「模型屋一代記」ホームページ前編 「自動車」    (Ⅰ)
                 
一代記を書く原因、模型屋になった生い立ちを読んで下さい。2004年1月で昔の年で80歳になります。そろそろ大正14年製の脳味噌が接触不良になり記録したデーターが消え掛っていますので、もう待てませんので宜しくお願いします。模型を始めるまでの経緯をまず読んで下さい。父は新潟師範を出て小学校の先生をしていました。向学心に燃え、兄の援助でK大の理財科(今の経済)を出て秋田の三菱鉱山に赴任しました。体が丈夫でないので母と姉2人を連れ東京府下荏原郡平塚村中延6(現品川区)に上京しました。そして親類の援助で自動車屋を開業しました。T型フオードを代々木の錬兵場に持って行き運転免許を取る人に教えた事もありました。現在は中原街道ですが私の生まれた時は半分以下の幅で砂利道でした。大正14年1月23日、三条町長の伯父さんが上京して泊まった夜私が生まれたそうです。1929年8月19日玄関の前に出てふと見上げると大きな飛行船が圧し掛かるように迫ってきました、子供でしたので異様な物体に見とれました、世界一周のグラフ、ツエッペリン号で高度やく200メートルでした。これが空中を飛んでいる初めての飛行体でした。父の営業はタクシーとトラックの運送で人も雇っていました。自動車屋の息子らしくクラシックカーの足こぎ自動車に乗った写真も有ります。洗足にも車庫と事務所が有りました、T型フオードの前での写真が有ります。私が小学4年の時裏通りの裏に在りました植物の徳川研究所が移転して平塚小学校が建設されました。初代校長は柚木卯馬先生で理科の本を書いている方でした。延山小学校から平塚小学校に転校になりました、之も模型屋になる原因でした。砂利道が素晴らしい中原街道になりました。砕石を敷きローラーで平らにして10cm以上のコンクリートを流し其の上にアスファルトを5cm程敷きました.歩道がつき、いちょう並木が続きました、砂利道の時は散水車で埃が立たないようにしましたが、今度はアスファルトなので水圧をかけてゴミを排水溝に流し込みました。父は8台入る車庫を建てました、其の頃小さいバスが車庫に入って居ました。バスの中に活動写真館の広告がぶら下がっていました。車庫に車が入っていないと私は其の中でフオードの1929型トラックに乗り、切り替えしの練習をしました。セルモーターが付きギヤーはH型の3速とバックでした。私が小6の時、父はガソリンスタンドの経営を始めました地下タンクなので大きな穴を掘りました、地下水が川のようにドンドン流れていました.其の頃は井戸水を使って居たのも判りました。アメリカのシエル石油で黒貝と赤貝の2種類を売りました。近くにスタンドがないので順調に売れたようで、毎日タンクローリーが来ていました。其の頃のタンクローリーは今より小さく、タンクの中にある真鍮の目盛りつきゲージで内容量を確認します。今度は地下タンクのゲージを引き上げて現在量を調べてからタンクローリーのガソリンを入れます。ガソリンは計量が厳しかったようです。その頃自動車をコッソリ出して運転しました。1929年製でしたので造られてから8年めでしたが故障も少なく最後は軍に徴用されてしまいました。2代目は34年型のセダンでした、トラックは座席が高いですが、セダンは座席が沈み、小6では座高が低く座布団を折って敷きやっと前が見えました、チエンジギヤーが抜けなくなった事もありました。ダツトサンが走り始めた頃、店の前でダツトサン同士が正面衝突して顔から血を流しながら電話を借りにきました。そろそろ免許を取るつもりでしたが止めました。                      
「模型屋一代記」 ホームページ前編 「模型飛行機」  (Ⅱ)

