はじめに…の前に
この記事はこの動画の内容をぶち込んだ物です。
気が向いたらこっち(クソ見にくい)も観てくれたら幸いです。
また、この記事はイロニアート氏のこの記事に対し基本的には肯定的に論述します。
未読の人は是非読んでおいてほしいです。
はじめに
まず、「けものフレンズ2 永遠性の否定ブログの誤りについて」
内で赤の大文字でやたらイロニアート氏を擁護したり動画の内容にケチつけたりしていた鬱陶しい輩がいたと思う。
コメントでは「イロニアート本人かな?」「イロニアートだろ」などと推測されていたが、そうではないと断言する。
イロニアート氏はあんなクソみたいなコメントする人じゃない。多分。
では誰か?それは私だ。
3月14日の深夜、イロニアート氏のツイートからこの動画の存在を知り、動画冒頭を見て自分の事でもないのに勝手に憤怒に駆られた。
そして言うこと全てにケチをつけたくなって、顔もコメントも真っ赤にして非常に感情的なコメントを多数投稿した。
多分Twitterのアカウントを持っていればそっちでも暴言を吐きまくっていただろう。
動画後半でほとんど赤大文字がいなくなっているのは、私が書き込んでる途中で正気に戻ったからである。
「こちらから一方的に意見を述べ立てるのは卑怯ではないか…?」そう思ってそこからはほとんどコメントもせずに大人しく最後まで観た。
件の動画を観て、私のコメントが目に入り不快に思った方も非常に多くいると思う。
この場をお借りして深くお詫び申し上げます。
これってどんな内容なの?
これを書くために件の動画とブログを見直した。初めてあのブログを読んだ時はその内容を妄信したが、確かに動画を観てからだと所々「ん?」と思う場所がある。
『「けものフレンズ」それは、いのち。』という小見出しは大げさな気もするし、
ここも、今になってみてみるとちょっと暴論じゃないかと思う。
確かにそうなのだが、動画の方はそれよりも多くのおかしな点が含まれている。ここではそこを中心に述べていく。
「どっちもどっちのDD論」は本当か?
端的に言うと本当ではない。
本題は「毎回パークやフレンズの繋がりやファンの心をぶっ壊すことから読み取れるテーマは何か?」ということである。作品の優劣は関係ない。
動画冒頭では、
がイロニアート氏の主張であると解説していた。
これらは全くの誤りである。
確かにブログ前半では1期でパークが崩壊していたことでショックを受けたアプリ版のファンのことを描写している。
だがこれは2期でショックを受けた1期ファンと同じことが起きていると伝えるためのもので、1期の否定は寸分もしていない。
そもそもイロニアート氏の目的は「けものフレンズというコンテンツ全体で描写されるテーマとは何かをつたえること」であると思われ、1期ショックの解説はその一要素に過ぎない。
ブログの題名からも分かる通り、「2期も『けものフレンズ』という大きなコンテンツのテーマには則ってるんだよ」と言おうとしているのだ。
別に作品そのものが優れているとか劣っているとかそういう話はしてない。
ではなぜ動画は1期を貶めようとしていると思ったのか?
それは、「2期の擁護派は1期を貶めることで相対的に2期の評価を上げようとしている奴ばかりである」という思い込みによるものなのではないかと思う。
確かにそんな輩はいる。例えば2期のPPP回での「観客がペラペラじゃねえか」という批判に対して、「1期は観客たちどころかメインキャラまでペラペラでしたがねw」みたいな感じで反論していた2期ファンがいた。
こういうのが「どっちもどっちのDD論」である。認められない。
しかしイロニアート氏はそういう主張はしていない。それだけの話である。
「たつき版アニメは外伝」なんて言ってたか?
