当時の資料を見ると、ナチス・ヒトラーは右翼とされていたようだ。
1924年12月ドイツ国会選挙
この選挙では極右と極左が減少し、ドイツ共産党や国家社会主義自由運動(ミュンヘン一揆の失敗で禁止されていたナチ党の偽装政党国家社会主義自由党とナチ党の友党ドイツ民族自由党の合同政党)は議席を減らした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/1924%E5%B9%B412%E6%9C%88%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E5%9B%BD%E4%BC%9A%E9%81%B8%E6%8C%99
「秘」印
調第四六号
昭和十年十一月 ※1935年
各国に於ける右翼運動
外務省調査部
追加 独逸
(昭和十年十月二十八日付 在独井上臨時代理大使報告)
一九三三年一月三十日以来当国は「ナチス」政府の下独裁下にありて「ナチス」党以外如何なる政党も政治運動も全然存立し得ざる実情にあり右「ナチス」運動は共産主義乃至自由主義に対抗して擡頭し来れる従来の沿革に鑑みる時は之を以て一の右翼的運動なりと観察することを得べし
一、運動の出現(沿革)
(イ)運動出現の時機及当時の客観的情勢
世界大戦直後外よりは「ヴェルサイユ」条約を押付けられ内には社会民主主義に率ゐらるる左翼革命成立し将に国民意識地に堕ちんとしたる時其の反動として独乙の再興を目的とする「ナチス」運動発生せり。『「ナチス」運動の発生地は「ミュンヘン」に非ずして「ヴェルサイユ」なり』との「ナチス」批評家の言は蓋し真を穿ちたるものなるべし
(ロ)運動出現の政治的、経済的、社会的、文化的諸原因
1、「ヴェルサイユ」条約により蒙りたる国民的屈辱
2、共産党、社会民主党等の左翼思想、運動の勃興
3、大戦中に於ける猶太人の非国民的行動及猶太人が言論界、弁護士、医師界等に余りに大なる勢力を張りたること
4、自由民主主義、議会主義が党派主義に堕し無力となり所謂行詰りの状態となれること
5、大戦並其の後の「インフレーション」に依る中産階級の崩壊
6、金融資本其の他百貨店の如き大資本(特に猶太系)に対する反感
7、独乙盛んなりし過去に対する憧憬等
(ト)主義及綱領
簡単に要約すれば左の如し
(1)独乙民族は優越なりとの独断的主張の下に民族の血の純潔を保持する要ありとし「ユダヤ」人を排斥す
(2)独乙民族に属する国民を包含する大独乙帝国の建設及其の目的の為の富国強兵策惹て軍備の拡張を主張す
(3)「マルクシズム」の階級国家観及自由主義的個人主義に対し民族至上主義をとり民族の非階級的、非利己的大同団結を主張す。例へば資本家も労働者も各々其の分野に於て非利己的に民族の為に奉任すべきを要求す
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1281400/200
大阪朝日新聞 1924.6.17-1924.6.20(大正13)独逸国粋党の現状 (上・中・下)伯林にて 黒田礼二極右党は今日の独逸でどれ丈けの勢力を持って居るか?これは大変難かしい問題であるが、其処で便宜上「独逸ナチョナレ」党以後の政党を先ず此処では極右党とする。・・・・・・ファシストの団体(即ちフェルキッシュ)にして連邦議会に議席を有する立派な政党もある。又地方議会で牛耳を執って居る地方政党も少くない。例えば一、議会のグレーフェ、ヘンニング及びヴツレ等のドイツェ・フェルキッシェ・フライハイト・パルタイ二、伯林のグロース、ドイツェ、アルバイター、パルタイ三、フランクフルトのドイツェ・パルタイ四、ライプチヒのフェルキッシュソチアーレ・パルタイ五、クンツェの指揮するドイツェソチアーレ、パルタイ六、ヒットラア派のナチョナル・ソチアリスチッシェ・アルバイタア・パルタイ