三条の叔父さんが新橋の大田屋からセミスケールの航研機をお土産に買って来ました。とても気に入りました。これが模型飛行機の最初の出会いです。この頃小学校の前の文具屋でライトプレーン(ゴム飛行機)を売っていました。此れが良く飛びました、主翼の中央に竹ひごを立て両翼の中央の前縁と後縁を糸で結び竹ひごに捲きっけ上反角を付け、左右の迎角も調整します。本物の張り線時代のようでしたが、非常に良く飛びそれが飛行機ヤローの始まりになりました。目黒の帝友館と言う映画館の前に肉屋が在りました。肉屋を止めて肉の代わりにケ-スの中に色々の模型飛行機のパーツが並んでいました。肉きり包丁で器用に飛行機を作っていました、時代なので荒鷲号などと翼に書いていました。この店で飛行機大会をしていました。其の頃は空き地が一杯在りましたので、何処でも飛ばせました。空き地では夕方になると「ぎん、ちゃん、やんま」等のとんぼが空を覆いますが高いので小石を投げて虫と間違えさせ低くして鳥もちを着けた竿で取ります。子供が大勢集まりました。私は模型飛行機に熱中して、勉強しませんでした。父は諦めていたようで、芝浦にあった東京高工(現芝浦工大の前身)の付属に入りました。然し相変わらず毎日ライトプレーンの製作に熱中して1日一台作りました。其の頃は歩道から離陸させて中原街道を横断させ向こうの歩道に着陸させたりしました。車輪を引っ込めるのはライトプレーンでは無理ですが、引き出足は出来ました。又爆弾を落とすことも出来ました。其の頃アメリカのP-36エアロコブラ戦闘機が3車輪でしたので、ライトプレーンも3車輪にしたりしました。胴棒の上に桐板やバルサで横顔機を作ります、操縦席は竹ひごをキャノピーの型に曲げてつけます、かっこ良かったです。胴体の断面が3角の3角胴、4角の4角胴等は3ミリ角のヒノキ材に四つ目キリで穴を開け竹ひごの先が丁度刺さるように尖らせて接着剤で着け胴枠を作る昔風の作り方から3ミリ角で鉄橋のような構造にして、色々作り方も丈夫で軽くするようになりました。折ぺら(ゴムが巻き戻るとプロペラが折りたたまれ空気抵抗が少なくなる構造)も使われ始めました。角胴で困る事はワインダー(ゴム巻き器)でゴムを一杯巻いた時、巻き過ぎて切れた時細い胴だとバラバラに壊れる事があり経験した人も多数居ると思います。ゴムも慣らし運転のように始めから一杯巻くと切れやすいです。大事な機体はゴム液を付けテストして使うと完璧です。ゴム飛行機にはイギリス式とアメリカ式とがあります、イギリス式はゴムの巻き数をおおくしてゆっくり、飛びアメリカ式は一気に高度を取りテルミックに乗ります、折りたたみペラは抵抗がなく良く滑空します。昭和の始め頃は五十嵐川横断の大会が行われたそうで、子供の時叔父さんの家にA型のプッシヤ-式双ペラの飛行機がかもいに飾ってありました。大勢のフアンがいたそうです。 
              
「模型屋一代記」 ホームページ前編 「鉄道編」  (Ⅲ)

鉄道模型を小山本通りの玩具店から買いました。B型のSLで高価でした。アルコールで真鍮製のボイラーを暖め蒸気を作り、此処までは本物と同じですがピストンが首振りで左右に付いています、蒸気圧が高くなると走り始めます、首振りピストンから蒸気をシュシュと出しながらオーパル形の線路の上を急行のように走りまわり、始めは付いて走って回るが汽車には模型でも敵いません、汽笛もピーといい音をだします。アルコールを一瓶使ったので、有り物のガソリンを入れたら、アッという間に火に包まれ鉛の弾みぐるみ兼用の動力車輪は溶けて無くなり、ボイラーは真鍮板になりました。ガソリンの恐ろしさをハッキリ経験しました。本当に家の中でなく庭で良かった。上野から三条までは朝出て夕方着いたのを覚えていますが信越本線で長野廻りでした。上越線が出来て急行なら6時間ですむようになり、夏休に清水トンネルを通ると時間を計ったり(約15分)ループのトンネル入り口を見たりしました。利根川の水はブルーで色々の濃さになり綺麗だでした。清水トンネルの前後ではSLからELに変わります、SLの時はトンネルの前に必ず汽笛を鳴らすと一斉に窓を閉めます、前後の通路ドアを見ると龍が出てきそうな黒雲が見られます。夏はトンネルを出ると直ぐ暑いので窓を開けます、カーブでSLが見えますが、突然目が痛む事があります!!!炭殻が入つたのです。