※【ネタバレあり】この記事は映画『カメラを止めるな!』の内容に触れています!
私は、作り手のインタビューを読むのが好きだ。
インタビューを読み込むのは答え合わせのようで、作品の発表後に見ると新しい発見が多い。
映画『カメラを止めるな!』公式サイトより
もちろん、作品がヒットした後のインタビューは後付けで何とでも言えてしまうのだが、聞き手の力量によっては話し手の思わぬ言葉が引き出されていたりする。それを見つけるのが楽しい。
今回は、ヒットしただけでなく評価もされている私が好きなコンテンツ、映画『カメラを止めるな!』とアニメ1期『けものフレンズ』のプロデューサーやディレクターのインタビューを集めてみた。
そこから、ファンから評価され、ヒットしたコンテンツを作ったチームに共通する考え方はあるのか? ということを、みなさんと一緒に探っていきたい。
今回読んだのはこちら。全部目を通すにはまあまあ長いので、後でじっくりゆっくり読むのもいいと思う。私も抜粋しながら書いていきます。
otocoto.jp話し手:上田慎一郎 さん(『カメラを止めるな!』監督・脚本・編集・共同原作)
聞き手:長野辰次 さん(取材・文)三橋優美子 さん(撮影)
<他インタビュー>
fjmovie|『カメラを止めるな!』上田慎一郎監督インタビュー(fjmovie.com)
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www.animatetimes.com話し手:梶井斉 さん(株式会社KADOKAWA コミックス編集部編集長)
福原慶匡 さん(1期『けものフレンズ』アニメーションプロデューサー)
聞き手:佐藤ポン さん(取材・文)
<他インタビュー>
「プロデューサー・ディレクター」って何してる人?
まず原点から考えよう。そもそもプロデューサーやディレクターって何だ?
それを考えることで、仕事と責任の範囲を明確にしたい。
pro‧duc‧er
1 someone whose job is to control the preparation of a play, film, or broadcast, but who does not direct the actors
商業として作品を制作するプロジェクトが立ち上がるとき、必要になるのは人材・資金・時間などだ。当然、それらを調達・管理・調整する人も必要になる。
それらを行い、作品も含めたプロジェクト全体を広く見て統括するのがプロデューサー。作品の商業的な成功の責任を負う。
di‧rec‧tor
3 the person who gives instructions to the actors and other people working on a film or play
作品を作るときにその完成を把握し、スタッフに適切な指示を出す人が必要だ。企画・立案・脚本・演出などに関わる場合もあるが、基本は現場を管理して制作を進めるのがディレクター。監督とも呼ばれる。作品の質の高さの責任を負う。
注意すべきは、『FFXIV』プロデューサーとディレクターを兼任する吉田直樹さん(下記参照)のように、人や作品・業界によって仕事の範囲が変わることである。2次元にはどう見てもマネージャーの仕事を進んで行うプロデューサーもいる。
このインタビューがとてもおもしろかったです。おすすめ。
ただ、どの場合でも変わらないのは責任を負うということである。
でもドラマとかマンガとかではたいてい嫌味な役だし、プロデューサー・ディレクター(監督)ってほんとうに作品にかかわってるの? と思っている方もいるかもしれない。
両作品ではどのようにかかわっているのか、作品の要素に注目しながら見ていきたいと思う。
「役者」「脚本」「演出」で見るとわかりやすい
私は作品を見るとき、その要素を「役者」「脚本」「演出」の3つに絞って考えている。その3つに注目すると、良い作品の多くはここが丁寧で互いによい作用をしているのがはっきりわかるからだ。
映画『カメラを止めるな!』はシンプルでおもしろく、まちがいなく良作だった。ここでのシンプルとは、単純という意味ではない。映像作品の基本に忠実で、誠実に作られているという意味の「シンプル」である。
そういう「シンプル」なところも含め、映画『カメラを止めるな!』とアニメの1期『けものフレンズ』は「似ているなー」と感じた。「予算が多くない」「人材が多くない」「伏線がきれい」「じわじわと評価されていった」ところも類似性がある。それが記事を書こうと思ったひとつのきっかけである。
では、ひとつずつ両作品のプロデューサーやディレクターに見られる共通の考え方を探ってみよう。
「役者」を選ぶときに重視したことは?
fjmovie|『カメラを止めるな!』上田慎一郎監督インタビュー
――監督が『カメラを止めるな!』に参加される俳優さんを選ぶ際に重視されたのはどんな点でしょう?
上田:オーディションでは12人の俳優を選抜したんですが、そのときにぼくが重視したのは、技術として演技がうまいということより、人間として面白い人ということでした。監督役をやった濱津(隆之)さんとか、その娘役の真魚とか、プロデューサー役のおばちゃんの竹原(芳子)さんとかも、映像作品で名前がある役をやるのは初めてくらいの経験値なんですよ。でも、会ったときに「この人は面白いな」というもともと持っているものがあったので、不器用でも人間的に面白くて「一緒にやりたいな」と思う人を選んだんです。
すごーい!の連続、『けものフレンズ』チームに3万字インタビュー | アニメイトタイムズ
――主人公の「サーバルちゃん」の声優・尾崎由香さんに決めた理由は?
福原:声やパーソナリティー、いろいろな要素を加味して決めました。
(中略)
福原:オーディションでいろいろ質問すると、わかってくるんですよ。相羽あいなさんは「イワトビペンギンしかないよね!」ってくらい、ぴったりでした。『けものフレンズ』のオーディションは、パーソナリティーを重視して決めたキャスティングだったかもしれません。だってファンの人も、普段とギャップがありすぎると、声優さん越しにキャラクターを見れないじゃないですか?――ということは、『けもフレ』に登場しているキャストのみなさんは、それぞれ演じている動物と「似ている」という認識でよいでしょうか?(笑)
福原:全員がそうとは言いませんが、「PPP(ペパプ)」のみなさんは、どことなく似ている方が多いと思いますよ。
キャラクターと演じた声優の方があわせて紹介されています
『カメラを止めるな!』の役者の方の多くは、ENBUゼミナールという映画・演劇の専門学校のシネマプロジェクトのオーディションを経て、ワークショップに参加した人たちである。ほとんどが知名度がある役者の方ではない。また、1期『けものフレンズ』も新人の声優を多く起用した。
でも作品の出来をふつうに考えるなら
「パーソナリティーより演技力を重視して役者を起用する方がいいのでは?」
と思った。
なぜ両作品は配役を考えるときに、役者のパーソナリティーを重視したのだろう?