(参考)大阪朝日新聞 1925.1.1-1925.1.13(大正14)今年の欧米法学博士 米田実八、独逸の回復如何・・・就中顕著な事件は所謂帝政派の中心であるルーデンドルフ将軍等と、巴威王家との関係の悪化である。独逸にはホーヘンツォルレン家を復活せんとする帝政派もあれば、或はホーヘンツォルレン家は既に戦争に於て責任を引くべきものである、寧ろ巴威等の王家より皇帝を出すべきものであると云うように考える一派もあって、帝政派には種々の分子があり一致して居ない。所が昨年来ルーデンドルフ元帥と巴威王家ルブレヒト親王等の衝突によって両派の関係大いに悪化を来した、之が帝政運動に難関を加えたことは、言う迄もないがそれに昨年十二月七日行われた独逸総選挙の結果が、所謂社会主義系過激派即ち共産党の数を減少せしめたこと及び、帝政派中の急進分子たる所謂極右国粋党の議員を激減せしめたことも同派の打撃となった。
1924年12月ドイツ国会選挙
この選挙では極右と極左が減少し、ドイツ共産党や国家社会主義自由運動(ミュンヘン一揆の失敗で禁止されていたナチ党の偽装政党国家社会主義自由党とナチ党の友党ドイツ民族自由党の合同政党)は議席を減らした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/1924%E5%B9%B412%E6%9C%88%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E5%9B%BD%E4%BC%9A%E9%81%B8%E6%8C%99
大阪朝日新聞 1925.4.22-1925.4.28(大正14)独逸政界の鳥瞰伯林 黒田礼二扨て是等の諸政党は一体如何なる要素の組織結合であるかを知る為め煩を厭わず其の内容の大体を一々列記して見よう。1 国民社会自由党寧ろ国粋党とか伊太利流にファシスチと言った方が分り宜いかも知れぬ。政党名を正確に言えば、「Grossdeutsche Nationalsozialistische Freihcit Bewegung」である。バワリヤ及び東プロシヤ等の退職士官や国粋的なプチブルジョア階級から成り、一揆と暴動に依り執権制を布こうと言うのである。賠償問題には全然反対で第一ヴェルサイユ平和条約を破棄すべしと絶叫する。従って排議会制主義である。著しい特色として彼等は純粋独逸人の血統を主んじ(純血アリア人主義)猶太人を親の仇敵の様に考える。其の猶太人排斥の記号は卍(即ちハーケンクロイツ)であって彼等は此の印を旧独逸の国旗(黒赤白の三色旗)の上に括着けて盛んに示威運動をやる。此の党派の極端なものは一時禁止せられて居た。今度の選挙では怖ろしく其の勢力を失墜し言うに足らぬ小党となった。党は三つか四つかに分裂して居るが其の首領とも言うべきはグレーフェ・ヴツレ・レーヴェンスロオ等の反動的ファナチスト連と墺多利生れの政治ゴロたるヒットラア及び将軍ルーデンドルフ等である。其の機関新聞は伯林の「ドイチェ・ターゲブラット」とミュンヘンの「グロースドイチェ・ワルテ」とである。1 反動連合(Reaktio-nelle Koalition)これはチルピッツなどの主唱する処で、国粋党をも参加させ、独逸国権党が牛耳を執って独逸人民党、土地同盟、経済党、バワリア人民党を糾合するものである。すると其の投票数は次の如くなる。国粋党(国民社会自由党)…一四独逸国権党…一〇三独逸人民党…五一土地同盟…八経済党及バワリア農民党…一七バワリア人民党…一九計…二一二
大阪朝日新聞 1932.1.19-1932.1.31(昭和7)世界経済を賭けるローザンヌ会議戦債と賠償問題の再吟味 (一)・(七)・(十一―完)この形勢を眺めてドイツ政府及びライヒス・バンク当局はその対策のため日夜奔走した、けれども遂に効なく七月にはドイツ三大D銀行の一つたるダナート銀行が破綻を暴露した。十二月にはヒンデンブルグ大統領が再度の緊急令に署名し国家権力により各種物価及び俸給、家賃その他一般債務に対して強制的引下げを要求し一種の経済国家管理によりこの危機を乗り切らんとしている、またヒットラー一派の国粋社会党の擡頭は右翼革命切迫の危機を思わしめる。
国民新聞 1932.3.8-1932.3.11(昭和7)独逸は漸く内乱状態に入る (1〜4)欧羅巴は何処へ行く【一月二十八日伯林発】 五来素川