動画を観ているとイロニアート氏が
「アプリ版こそが原点、たつき版は外伝」
と主張しているとでかい文字で出てきたもんだからびっくりした。
確かにブログではアプリ版を「けものフレンズの”真の原点”である」と説明した。
そして私は「たつき版アニメは外伝」という記述を探した。血眼になって探した。画面に穴が開くほど探した。そんなものはなかった。
恐らくアプリ版の説明からそう考えていると推測したのだろうが、内容の批判にそのような拡大解釈を用いるのはおかしいと思う。
なのでその後の「たつき版アニメは外伝」に対する反論は水素原子一個ほどの重さもないただの時間の無駄である。
というか「アプリこそが原点」というのも時系列的には1期の一つ前段階に当たるのであるから、作品のテーマを語るうえでアニメ版の原点と扱って問題はない。
「本来正当性の優劣などつけられるものではないね」
これは正しい。この動画のこの部分につけるのにふさわしくないだけだ。
「こいつすげえ・・ とんでもないヤバイのが出た!!」というブーメラン
前項までで動画の約1分30秒である。半分も行ってない。しかしここからがこの動画のヤバい部分の本領である。
「えーひての主張 「アプリ版ラスボスは永遠を求めたが、ミライさんたちはそれを打倒した。ゆえに、いつまでも同じものに執着してはいけない。たつき版けものフレンズに執着するのはセルリアンに屈したこと」」このようにブログの主張を動画は解説する。」
…………
は?
これは動画で連呼されたセリフであり、私の頭の中で動画に対して連呼されたセリフである。
ここでミライさんのセリフが大写しになる
「あなたがやろうとしている失われた輝きの再生は、確かにカコさんが心のどこかで願っていたことかもしれません……」
「でも、皆から輝きを奪ってまで叶えたいとは絶対に思っていないはずです。」
これに対し、
「永遠性を求めること自体は積極的に否定していないよ」「輝きの再生を求めること自体には理解を示しているよ」
と動画は語る。
確かに字面をなぞればそうである。しかし、反論としては寸分も機能しない。
動画ではこれを「えーひてブログの前提の瓦解」だと語っているが、それは違う。
このブログで提示されるテーマは「永遠性の否定」であって「永遠性の希求の否定」ではない。むしろセルリアンの希求する永遠性は「理想的な世界である」と認めているのだ。
「とても理想的な世界である。しかし、アプリ版プレイヤーたちはそれを拒んだ。なぜならそこには、「パークが開園し、セーバルと一緒に生きる」未来が無いから。」
「これから続いていく無限の可能性を秘めた未来が存在しないから。」
ここに「永遠性の否定」の真意がある。
「永遠」は理想と認めつつも、それだとその先の「未来」を否定することになってしまう。
「未来の希求」、それが「永遠性の否定」なのではなかろうか。
つまり「えーひてブログの前提の瓦解」と主張している要素は主張を瓦解させるにあたらない全く的外れなものである。
というかそもそも、相手の主張に一定の理解を示しつつ、その後に反論するという理論展開は、論説文などでの常套の手段である。
より強く自分の主張をぶつける手段である。
ミライさんのセリフもこれに当てはめれば、前半は後半のための布石に過ぎないと考えられ、そこを根拠に反論するのはこれも的外れである。
さて次、
セルリアン(永遠性)をアプリストーリーで滅ぼしたことから、永遠性の否定がけものフレンズのコンセプトテーマであるとブログは語った。そう動画は主張し、
「は?RPGでよくあるラスボス設定だよね」
と一蹴した。
こちらサイドから言っても「は?」である。
私はRPGなんて「電波人間のRPG」とか「Undertale」くらいしかやったことがないので詳しいことは知らないが、滅ぼされるラスボスが象徴するものは、作品のテーマで否定されるものの象徴となっているという解釈で何がおかしいのか?