今では考えられないですね。長岡を過ぎると弥彦山が見えます三条はもうすぐです。急行は東三条駅に止まります。歩いて町の中心に向かう道に沿って小川が流れていて、三条の主産業の鍛冶屋が夫婦でトッテンカン、トッテンカンと鉄を打っています向こう槌は赤い腰巻ひとつの大きな女房でしたのでビックリしました。弥彦線の北三条駅通りに母の実家があり8歳年上の従兄弟がいて駅に機関車を見に行きました。C-12の小型SLですが子供でしたので大きい怪物のようでした。弥彦から来る時は機関車が後ろを向いて走ってきます、不思議でしたが大きくなって終点弥彦駅には方向を変えるターンテイブルが無かったのです。列車が来ない時駅員からポイントを切り替えるのを見せてもらいました。また其の頃はタブレットを機関車からホームの端に居る駅長さんの伸ばした腕に掛けました。信越線には1本の鉄橋しか有りません、橋脚を作り鉄橋が出来て複線になり、電化されてから特急「とき」が上野迄3時間半に短縮され日帰りが可能になりました。現在は上越新幹線だと2時間で東京駅に着きます。この時間は羽田に行って飛行機にのり新潟空港を利用するより早くて便利です。      
「模型屋一代記」 ホームページ前編 「模型飛行機」  (Ⅳ)

雑誌に井上式KD形エンジン新発売の広告が出ました、横浜のトヨダ自動車会社でした、早速電車で出掛けました。大きなガレージに入って直ぐ左側に売り場があり、青年がエンジンを出してテスト運転をしてくれました。2サイクルのガソリンエンジンです。チョークをして点火時期のレバーを下げ遅くしてプラグにコードを繋ぎプロペラを手で、いきよいよくまわす。慣れているから直ぐ回る。ニードルバルブを閉めながらレバーを上げると回転が速くなる。40円(其の頃の中級月給)を払って、興奮しながら家に帰る、ガソリンスタンドは家業なのでオイルもある、ガソリン20対オイル1の割合で混合して燃料にする。先ず回してみる。順序よくしてプラグにイグニッションからのコードを付けて力を入れて回す、パン、パン、バタバタ・・・?逆回転する、何回してもだめ翌日また横浜に行く良く回る。吸い込み過ぎですよ、其れから良く練習して何時でも一発で始動させました。1号機は緑色の「なまづ号」目黒の駒場練兵場に同級生の飯岡健太郎君(後の新橋ステーションストアー店主)と2人で行き手投げテスト、OK。燃料を少なめに入れ、エンジンを飛行ギリギリの低出力で手投げ、3~4メートルの高度で旋回飛行5分程で無事着陸、バンザーイでした。
2号機は薄いベニヤの側面が3角の胴体、コロイドバッテリーを積み込みました。そろそろ乾電池が不足の時代になりました。その後色々の機体を作り仲間も近くの工場に勤めてエンジン機を飛ばしていた大ちゃん(満州で亡くなった)黒田和夫君(H15年大型ライブスチームを楽しんでいたが亡くなった)浅井重彦君達と砧、武蔵小金井、丸子多摩川、二子多摩川等に毎日曜出掛けていた。駒場には間宮さん(マミヤカメラ)が来ていて中々エンジンが掛からないのを覚えています。三島道隆子爵等有名人も飛ばしに来ていました。低翼機を製作する事になりました、チャンスブオートのイメージで作りエンジンは倒立、上半角は2段にした、丸子多摩川でテスト、離陸OK綺麗に上がったストールターンまるで機銃掃射みたいに来て上昇、又ターン4~5回繰り返して無事着陸。低翼は殆ど飛ばない事になっていたので本当に良かったです、もし墜落しても壊れないように主翼は差込式にしてありました。其の後「燃える大空」の小説を書いた北村小松先生が洗足に住んでいて先生も「ふぐ号」と言うエンジン機を飛ばしていました、大ちゃん、クロちゃん私の3人で如何しても会って見たく考えた末、自転車で飛行機を持って行き庭の塀を囲み1・2・3でエンジンをかけました、皆一発で始動しました、玄関が開いて先生がニコニコして手招きした。エンジンを止め中に入って、色々見せていただき感激しました。私の家を知っていましたので、ガソリンとオイルを後から届けました。其の後、五反田駅の前の小路を入った所にある小さい工場にエンジンを頼みに行きました。