この狙いにおいて、両作品は共通の思考を見せる。
爆ヒット中の映画『カメラを止めるな!』上田慎一郎監督インタビュー「映画が観た人の現実を前向きに動かしている。これほど嬉しいことはありません」 | ガジェット通信 GetNews
――映画を拝見した後、映画初出演の演者さんが多いと資料で読んでビックリしたんです。あまりにも自然だったので。それは当て書きというのも大きな理由だったのですね。
上田監督:オーディションで12人の俳優を選抜しました。選ぶ時は、演技がうまいということより、人間として面白い人ということを重視しました。俳優たちが元々持っている個性を活かしたキャラクターで書いたので、それを自然だと、魅力だと感じていただいたのかもしれませんね。
――その人自身に魅力があるということですね。
すごーい!の連続、『けものフレンズ』チームに3万字インタビュー | アニメイトタイムズ
梶井:僕らは『けものフレンズ』を作りながら、具体的ではないにしろ、なんとなくのイメージで「このキャラはこんな声だろうな」などと想像しながら作っています。そしてアニメのレコーディングのタイミングになって、スタジオで声優さんと打ち合わせをしているとき、声優さんから「こんな感じに変えたいんです」と意見してくれるときがけっこうあったんです。
――声優さんたちからもアイデアが出てくるのですね。
梶井:そしてその声を聞いてみると、キャラクターたちが、さらに魅力的に感じられる場合があるんです。
1期『けものフレンズ』公式サイト けもフレ図鑑 より
ともにキャラクターの「魅力」という言葉がでてきたが、まずはキャラを演じる役者の仕事を考えてみたい。
原作が先にある場合、役者は「役づくり」が必要になる。対して、脚本を役者に当て書きしたり、パーソナリティーが近い役者を選ぶ場合、「役づくり」の労力は軽減される。
これは極端な例えになるが、「役づくり」とは太った人がやせた役をするために体重を減らしたり、撮影中はその体型を維持する必要があるということ。役者にとって大変な労力だけれども、重要なのはこれが演技以前の話だということである。
だからこの「役づくり」の必要がなければ、役者は無理なく演技ができるし、その時間で演技を練ることもできるのだ。
役者 ←→ キャラ =先に役づくりが必要
役者 ≒ キャラ =無理なく演技ができる
こうして見ると、パーソナリティーを重視したのは「合理的な判断」だと思う。新人を多く起用した作品で「役者の無理がない」ということは、役者の演技の失敗を減らし、ときにポテンシャル(潜在能力)を引き出すことができるからだ。
また、原作もので起こりがちな「役者(の演技)が原作のイメージと違う」という、作品鑑賞をさまたげる「つまずき」を減らすことにもなる。結果的にディレクターの労力も少なくてすむ。
両作品を見たみなさんはわかると思うが、どちらもキャラクターがその世界で生きている実感があって、ひとりひとりが強く印象に残る。伸び伸びとした役者の発想が生かされた演技によって、どのキャラもそれぞれ違った魅力が表現されているのだ。
両作品のプロデューサー・ディレクターが、役者が演技しやすい状況を用意していることがまずわかってもらえたと思う。
配役のバランスはどうする?
また『カメラを止めるな!』では、重要な監督役・ヒロイン役に監督が信頼する安定した役者を起用している。監督役から逆算して他の配役を考えていることや、上田監督の作品に参加した経験を持っている女優の方を起用していることからもわかる。
対して1期『けものフレンズ』のプロデューサーも、キーキャラクターにはベテランの声優の方を配役をしている。
すごーい!の連続、『けものフレンズ』チームに3万字インタビュー | アニメイトタイムズ
――かわいい声だけじゃフレンズを任せられない?
福原:なので『けものフレンズ』のキーとなるキャラクターは、僕がいままでにお仕事をさせていただいて、安心して演技を任せられる「照井春佳さん(カバ)」や「津田美波さん(ジャガー)」たちに登場していただきました。そして、そのお話に登場するもうひとりのキャラクターを、若手の声優さんにお願いしたんです。こうしておけば、万が一なにかがあってもベテランが支えてくれて、トータルで見たら安定するだろうと。
――なるほど! 各キャラクター配役の意図は、そういう側面もあったのですね。
福原:そうだったのですが、完全に僕らの取り越し苦労でしたね。例えばコツメカワウソ役の近藤玲奈さんとか、心配する必要がまったくないくらい上手な演技をしてくださって、最高の組み合わせになりました。
新人とベテランを組み合わせて安定をはかり、作品の質にきちんと保険をかけている。当たり前のことかもしれないけれど、両作品のプロデューサー・ディレクターの仕事は堅実でもあるのだ。
また両作品の主人公は、物語の構成から見て似た動きを見せるのもおもしろい。
『カメラを止めるな!』の監督役「日暮隆之」は大人しい性格の役から次第に殻を破った熱狂的な役どころへ変わるし、1期『けものフレンズ』の主人公のひとり「かばん」も、やや頼りなかった役から勇気をもって仲間を助けるまで成長する役どころである。この変化の見せ方が、両作品とも丁寧だ。
ここは「脚本」にもかかわりそうなので、また後で考えよう。
作品における「コミュニケーション」とは?
さて、両作品のプロデューサーやディレクターが役者選びにおいて重視したのは、パーソナリティー以外にもありそうである。そのヒントがこの部分だ。
fjmovie|『カメラを止めるな!』上田慎一郎監督インタビュー
――出演者の中には、オーディションに参加した俳優さん以外の方もいらっしゃるんですよね。
上田:大きなところで言うと、ヒロインの女優をやった秋山ゆずきちゃんはゲスト女優として呼んでいて、あと何人かの俳優は呼んでおります。
――秋山さんは以前の監督の作品にも出演されているそうですが、やはりこの役を任せたいという信頼があったのでしょうか?
