matsui michiakiのブログ

少年老い易く学成り難しをしみじみと感じています

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 Ⅰ 抗戦継続
 
  「12月10日土曜。希望をもって新聞記事のでたらめ、虚言、反語を愚かにも一瞬信じはじめ、やがてすぐまた疑惑に陥り、どんなことであろうとも、信用しなくなるこの状態ほど苛々させるものはない。地方の軍隊がコルベイユにいるのか、それともボルドーにいるのか分からず、それになおこれらの軍隊が果たして存在するのか、それとも存在しないのかということさえも分からない、この状態よりも辛いものはない。暗闇の中で我が身に迫る悲劇に対する無知のなかで生活するよりも辛いものはない。実際、フォン・ビスマルク氏はパリの中の人間をみんな懲治監の独房にこっそり拘禁してしまったように思われる。」
 
 これは作家ゴンクールが籠城下のパリでしたためていた日誌の一節である。ゴンクールは普仏戦争、パリ籠城期、パリ・コミューン期の「恐怖の一年」をパリに踏みとどまり、町の風情を克明に記した数少ない作家の一人である。彼は政争には直接係わりのない人物であり、それだけに当時のパリ市民がどのような精神状態におかれたかをみる上で、貴重な記録をわれわれに遺した。
 12月10日といえば、パリが未曾有の「懲治監」に閉じこめられてやがて3ヵ月を迎えようとし、プロイセン軍の戦術がしだいに効力を示しはじめていた頃である。ほんの2ヵ月程前のこの同じゴンクールの日誌では、対照的に緊迫感に乏しい雰囲気のなかで首都の秋の美がことさら流麗な筆致で描かれていたことを考え合わせると、彼の心境変化、疑心暗鬼、嘆きは明白、状況はこの2ヵ月の間に一変したのである。籠城生活がパリ市民にとってしだいに堪えがたいものとなったことは容易に察しがつく。
 ところで、なぜにこのような籠城戦が始まったのだろうか。これは進んで採られた戦法だろうか、それとも強いられたものであろうか。これを知るためには、事件の観察を今しばらく後戻りさせる必要がある。
 1870年7月に火蓋を切る普仏戦争はフランスにとって、ドイツから仕掛けられた罠であった。準備不足のフランスは開戦直後からジリジリ後退を余儀なくされた。諸戦の勝利で独軍は怒濤のごとくアルザス、ロレーヌに雪崩こんできた。九月初め、皇帝ナポレオン三世はスダンで包囲され、ここで捕虜となった。これで戦いの帰趨はおおかた決した。しかし、事態はこのあたりから予期せざる方向に展開していく。スダンで降伏を宣言したにもかかわらず、フランスは武器を置かなかった。従前の「王朝戦争」の流儀でいえば、普仏戦争は国家元首自身が降伏文書に調印した「スダン」で終結すべきものであった。しかし、普仏戦争ではそうはならなかった。その意味でも、普仏戦争は国家総力戦の色合いを帯びて近代戦争の幕開けを告げるものであった。
 ナポレオンの裏切りを知って、フランスは激怒した。いたるところで抵抗が組織された。九月四日のパリはこれらの抗戦の中心であった。首都はこの日、革命をもって降伏に抗議した。フランス革命以後、パリがもうひとつのフランス、国の進歩の先導者であることはだれの目にも明らかであった。パリはこれまで帝政の打倒、共和制の樹立を全国に指令してきた。外敵の侵入と革命、舞台装置は80年前のフランス革命時に酷似していた。昔と同じく、そのパリが終戦を望まなかったことははっきりしている。
 ところで、ドイツではどうか。ドイツはさほど悠長ではなかった。ドイツにとってはできるだけ早くこの勝利を決定的なものにし、その果実を摘み採ることが必要であった。それには、何よりもパリを陥落させることが先決。パリの扼殺はドイツにとって戦争の終結と同義であった。かくて独軍はパリを目指す。終戦を望む者と望まぬ者の対峙、よって戦争はまたもだらだら続くことになった。仏軍主力が降伏し、バゼーヌ将軍指揮下のもう一つの主力がメッスで籠城戦の展開中となると、パリは無防備のままに取り残された。
 
 
 Ⅱ ビスマルクとモルトケ
 
 古い軍事的格率にいう「包囲された全ての都市は救援がなければ陥落を避けえず」はこのパリに適用しえただろうか?
 独軍はこれを是認し、仏軍はこれを否定した。前者はきわめて楽観的な見方において落城は半月~一カ月で必至と見ており、後者はこれまた楽観的な見地から、包囲の貫徹が不可能と見ていた。要するに、彼我ともに甘い見通しに基づき攻囲は長期に及ばぬものと見なしている点で、まったく共通していた。
 ビスマルクは九月十七日の英国大使マレットとの会見で次のように言った。
 
   「パリについてドイツ軍はこれを数多くの軍団で包囲し、7万の騎兵隊がこれを外界との連絡から孤立せしめている。もし、パリ市民がなおまだ抗戦を継続するなら、われわれはパリを砲撃するし、必要とあらばこれを焼き討ちにするであろう。」
 
