92設定。とても真面目に初デートをする話。
らしくないギルくんと、とっくにそうだった本田さん。
確かに、彼はかつての師だ。
時間にすれば瞬く間だが、濃い時間を彼によって私は得た。彼にとってどうかは知らない──いや彼にとっては取るに足らない時間の浪費だったろう──が、私にとっては宝物だ。尊敬と友情を共に抱ける関係など滅多に巡り会えるものではない。まさしく僥倖と言うべき機会を私は与えられた。故に私は、こうして時代の移り変わり、交流の薄くなった今日でも畏怖というべき感情を彼に抱いているのだ。たとえ、普段は忘れ去っている存在だとしても。
「だってギルは、よく菊のこと聞くよ」
けれども、こんなふうにかつての盟友に邪推されるような話題は持ち合わせない。
「ね、ルーイ」
「そうなのか?」
と、私の横で可愛らしくぱちぱちと瞬きをしたのは、ルートヴィッヒさん。他でもない、彼の弟だ。弟、ともっぱら私たちは表現するが、人びとにとってのそれとは意味は大きく異なるかもしれない。そこにある愛情の形も度合いも、何もかもが、なにせ違う。
「あ。あ! そっか、ルーイのいる前じゃしないかも。ルーイが洗い物に行った時とか、洗濯に行った時とか、ストーブを取りに行った時とか、ベッドの準備をしに行った時に」
それら全て、お一人でこなすんですね……、と私はルートヴィッヒさんに同情しながら、視線は移さずに、はあ、と頷く。と、フェリシアーノくんは思い至ったようにばちっと目を見開き、流れるような早口で続きを言った。
「こそっと俺に聞くんだそっか分かったぞ今の話全部忘れて!」
私とルートヴィッヒさんが不思議そうにするのを、にかっと眩しい笑顔で黙殺し、フェリシアーノくんは席に設置されているパネルを手に取った。楽しそうにそれらを操作し、いちいちワオ! オー!と感動しながら、長い時間をかけて追加のハウスワインと枝豆を頼む。枝豆はこれで三皿目だ。よほど気に入ったらしいフェリシアーノくんが、イタリア人の発音で枝豆、枝豆、と繰り返すのを、無邪気な人だなとほっこりと見つめていると、話は他へと移り、さっさとラストオーダーの時間になった。結局その話はその後出ず、私達の話題はもっぱらクラゲの調理方法だとか、最近困った身内にまつわる愚痴などに持って行かれた。〝枢軸飲み〟と称すのを、世界、とりわけ我が最大の同盟国にして亭主が許さないので、これは単なるフェリシアーノ・ルートヴィッヒ with 本田といった面子で不定期に行われる井戸端会議である。楽しいひとときだ。彼らとは最早仕事の面で関わることはほとんどなくて、こうして友人として交流する他、会う機会に恵まれない。
──彼なんて、もっとだ。
帰路に着くタクシーの中、私はぼんやりとしながら、彼の顔を思い出そうとした。
全く、寸分のあやふやな箇所もなく思い出せる彼の端正な顔面。そこからまっすぐに伸びる太く雄々しい首を締め付ける黒いシャツの色。人体とはここまで美しく、実直に伸びるかと目を見張るほど姿勢の良い彼が纏う軍服の皺の一つまで私は思い出せた。といっても、それ以上でも以下でもない。彼は学生時代に世話していただいた恩師。美術館で見た美術品。以上でも以下でもなく、彼にとって私もまた、
『ねえ、菊は恋してる? ギルと付き合わないの?』
彼にとって私もまた、よく言って教え子の一人で、そうでなければ国としての長い人生の中の一瞬の端役に過ぎない。
そう思っていた。
五時頃に起床した。猛暑に見舞われる夏とは言え明け方の大気は澄んで、涼しく、肺に入る酸素は心地よい。庭の草木の水やりを済ませると、顔を洗って歯を磨き、着替えてポチくんの散歩に出かける。夜にセットしておいた炊飯器は問題なく動作し、戻る頃にはタイマーに「残り十分」と表示されている。余程でない限り冷房を切って寝る私は、自覚がないにしろ寝汗を懸念して余分に水分を取ってシャワーを浴びて、小まめにシーツを替えて布団を干す。あらかたの身支度を終えてから台所に立ち、冷蔵庫から取り出しておいた卵を焼いて、火にかけただし汁に豆腐を入れて味噌をかき入れ、冷凍してあった西京漬けを解凍して温めて簡素な朝食を作る。リズムが崩れるので携帯電話は見ない。テレビの気象情報とニュースを聴きながらそれを済ませたら、すぐに洗い物を済ませて、掃除機をかけフローリングの部屋にはそれからウェットシートとドライシートでワイパーを滑らせる。それから洗濯物や布団を取り込むと、大体八時だ。絶対に携帯している某国専用携帯に連絡がないことに今日も安堵しながらスーツを選ぶ。
