麻薬王・クンサーが最後に築いた「王国」
シャン邦共和国
首都:ホモン 人口:470万2000人(1999年)
1993年12月14日 独立を宣言
1996年1月5日 ビルマ政府に投降し消滅
ミャンマーの地図 東部のSHAN STATEがシャン州
シャン州の軍閥割拠図 90年代前半?実際にクンサーが支配していたのは紫 色 (M1~M5)の部 分で、本部があったホモンはM5
一昔前まで「アジアの麻薬王」と言えば、クンサーだった。タ イ・ラオス・ミャンマーの黄金三角(ゴールデン・トライアングル)地帯に君臨し、世界的なアヘ ン供給基地の親玉としてアメリカ政府から200万ドルの懸賞金をかけられた人物だが、そのクンサーが大統領になって君臨した「王国」が、シャン邦共和国(撣邦 共和国)だ。
クンサーは1933年にミャンマー東部のシャン州で生まれ、父親は果敢族 (コーカン族)、母親はシャン族。果敢族とは 17世紀半ばに中国で明朝が 滅亡して満州族の清朝が誕生した後に、「異民族支配」を嫌って逃げて来た漢人のことで、クンサーはその七代目にあたり、中国名は張奇夫。張家 は土司(世襲制の長官)を務める家柄だった。
一方でシャン族とは、ミャンマー東部とタイ北部、中国の雲南省に跨って住んでいる民族で、タイ人のグループだが、タイ語ではシャン族をタイ・ヤイ(大タイ 族)と言い、タイ人はタイ・ノイ(小タイ族)と言う。中国語ではタイ人は泰で、シャン族はそれに「にんべん」がつく。ちなみにシャンとはタイの旧名「シャ ム」のこと。
さて1949年、中国では国共内戦がクライマックスを迎え、人民解放軍に中国大陸を占領された国民党政府は台湾へ逃げるが、雲南省や四川省に取り残された 中国 国民党軍は、国境を越えてタイやミャンマーに逃げ、大陸奪還のための反撃拠点を作ろうとした。幼い頃に両親を亡くしたクンサー少年は国民党軍に入隊し たが、18歳で早くも反乱を起こして失敗し、山間部を流浪す るハメになった(※)。
※クンサーの叔父は100頭近い馬を 持っていたが、国民党軍がすべて徴用したため、クンサーは国民党軍を恨んでいた。クンサーが反乱を起こすと、国民党軍はクンサーの祖父を人質に 取ったとか。
クンサーに復活のチャンスが訪れたのは53年のこと。シャン州一帯を支配してしまった国民党軍に、国内で相次ぐ反乱に手を焼いていたビルマ政府は手が出せ なかったが、最大勢力の カレン族の反乱を 封じ込めたところで、インド軍の協力を得て国民党軍へ攻撃をしかけ、反撃されたものの「他国の軍隊が居座っている」と国連に訴える ことができた(※)。台湾政府はやむなく国民党軍を引き取り、3000人ほどが現地に残ったが、タイ領内へ追いやることができた。
※攻撃のきっかけは、国民党軍の李弥将 軍にインタビューした記者が「いつ再び『雲南王』に復帰するつもりですか?」と質問したところ、将軍は「『雲南王』に戻るのは簡単じゃないが、『ビルマ 王』 になるなら簡単だ」と軽口をたたいたため、ビルマ政府が激怒したからとか。ビルマ政府が中国と国交を樹立した60年には、今度は人民解放軍と共同でビルマ 領内に侵入した国民党軍の掃討を行い、再び国民党軍の一部を台湾へ引き揚げさせている。
ビルマ政府は国民党軍がいなくなったシャン州を直接支配することはできず、各民族や地域ごとに自衛隊を作って防衛させたが、クンサーもビルマ政府公認の自 衛隊の1つとして、自分の軍隊を持つことができた。自衛隊の 資金源 はこの地域の「伝統産業」だったアヘンの生産で、ようするに軍閥。各自衛隊はアヘンの利権をめぐって戦争を繰り返し、群雄割拠の状態が続いた。
やがてシャン州では中国政府の支援を受けたビルマ共産党が勢力を伸ばし、各地の自衛隊を傘下に入れていった。