上田:そうですね、信頼しているというのがひとつと、撮影に入る前にしっかりとコミュニケーションを取れる人がいいなと思っていたんです。ワンシーンワンカットの部分にガッツリ出演するのでリハーサルとかもガッツリ付き合ってくれる人じゃないと無理だなというのがあって、すごく知名度があるけど本番当日しか来られないみたいな人はダメだなと思っていたんです。
すごーい!の連続、『けものフレンズ』チームに3万字インタビュー | アニメイトタイムズ
――「すごーい!」や「たのしー!」など、数々のセリフが流行語になっています。あの演技をなさった声優さんは、どうやって決めたのですか?
梶井:アニメ化が決定したとき、動物園のふれあい広場のようなイメージで、「小さい規模のイベントもやっていきたいよね」と思っていたんです。それを考えて、比較的動きやすい声優の方を選ばせていただきました。できればフレッシュな声優さんにお願いして、アニメといっしょに成長していけたらいいなと考えたんです。
「リハーサルとかもガッツリ付き合ってくれる人」「比較的動きやすい声優の方」とは上田監督が述べている通り「しっかりとコミュニケーションを取れる人」のことだろう。
もちろん、ここでのコミュニケーションとは「仲良くする」という意味では全くない。役者が監督と意見を交換し、演技として答えを出してゆくその作業全てのことである。それは「成長」と呼ぶこともできるだろう。
これらを誠実に積み重ねたその先にの当然の帰結として、人の心をつかむ演技が生まれるのだ。
すごーい!の連続、『けものフレンズ』チームに3万字インタビュー | アニメイトタイムズ
――ネットでも「サーバルの声が耳から離れない」という声をよく聞きます。キャラクターボイスも受けている要因のひとつだと思うのですが、あれは初めから計算していたのでしょうか?
梶井:ありがとうございます。でも、あれは計算してできるものじゃありませんよ(笑)。現場では上手くいかず、スタジオに居残り収録もありました。各声優さんたちが一生懸命演じた結果が、あの声になったんだと思います。
2018年『カメ止め』旋風を巻き起こした張本人!上田慎一郎監督ロングインタビュー - ページ 2 / 3 - otoCoto
――ラストシーンの撮影は、かなりギリギリの危うい状況だったことがメイキング映像を見ることで確認できますね。人生には無駄なカット、無駄な出逢いはないんだなと思わせるラストシーンの感動がより深まります。
あのラストシーンは、リハーサルでは一度も成功しなかったんです。
(中略)
でも、本番ならきっとできると思ったし、できるかできないかのギリギリの感じも狙いたかった。あのラストシーンは日暮監督ではなく、濱津隆之というひとりの男として素で本気になっている。その虚実が行ったり来たりするライブ感をカメラに収められれば最高だなと思っていたんですが、最高以上のものになりました(笑)。
「時間をかけている」作品だからできることだ、という反論もあるだろう。
ただここで述べていることは、演劇を作るうえでの基本である。
と、偉そうに言っている私の演劇の知識の大半は『七色いんこ』のおかげだ、手塚先生ありがとうございます!
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ブラック・ジャックと同じくらい好き
エチュードなどを除いて考えれば、役者と監督が協力して演技を練り上げることは、芝居を作るうえでごく当たり前に行われるべき作業だ。有名・無名、時間の有無は関係ないのである。
もしもこの作業をせず、役者の演技やパーソナリティーにまかせがちなプロデューサーやディレクターがいたら(まぁ悪人ではないが)彼らの作品はそもそも演劇や映像作品の基本も満たせないものになってしまう危険はある。
ひとつめの「共通する思考」とは?
現実に娯楽作品の多くは、知名度が高くて多忙な役者を起用し、別撮りや断片的な撮影によってシーンが作られ、爆発のような広範囲・一過性の宣伝が行われる、そういう作品である。私たちの目や耳や頭はひどくやられている。
だからこそ、両作品を見たときに私は新鮮な気持ちになれたのだ。
「けものフレンズ」は“みんなのもの” - 日経トレンディネット
ーー単刀直入に聞きます。これだけ多くの方が熱狂するコンテンツになった理由をどのように分析されてますでしょうか。
KADOKAWAの梶井斉氏(以下、梶井):真面目に作ったからだと思います。ありきたりな答えですが、“ヒットを仕掛ける”場合、たいていは「こうすれば話題になるだろう」といったマーケティングに基づいた施策や奇をてらったプロモーションを考えがちです。
しかし、お膳立てしたものではなく、自主的に参加してもらえる題材を提供しなければいけません。それがプロジェクトの原点である動物に対して真摯に取り組んで作品を作ることだったんです。
動物の何気ないしぐさや習性などを、アニメのキャラクターに取り込む。(コンセプトデザインを手掛けた)吉崎観音先生のキャラクターはかわいいだけではなく、元になった動物の特徴を忠実にデザインへ落とし込んでいるんです。細部をよく見てほしいんですが、こんな擬人化は今までないと思います。それを題材に、お話として12話を見て堪能できるよう、たつき監督が伏線を張り、セリフを吟味し、仕掛けを施したんです。アニメに関しては、吉崎先生と監督が話をしながら構築しました。
仕掛けというのは打ち上げ花火のような一過性のプロモーションではなく、キャラクターも含めた作品全体に練りこむことが大切だと思います。そこを視聴者の皆さんにくみ取っていただけたので、支持が広まったのだと思います。
両作品は「真っすぐいって ぶっとばす 右ストレートで ぶっとばす」とばかりに、長いことやられていた頭を正面きって殴りつけてくれた。目が覚めるおもしろさだった。
「役者とキャラの魅力を引き出すための合理的判断」
「作品の質を担保する配役のバランス」
「ともに演技を作り上げるコミュニケーション」
両作品のプロデューサーやディレクターがしたことは、どれも演劇・映像作品を制作する基本中の基本ばかりだ。だから「シンプル」に強い作品になったのだと思う。
プロデューサー・ディレクターに共通する思考 その1
基本を忠実に行う
「脚本」の作り方の過程は?
