕事は困難を極めた。市内で配達すべき郵便の数は平時よりずっと少なかったので(外部から郵便物はもはやパリに届かなかった)、この点では何ら問題なかった。しかし、市内の郵便物およびパリ宛て郵便物は減ったとしても、外へ向けての郵便はそうともいえなかった。なぜなら、前線の兵士と銃後の家族との通信については郵税免除の特典が与えられたこともあって、郵便物はかえって著しく増大していたからである。 パリから地方へ向けての連絡はどうか。前述のように、当てにされていたセーヌ川を走るケーブルが切断され、パリ~ルーアン間の通信は結局、望み薄となった。そこで、これに代わる方法で首都パリとツールの連絡を確保し、そして、可能ならばこれを民間の郵便業務にも使用させることが求められた。依拠すべき手段については選択の余地がなかった。電信線、鉄道、郵便馬車はもはや用をなさなかった。1人の勇敢な男がプロイセンの前線を突破するというのはまったく不可能といえないまでも、ことのほか危険な技であり、かつ恒常的な大量通信は期待できない相談であった。 陸路がダメ、水路がダメとなると、残された経路はもはや空以外になかった。この経路は無限の広がりをもち、当時のいかなる国の軍隊といえども、遮る術を持ち合わせなかった。ゆえに、熱い視線を浴びたのはこの大空であった。 |
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