・・・今日独逸は二十七の政党に分裂して居る。それは中央党を中心として左右両翼に分れて居る。其主なるものを示すと下の如くである・・・右翼の人民党と云うのは、帝政時代の保守党で、昔の官吏や大地主の階級である。之が革命の為めカモフラージして人民党と云った。国民党は戦前の国民自由党で、ユダヤ人ならざる大資本家の党派で、フーゲンベルグを其首領として居る。彼は大新聞、フーファ大映画会社の社長である。極左翼は共産党で、極右翼は国民社会党即ちナチスである。共産党はマルクス主義の正直なる信者で、ハイル・モスコーの人である。之に反してナチスはマルクス主義反対で、露国を悪み、階級闘争に反対し暴力に訴えても国民の一致を計らんと企図して居る。
国民新聞 1932.6.1-1932.6.3(昭和7)史上の大事件 ヒットラーの勝利 (一〜三)欧羅巴は何処へ行く【四月二十七日伯林発 五来素川】(一)独逸は六週間に三回の選挙をやった。そして此三回の選挙に於て独逸の政界は全く形勢の逆転を招来した。即ち一九一八年の革命以来、独逸は全く左翼のものであったのが、此三回戦を界として、右翼のものとなったのである。そしてそれは何人の力に依ったかと云えば、一介の労働者ヒットラーの為めである。―彼は実に単に独逸を共産派革命の危険から救った許りでなく、実に世界をマルクス主義の手から奪い返したのである。是が歴史上の大事件でなくて何であろう。
時事新報 1932.7.5-1932.7.9(昭和7)ヒットラア運動は幸福を齎すか文明批評加田哲二そこで人はいうのである。ドイツの未来はヒットラアに属するとナチスの御大ヒットラア其人もミュンヒェンの「鳶色の家」の中で最早王様にでもなったような気であの短いチャプリン髭をなでながらニヤニヤしているかも知れぬ。そして、没落資本主義第三期の世相は、世界の多くの国に廉価版のヒットラアを発生せしめた。それは一に時勢ではあるが、ヒットラアの眼前の成功を想望して「右へ」の号令とともに、右翼国粋派へ転向したものがないとは、誰が保証し得よう。ヒットラア運動は、多く中間階級に呼びかけた。工場労働者は社会民主党に、或いは、共産党に、また意識の極く低いものにあっても、キリスト教的組合などに組織されている。しかるに、中間階級としての都市の小ブルジョア層並に農村中産階級はもっとも組織を欠いている社会層である。労働者階級における社会主義的教育の効果は急速に打破すべくもない。故に、国粋党たるナチスは最も組織の薄弱なところを狙った。そしてこの狙いは的外れではなかった。
大阪朝日新聞 1933.1.29(昭和8)パーペン前首相組閣の命を承く国会には広汎なる基礎を【ベルリン特電二十七日発】二十七日午後の国会長老会議は会議を三十一日に開くことを決議したが最近倒閣運動が猛烈に行われているので内閣不信任案がこの議会で通過することは殆ど既定の事実である倒閣運動の急先鋒は国権党であるが、同党はさきに議会を約一年間休会し経済関係の重要諸省をフーゲンベルグ氏の一手に統一するという案を提げてシュライヘル内閣割込を策したが容れられなかったので俄然態度をかえ前首相フォン・パーペン氏並にナチの一派を誘っていわゆるハルツブルグ連合を土台とする極右翼内閣の樹立を計画し露骨なる倒閣運動を起すに至ったものである
報知新聞 1933.5.12(昭和8)独裁政治の流行三議会政治が幾つもの欠点を有するのは疑いないけれども、しかし独裁政治そのものに対して、われ等は多くを期し得ないのみならず、それは戦後の非常時に生れた熱病に過ぎないものだとさえ見るものである。その第一の欠点は、右翼左翼を通ずる独裁主義の中心思想が、一階級乃至は他人種に対する憎悪と偏見から生れていることだ。左翼ならばブルジョアに対し、ナチスのような右翼ならばユダヤ人に対し、また国家主義的な小国ならば隣国の異人種に対し、いずれも憎悪を出発点としている。平時ならば国民もこうした感情論には耳を傾けないけれども、経済的に行詰って乱を思うの気持に満ちている時に、この種の議論は容易に大衆の受け入るところとなるのである。