と、件名『おはよう』という英字のショートメールが、普段用の携帯に届いていることに気づく。差出人の欄には、登録外のアドレスが表示されている。だがそのアドレスがそもそも根は実直な彼らしい、名前なのだ。開く前から、差出人が誰か、私には分かってしまう。
件名:『おはよう』
本文:『昨晩は弟が世話になった。今日の会議には俺も来ている。よろしく。』
口頭では『いょーう、アジアのちんちくりん! 起きてるか〜? 昨日、華麗なる俺様の弟・ルッツがお前と飲んだって聞いたぜ〜? 実は今回の日本での会議にはお前が尊敬してやまない俺様も来てやってる。嬉しくて涙が出そうだろ? よぉしいいぜ、跪け! かっこいいと言え! 会った時には更に最高ですギルベルト様、この世で最も輝ける小鳥のように勇敢で美しく強いお方!と言え。以上』と表現されたであろう内容が私の携帯に届いている。
はて。と、私は一度首を傾げたが、口元が緩むのを抑えきれず、最早それはいいやと思い直す。誰が私のアドレスを彼に教えたかなど心底どうでも良い、なにせ全く嫌な気はしないからだ。
件名:『おはようございます』
本文:『おはようございます。昨晩は弟君をお借りし失礼をいたしました。おかげさまで大変楽しい時間を過ごさせていただきましたよ。また本日、ギルベルト君にお会い出来るなんて思ってもみませんでした。ホスト故、少々気の重かった会議が、俄然楽しみになってまいりました。本日も暑くなるようですが、どうぞご自愛頂き、いつもどおり貴君が素晴らしい補佐をなさる様を、間近で勉強させて頂きたく存じます。どうぞよろしくお願い致します』
おかしなところはないか、失礼はないか、嫌味ととられる文面ではないか、しつこくはないか、四度確認した。五度目に確認しようとした時に専用携帯に着信があって、タイムリミットとそれを送信した。私はアルフレッドさんとの通話をしながらジャケットを羽織り、時間通りに家の前にベタ付けされた車に乗り込んで、会議場へと向かった。
いつも通りてんやわんやとなった会議の後、勝手知ったると言った様子で方々が散り散りに会議室を出て行く。それはそうだ、初めてでもないどころか日本開催に慣れた面々に案内は必要ない。
と、
「よ」
うわあ、と、本意気の、驚いた声が出てしまった。
探していたのに、いなかった彼の姿が突然目の前に現れたからだ。
「ルッツに資料渡したら下で寝てた」
最高だぜ、スパがあって、リクライニングソファで安眠、ドリンク無料で、と喋りながら、もう無人の会議室に入ってきて手近な椅子に腰掛ける彼を私は為す術無く見守る。
「お久しぶりです」
「おー。ここ閉めんのか?」
「いえ、四時まで借りてるので、皆さんがいなくなってからと」
「じゃ、座れよ」
傍の回転椅子を引いて、彼は言う。
ギルベルトくん。
名前を呼ぶと彼は、なんだよ、と顎を上げる。タイはなしで、黒のワイシャツに、白鼠色のスーツパンツにシンプルなピンバックルの黒革のベルト。折り曲げられた長い足の、裾から見える靴下も黒、靴も黒だ。金融系の映像作品──分かりやすく言えば取り立て屋やヤクザの映画──でしかお目にかかれない色合いだと頭では思うのに、目の前の彼にそういった印象は受けない。ただひたすら、偏に、格好いいのだ。
「……なんだよ」
「顎が尖ってるなぁと思いました」
「何言ってんだ、こいつ」
笑った。少し顔を逸らして笑って、長机に肘を着く。左利きの彼は右手首に時計をつけていて、そんなことにもどういうわけか、格好いいな、と私は感じる。
彼がポケットから今か今かと脱出の機会を伺っているような、飛び出しかけたスマートフォンを取り出して、あいつらは飯行ったんか、と何気なく私に聞く。
「いえいえ、一時間後に食事会があるので、コーヒーでしょうね」
「ああ、で、お前は食事会の準備があるのか」
「それは終わってます」
「コーヒー行かねえの」
行くつもりだった。
……今はもう、ない。
告げようかと思ったが、恥ずかしくて口ごもる。悩み、私は、行きません、暇してますと照れ笑いを浮かべて携帯をいじる彼の横顔をちらと見る。
「あ」
ん? と聞き返すとギルベルトくんが相変わらず携帯を見ながら小さく喋りだす。ほとんど独り言のようだった。