独自に勢力を伸ばしたクンサーは、ビルマ政 府 と手を組んで国民党軍やビルマ共産党と戦ったが、勢力が大きくなると「出る杭は打たれる」とばかりに、69年にビルマ政府の罠にかかって逮捕され てしまう。
残されたクンサーの参謀長は、71年に「シャン族による自治」の旗を掲げて軍 閥をシャン州解放軍と改称し、ソ連 から援助に来ていた医師2人を人質に取ってクンサーの釈放を要求。タイ政府の仲介で、クンサーは73年に 釈放された(※)。
※「麻薬マフィアの親分を釈放しろ!」 では国際社会に相手にされないので、「自治を求める少数民族のリーダーを釈放しろ!」という大義名分をつけて、タイ政府に動いてもらったということ。
釈放後のクンサーはタイ北部へ移り、国民党軍の拠点だったドイ・メサロン(美斯楽)近くのバンヒンテック(満星迭)という村に拠点を築いて、国民党軍ともども少 数 民族にケシを栽培させながら、タイ政府の要請に応じて共産ゲリラの討伐に参加していた。
しかし80年代半ばにタイ共産党が壊滅すると、「御用済み」になったクンサーはタイ政府軍の攻撃を受け、85年にビルマ領内に戻ってタイ国境 に近いホモンに新たな根拠地を建設。シャン族の他の武装勢力 を糾合して、兵力2万5000人を擁するモン・タイ軍を結成した(※)。
※一方で、タイ北部の中国国民党軍は 88年に解散 し、ケシに替わってウーロン茶の栽培をしている。拠点のドイ・メサロンは高原リゾートの観光地に生まれ変わった。
国民党兵士の「落人村」を訪ねて~タイ・ミャンマー国境地帯編~ 私が1990年末に現地へ行った時のルポです
就任の宣誓を行うクンサー大統領
この頃がクンサーの最盛期 で、「世界の麻薬市場の半分を握った」などと言われたが、90年代に入るとアジア最大のアヘン生産拠点はアフガニスタンへ移った(※)。またビルマ政 府は88年から89年にかけてシャン州の各少数民族の武装勢力と和平協定を結び、クンサーは孤立。90年にビルマの軍事政権が民主化を弾圧して国際 的な非難を浴びると、それをかわすために麻薬取り締まりに本腰を入れた。ビルマ政府軍が攻勢に乗り出すと、クンサーは93年末に突如としてシャン邦共和国の独立を宣言し、自ら大統領に就任 した。
※89年にアフガニスタンからソ連軍が 撤退すると、たちまちイスラム勢力が群雄割拠する状態になり、92年にナジブラ政権が崩壊。96年にタリバン政権が誕生するまで、完全に無政府状態となっ た。
クンサーは今度は「独立を求める少数民族のリーダー」を装ったの だが、肝心なシャン族が離反し始め、95年に軍で反乱が起きると、クンサーは96年1月にモン・タイ軍の解散を宣言。そのままヘリコプターでヤンゴン へ向かい、ミャンマー政府に投降してしまった。
その後のクンサーは、これまで「麻薬王」として蓄えた資産をもとに、宝石や木材などのビジネスを行う「実業家」に転身した。アメリカ政府からの再三の身柄 引き渡し要求を、ミャンマー政府は拒否し続け、かつてアウンサンウーチーが軟禁されていたこともある宿舎に、2007年に死去するまでVIP待遇で保護さ れていたという。
一方で、クンサーの投降に納得できない元部下たちは、新たに南シャン州軍を結成し、カナダで亡命政府を樹立。2005年4月には亡命政府がシャン州の独立 を宣言したが、現地の南シャン州軍からは相手にされず、分裂状態になっている。
参考資料
吉田一郎 「タイ北部の国民党の落人たち」 『月刊香港通信』92年6月号 〈香港:パソナプレス 1992)
政党社団之声 自由撣邦 http://blog.boxun.com/hero/2006/ziyousanbang/15_1.shtml
国際在線 http://gb.cri.cn/18504/2007/10/31/1062@1822896.htm
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