神戸新聞 1933.11.22-1933.12.9(昭和8)ヒトラーとナチス運動日本大学教授 百々巳之助一九三二年七月の総選挙に於ては三百三十名の代議士を獲得し、二ダース以上の小党に分立して居る独逸の政党間に於ては劃期的な頭枢を揃えたのであった。これまで十数年間は、社会民主党が主として天下を握って居たのであるがこの極右ナチスの驚くべき進出に対しては、独逸は勿論、諸外国でも非常な注目を払った。その後現在副総理であるパーペンが総理大臣であった当時、即ち同年の八月十三日に、大統領から入閣を勧められたが、ヒットラーは『一切か、然らずんば無』をスローガンとしていたのでこれを拒絶した。愈々九月に議会が召集され直に解散となるや当時議長であったヒットラー党のゲーリングが議会の解散命令否定と言う未曾有の怪事件を惹起したほどナチスは横暴な振舞をする事が出来た。然し乍らとも角議会が解散され十一月六日再び総選挙が行われた。この結果議員数は百九十五名に減じたが然もなおヒットラー党は第一党だった。本年一月、五十余日の短命であったシュライヒャー内閣の後をうけてヒットラーが単独内閣を組織するや、三月一日総選挙を行って絶対多数を獲得しヒットラーの独裁政治が始まった。先ず共産党を弾圧し社会民主党を議会からノックアウトすると解散を断行した。小さな政党は半分強制的に解消させ、従来兄弟分の関係にあった右翼国権党さえも同じ運命に陥った。現副首相フォン・パーペンの中央党まで息のねを止めて了うと共にこれ等諸政党の選挙母体たる院外諸政派や軍事団体までも解散乃至ナチスと合併させて了った。即ち社会民主党の選挙母体で五百万の会員を擁し、独逸労働組合の決定的勢力を有する総同盟や、カトリックの中央党の選挙母体であるキリスト教労働組合は勿論、自由主義三派(社会民主党、国家党、中央党)の院外政派たるライヒスバナーの大勢力も、ナチスは破竹の勢いでこれを征服して了った。また欧洲大戦の帰還兵から成る右翼国権党系のシュタールヘルム団(鉄兜団)まで、ナチス突撃隊に合併され、団長のゼルテは労働大臣として入閣し団は解消してしまったと云った有様で、遂に完全な一国一党の独裁政治が実現したのである。
時事新報 1934.1.20(昭和9)累卵の危機に立つ墺国ドルフス政権ファッショ関係の激争爆発欧洲列国重大視すナチスの脅威と財政の危機に当面し文字通り非常時に陥っていたオーストリアは前身これ胆力の固りと云われる倭小熱血漢首相ドルフス氏の半独裁的政治によって一時小康状態を呈していたが最近ドルフス首相をめぐる国内各党派各団体の対立争闘が激化した結果、ドルフス首相の地位危くオーストリアは今やファシズム・クーデターの危険に曝されるに至った、今回の危機の直接原因をなすものはムソリーニ首相の息がかりと云われるハイムウェール首領シュターヘンベルク公の下に副首領を勤め、現にドルフス半独裁政府の公安相兼副首相のフェイ氏と、前ドルフス内閣の副首相で現在は国家産業組合戦線の首領たるウインクラー氏の対立が爆発した結果で一両日前の如きさすが剛胆を謳われるドルフス首相もサジを投じ政権をほうり出し、そのためオーストリアは四時間ほど無政府状態に陥った事実があり、フェイ副首相がオーストリア・ナチスの首領連を逮捕し政権を電光石火的に回復し事なきを得た、斯くオーストリアはハイムウェール(ファシスト)やナチス運動など極右主義の勢力が圧倒的多数を占めているが、右翼団体相互間及び団体内部間の内部的抗争が激しいのでドルフス政権は辛うじてその命脈をつないでいるのである、このオーストリアの状勢に対し連盟及び欧洲各国は頗る寒心を懐き理事会に集りつつある英国のサイモン外相、仏国のボンクール外相、ルーマニアのナチュレスコ外相及びチェッコのベネシュ外相等は近く対オーストリア策につき重要協議を行うべく、英国外相サイモン氏の秘書グランドウィル氏は同外相の密命を帯びてウィーンに赴くことになっている
東京日日新聞 1934.3.6(昭和9)オランダに擡頭したファッショ運動怪傑・小型ムッソリーニの出現ベルリンにて本社特派員 大塚虎雄