「今頃やってんのな、こっち、この映画」
見ても見なくても構わないというような控えめな動作で携帯をこちらに滑らせた、彼に近づき、画面を覗き込む。制作費に何十億円とかけたという、アメリカ産の映画だった。最先端のCGが使われたロボットの映画だ。派手で、分かりやすく正義が悪を討つ、ヒロイックな映画。
好きそうだ、と胸中納得しながら、ああ、と私は相槌を打った。それから辟易といった表情で嘆息してみる。
「日本公開は遅れるので有名なんです。日本って、本当に、地球にある国? なんて、ファンから度々揶揄されるくらいに。ドイツ公開は去年でしたか?」
「いつだったかは覚えてねえ。見てねえし」
「そうでしたか」
「見たかったんだよな」
「そうですか」
そうでしょうね、とは言わずに私は微笑み、こちらも独り言のような相槌。
「結構、どこでもやってんのか。今」
「公開して間もないので、上映している映画館は多いとは思いますけど……」
「今日は、さすがに見に行けねえな」
「今日は、そうですねえ。時間的に厳しいかもしれません」
「俺様は有楽町のホテルに一週間泊まるんだけど」
当たり前だが、ルートヴィッヒさんと一緒だ。
『俺は東京に来るのなら帝○ホテル以外に泊まる気はない、それほどあのホテルを気に入っている。
贅沢だとは思ったが、本館のインペリアルフロアジュニアスイートのダブルを一週間抑えた。見てくれ』
と昨晩ルートヴィッヒさんが、それはもう嬉しそうに私に写真を見せびらか……見せて下さったのを思い出して、ちょっと可笑しくなる。
「お前、明日暇か」
思い出し笑いをして気が抜けていたから、その衝撃は凄まじかった。
……え? ……あ、あぁ、ああ! 成程!!
こんな、ビックリマークが二個もついた大声を心の中とはいえ出すのは何十年ぶりか。
彼は今、私を、映画に誘ったのだ。寝耳に水である。
「明日は」
何かあった気がする。連日続く会議の中日だが、誰かをどこかに連れて行く約束をしていたような。いやそれは木曜か。木曜だった気がする。明日は火曜だ。火曜は他になにかあったか。無いと思う。多くの美容室がお休みなくらいだ。私に関係ない。
「大丈夫、だと思います」
「よし」
「フェリシアーノくんやルートヴィッヒさんにもお声がけしておきましょうか?」
「なんで」
とうとう私はどきりとして、絶句する。
「……や、なんで、じゃねえな。おう、じゃあ、あとで飯んときに」
「いや、必要ないなら、別段その」
「いや、俺は、それをする必要性がないと思ったが」
「必要性がないなら、する必要はないですかね」
何を言っているのか、私は。よくよく考えればギルベルトくんの言い回しもなにかおかしいが、錯乱状態の私はそれに気づかず、ただ恥ずかしいと自分を叱咤した。needとnecessityが何度も出てくる会話を終わらせたのはギルベルトくんだった。ねえんじゃねえの。ぼやくように小さく口にした後、ない、とはっきりと言い放って、それから、ああもう、と唸りながら私の頭をぐちゃぐちゃとかき混ぜた。
「変なの。お前」
「私ですかね?」
変なのは、お互い様というか、どちらかと言うと、貴方では。
口答えしようと思ったが、彼が右手の時計を見遣って、何かを振り切るように急いで席を立つのでタイミングを失った。
「じゃあ明日、そうだな、十時に駅で待ち合わせして映画見終わったら、飯でも食うか」
「はい」
「何食うか考えとけよ」
「はい……」
「よし」
とスイッチが切り替わったように颯爽と部屋を出て行く、彼の背をいつまでも、見ていた。廊下を行く彼が曲がり角の向こうへ消えると入れ替わるように部下がこちらに歩いてきて、会議室にいる私を見つけてぎょっとする。
「突風にでも遭いました!? 髪、すごいことになってますけど」
突風。
言い得て妙だ。
*
家に帰り、風呂を済ませて、米をとぐ。縁側で蚊取り線香を炊いて、一本だけ煙草を吸っていると、居てもたってもいられなくなり私は火をつけたばかりの煙草を灰皿に押し付けた。家や近所では着物や浴衣で過ごすが、さすがに有楽町の映画館におじいさん、いや見た目はおじさんが着物で現れたら何事かと思われるだろう。もうそんな時代ではないのだ。いやそれよりも隣に彼がいると思うと、考えるべきは和服か洋服かといった問題ですらない気がする。
明日、一体私は何を着ていけば良いのだ?