 ビスマルクのパリ落城早期必至論の根拠は、諸戦での勝利、とりわけ仏軍の主力をスダンでくだしたという自負、もうひとつの主力をメッスで釘づけにすることに成功したという事実に依拠しており、さらに彼は、首都に駐留する仏軍の残余勢力すなわち正規兵、遊動隊、国民衛兵を侮っていた。
 実を言えば、ビスマルクはプロイセン軍を完全に掌握していたわけではなかった。プロイセン陣営の中には、ビスマルク、モルトケに代表される隠然たる確執があり、最初からパリ攻撃に対して軍首脳の意思統一がなされていたのではない。ビスマルクは政治家であって、彼の関心は国内問題や外交問題に絞られていた。「スダン」以来、防御から侵略へと性格を転じたこの戦争は、列強とりわけイギリスから執拗な猜疑の視線を浴びており、同国の介入によって全ての努力が水泡に帰す危険さえあった。そこでビスマルクは戦争の早期終結を唱え、持久戦=兵糧攻めよりも、即刻パリ進撃に取りかかることを主張した。しかし、モルトケは準備の整わない攻撃は武器弾薬と食糧の不足を来す恐れありとして、これに反対した。
 それだけではない。独軍が急いで首都攻略に取りかからなかったのは、仏軍側の敵情査察を的確に行いその弱点や長所について通じていたからである。パリ周辺の軍事施設や地形についてきわめて正確な情報を独軍は掴んでいた。包囲完了後、パリ南部要塞シャティヨンを攻撃してきた。この角面堡はパリ防衛において重要な要衝でありながら、仏軍側の手落ちで他の要塞との通信線で連絡されていないために、攻撃されても支援態勢を組めなかった。また、パリ西南端に接するモントルトゥー高地も防御が手薄なのを察知されていた。
 9月18日に完成するパリ封鎖後の最初の2ヵ月間に独軍側が行った積極的攻勢はいえば、わずかこれだけであった。それは、彼らがパリの防御態勢に通じていたことのほかに、厳しく包囲された町はほどなく降伏するであろうという見通しをもっていたからにほかならない。事実、独軍の進出したシャンパーニュや北仏の諸都市はわずかばかりの抵抗の後、全て敵の軍門にくだった。アミアンやボーヴェで示されたように、仏軍軍部と町当局および市民との間の軋轢がしばしば開城を速めた。独軍はパリ攻撃に際しても、8月7日、9月4日、10月31日の民衆蜂起に代表される市内の不穏な空気に対して過大な期待を抱き、首都への入城がさしたる障害もなしになされるであろうと考えていた。こうした「無秩序状態」の把握はその後の抗戦継続の激しさからいっても、必ずしも正しい評価とは言えなかった。それはともかく、彼らが当面の戦略において、首都をフランス全土から完全に孤立させ、疲弊と厭戦気分を蔓延させ内部的分解を速めることに重点をおいていたことだけは間違いない事実である。
 パリを包囲する独軍は18万を並べて、150~170キロメートルの大輪を描いた。計算上ではほぼ一メートルおきに1人の兵士を配置した勘定になる。この密度では攻囲軍の包囲は万全とはいえない。攻囲軍は前に述べたような楽観論もあって防御陣地をもたなかったから、なおさらそうである。攻囲軍は幾つかの地点に2、3の足場を築いたのみであった。モルトケ元帥は作戦上の自由を留保したかったようである。彼は装備、訓練の行き届いた精鋭を前線の後ろに配置し、野戦でパリ軍を迎撃しようという意図であった。いわゆる戦術論でいう「弾力的防御」の作戦がこれである。ビスマルクの意に反して、彼は正面攻撃する意図をもたなかった。彼が何よりも当面の作戦の中心においたのは、首都のあらゆる通信線を遮断して外界から孤立させ、消耗のうちにこれを自壊させることであった。

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Matsuiさま、はじめまして。
aostaと申します。しばらく前から、フランスの画家シャバンヌが描いた「伝書鳩」と「気球」という作品が気になっておりました。題名の謎を解くべく、ネットを検索しておりますうち、こちらにたどり着き、探していた答えを発見することができましたこと、本当に嬉しく、また感謝の気持ちでいっぱいです。
拙ブログにこの二つの作品に触れた文章を書いたのですが、その中でMatsuiさまの文章を引用させていただきました。
本来でしたら事前に確認を取るべきところを、事後になりました失礼を深くお詫びすると同時に、お許しいただきたく、コメントを差し上げた次第です。
引用させていただきました文章、およびブログにつきましては、ブログ最後に記させていただくと同時にリンクさせていただきました。
僭越ではありますが何分にも素人の文章ですので、お気に触る部分も多々あるかと思います。ご指摘いただけますなら、書き換え、補足させていただく心づもりです。なにとぞよろしくお願いいたします。 削除

2014/2/14(金) 午前 9:08 [ aosta ] 返信する

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