国境地方の、風車の廻るオランダ農村の丘に立つと、平原の彼方にナチスの卍旗がなびき、褐色の突撃隊員が威勢よく行進するのが眺められるというから、オランダ青年の血をかき立てたことも事実であろう。そこで、この一、二年ファッショの旗をかつぐ右翼小政党が政治的野心家によって幾つも創立された。それらの中で、今日最も大きな存在となり、将来は右翼各派をリードしてオランダのムッソリーニとなるであろうと期待されているのが、実にこの小型ムッソリーニの尊称を奉られているムッセルト君である。
東京日日新聞 1936.6.25(昭和11)弾圧下の仏国国民戦線・・・「ソリダリテ・フランセーズ」及び「フランシスム」の両団体は、前者はドイツのナチスを後者はイタリーのファシストをそれぞれ模倣する純然たるファッショ標榜の結社で、共に「青シャツ」の制服を著用し、一九三二、三年頃から死んだ香水王コティーの一派によって創立されたものだが、その勢力は「火の十字」団には遥かに及ばない、また「愛国青年党」は一八八二年の創立である「愛国同盟」の青年部として一九二四年に分立したもので多分に、ファッショ的傾向を帯び、現に三十数万の党員を擁し即時動員可能の武装隊員の数も数千に上ると伝えられているこれらのいわゆるファッショ諸団体は議会における右翼勢力と呼応する反動的別働隊と目すべきもので、過般の総選挙戦においても直接候補者を立てはしなかったが、かれらの希望条件を容れた右翼諸候補を支援して民衆戦線を向うに廻して力戦したのであった、かれらの支持した右翼派議員は九十余名の当選者を出したに過ぎず、新議会に多数を制することが出来なかったので、今後かれら院外諸団体の街頭運動こそは右翼勢力にとって一層の重大さを増さねばならなかった運命におかれていたものであった、
神戸又新日報 1936.8.1(昭和11)何れが勝つも欧洲政情に重大変化陸軍当局・スペイン動乱の成り行きを重視すスペイン政府軍と叛乱軍との抗争は愈々近く決戦によって最後的運命を決する模様で革命軍勝つか政府軍勝つか世界注目の焦点となっているが、陸軍ではスペイン動乱の今後の見通しに関し大要次の如き観測を下し両軍何れが勝利を占むるもそのヨーロッパ政局に及ぼす影響は極めて深刻甚大なるものがあるとし成行きを重視しているスペイン動乱については、両軍の宣伝放送錯綜混乱しその真相を捕捉するに困難を感じている、従って政府軍勝勝つか革命軍勝つかその見通し全く困難であるがその何れが勝つとしても影響するところ極めて重大であって今後のヨーロッパの政情に決定的一契機を与えることとなるであろう即ち政府軍の勝利に帰せばこれを暗に支援しフランスを通じて補助宣伝に五億ルーブルの巨額を投じているコミンブルンの勢力は著しく増大し左翼人民戦線の現政府は極左的傾向を濃厚にする事は必然でありソ連邦並に人民戦線内閣を擁するフランスと東西相呼応しヨーロッパの天地に赤色勢力を頓に増大するに至るであろう、しかしてまた革命軍勝つにおいてはスペインの右傾濃化は勿論独のナチス伊のファッシストにも刺戟を及ぼしフランスの右翼勢力をも台頭させる結果ヨーロッパの天地には極端な右翼勢力謳歌の時代が現出されるに至るかも知れないこの度のスペイン内乱は単に同国内左右両勢力の抗争であるばかりでなくヨーロッパを繞る強国ソ連仏、白、西の左翼人民戦線派勝つか、伊、独、仏、白、西の右翼ファッショ台頭なるかの死物狂いの抗争であってその何れが勝つにせよヨーロッパの政情には重大な変化影響が招来されるであろう殊にイギリスがその支配的地位を占めているポルトガル、ヂブラルタルが直接間接の影響をうけることは明瞭であることはイギリス自身又両派の抗争に超然たり得ぬことを物語るものであり両派の勝敗如何は愈々重大性を持つものである、目下の所では革命軍に軍事的に若干の強味が看取されるが勝負は逆賭し難い
国民新聞 1936.9.15(昭和11)仏国内の右翼とナチスの連繋スペイン内乱を契機にして民族的敵対心を棄つ