出口エンジンと言い排気量が井上式の半分でJクラスでした、予約制とかで何時になるか判らないと言います、学校の帰りに週1回は覗きに行きました旋盤、フライス盤、ボール盤、を使いオール金属製ですのでクランクケースとマウントは蝋付してあります、ピストンはフラットトップと言いダブルピストンで全面排気式でした小さいチャンピオンプラグが付きイグニッションコイルも小型でした、音がパカパカと言うような感じで低速がききます。やつと手に入った時は今ならヤッターと言う所です、値段は100円重役の月給でした。
出口エンジンの1号機はスタント機の対象翼を厚くしたようなボデイでした縦通材は桐薄板を「」のように使い軽量で丈夫に作り絹張りでした。千葉県国府台練平場の飛行機大会に出る予定で前日に行き草が生えている所でテスト飛行をしました。運悪くプロペラが折れてスペア―が無く(其の頃は丁度良いプロペラが市販されていませんでした)残念でした。京都から来たグループが夕方エンジンの調整をしていましたレベルが高いのにショックを受けました。高工の卒業写真に私が1号機のエンジンを掛けている様子を同級生が見ているのが乗っています。飯岡健太郎君もいます。
「模型屋一代記」 ホームぺージ前編  「昭和17~8年頃」 (Ⅴ)

高工の3年になり航空研究会委員長になり、何かしなければ、と考えパレンバンのパラシュ-ト部隊が話題になっていましたので二子多摩川の読売遊園にある、読売パラシュ-ト
塔で落下傘訓練をする事にしました、会員と低い所から段段高い所まで上がり飛び降りる訓練をしました、実際の落下速度を塔の中程からワイヤーで降ります、1か月程していよいよ塔から降りる事になりました。傘を開いたまま一番高い所に上がります私が一番目です引き上げられて一番高い所に着くとカチャと音がしてストント落ちますヒャットする瞬間です。傘に空気が入るとフワット浮かび塔から離れます風が来ました流されますが直ぐ着地です足を少し曲げて着地OKと言いたいところですが編み上げ靴の底が剥がれました。この後何回かして終了証書を貰いました。第1号でした。今は改造され江ノ島に移されています。戦争が激しくなり1942年4月18日家に帰る時、田町の駅で偶然空母ホ-ネットから発進したB25が東京空襲に来ました丁度品川駅の真上を100m程の低空をゆっくり飛んでいました、高射砲の煙が其の後、後にみえました。この時、陸軍の飛行場に居た従兄弟は97戦の始動係りでした、3人いるのに2人は外出中でした大急ぎで始動車を運転してプロぺラを廻したそうです。予科練を志願した黒田君は之と同じ様な経験を大阪でしました。同じ予科練の友達と空襲に来た敵機に味方機が追いっかない「駄目だなー」とか話していたら夜になって集合が掛かりました、何だろうと思ったら呼ばれて前に出され痩せている友達は2,3発で倒れたが黒田君は体格が良いので物凄く殴られて翌日は顔が倍ぐらいに膨れたそうです、後ろに先輩が居たのに気が付かなかったせいでした。其の後人間爆弾みたいな「桜花」に搭乗する命令が出て訓練を受けて出撃待機中に終戦になり助かったが待機中の心は本当に苦しかったと昨年お亡くなりになる前、一代記を書くのに電話したら打ち明けて呉れました。エンジン機を始めてからの友達で始めて遊びに行った時は玄関の隣の部屋にエアーエンジン機がぶら下っていました。彼のエンジンはOSでした。パラソルがたの大きな機体を作っていました。お父さんは森永製菓に勤めていてお菓子を出してくれました、一人子なので何でも買って貰ったようです。戦後はスチールギターなども得意でアロハオエなど上手に弾いて見せました、またカメラもベテランでカメラ雑誌に推薦、特選等良く撮っていました、何んでも器用でした。私の家から500メートル程の町工場に勤めていた大ちゃんも、エンジン機を持って居ましたので仲間に入りました。 この3人でもう一人の浅井君のお父さんは画家でしたがお亡くなりになりました。兄さんが私と同じ高工で顔見知りでした。戦後模型屋を開く前に1年間お世話になった家です、自由ヶ丘の住宅地で大きな屋敷でした。建物を半分貸して子供3人を育てたお母さんは大変だったと思います、広いアトリエが工作室に充分でした、二人ともお父さん譲りで綺麗な機体を作ります、ソアラ-など素晴らしい出来栄えでした。
