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【社会】

飛び込み姉妹、「五輪で雪辱」かなわぬまま 政代さん、旧満州から娘と避難中病死

姉妹がベルリン五輪後に配ったサイン入りのブロマイド。ツーショットの写真はベルリンで撮影したとみられる。開催年の1936が見える。2人の写真は井川政代さんが旧満州で亡くなったときに身に付けていたという=姉妹の人物誌を書いた新潟県旧与板町(現長岡市)の教育長・水野秀雄さん提供

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 井川政代さん、西沢礼子さん姉妹(旧姓大沢)はベルリン五輪後、一九四〇年に予定されていた東京五輪を目指していた。しかし日中戦争の影響で日本は開催権を返上。二人の願いはかなわなかった。

 二人は東京生まれ。飛び込みは政代さんが三〇年ごろから始め、礼子さんが後に続いた。政代さんの夫、井川晴雄さんは三六、三七年度の早稲田大ラグビー部の黄金期を支えた一人だ。

山県一郎さん

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 政代さんは結婚後も競技を続け、四一年八月に出場した東京選手権の高飛び込み、飛び板飛び込みでいずれも優勝した記録が残る。一人娘の章子(あきこ)さんは四二年九月に生まれた。

 晴雄さんは満州で召集された後、四四年九月にグアム島で戦死した。政代さんは夫の戦死を知らないまま満州に残った。旧ソ連参戦時に章子さんと旧奉天(現瀋陽市)まで避難したが、四六年一月に難民収容所で発疹チフスのため三十三歳で死亡。章子さんも四週間後に死亡した。晴雄さんの弟で岐阜市に住む山県(やまがた)一郎さん(86)は「章子だけでも助けることができなかったか、悔いが残る」と話す。

 当時、母子の身元は不明だった。しかし、所持品にあった日の丸を付けた水着姿の姉妹の写真を、最期をみとった人が日本に持ち帰り、ベルリン五輪平泳ぎ二百メートルで優勝した故前畑秀子さんに見せ、身元が判明した。

 礼子さんはベルリン五輪で四位だったことを悔しがっていて、「次は勝ちたい」という話を周囲にしていたという。しかし、東京五輪出場はかなわず、戦後は指導者に。周囲には「姉が生きていたら一緒にコーチをしていたかもしれない」と話していた。八十歳を過ぎてもマスターズ水泳に挑戦。二〇一〇年、九十四歳で亡くなった。五輪の女子飛び込みでは今も礼子さんの四位が日本人の過去最高成績だ。 (加藤行平)

政代さんと一人娘の章子さん。亡くなる1年前の1945年1月に撮影=礼子さんの長女・土屋栄子さん提供

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◆「ツバメ型」映画用カメラで撮影

 フィルムには政代さん、礼子さん姉妹とみられる二人が、ツバメのように手を広げて飛ぶツバメ型飛び込みや後ろ宙返り一回伸び型、後ろ宙返り前飛び込みエビ型などと呼ばれるスタイルで飛び込む様子が写されている。

 関係者によると、明治神宮外苑(東京都新宿区)の飛び込み用プールには四基の飛び込み台があり、高さ十メートルの一番高い飛び込み台の右側に七・五メートル、左側に五メートルの飛び込み台と三メートルの飛び板があった。このプールは姉妹が練習で使っていた場所でもあった。

 カメラは十メートルの飛び込み台に設置され、主に礼子さんとみられる女性が飛び込み台から、政代さんとみられる女性が飛び板から飛び込む様子を上方から撮影。背景には客席や水球のゴールなども写っている。

 フィルムの劣化は少なく、保存状態はいい。国立映画アーカイブの江口浩特定研究員は「当時、35ミリ映画撮影用カメラを使用できたのは映画関係者や軍、報道機関など一部に限られていた」と指摘。「ピントが人物にも水面にも合い、動きに応じたカメラ撮影は『プロの仕事』」と評価する。

 (加藤行平)

 

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