全部がそうだとは言わないが、そう解釈することが非とは考えない。
次に「1期に執着するのはセルリアンとどう違うのか」というブログの意見を紹介した。
冒頭でもいった通り、ブログのこの部分は私が最も疑問に思った部分である。
まあ確かにわからんでもないけど、そこまで言わなくたっていいじゃないの!!と思った。
さてここで動画はどう反論してくれるのか?もう少し論理的に反論してくれれば、この部分には共感が持てたはずだ。
しかし動画で示されたこれに対する反論はこうだ。
「は?は?は?は?は?は?は?」
「言っておくよ。架空と現実の区別つけてください。架空と現実の区別つけてください。」
これで私はまた「は?」と思った。この動画に対する反感が、決定的になった。
緊急地震速報みたいなリズムに乗せて「は?」を連呼し、漫画のコマを背景にのっけて、よくわからないことを二度繰り返した。これはもはや何が何だかわからない。
「は?」の連呼がこの動画で何度か見られるが、そればっかりで何も主張してない。
これが「は?」と思ったから「は?」と言ったよ!というだけの動画であれば認められただろうが、これは「けものフレンズ2 永遠性の否定ブログの誤りについて」である。
誤りを指摘してほしかった。イロニアート氏のブログを読んで感じた私の違和感を、解消させてほしかった。
ここまではまだ単なるちょっとムカつく反論動画だと思っていたのでここには本当に失望した。
次。
ブログで動物の死亡記事を並べ、「永遠性の否定」の説得力を高めようとしていることに言及した。
これに対する反論として、
「有名人の死亡記事を並べても同じ理論展開ができる」
「これは必然性がなく、本質も持たない」
「人が死ぬ作品のコンセプトテーマは全部”永遠性の否定”となり得る」
「それを根拠に繰り返しの視聴をやめろと言われると何言ってんだこいつと思う」
「滅茶苦茶な論の飛躍が積み重ねられており
まともな人間なら絶対に騙されることはない」
と動画側は述べた。
「は?」である。
「動物の命はヒトのそれとは比べ物にならないほど短いことがほとんどだ。昨日まで生きていた存在が、今日は冷たくなって動かなくなっている。そんな事が毎日のように繰り返されている。」
「命あるものはいつか死ぬ」
「しかし、「けものフレンズ」はその作品全体を使って”プレイヤーや視聴者”に問いかけてくる。動物と関わる上で避けては通れない問題を突きつけてくる。
「失うことを含めて愛せるか」と。」
こっちはブログからの引用である。
人間とは違う存在である動物を愛する。
それは人間よりも寿命がはるかに短い(ことが多い)。
我々は幾度となくその死を見る。
その度に哀しみ、泣き、楽しかった日々を思い出す。
その中で永遠にいたいと希求する。
しかしそれは認められない。それでは無限に続く未来がない。
これからの新たな出会いや新たな生活がない。
「永遠性の否定」である。そして「未来の希求」である。
確かにこれは有名人の死亡記事を並べても同じ理論展開ができる。
人間も動物も、命があるものであるという本質は同じだからである。
しかし単にキャラクターが死亡する展開があるだけの作品に同じことは言えない。
「けものフレンズ」では、本来この世の摂理である「諸行無常」を覆そうとする存在、
敵の存在として、「セルリアン」が在る。
けものフレンズは、セルリアンを滅ぼそうとすることや、作品が変わるとほとんど全キャラクターが世代交代することなど、「永遠性の否定」を大きく押し出したコンテンツになっている。
先述したが、「諸行無常」(=「永遠性の否定」)はこの世の摂理である。
その性質上、「創作物の99.9999999…%」にこじつけのような形でもそれがテーマだと当てはまってしまう。
当たり前のことだ。例えば人がものを食べるシーンがあるすべての創作物のテーマが「食べ物の大切さ」にむりやりこじつけられる(下のように)
食べ物を食べている
↓
これを食べていないとキャラクターは生きていけない
↓
「食べ物は大事」がテーマだ!
よって「食べ物の大切さ」をテーマとした物語は存在できないのか?そんなことはないはずだ。
けものフレンズでは「当たり前の摂理」としての永遠性の否定をクローズアップしたに過ぎず、動画側の理論は成り立たない。
また、
「同じ創作物を何度も鑑賞するのは(中略)コンセプトに反している。」
と言えてしまうというが、ブログ内では一度も「見るな」とは言っていない。
「2期を認めずに1期だけを繰り返し見るのは、セルリアン(永遠性)に屈するということに等しい」と言っているのであり、これは「見ること」を否定しているのではない。
(私はブログのこの意見には賛成しないが)
「どうせ洗脳されるならみんみがいい」
(この小見出しは、動画の最後に提示されるものであり、私がほぼ唯一この動画で共感した文である。)
この動画では最期、ブログの「誰も信じない破綻した理論」を如何にして人々に信じ込ませたか、その手口が紹介された。
ここは正直この動画で最高に意味不明な場所であり、
「これはいちゃもんすぎ、前半はまだ論理的だったのになぜ…」と思った。
このウルトラこじつけタイムだが、私はここにまたいちゃもんをつけていこうと思う。
どうやって我々はイロニアート氏に洗脳されたのか?それは
「スピリチュアルブログ手法に皆引っかかった」
から!