地味な結論。では次。
両作品の物語に共通する魅力として「伏線」がきれいに回収されるカタルシスがある。
そこで脚本に注目すると、それぞれに特徴ある構成をしていることがわかる。
『カメラを止めるな!』は、前半の劇中劇が「中盤のイントロダクション」をはさみつつ後半によって種明かしされる「入れ子」の構成になっている。1期『けものフレンズ』は1話完結を基本に、前半と後半で目標が変化するロードムービーのような構成をしている。
すごーい!の連続、『けものフレンズ』チームに3万字インタビュー | アニメイトタイムズ
福原:『けものフレンズ』の構成は、「かばんちゃん」と「サーバルちゃん」が各地を廻るロードムービーっぽい作品なので、毎回登場したゲスト動物と「出会い・別れ」を繰り返していきます。
――いま放送されている構成ですね。
福原:でも、この流れで作ってしまうと、シリーズを通してみると、常に登場しているのは「かばんちゃん」と「サーバルちゃん」の2キャラクターだけになってしまいます。そこで、常にふたりに絡んでくるキャラクターとして、「アライグマ」と「フェネック」、「PPP(ペパプ)」を考えました。こうすることにより、「かばんちゃん」と「サーバルちゃん」が縦軸で出演し続け、「アライグマ」と「フェネック」、「PPP」が横軸で絡んでくる。その結果、三次方程式のような複雑な構成ができあがりました。
これは『カメラを止めるな!』も同じように、主人公がいる「現場の役者」を縦軸に「現場の裏方」「テレビ局の関係者」を横軸として絡ませている構成、と見ることもできそうだ。
どちらの物語も、シンプルで大きい枠組みから、ひとたび内部に入ると細かく組み合わされた複雑な構成を見せてくれる。しかし、どうやって作ったのだろう?
両作品は、脚本づくりの過程が一般の作品と異なっているようだ。
fjmovie|『カメラを止めるな!』上田慎一郎監督インタビュー
――『カメラを止めるな!』の大きな魅力として、緻密に伏線が張られている点があると思いますが、やはりそれは時間を掛けて構想やプロットを熟成させていたことが大きかったのでしょうか?
上田:プロットはそこまでは細かく書いていないんです。脚本は応募してきた俳優に完全に当て書きして書いたもので、プロットを書いている段階ではどんなキャラクターが来るかわからなかったので、プロットは余白を残しながらというか、どうにでも調整できるような大枠だったんです。細かいところは脚本を書いているときにいろいろつなげていった感じですね。
すごーい!の連続、『けものフレンズ』チームに3万字インタビュー | アニメイトタイムズ
――『けものフレンズ』の物語は、いつ決まったのでしょうか?
福原:委員会が結成されてビジネスが動き出す前に、実はすでにアニメの制作はスタートしていたんです。
――なるほど。一般的には委員会が固まってから、制作に入ると思います。
梶井:そうなのですが、我々は違いました。きっと制作前にアニメを何本も手掛けてきたベテランの方たちが入っていたら、何度も打ち合わせをしてプロットを何度も直したり、似たような会議を繰り返したりして、制作がなかなか進まなかったと思います。もしそうなっていたら、おそらくみなさんが想像しやすい普通の動物アニメになっていたと思います。(中略)
――では、お話を考える人は?
梶井:大本の設定や大枠は吉崎さんで、たつき監督がそれをベースに骨子を練り、細かい肉付けをしています。彼らが打ち合わせ中に楽しみながらどんどんストーリーを作っていくので、下書きがありません。(中略)
この方法が変わっているのか?ということを考えてみよう。
「プロット」を固めない理由
プロットとは「Aが起こったからBが生じる」などの「因果関係」を構成したもの。プロットにキャラクターを配置して動かし、シーンをはさんで肉付けをして脚本となってゆく。
では、もし自分が映画の撮影を頼まれたとしたらどうだろう。
「打ち合わせをたくさんして、事前に固めたプロットや脚本で撮影した方が作品の質は安定する」と考えるんじゃないだろうか。「脚本が決まっていれば、物語が破綻する危険はないだろう」という思考だ。
しかし、上田監督が用意したのはガチガチに固めない柔軟性のあるプロットで、たつき監督は下書きのないまま肉付けされてゆくプロットを作っていった。なぜ?
それは、上田監督の言葉にあるように両作品ともキャラクターから脚本を作るための「余白」が必要だったからだ。だがキャラクターから脚本を作るということは当然、破綻のないよう注意してキャラクターを配置してゆく作業が必要になってくる。固めたプロットに役者をあてるよりも手間がかかるのだ。
ではなぜ両作品は「固めないプロット」をもとに「キャラクターから脚本をつくる」という「手間がかかる方法」を選んだのか?
みなさんも確認してほしい。それにはやはり、共通の思考がありそうである。
fjmovie|『カメラを止めるな!』上田慎一郎監督インタビュー
――10何人の登場人物それぞれに見せ場があるのが印象に残ったのですが、それは脚本の段階で意識をされていたのですか?
上田:意識というか、このシネマプロジェクト自体が安くない参加費を払って参加してくれる俳優がいなければ成り立たないものなので、全員が代表作だと言えるものにしないといけないという責任がありました。12人全員の見せ場を作りつつ、しかもそれを必然性のあるものにするのがすごく難しくて、それはいままで脚本を書く中ではなかったことなので大変でしたけど、それがこの作品では良い方向に働いたんだと思います。
すごーい!の連続、『けものフレンズ』チームに3万字インタビュー | アニメイトタイムズ
梶井:もともとキャラクターがとても多いコンテンツなので、ひとりでも多く出してあげられたらいいなというのは我々の思いでした。でも、作り手からすると時間もお金もかかるから限度はあります。運良く出演できたフレンズはラッキーだけど、できなかったフレンズのファンには、申し訳ない気持ちでいっぱいです。本当は僕らも全キャラを出演させてあげたいと、心から思っているのはご理解いただきたいです。でも……作品の人気が10年くらい続いてくれたら、全キャラを出してあげられるかな?