東京日日新聞 1936.10.1-1936.10.4(昭和11)人民戦線か国民戦線か (1〜3)前本社ベルリン特派員 大塚虎雄最近のニュールンベルグにおけるナチス党大会に際しても、ヒットラー総統以下各巨頭総出演でソ連のボルシェヴィズムに対する挑戦を呼号したが、フランスに対しては辞を厚くして党大会に仏国政界の要人を招待したのであった。元首相ラヴァルは辞退したが、主として右翼系の政客連は進んで出席し、ナチス首脳部と親しく意見を交えている。 ・・・・・・フランス、スペインに人民戦線が生れると同時に、その人民戦線の言葉の魅力から我国のジャーナリズムによっていち早く採り上げられ、次で論壇や各文化団体の間に我国におけるその可能性如何が論議され、今日では小なりと雖も一つの政治運動にまで進展して来ているのである。加藤勘十、鈴木茂三郎氏らの合法左翼の人々が、全評系の労働組合を出発点として戦線の拡大に活躍している。・・・一方、国民戦線運動はどうか、右翼陣営には生産党、国民協会等をはじめ、ナチスの初期時代程度の小規模の愛国団体は無数に存在するが、いずれもお山の大将気取りで七花八裂の分散状態におかれている。
時事新報 1936.10.2-1936.10.3(昭和11)西班牙内乱の渦紋 (上・下)ジョンソン特派員
(上) 苦悶するフランス 必死の人民戦線 右派にもまた深い悩みフランコ将軍とモラ将軍の率いる南北の革命軍が独伊の尻押しで勝利を獲ることになれば、フランス国境は三方から右翼独裁国の包囲を受けなければならぬ、そればかりでない、独伊の手は国内の反動派団体にも働きかけているのであるからフランスの民主主義機構は内外から右翼の脅威を受けているのである、ブルム政府がスペイン政局の推移に神経質になり、国際紛擾の発生を極度に恐れているのもこのためだ、フランスがスペイン政府を助けたいという気持は全く無理からぬものがあるのであるフランスのこの苦しい立場は、右翼の反動派にとって絶好の時機かと云うとそうではない、右翼も苦しい立場にある、彼らは革命軍のシンパであるが革命軍を積極的に援助すればヒトラーらムソリーニと因縁を結ぶような羽目になる、フランス人はコンミュニズムとでも王党とも保守主義とも握手するのを厭わぬかも知れぬが、ただ一つドイツ人とだけは絶対に握手しない、いかに右翼的精神が共通でもドイツと聞いただけで虫酸が走るのである、ナチスなど真平だというのがフランス人の気持である、またイタリーに対しても元来虫が好かない奴だと云う気持を持っている、フランス右翼の立場はスペインに赤い政府が出来るのを見ているわけには行かぬがさりとて独伊と手を握って国民の怨嗟の府となりたくないと云うヂレンマにあるのだ
読売新聞 1936.10.10-1936.10.11(昭和11)税制改革案を観る (J・完)菊池慎三西施の顰みに倣う
ファッショ、ナチスの右翼であれ、ソヴェートの左翼であれ、独裁専制国権維持の為には国権の集中強化が絶対必要とせられるが、然らざる国に於ては努めて地方団体の活躍発達を図って生々発展の国民精神を助長せしめる。健全なる国家であればある丈け地方自治を尊重して各国体の自発的な行動発展を図らしめる。国費と地方費の割合、国税地方税の比率は各国財政統計が複雑である為、簡単に比較し得ないけれども、大体に於て興隆期に在る諸国は地方費地方税が国費国税に比して優越するのが一般的傾向である。
東京朝日新聞 1936.10.30-1936.11.1(昭和11)動揺するヨーロッパ(上・中・下)法学博士 米田実・・・今のような左右対立激化の正解には、本年春以来歩一歩進められて来た独伊の団結契盟を顧みねばならない同じく極右的なドイツとイタリーは決して利害相一致しているわけではなかった、それは昭和九年夏ナチスのオーストリー合併陰謀ドルフス首相殺害の時ムソリニ反対し墺伊国境に出兵したのでも解るであろう、しかし今春になると、イタリーはそのエチオピア征服上仏を牽制し欧の邪魔を排するため、ドイツのライン防備其他軍備策を利用するを便とし、ドイツもそのライン其他政策遂行上、伊のエチオピア活動を利用するを便とした、為に一二月位から度々会商、策を練ったのであるそしてそれが相応の効果を示せる上に、度々会商中自然親善と諒解を加えたので、その間双方接近の障害物「オーストリー」をば、本年七月墺独協商により「独立保障」の名の下に争点が一時的に延期せらるる便法が出来た、ここの独伊の結託が成ったのである、・・・・・・兎も角も中立を放棄し終ったと自ら信じ又標榜していたベルギーが俄然十月十四日青年皇帝レオポルド三世の口を通して「仏白同盟解消、中立還元」の意を宣明したのは、何事であろうか、これ実に前記独伊右翼連合の圧迫の前に、仏の武力劣下とすると共に、一朝有事の際ベルギーが同盟条約によって渦中に捲込まる危険を免れんとする苦しい新煩悶を物語るものではなかろうか