………らしい。
動画側はここから一分程度かけてブログが我々を洗脳した手法について語る。要約すると、
「画像をたくさん用いて読者の集中力を削いで破綻した理論を隠している」
「やたら感傷的な小見出しなどが時々色つきで出てくる」
「議論そのものより印象論にもっていこうとしている」
といった感じ。「スピリチュアル/自己啓発系ブログ」のようであるらしい。
お前が言うな。
この動画ではまず初っ端からアニメ2期を「けもエネ」と呼称している。
「けもエネ」とは「けものエネミーズ」(エネミー=敵)の略であり、海外発祥のけものフレンズ2に対するあだ名のようなものである。
こう呼ぶことによってブログを、そしてイロニアート氏を、そしてそれに共鳴した人を「エネミーズ(敵)に味方する狂人」というように印象付けた。
強い言葉でブログを批判し、「狂人に立ち向かうヒーロー」のように自身を演出した。
漫画のコマなど寸分の関係性もない画像を煽りのように使用し、対決構図を作り出した。
見ている者はそれで「イロニアートを潰そう!」と一致団結していく。
コメント欄はまさにそのような状態である。
そしてこの動画最大の特徴であり、最大の汚点である、「は?」の連呼。これさえやっておけば観る者は喜ぶ。
何の反論にもなっていない事をまるで真理であるかのように印象付けられる。
大量の(嫌味な言い方をすれば"97%の")人が「こんな破綻した理論」に「騙されてしまった」のはこれらが原因だ。
「議論そのものより印象論にもっていこうとしている」のは他ならぬ動画の方だったのである!! まさに外道!!!!!!
いったん落ち着く。
きっとこれを読んで「そんな意図はない!こじつけて適当語るな!」と思った人も多いだろう。
その通りだ。下線を引いた部分は私が適当にこじつけて適当なことを言った。ごめんね!
あの動画の終盤を見たときの私の気分を、読んだあなたにも体験してもらいたかったのだ。
頭の中が???になり、ただ相手を貶めたいだけなのだろうなぁという感想を抱くのだ。
動画前半の画像を多用したりする手法を否定するつもりはない。
「は?」の連呼もコミカルな印象をつけるにはいい手法だと思う。
もしも動画最後にあんなものがくっついていなければ、きっと私も同じような手法でこれを作ったはずだ。
画像を多用し、もっとコミカルに理論展開をして、もっと短くまとめて、私の主張がよりわかりやすくなるようにしたはずだ。
しかし私はそうしなかった。それがあの動画に対する最大の反論になると思ったからだ。私のできる限り淡々と、わかりやすさを二の次にして長々と語った。
その結果どうなっただろうか?
文字数は常軌を逸して増大し(この段階で6800文字以上である)、見るだけで読む気が失せるような文章が完成した。
ここまでまともにこれを読んだ人がどれだけいるか疑問である。
イロニアート氏のブログ側は、こんな長々としたつまらない文章になって誰も読んでくれないという状況にならないように、読んでいて楽しく感じられるように工夫をした。
それを洗脳するのが目的だと否定するのなら、動画の方は私のように黒バックに白の文字だけで構成するべきであった。
―――と思って私がニコニコ動画にアップした動画だが、案の定荒れた。
ただクソ読みにくいだけを動画にあれだけの人が見てくれたのだ。
ちょっとだけ光栄に思う。
私的には意図があってクソ読みにくくしたのだが、読み手からするとただ迷惑なだけだったようだ。猛省。
というわけでこっちでは、(動画版よりは)読みやすくなったかなぁと思う。
こんなクソみたいな文をここまで読んでくれてありがとうございました。