衣装ケースの前で腕組みしていると、何事かとポチくんとたまが寄ってきた。二匹を小脇に抱えて、私は途方に暮れる。和装ならばそれなりの知見があると自負しているが、こと洋服となるとスーツかユニクロかしか手札がないのだ。
最近、ファストファッションなるものが流行っていると聞いたことはある。いや本田さん、ユニクロがいけるのなら、エイチアンドエムもいけますよと若い子によく励まされる。
だがエイチアンドエムとユニクロの間には大きな隔たりがあると私は思っている。だってエイチアンドエムもフォーエバーなんとかもザラも外つ国のものではないか……! 外国のもの=オシャレ=私には過ぎたるものという気がして、怖くてお店に入れない。舶来品は好きだ、でも身につけるものではない……。せいぜい、煙草ケエスや点火器(ライタア)などの小道具を懐からちらつかせ、甚兵衛なんかの羨望を受けるのが精一杯の〝粋〟だ。……何の落語の演目だ。犬猫を小脇に抱きしめ、訳の分からぬ話を一人くどくどと私は阿呆か。
そもそも明日はただ単に、友人と映画を見に行くだけである。服がどうこうと悩むなんて、まるでデート前夜の乙女のようではないか。馬鹿馬鹿しい。
ふっと自嘲して、私はポチくんとたまを解放した。それから値の張る着物や余所行きの入った衣装ケースを棚に仕舞い、いつものクローゼットを開く。スーツで良いかと思ったのである。しかしやはりすぐに思い直す。昨晩の枢軸会(非公式名称)で、ルートヴィッヒさんはTシャツにジーンズと、割にラフな格好をしていた──ちなみにフェリシアーノくんの装いについては伊達男という単語に尽きるので割愛する──。珍しい、と驚いた私に彼は言ったのだ。
『出国前にこちらの気温や湿度を見て、スーツは会議中だけだと決めたよ』
一緒に住んでいるのだ、一緒に準備したに違いないギルベルトくんも同様だろう。つまり明日彼は私服で来る。
……ギルベルトくんの私服……?
ギルベルトくんの私服というものを私は知らない。
私が見たことのある彼は大体が軍服を着ていて、そうでなければ乗馬用の服を纏っていた。それからはスーツだ。公的な場でしか会わないのだからそれも当然。いや、一度ルートヴィッヒさんのお宅にお邪魔する機会があって、その時出迎えてくれた彼は私服だった気がする。うっすらとしか記憶に残っていないので、とりわけオシャレであるとか、物凄くおかしいとかではなかったと思う。つまり普通ということだ。だからその普通が本田には分からんのだ!