大阪朝日新聞 1936.11.19-1936.11.21(昭和11)緊迫せる独ソ関係 (1・2・3)・・・元来、チェッコ・スロヴァキヤにおける現在の重要問題は主として対ドイツの問題である。まず第一に国内のナチス問題がある。チェッコ・スロヴァキヤの最右党たる南ドイツ党はドイツ・ナチスの影響下にある。党首ヘンライン氏は六月上旬『自党はチェッコ共和国に対して忠誠を誓う』旨を声明したが、これは党内で非常な反対を見、危うく分裂の危機に立った。反対は、いうまでもなくドイツに合体せんとする一派から来るもので、彼らはこの態度によりチェッコの独立を希求せぬ意思を間接に表示した。ベネシュ大統領は『この問題はドイツとの話し合いでうまく解決出来る』といっているが、国内問題を何故ドイツとの談合によって解決せねばならぬか、頗る不思議だといえる。
大阪朝日新聞 1937.5.4-1937.5.11(昭和12)総選挙結果を斯く見る (1)政党政治機構の支持を国民は表示 長谷川如是閑イギリスのロイド・ヂョーヂは最近外地に遊んで帰国して以来よほど右翼的傾向をもって来たようだ、ドイツでヒットラーやノイラートに饗応され、かなり発作的な刺激を受けたと見えて爾来ディクテーターシップ礼賛の意見をしばしば吐いている
満州日日新聞 1937.5.14(昭和12)総選挙後の政局強力主義の前進物価問題の重大迫力
・・・しかし、どう贔屓目に判断しても、一般状況は決して政府に有利には展開していない、この点は政府を支持した右翼各派の人さえも、寧ろ政府の失敗だったとして、中には林首相の勇気の無いことを指摘している者もある、建川美次中将の如きは、ドイツのナチスや、イタリーのファッシストに似た新党の出現を望む意図から、政府支持派候補の選挙応援にも出かけたが、林首相は何故に新党結成の挙に出ないのだと明らかに林首相の引込思案に反対の口吻を洩らしている、だから折角解散を行いながら好機を逸し、解散も無意味になるし、何のための総選挙やら判らなくなるといっている。
現代政治の動向 朝日時局読本第二巻 ※昭和12年=1937年
この選挙でパーペン超然内閣は六五の与党を得たゞけで、右翼はナチスの一九六、国権党の五一票を中心に二六二で、社民中央党等の二二四、極左共産党は一〇〇票を得た。(p107)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1261435/62
「秘」印
外国宣伝情報 第五十六号 昭・一六、七、一五 情報局
△イヴニング・ポスト 七月八日
(紐育八日発ロイテル電)
前ジャパン・ニュース・ウィーク編輯者●●スピンクス●士は紐育ヘラルド・トリビュン紙上に日本に於けるナチス第五列の活動を詳細に亘り暴●せるが大要次の如し「日本に於けるナチス第五列の主要目的は日本に右翼革命を齎し全●主義国家となし南進論を助長せしめ以て日本をして米国と戦争せしめむとするにあり、現在三千名余の独逸人が凡ゆる方面に於て此の目的に向ひ活動しあり又其の中心勢力はオットー大使にして日本の外政は勿論内政方面より軍事方面に迄其の手を伸し日本を指導しあり。新聞、ラヂオ、映画方面に於ても英米側に有利となるが如きものは悉く之を抑へ独逸側の宣伝に狂奔しあり斯くの如くなれども未だナチス第五列は意の如く成功しあらず。
アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp
レファレンスコードA03024740500(2枚目)