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△冬の鬱陵島、右端にうっすらとチュクトも見える
● 金正浩(?~1864)と「于山島」
朝鮮王朝時代後期の地理学者である金正浩が1834年に完成させた韓国全図が
「青邱図」だ。この地図の中にも、現在、韓国で独島(日本名竹島)の旧称と
見なされている于山島がはっきりと描かれている。
△金正浩「青邱図」(1834)、囲みの部分が鬱陵島
△鬱陵島と付属島部分の拡大図、6番が「于山」
△「于山」部分(上図6番)の拡大図
金正浩の「青邱図」に描かれたこの「于山」をはたして現在の独島と同一視できるのか?
現在、一般的に使用されている鬱陵島の地図と比較して考えるとき、この「于山」は、
チュクト(竹島:下の地図5番※)か、あるいはクァヌムト(観音島:同4番)と見なすのが
自然な解釈のように思える。
※チュクトと独島(日本名竹島)は別の島なので要注意
「青邱図」に描かれた鬱陵島の6つの付属島の位置が不正確であることを考えた時、
付属島中、現在確認できる最も大きな島であるチュクト(下図5番)を「于山」と見なす
のが最も自然な解釈と言えるのかもしれない。形状も似ていると言えばよく似ている。
興味深いのは、「青邱図」に描かれた鬱陵島のおおまかな特徴が19世紀末に行われた
大韓帝国による鬱陵島調査時に確認された内容(「鬱陵島には小さな六つの付属島が
あり、その中で最も目に付く二島が于山島とチュクト」)と基本的に一致している点だ。
金正浩はすでに19世紀前半にはそうした事実をつかんでいたものと見れる。
ただ、19世紀後半、大韓帝国の調査団が記録したチュクトを現在のチュクトと
見なすならば、「青邱図」の「于山」は現在のクァヌムトである可能性もでてくる。
そもそも、「于山」とは鬱陵島の別称に過ぎないとの説も広く説かれていたの
だから、現在から見ても付属島の歴史的名称の比定が混乱するのも無理はない。
なお、現在、鬱陵島の付属島には名称に「島」の名が冠されたクァヌムト(4番)、
チュクト(5番)の他、アム(岩)やバウィ(岩を意味する固有語)の名を冠された
4つの小岩礁の存在が確認できる。コンアム(孔岩:1番)、タンバウィ(2番)、
サムソンアム(三仙岩:3番)、プクチョバウィ(6番)がそれらの岩礁だ。
△鬱陵島の6つの付属島が描かれた現代の地図
一方、独島(日本名竹島)は、鬱陵島の南東海上をはるかに90km以上
離れた地点に位置している。
△ネイバー地図より
△グーグル・マップより
近世朝鮮が生んだ地理学の大家である金正浩の地図を見る限り、「于山」を
現在の独島(日本名竹島)とみなすことが、いかに不自然なことかがわかる。
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