げっそりとしながら、リビングの、起動させっぱなしのノートパソコンの前に座る。グーグルの検索窓に「メンズ ファッション」まで入れると、予測ワードにずらと下に伸びる。20代、30代、40代と続くワードから2000代を探すが、あるわけなかった。
もう、奇異の目を覚悟して着慣れた着物で行くか。ああ、と私は頭を抱えた。もしこの先、着物で最先端ロボット映画を見る二千歳越えのおじいさんを見ても、私だけは笑わないようにしよう。そんなやつ私以外にいないが。
大体、と何度目になるのか、私は我に返る。
明日はただ単に、友人と、映画を、見に行くだけである。
服がどうこうと悩むなんて、まるでデート前夜の……。
「デート」
声に出すと、じわじわと違和感が胸に広がる。違和感とはまた少し違う気もしたが、そうとしか言い様がないのでそう言うし、抱えきれないその胸騒ぎは体調不良となんら変わりなかったので、私は寝ることにした。先程気まぐれにクリックしてみた「メンズ ファッション 夏 30代」の画像欄が、寝る寸前まで頭をいっぱいにしていた。
五時に起きて、昨日と同じく身支度と散歩と掃除をする。昨日と違ったのは食欲がなかったことだ。せっかく炊いたご飯だが、この季節だと炊飯器に放置は出来ない。間髪入れずに容器に移し替えて冷凍庫に積んで入れておいた。
と、昨日と全く同じ時間に、携帯にメールが入った。
そういえば登録していなかった、と、差出人に表示された彼の分かりやすいアドレスを見て思い出すが、メールを確認して返信していたら、また忘れてしまう。
件名:『おはよう』
本文:『おはよう。十時に駅で待ってる』
たったそれだけのメールの返信に私は三十分悩んだ。
件名:『おはようございます』
本文:『了解です。では十時に』
繰り返すが、たったこれだけのメールに、私は三十分かけた。
どうかしている。おかしな自分に、自分で少々疲れ気味だったが、どうか当たり障りのないファッションが出来ていますようにと祈るような気持ちで洋服を着て家を出て、待ち合わせ場所へと歩き出すと、なんだか心が踊った。だからか、約束の十五分前に着いてしまった。
平日のその時間は始業時間の遅い会社員か、すでに始業が開始している会社員でごった返していて、ここにあと十五分立ち尽くすのもなんだかな、と、入る入らないはともかくカフェを探してきょろきょろしてみる。
「よう」
と、なんとすでに来ていたらしいギルベルトくんが後ろから現れた。おはようございますと笑顔で挨拶をしながら私は心で「帰りたい!」と絶叫する。とびきり気合の入ったお洒落、という感じではない。むしろ自然体といった服装だ。普通だ。私だって買えるような白いTシャツにネイビーのスラックスにスニーカー。そうだ、それら単体が店に無造作に置かれていたら、私だって無心で手に取ってレジに持っていける。でもこれを見たらもう無理だ。
普通でないのは彼自身だ。たっぷりある上背に、そんなに長いとひょっとして内臓が窮屈な思いをしているのでは? と心配になるほど長い足──強がりではない──、白Tシャツからは筋骨隆々としたこれまた長い腕が伸びそして忘れていた彼は銀髪である、銀髪に赤みがかった目の長身の白人が!ボディーガードもなしにこんなところで何をしているというのか、一体!
「……あー。お前、鞄とか」
ギルベルトくんは、当たり前だが私の胸中の叫びなど露ほども気にせず、私の手元を見て言いかける。
「ねえよな、そりゃな」
「はい、……あっ。すみません、お持ちすればよかったですね」
彼はいわば出張でこちらに来ていて、荷物を運ぶものといったら、スーツケースくらいしかないのだ。プライベートで出歩く用の鞄を持ち合わせていない彼の手は、ミネラルウォーターのペットボトルを持て余している。私が鞄を持ってくれば入れて差し上げられたのだ。私は早速一つ失敗したなと落ち込む。
「ちげえわ。持ってやろうと思ったのに、って、……男だもんなぁ、持たねえよな。なんか忘れてた」
何を言われているのか分からない私の前で、ギルベルトくんはペットボトルを臀部側のポケットにねじ込んだ。そのサイズが入るんだ!? 私は少し感動しながらそれを眺める。
「ちっと早いか。一階にカフェあったけど、茶でも飲んどくか?」
お水あるのに? と思いながら、歩き出した彼に続く。おかしい、地元民の私が案内すべきところなのに、これではなんだか、私が導かれているようではないか。
「それか、先にチケットを買いに行きましょうか。平日のこの時間なので売り切れってことはないでしょうけど、他にやることもなければ」
「いや、チケットは」
雑踏を行きながら、彼がポケットから何かを取り出す。
「買ってある」
