上條:観客も、ジャズなんか引っ込めということではなくて、とにかく劣悪な環境で、しかも2日目でイライラが高じていたんですね。
牧村:2日間食べるものが足りなくて、トイレも充分にない、汗と泥にまみれた中で。せめて音楽を聴いて一緒に唄ったり踊ったりして解放されようとしていたところにジャズが。当時、ジャズ喫茶でも、目をつむって聴きながら首を振るくらいだったんです。「フォークではない音楽」が、日野皓正、そして安田南と2組続いてしまったのがきっかけにもなった。この不毛な論議は明け方まで続いたんですね。『フォークジャンボリー』を事実上進行していたのが中津川労音、リーダー格が笠木さん、そしてURC。結局、この後始末を見てどうお考えになったのか、そばにいたG.Gからお聞きしましょう。
上條::商業主義と言われてしまったけれど、第3回目にしてやっと少し利益が残ったと聞いています。でも、その利益は、亡くなった高校生にお見舞金として渡ったんです。あの占拠事件がなくても、第4回目以降があったかどうかは定かではないと思いますね。
牧村:笠木さんがのちに語っていたのを聞くと、もう自分たちが制御できないくらい大きなコンサートになってしまったと。今みたいに立派なPAがあるわけじゃないし、1,000円という入場料でまかなうことも限界だったんだと思います。第3回はチケットを買って入った人は17,000~8,000人、無料で入った人が数千人いて、ピーク時は2万人を超えたんじゃないかということです。せいぜい2,000万円くらいなんですね。当時の給料は初任給で30,000円代だったかな…。ですから、これだけの出演者を揃えてコンサートを運営するのは経済的にもきつかったと思います。そこで、ギリギリで出た利益を亡くなった高校生に渡したというのは、騒ぎ自体ばかり面白おかしく書かれてしまっているせいで、後日談としてもあまり知られていないんですね。中津川労音の方々は、自分たちが元来の意味のフォークソングを伝えるべきだと、自らギターを弾き唄い全国を行脚したんです。笠木さんは亡くなるまで、自分の考えを貫きながら生きて、ご自分の生涯を全うされたのではないかと思います。その後、音楽舎は如月ミュージック・ファミリーを立ち上げますね。
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