神は存在するのか?これは数多くの哲学者や宗教者たちを悩ませてきた問題です。神の存在を証明する方法として、有名な3つの方法を紹介します。
目的論的証明
世界は美しく、調和している。これが偶然によって出来たわけがない。だから、世界を計画した、知的で目的を持った設計者がいるはずだという議論です。
私たちは違いを気にすることが多いようです。あの人の方がカッコいい、あの人とは話がかみ合わない、というように。しかし、統一されたものに目を向けてみると、その違いは小さなものであることに気づかされます。
例えば、地面に種をまいて水を与えると、いつかは芽が出てきます。太陽は決まった時間に出てきて、また、沈みます。このように世界は調和しています。もし、少しでもこの調和がずれていれば、私たち人間は生きることができないでしょう。
目的論的証明は自然の構造を明らかにしようとする自然科学との関係が深いため、自然神学的証明と呼ばれることもあります。3つの証明の中では比較的注目されやすいです。
存在論的証明
人々の内部には完全な存在者の概念があるのであり、これは完全であるがゆえに存在の属性も必然的に持つことになる、という議論です。
アンセルムスという神学者・哲学者は存在を属性と考えたうえで、最大の存在者を神と考えました。頭の中で、存在以外のあらゆる属性を持った存在者を考えることは可能です。しかし、存在という属性をも持っている存在者の方がより大きいといえます。だからこそ、神は、頭の中だけでなく、実際に存在するということができます。
宇宙論的証明
すべての結果には原因があるという仮説に基づいた証明です。「私」という存在は両親から生まれました。その両親もまたその親から生まれているはずです。このように、あらゆる存在には、それを生み出す何かがあるのであり、それをずっとさかのぼっていくと第一原因、つまり神に行きつきます。
神を知るには信じるしかない?
正直なところ、上の3つの証明はすべて反論することが可能です。それでは神は存在しないのか?
聖書を開いてみるとなかなか面白いことに気づかされます。それは、聖書記者は神の存在を証明しようとはしていないことです。なぜなら、彼らは神の存在を知っていたのであり、わざわざ証明する必要などなかったからです。
神の証明を熱心に学んだところで神に至ることはできません。神を信じたあとにおいてのみ、神を理解することができるのかもしれませんね。