上條:初日は隠し玉として夜中の24時くらいに三上寛が入っていますが、この当時はほとんどの人が三上寛を知らなかったんです。1971年のお正月明けくらいに、『週刊明星』の方が1枚のレコードを持って「とにかくすごいのがいるんだけど、唄う場所がない」と音楽舎を訪ねてきました。持ってきたのは日本コロムビアレコードから出た『三上寛の世界』というアルバムだったんです。僕らも初めて聴いて、なんじゃこりゃ! と驚いて、ライブを見に行ったらギター一本でもやっているので、ならば出演してもらえそうだなと思いました。僕の上司だった高木照元とは、『フォークジャンボリー』までは存在を隠しておこうと決めたんです。前の年は加川良が飛び入りみたいな形で出演をしたり(「教訓1」を唄った)、遠藤賢司が「夜汽車のブルース」を唄ったりして、この二人がニューカマーとしてすごくウケたので、1971年の時は三上寛を隠し玉にしようと考えていました。実際、メインステージでの1曲目「夢は夜ひらく」がすごくウケたので、これはいけるなとついニヤニヤしてしまいましたね。
牧村:話は戻りますが、前年、1970年に注目を浴びた加川良さんのことをもう少し聞かせてください。
上條:加川さんは京都の大学時代までは赤いミリタリールックで、GSでアニマルズとかをシャウトしていた人なんです。その後、アート音楽出版というところのスタッフになり、高田渡に出会って影響を受けました。1970年のメインステージ音源から「姫松園」を聴いてみましょう。この曲ですが、当時、大阪には加川さんとか落語家さんとかが住んでいたアパートがあったのですが、いま聴くとこの曲は、完全に3回目の『フォークジャンボリー』を見越した感じの歌になっていますね。
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