え、なんで。
飛び退きそうになった私は、一生懸命に平静を装って、わあ、わざわざすみません、あとで払わせてくださいと返す。答えずに進む彼の歩幅が大きくなる。今、一体何が起きているのか、私には分からない。分からないが、気のせいでなければ彼の右手が、後ろの私に向かってやや差し出されているように見える。駅からほど近い映画館がもうそこに見えている。でかでかと正面に取り付けられた巨大時計は、待ち合わせの時間までまだ十分もあるような時刻を指し示している。彼の白いスニーカー靴が東京のコンクリートを踏み進むのを見るのに没頭していた私の左手首が、とうとう、彼に捕まった。顔を上げ、遥か上方にある彼の後頭部を見る。振り向く気配もない銀色の頭が喋る。
「……何食いたいか、決めたか」
ケーッセッセッセちいっせえなお前、なんだよ何しに来たんだよそんなに俺様がかっこいいかよ!? 見るだけならタダだが妙なことしたらぶっ潰すぜ猿! ──初対面での、彼の第一声だ。よく喋る自信家。これが第一印象だ。でも、強く厳しく逞しく、また真面目で勤勉といった、出会う前の印象がそれによって覆ることはなかったし、その先の交流においても憧れが裏切られることは全く、無かった。
私の彼狂いは本物で、盲信といっていい。
そうだ、確かに、彼はかつての師だ。
まさしく彼は、よく喋る自信家で、強く厳しく逞しく、また真面目で勤勉でそして格好良く美しい。で、その上、これはなんだ。
「……いや、えっと、中華なんかどうですか? と思ってたんですけ、ど」
「中華か。ザ・ペニンシュラ東京にヘイフンテラスって広東料理の店があって、日本国産の食材使ってっからいいかもな。帝国劇場の方には棒餃子で有名な陳家私菜って店があって、皇居近くだし景色が良さそうだ。あと駅の向こうに小洞天て店が、……何笑ってんだてめえ」
映画館の真ん前で、やっと、彼が振り返った。手を通して私の震えが伝わったのだろう。
笑っていたわけではない。いや、笑っていたのだが、震えは笑いのせいではなかった。
「一個だけ、質問、していいですか」
「……許可する」
もう心臓が耐えきれない。私は意を決して彼に尋ねた。
「これは、デートですか」
するとギルベルトくんは「あのな」と前置きして、左手でがむしゃらに自らの銀糸をかきむしった。
「段取りがあんだよ。その質問には今は、答えねえ」
ふいと顔を背け、彼は元通り大股で歩き出してしまう。
私がフレンチと言えば、このあたりのフランス料理屋を、私がイタリアンと言えば、このあたりのイタリア料理屋を彼はすらすら羅列したのだろう。このひと、昨日、寝たんだろうか。寝ずに店の情報やら地理やら、手当たり次第頭に叩き込んできたような気がする。会った瞬間に鞄を持とうとするだとかチケットを買っておくだとかそういうのは、誰かの入れ知恵か、本で勉強したのか。本で勉強したのだとすれば、恋愛指南書のようなものを熟読したのだろうか。なんてタイトルだろう。〝日本人を落とす方法〟? 〝好きな子の落とし方〜日本編〜〟?
かつての師。
よく喋る自信家。
強く厳しく逞しく、また真面目で勤勉。
そして格好良く、美しい。
で、その上。
『だってギルは、よく菊のこと聞くよ』
──このひと、設定、盛りすぎじゃなかろうか。
エレベータが降りてくるのを待つ間、お互いに無言だった。そして、やがて到着したエレベータが開き、無人のそれに乗り込もうとしたところで私と彼が全く同じタイミングで「あ違うカフェ行くんだった」と踏みとどまった。
それがあんまりおかしくって、つい二人、腹を抱えて笑う。こんなの、後日誰に話したって誰も笑ってくれないと思ったけれど、今この瞬間は世界一おもしろい出来事だったのだ。
「ああ、なんか、力抜けた」
緊張してたからちょうどいいわと、やはり独り言のように彼が言うのを私は聞く。なんで緊張してたんですかと聞いたら、また『段取りがある』とはぐらかすのだろうか。いずれにせよもう、ここが底だ。早々に諦めた私は、ここに正座でもしつつお手並み拝見と洒落込もうかと心中で苦笑する。これ以上落ちようもないのだと私が答えられるのは何時頃だろう。それが君のプランの、段取りの、どのあたりか知らないけれど、答えを聞いた君の表情如何によってはひょっとしたらまた底が抜けるのかも。
(──なんだかずっとここにいた気がする)
ショックでもなんでもない。新鮮味がないと言い換えてもいいけれど。
「とりあえず前もって言っときたいんだけどよ、いつからって聞くなよ。引かせる自信がある」
「はい」
たぶん私も。
答えたら案の定、段取り、と、彼は怒った。
そして怒った後、新しい笑顔で、ばーか、と呟いた。
(まだそこじゃなかった 終)