福原:そうですよね。たつき君は出したがっています。だって、僕が初めてたつき君が書いた構成を見たとき、登場キャラクターが40体くらいいるんですよ。彼にすぐ言いましたよ。「これ正気か?」って(笑)。
共通しているのは、監督の「キャラクター全員を出演させよう」とする意図である。両作品とも「キャラクターを表現する」ことにめちゃくちゃ力を使っている。
さらに、両監督はただ出演させるようなことはしなかった。
このインタビューにもあるように、たつき監督はキャラクターの「動物らしさを表現する」ことを重視した。いっぽう上田監督は、出演者の「見せ場を作る」ことに注力した。しかもただの見せ場ではなく「必然性のある見せ場」である。
こうなるとすでに決まっているシーンに役者を当てるだけの「ガチガチに固めたプロット」は使えない、という選択にいたることがわかっていただけたと思う。
しかしこの条件で、かつ両作品が成立させた「伏線をきれいに回収する」プロットや脚本を作るのは無理な気がする。
『キャラクターを全員出演させる』『見せ場も作る』「両方」やらなくっちゃあならないってのが 「監督」のつらいところだな、という声が聞こえてきそうなくらいハードモードである。
北野武監督の論理
だから両監督の意図はわかるけども、私はこう思った。
「やっぱり伏線をきれいに回収する脚本を作るには、初めにプロットをガチガチに固める必要があるのでは?」
先に言うと、私は「全く勘違いをしていた」という結論になった。
唐突だけどまず、昔聞いて「おもしろいなあ」と思った映画の話をさせてほしい。『たけしのコマ大数学科』で聞いたと記憶しているが、北野武監督には「映画のシーンを数学(因数分解)でとらえる」という論理がある。
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例をあげると、主人公XがAとBという人物を順番に撃つシーンを撮るときである。
まず、登場人物を組み合わせごとに分けて撮ると「XがAを撃つ」→「XがBを撃つ」となり2カットになる。
次に、画面の中心にXを配置してその奥にAとBを並べると「XがA→Bを撃つ」となり1カットになる。つまり、こうだ。
XA+XB = X(A+B):表現は違うが、物語は同じ
当時 私は「はえー」と感心した。
どの商業的な映像作品にも時間や予算の枠がある以上、撮影できるシーンの数には限りがある。 監督はこの数学の(あるいはこれに近い)論理を使って、カットやシーンの数を管理したり、キャラクターの配置を考えることができるのだ。便利である。
と、ここまで書いていたらすでにご本人が「相当大変な計算をしている」と評価してた。あと巻き込まれるように蛭子さんがディスられてた。
虎の威を全力で借りつつあらためて述べるなら、『カメラを止めるな!』は綿密に計算された土台の上に成立した映画である。「伏線」もきちんと計算されている。
同様に、1期『けものフレンズ』のプロデューサーも数学的に思考していることが「三次方程式のような複雑な構成」という表現からもわかるだろう。アニメの全話を見た方ならわかると思うが、1話からすでに11話・12話のための「伏線」がしっかりはられている。
「伏線の回収がきれい」とは何か?
で、私の勘違いとはこの「伏線」のことである。
先に述べたように、両作品は「キャラクターの見せ場を作る・キャラクターの動物らしさを表現する」ためにキャラクターからプロットや脚本が作られた。それでいて「伏線」もきれいに回収されている。
そこでまず、あれ?と思った。
「もしかすると伏線をきれいに回収する作品って、伏線から考えていないのでは?」
私も覚えがあるけど、伏線がすごい小説を書いてみたい! とテンションがあがったときは、まずたいていトリックとかプロットを考えようとしてつまずく、そこが実は勘違いなのではないだろうか。私は結局 書けませんでした、ぐぬぬ。
WEBアニメスタイル_COLUMNー第179回 『ミュウツーの逆襲』クライマックス
脚本家 首藤剛志さん 連載
もっと早く読んでいたら私も脚本家になれたかも
両作品の「伏線」はクライマックス(最も盛り上がったところ)で回収されてゆく。だから「伏線」を考える前に、クライマックスを考えよう。
前述したが、両作品の主人公はクライマックスに向かって「成長」する。
1期『けものフレンズ』は、主人公「かばん」の成長によってもたらされる行動により物語のクライマックスが生じている。『カメラを止めるな!』も同じく。
いや待て、『カメラを止めるな!』を見たけど、監督役「日暮」の変貌ぶりは「成長」とはちょっと違うだろ、という意見もあるかと思う。
日暮さんあらすじ:前半では激しい気性に見えたのに、ふだんの性格は真逆であることがつづく中盤で示される。そして物語が進行してゆき種明かしの後半にいたったとき、前半ですりこまれた私たちの「思い込み」がきれいに正される、という内容が勢いのある日暮のセリフとシーンの連続で結末へつながってゆく・・・
その中の決定的な場面。大人しい性格の殻をやぶって発した後半の「出すんじゃない、出るの!」という彼のセリフは、前半のセリフのイメージを打ち破って私たちに新しい主人公の姿をもたらしてくれる。つまり、同一人物でありながら、その本質が作中で「アップデート」されるのだ。
(地上波放送(2019.3.8)視聴後 追記)さらに、「見てんでしょうが!」というセリフもいい。これが「出てしまった」後で小さくなる姿を見て、「出るの!」がただの激高ではなく、映像への情熱と誠実さから発せられていることを観客が確信できる作りになっている。
さらにそのシーンについて、私はプロデューサーとディレクターの考察をしてたのに、書いているときは思いっきり抜け落ちていた点を鋭く指摘されていた方がいた。
このプロデューサー役は単なる憎まれ役にならずに、ディレクターとは違う仕事を請け負っている人として日暮がぶつかる相手役になっている。つまり、彼がいなかったら日暮は走りすぎてしまうし、映画のテンポも早すぎてしまう。
現実に映画を統括するプロデューサーと同じように重要な役だったのだ。
現実と言えば、あるいはこのシネマプロジェクト自体、ワークショップ参加者たちの役者としての実力の養成を目的のひとつとしているのだから、撮影中の彼の成長が作中の演技に「にじみ出る」のは演劇としてごく自然なことだと思う。
間違いなく彼は作中で成長し、それが結末へ向かう推進力になっている、と私は考える。彼のセリフや行動にいたるまでの過程は必然であり、私は納得できた。
話を戻して、「伏線」についてまとめてみよう。
「伏線」はクライマックスや結末で回収される。「伏線」は後からわかる。
つまり「伏線の回収がきれいである」ということは、クライマックスや結末におけるキャラクターたちの「見せ場」にいたるまでの過程の描写が自然かつ正当であり、視聴者・読者が納得できる、ということだろう。
定型化してしまって視聴者にバレバレな伏線は、もはや伏線ではなく「フラグ」と呼ばれてしまう。「自然で正当」を簡単に言えば「さりげない」ということであり、それが「伏線」の条件でもある。