模型屋一代記 ホームページ前編  「本物を見た」  (Ⅵ)

日本の紀元2600年記念で大観兵式が代々木の錬兵場で行われました。この日は陸軍の軍用飛行機が全国から500機集められて飛ぶ予定でした。時間になる前に二階の屋根に布団を敷いて仰向けになり上を見上げるように用意しました、轟々と爆音がして編隊を組んで真上を飛んで行く、紙と鉛筆を持って正の字を書いて機数を数える。97戦、97重、97直協などなどきっちり500機飛んでいきました。又海軍の大観艦式も同じく500機の航空機が編隊を組んで真上を同じ速度で通過しました。深山の大きな機体が印象深く96艦戦、99艦爆、97艦攻等でした。その後、羽田飛行場で報国号の献納式が有ると言うので行って見ました。暫くして初めて見る明灰白色の零戦が飛んできて横一線で斜めになって旋回したリ、一列に並んで連続宙返りをしたり、低空飛行をしたりして海軍の初めての航空ページェントを拝見しました。この方達は真珠湾攻撃や各地の空中戦で活躍した熟練の勇士でした。話が飛びますが小3の遠足は鶴見の花月園でした、この時陸軍の91戦が吹流しを引いて飛んでいるのを見ました、射撃練習があったようです。最高速度300k/Hの高速が出たそうです。又父の知人で退役海軍軍人から横須賀軍港に連れて行って貰い改装まえの戦艦陸奥を見学しました、大きな大砲(主砲)と甲板が木だつたのが珍しく覚えています。其の後呂号潜水艦には入って見ました、狭かったです、潜望鏡も覗きました。学校の屋上から東京湾が丸見えで駆逐艦が2~3隻並んで停泊しているのを見ましたが。濃い青緑の海にライトグレーの船体、煙突の白線がくっきりして今でも目に浮かびます。軍艦でも綺麗に見えました。大阪商船のブラジル丸は芝浦の埠頭で処女航海の披露をしていたので見に行ました、スマートな船です、又同じ場所で日本郵船の新田丸も披露されました、この時は母の従妹の御主人が郵政省の艦船局長をしていたので招待され子供さん達と紅茶とサンドイッチを食堂で頂きました。両船とも改造されて空母になり戦時中、撃沈されてしまいました。良い船でした。従兄弟が柏飛行場に居た時は九七戦でしたが、松戸飛行場に転勤になり会に行った時は、首都防衛隊でして、面会所から出て見るとし鐘馗がずらりと並んでいます。白帯びに日の丸の本当に強そうな良い機体でした。             
模型屋一代記」前編  「陸軍第一航空技術研究所」 (Ⅶ)
昭和18年戦局が厳しくなり高工の卒業が半年早くなりました。立川の研究所に入りたいと思っていました、飯岡君と2人でした。飯岡君は第2研究所でエンジン関係の仕事です。私は本物を見たり触ったり子供の頃より大好きな機体の第一研究所です。高工の時は設計図はしごかれて自信が有りましたが、航空力学の岡本哲史先生は授業でアメリカのニューヨークはジュ-ヨークだとユダヤ人の事ばかり話題にしていて結局流線の書き方を教えて貰っただけでした。研究所では主翼の結合部分の披労試験等をドイツのローゼンハウゼン疲労試験機でしていました、飛行服を着て徹夜で切断されるまで付いています3日目ぐらいに体が痒くなりました、何と南豆虫でした。生まれて初めての経験でした。バケッのような入れ物に銀粉を浮かし中央で2cm巾程の薄い金属片を振動させると銀粉の流れが出来るこの状態を高速度カメラで写している技術少佐や栗山君、真直ぐ飛ぶ爆弾は出来ないかね?なんて尋ねる大佐も居ました、研究班はキ-108と言う高高度戦闘機の与圧室を研究していました上部のハッチも其の1つでした。或る日、ロ式Bが飛ぶよと聞き乗せてもらいました、立川飛行場からドンドン高度を上げ富士山の真上に来た時火口が10cm程に良く見えました。ぐるぐる回って約一時間、この高度で一時間平服のまま飛んだ人は限られていた時代で良い思い出でした。