「伏線」が生じる瞬間
ここでさらに、ん?となった。
「じゃあ伏線って『謎』とか『もの』とかじゃなくて、実は『キャラクターを丁寧に表現すること』じゃないのか?」
まず上田監督のインタビューを見てほしい。
fjmovie|『カメラを止めるな!』上田慎一郎監督インタビュー
(筆者注:12人全員の見せ場を作ったことが良かったという話から)
――それとつながるのかもしれませんが、ストーリー上でちょっと印象の悪くなる役はいますけど、ラストまで観ると、ほんとに嫌なイメージが残る悪役というのは出てこないですね。
上田:(中略)
でも『カメラを止めるな!』は最初の37分で最後がどうなるかをある意味で見せてしまっているので、果たして成功するのか? という推進力はないんですよね。悪役もいなくて、そこの推進力もない中でエンターテイメントを作るのはなかなか大変やなって思いながら書きはじめたことは覚えています。
でも、どこかの段階で思ったんです。成功できるのはわかってるけど、どうやってそれを乗り越えたのかの間が埋まっていない。その間を見せていく映画、その小さな推進力をハイテンポで繋いでいく映画なのかなって。ぼくのいままでの作品も心底嫌な人って出てこないので、それはぼくの世界の見方なのかもしれないですね(笑)。どんな嫌な人間も、実際にいたら絶対に好きになれない人間も、映画の中で引いて見ればおかしく見えてしまうという。
次にたつき監督のインタビュー。
「けものフレンズ」は新しいジャンルのアニメ?たつき監督インタビュー | WebNewtype
――これまでの工程を振り返って、いちばん苦労されているのはどんなところでしょうか?
たつき:パークの空気感を損なわないようにすることには、いつも胃を痛めていますね。それがいちばん大変です。それと、個人的に「けものフレンズ」は劇薬のようなものを排除した作品だと思っているんです。異物がいきなり登場したり、誰かの死を描くような作品ではないので、ちゃんとキャラクターの中身を考えてていねいに描かないと、お話としての波が出にくいんですよ。観てくださる方に、ちゃんと物語の上下感を楽しんでもらえるよう、その部分には注意するようにしています。
さっき私が使った「推進力」という言葉はここから借りた。
両監督が話している内容はよく似ていると思う。上の「小さな推進力」と下の「物語の上下感」という言葉は、私の中では接近して見える。
なぜなら「小さな推進力」「物語の上下感」を出す方法として、両監督ともに「キャラクターを表現すること」を考えていることがわかるからだ。「伏線」を考えているわけではないのである。
これを、先に述べた両監督の意図とあわせて考えてみよう。
『カメラを止めるな!』は「キャラクターの見せ場」によって「小さな推進力」を出してゆく。1期『けものフレンズ』は「キャラクターの動物らしさの表現」によって「物語の上下感」を出してゆく。物語の進行の点で両作品に共通するのは、「伏線」をはってゆくことではなく、「キャラクターの表現」をしてゆくことである。もちろんそれらの表現は、物語がつながるような必然性のある連続でなければならない。見てわかるのが当たり前、ということだ。
つまりどちらの作品も「キャラクターを丁寧に表現したカット・シーン」を積み重ねることで必然性(ここ重要)がある物語の盛り上がりや流れを生みだしているのである。
そしてついに物語がクライマックスや結末を迎えたとき、それまで実に自然に(さりげなく)表現されたキャラクターの積み重ねてきた行動が意味を持ってよみがえってくる。
彼が精一杯の力で写真のあのときと同じように「大切な娘」を肩車したとき、
彼女を助けるため限界をこえて「大切なヒト」の能力を使った思い出の紙ひこうきが飛ぶとき、
そのとき初めてそれまでの「表現」が「伏線」へと昇華するのだ。
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- 作者: 歌野晶午
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2007/05/01
- メディア: 文庫
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クライマックスが見事な名作といえばこれ。教えてくれた友人に感謝しています。
「三幕構成」の解説を書きたかったけど、私の力では分析できずにあきらめた。そしたら、丁寧でおもしろい動画ができているじゃないか!王道の構成、旅の目的がロジカルに語られています。色々な画像を使われていたのでタイトルでご紹介。おすすめ!
ふたつめの「共通する思考」とは?
私は「伏線、伏線」と安直に使っていたけど、だいぶ勘違いしていた。
そもそも物語の途中にある、意味深なオブジェクトやセリフだったり、思わせぶりな表情や謎を残した設定だったり、それら視聴者や読者に気づかれてしまうものは「伏線」にもならないし、視聴者がしているのは「考察」でも何でもない。ただただ下手くそな表現を、意味ありげにラベリングしているだけである。
1期『けものフレンズ』は、好きなタイミングで画面を止められるネット視聴の環境を考慮し、細部を見ても楽しめる作りを意識したそうだ(「けものフレンズ」は“みんなのもの” - 日経トレンディネットより)細部にまで気を配った作品が、自然と「伏線」や「考察」を生じさせるのである。
すごーい!の連続、『けものフレンズ』チームに3万字インタビュー | アニメイトタイムズ
(筆者注:ファンの中に、運営の発信への誤解や深読みによるネガティブな解釈が生じることについて)
――直接話せばわかるけど、文字にすると伝わりにくいコトって多いと思います。
福原:深読みする楽しみ方があるのも事実なので、あまり否定するツモリはありませんが、あまりアニメの本筋と離れたところで盛り上がっちゃっても、なんか不思議な気持ちになりますね。
例えばお客さんに豆腐を食べてもらいたくて「はい。これが冷奴です」と出したとき、「この豆腐の白は、現代の不安を象徴してますね」とか言われても、僕らは「そうですかねぇ?」としか言えません。こっちとすれば、ただ豆腐を食べてほしかっただけなんです。でも、喜んでいただけるなら「そういうことにしとこうかな?」と思うわけですよ。
――絶妙な例えですね(笑)。
梶井:だけど考察班のみなさんは、しっかり作品の隅々まで見ていただいて、自分たちの解釈で情報を発信してくださっています。彼らのお陰で『けものフレンズ』の見方が広がったのは、とてもありがたかったです。(中略)
丹精こめた冷奴は噛みしめたくなるほどに味わい深いが、手を抜いた冷奴は単にどこまでいってもまずい冷奴のままである。
振り返ったときにはっと気づく監督と制作チームの表現の軌跡、それが「伏線」だ、と私は結論する。両作品が評価された理由のひとつがここにある。
おまけ。ではキャラクターを丁寧に描くためにはどうすべきか?
映画ならまずシーンのリハーサルを重ねるべきだし、アニメならまずアニメーションの技術を洗練するべきだ、と私は思う。多くの映像作品がこういう部分をさぼる中、この2人の監督は当たり前のようにしている、それがすごい。
プロデューサー・ディレクターに共通する思考 その2
キャラクターを丁寧に表現する
「制約」をどう「演出」したか
次を考えよう。
ここでは「制約」が主で、特に「演出」を掘り下げていません。ここのみ「演出=見せ方」ぐらいに考えて下さい。演出家の方いたらごめんなさい!
両作品に共通する「制約」は、はっきり言うと
予算が多くない = 人材が多くない
という点である。両作品はその「制約」をどう克服していったのか。
上田慎一郎監督は如何にして『カメラを止めるな!』を作ったのか!?~前編~【Director’s Interview Vol.7.1】 :4ページ目|CINEMORE(シネモア)
Q:上田監督が作品を作っていく中で映画監督として守りたいポリシーのようなものはありますか?
上田:たぶん、最後まで「じたばたする」ってことですかね。「しょうがない」って思わない。ちょっと今回は諦めようというか、それなりのものを撮ろうみたいな感じで監督をしないっていうこと。考え続けろっていうことじゃないですかね。
今回も、無名の僕と俳優とで、勝負をかける長編を作るっていう時に、やっぱ70点ぐらいのものを作ってしまうのが一番駄目だなと思ったんですよ。だから0点か200点かみたいな。やっぱ挑戦と不安がある、わくわくと不安が半々ぐらいがちょうどいいんですよね。「これ、できんのか?」っていう手に負えないようなことをしないと、映画とは言いがたいんじゃないかっていう気持ちがあって。
(中略)
Q:『カメラを止めるな!』の製作費は300万円で、自主映画の延長に近い現場だったと思います。その製作環境がプラスに働いたと思われますか?
上田:はい。低予算でも、無名の俳優でも面白いもの、ヒット作はできるじゃないかって書いている人も結構いるんですが、いやいや、低予算だから、無名の俳優だからできたんだっていうのは強く言いたい。メジャーにはできない戦い方をしたからだっていう。
すごーい!の連続、『けものフレンズ』チームに3万字インタビュー | アニメイトタイムズ
――たつき監督の作業は、どこからどこまでですか? とても多そうに感じます。
梶井:声優以外は全部だよね?
一同:(爆笑)
福原:まぁ、わかりやすく言えばそうですね。全12話をひとりで演出してますから。お話も99%が吉崎先生とたつき君が考えてます。脚本からコンテまでをひとりでみているから、作業のカロリー計算ができるんです。例えばレイアウトひとつとっても、下半身を映さないだけでアニメーションは減ります。でも上半身ばっかりのシーンが続いたらつまらないから、どこを見せてどこを隠すか、それを不自然にならないようにコントロールしています。Vコン(ビデオコンテ)を作って仮の声をあてて尺を計算したり、プリプロダクション、プロダクション、ポストプロダクションといった、作業進行を、ひとりで行ったり来たりしてます。
そもそも克服しようとしてなかった。
彼らは予算も人材も増やさずに、自分たちができる方法で作品を制作しようと考える。
一般のプロデューサーやディレクターなら「もっと予算を集めよう」とか「さらに人材を確保しよう」と思うのがふつうじゃないのか?
両作品に共通して見えるのは、「この制約を克服しよう」とする意志ではなく「この制約で勝負しよう」という戦略である。
1期『けものフレンズ』の「制約」
「予算」「人材」の「制約」はたつき監督とチームでカバーできるようだ(いやそれもだいぶおかしいけど)。
だがおもしろいのは、1期『けものフレンズ』の演出にかかわる「制約」の方である。いやおもしろいと言っていいのか、これを読むとわかるようにかなり厳しい「縛り」になっている。おやつの人かよ。
すごーい!の連続、『けものフレンズ』チームに3万字インタビュー | アニメイトタイムズ
福原:動物のアニメを作るに当たって、我々は「動物らしさを出すにはどうしたらいいのか」を考えたんです。いろいろ考えた結果、答えは動物番組にありました。あの手の番組を見ればわかると思いますが、だいたい「子育て」と「狩り・食事」、「群れ」とかの映像で構成されているんです。
――言われてみると、よくある動物番組はそういったシーンばかりですね。
福原:ですよね? 群れることで有名な「ヌー」が、ソロで登場することはほとんどありません。
――「ヌーのソロ」という言葉を初めて聞きました(笑)。
福原:『けものフレンズ』で「動物の群れ」や「子育て」のシーンを出すわけにはいかないので、簡単に「動物らしさ」を表現できる手法が奪われているんです。
梶井:『けもフレ図鑑』も同じです。見ていただければわかるのですが、なるべく「雌雄の違い」とか「生殖や交尾」、「食性」を書かないようにしてるんです。それ以外で動物を紹介しなければいけない、けっこうつらいんです。
加えてたつき監督は「個人的に『けものフレンズ』は劇薬のようなものを排除した作品」「異物がいきなり登場したり、誰かの死を描くような作品ではない」とも述べている(「けものフレンズ」は新しいジャンルのアニメ?たつき監督インタビュー | WebNewtypeより)これら動物番組の手法をアニメ(擬人化)がよくやる表現に直して、まとめるとこう。
1期『けものフレンズ』で制限される描写(直接 表現しないもの)
動物番組 アニメ(擬人化)
子育て・雌雄・生殖 =恋愛・排泄・セクシャルな描写
食性・狩り・生死 =食物連鎖(食事)・流血/欠損・誕生・死亡の描写
群れ・異物 =コピペ・同種複数(一種一体が原則)・異常なキャラクターの描写
詰みです。動物のアニメ以前に現代の「商業アニメ作品」として作れません。
今期のアニメを見るといい。いや、アニメ以外のドラマ・映画でもかまわない。ほとんどの映像作品がスパイス感覚でこれらの表現を作中にまぶしているのに、1期『けものフレンズ』はいちいち制限がかかるのである。厳しい制約だ。クラピカかよ。
しかし1期『けものフレンズ』はこの「制約」で勝負した。そこでの「戦略」とは何か?