或る日北九州で撃墜されたB-29が格納庫に運ばれてきました、元の位置に破片を置いてありました、後部銃座の通路は思っているより細かったです気密室の研究に運んできたようですが合成ゴムを気密に使っていました。ライトR3350エンジンも壊れて置いてありました、ピストンリングが一個側に有ったので記念に持ち帰りましたが、B-29の東京空襲で無くなったのが残念でした。のんびりしている研究所で技術少尉が中尉に進級しました、私が当直でカギを掛けて帰るのでしたが中尉が私に俺が閉めて帰るから先帰って良いと言われて帰ったら翌朝下士官にカギが掛かっていないとスリッパでひっぱたかれました!!それから陸軍の野蛮にいやになって海軍予備学生を志願しました、敗戦色が濃いのにのんびり研究等していられない気になつたのです。仲間の工員2人が其の後予科練に入り館山の州の崎航空隊で偶然遇いましたが、つらいと涙を流して居ましたが研究所とは天国と地獄ほど違いました。美味しい昼食を腹一杯食べて女子工員とバレーボ-ルが出来る所と、朝から晩まで駆け足、麦飯はアルミの食器に一杯、味噌汁は海の水を温めたようなものとは桁違いです、其の頃の予科錬はどかれん「土方連」?ですね、飛行機の飛の字も触れない何か有ると精神注入棒(所謂バット)で腰掛けられないほどお尻を殴られる、夜兵舎の脇を通るとバシバシと低い音がする、声を出されない青年が苛めに有っている。海軍も訓練はキツイ一人のせいで艦が沈む事もあると言う理由です。
フットボールの選手でした中尉さんは暇があるとボールを蹴飛ばしていました、士官の食事は一段良かったようです。大きな風洞を見に行きました双発で双垂直尾翼の木製の実験機が置いて有りました、キの幾っか分かりませんでした。立川飛行場に行きましたら出来立てのキー43隼が太陽に当たりピカピカ光ってグーンと上昇していました。
福生に行く用事が出来ました格納庫にはなんとドイツのFW-190戦闘機が置いて有りましたエンジンの後ろから後部まで巾が狭くドイツ人が操縦席に座れるかなと考えるほどでした。他にも有ったのでしようが忘れてしまいました。
「模型屋一代記」 前編  「海軍」     (Ⅷ)
予備学生の志願して試験を受ける、模型飛行機を作って楽しんでいたので試験と言うと少々不安でした。以前は操縦者に成りたかったが近眼なので全然駄目でした、予備学生はメガネを掛けていても良いので安心しました。試験は簡単な歯車の歯数の計算でした。
只心配なのは高工と高専との違いでした、高専より一年授業時間が少ないのでした、然し
陸軍の研究所に居たのが良かったのか合格しました。千葉県館山市の洲崎航空隊に入隊したのは昭和19年10月です。従兄弟と姉が送ってくれました。之が運命の別れ道ですが、
現在の私が居るので、何ともいえません。
後は「海軍」と言う題で「模型屋一代記」とは別に纏めますが終戦まで見た長門と飛行機を思い出して書きます。
館山では九七大艇が海に浮んでいました。州ノ空(洲崎航空隊)は訓練航空隊で基礎訓練が主体です、基礎訓練が終り、十二月中旬運搬船に乗って対岸の横須賀に向いました、横空(横須賀航空隊)の隣の田浦空(田浦航空隊)に入ります、主に航空魚雷の整備訓練と海軍士官になる為の勉強です。
カッター訓練がありモヤの中を横須賀軍港に向かいました教官の居ないのを確認して皆がタバコを飲み始めました、目の前に黒い大きな物が見えた、顔を上げたら金色の菊の紋章がきらりと見えたウワ-「長門」だ本当に鋼鉄の塊です。終戦になり沖に出た時ウオーターラインそっくりで思い出します。
隣が横空なので道ひとつ向こうに二式大艇が置いて有りました、艇体の高さが高いので大きく見えました。新橋からゆりかもめに乗ると右側に見えます。今はジャンボ機が有りますが其の頃は世界でも大きさ性能共一級品でした。夜烏とか言っている黒いエンジンが上に付いている小さい飛行艇も有りました。
魚雷の整備は横空と一緒です。零戦は毎日飛んでいますが空襲警報が鳴ると降りて退避壕に入ります。全ての飛行機は防空に出動はしません。本土決戦に温存していました。
6月になり横空に行きたいと希望して隣の横空の大きなトンネル壕が生活拠点になりました。朝の海軍体操の指導、当直将校の軍艦旗掲揚の衛兵指揮、外出員の点検、訓示、外出員のランチによる迎え。夜の点検以外は割合自由でした。時々飛行場を見に行きます、
アレ”連山が来ている、大きいが太くないスマートな胴体。排気タービン付きエンジンだがオレンジイエローの塗装で三沢に行くとか。
アレ”零戦より大きいな烈風だ、零戦を一回り大きくしただけみたいだ。上反角は二段で脚の付け根から付いているのが良く判る。
アレ“景雲だ大きいオレンジイエローの機体が独特の排気音でパワーを上げるとノーズギヤーがちぢんで前が下がる,胴体中央部に2台のエンジンがありアメリカのP36エアーコブラを大きくしたような機体でした。延長軸を跨いで操縦席があり両脇に偵察員と機関士が座ると聞いていました。6枚ペラの二重反転式と聞いていたが普通の6枚ペラでした。 
アレ“あれは何だ昭和20年7月6日、オレンジイエローの小さい機体に銀色の耐熱服,今の宇宙服を着たような二人の作業員が働いている。秋水のエンジンテストをしていたのだ、ワイヤーをV字形に機体を動かないように固定してあり噴出口からブルーの排気が見える5メートル程の所で見ていたので排気の低周波でお腹が振動(ぶるぶる)した。危険な物と思わなかったので手を後ろに組んでゆっくり見学した、このテストを見ていた人は誰も居なかった。私は普通の人が見られない秋水を見ることが出来たので本当に幸せでした。
然し翌日7月7日16時55分テスト飛行が行われました。この時少し遅れて飛行場に出た瞬間、私の頭上10メートル程の所を燃料を霧のように出して風きり音を出して飛んで行った海に入れ!!!ア“旋廻した駄目だ、ちいさい建物に接触、爆発した、この日は大勢の人が見学に来ていた一種軍装を着た人も大勢いた。あのまま海に入れば機体も犬塚大尉も無事で居た可能性が多いと思った。翌日飛行艇や水上機を揚げる場所の前の大きな格納庫で犬塚大尉の告別式が行はれた。私は最後左旋回で接触爆発したと覚えていたが,記録では右旋回となっている。やはり記憶が消えかかっているのか?
「模型屋一代記」 前編  「海軍」   (Ⅸ)
「一式陸攻」に乗る。  航空機雷の投下訓練がありますよ,誰かが知らせてくれた。オ“山本元帥が乗られた機に乗れるとは、大急ぎで飛行服を着る。もう準備が出来て私を待っている中に入ると“すみません”後部の座席に御願いします、離陸したら前に来てください、え?ちよっと考えたが飛行機は全て離陸する時は前が上がる後ろが重たい方が好いのだ、後ろの座席は下が丸見え機銃は無い、地面が走り浮ぶ、直ぐ前の下が見える所に行く、1,75メートルの身長でも立っていられる。下を見ると道路が見える、あれ、あれ、あれ何と横須賀の山はトンネルだらけである(戦後マレーシアでゴムの木が沢山植えてある山を見下ろした時も面白かった)一回りして海の上に出る航空機雷を投下する濃緑色の水面にライトブルーのパラシュートが開き綺麗だ、一瞬みとれる、短い時間だが約60年前の事でも未だ良く覚えている、絹のパラシュートの切れ端を今も持っている。
或る日横空の飛行機で発進出来る機体が全機飛行場に並んだエンジンの音が轟々と凄い。精悍な銀河、流星、月光、ごつい天山、スマートな彩雲、遠くは見えないが良くもこんなに隠していたとビックリしました。之が本土決戦の温存機でした。或る日軽いエンジンの音がする、上を向くと双発の東海がゆっくり飛んでいた。横空は小さな山の防空壕が多数あり其の中に桜花の一型と二型がゴロゴロしていた。コクピットは狭く太った人は入れない様です。終戦の時二型は持って帰りたかった、エンジンが何かに利用されそうでした。
前編を終ります。      
お疲れ様でした ご愛読有難う御座いました
 何かご感想が御座いましたら、また間違いなど御座いましたらメール頂ければ幸いです
2004/1/21         栗山 繁