私が確信できたことはその中の2つ。
1期『けものフレンズ』 「戦略」その1
動物を表現するため「動物園のアニメ」に徹する
これは前の記事で述べた考えでもある。かいつまんで言うと、1期『けものフレンズ』のアニメーションのコンセプトは旭川市旭山動物園の「行動展示」というコンセプトと重なる、という話だ。
で、もう一度上記にまとめた動物番組の手法一覧をよく見ていただきたい。そこに「野生にいる野生動物の生態」と「動物園にいる野生動物の生態」を重ねて考えてほしいのだ。そうするとみなさんにも、この戦略の意図が見えてくるはずだ。
上のインタビューで言及している「動物番組」とは、野生で生息する動物を撮影したドキュメンタリーのことだろう。だから「制約」となるシーンとして挙げているものは「野生にいる野生動物の生態」で見られるものである。
Learn About the Jaguar | Big Cat Weekがんじょうな体をしてるのがジャガーです
対して「動物園にいる野生動物の生態」をイメージしてほしい。野生では見られることが、実は動物園ではうまく隠されていることがわかるはずだ。
例えば「狩り」。生きた動物を狩る展示を実施している動物園は少ない。日本の動物園の多くは動物の姿だけ見せる「形態展示」だからだ。動物の「死体」も、衛生上 放置せずに人の手で処理される。「交尾」も、専用の施設があったり人工授精が選択されたりするので、目にする機会はほとんどない。つまり動物園はきっちり管理・制限された環境なのである。
これ、上の「動物のアニメ」を作る条件にぴったりじゃありませんか?
そもそも『けものフレンズプロジェクト』の最初のフレンズ「サーバル」は「多摩動物公園のサーバル」がきっかけだ(吉崎観音 on Twitter 2017/09/14)。現代の都市部において動物を知る場所はおそらく動物園 であり、プロジェクトの目的のひとつは「本物の動物に興味を持ってもらうこと」である。そしてアニメはこのプロジェクトの一環だ。【アニメを見る→興味が湧く→本物の動物を見る→そのアニメがより好きになる】というコンテンツの好循環をアニメ制作のひとつの目標(成功の指標)とするなら、「野生動物のアニメ」よりも「動物園のアニメ」を徹底して演出する方を、アニメ化の「戦略」としてプロデューサーやディレクターが選択することは実に合理的と言える。
https://twitter.com/yosRRX/status/908280553970868224https://twitter.com/yosRRX/status/908280553970868224https
ちょっと早口で書きましたけど、簡単に言うと『けものフレンズプロジェクト』と「動物園のアニメ」は相性がいい、ってことです。
1期『けものフレンズ』 「戦略」その2
重要なプロットに「制限される描写」を組み込む
「いやいやいや、1期『けものフレンズ』には「狩り」も「死」も「異物」も描かれてますよ!」と言う方がいるとしよう。おっしゃる通り。「簡単に表現できる手法が奪われる=制限される」だけであるから、表現を工夫すれば描写できないことはないのだ。
例えば「生殖・雌雄=恋愛」。一般の物語において、恋愛で表現されるのは精神的な「強い結びつき」である。ラブストーリーは純粋に恋愛を描いている、と考えているピュアな読者はまさかいないと思いたい。
だから、視聴者の腑に落ちるよう丁寧に描かれていれば、「生殖・雌雄=恋愛」が象徴する「強い結びつき」を、例えば「ペアリング(対合)」や「チームワーク」という別の形で表現することは可能なのである。もちろん恋愛の表現はない。
すごーい!の連続、『けものフレンズ』チームに3万字インタビュー | アニメイトタイムズ
――ストーリーについてお聞かせください。お話を考えるとき「ここで盛り上げる」とか、事前に考えておいたのでしょうか?
梶井:『けものフレンズ』の場合は、「ここで誰かが死んで」とか「ここでライバル」とか「恋愛が発展する」とか、そういったありがちな法則は入ってません。
福原:「クリエイティブ先行」のコンテンツでしたからね。
そしてここが戦略的なところだが、1期『けものフレンズ』は「制約=制限される描写」を捨てるのではなく別の表現で描写し、意識的に重要なプロットの装置として組み込んでいる。まとめるとより顕著だろう。
制限される描写→1期『けものフレンズ』の描写:プロット
「生殖・雌雄=恋愛」✖→「強い結びつき」:主人公のペアリング
「狩り=流血/欠損」✖→「狩りごっこ」:1話イントロダクション
「食性=食物連鎖」✖→「料理」:「かばん」が真実を知るための課題
「群れ=コピペ・同種複数」✖→「チームワーク」:フレンズみんなで「群れ」
アニメでできる表現へと変換し、それぞれ重要な場面に採用されているのがわかると思う。
次に考えたいのは「異物=異常なキャラクター」のことだ。「セルリアン」をイメージされた方もいると思うが、それは違う。たつき監督が「異物がいきなり登場したり」と表現していることからもわかるように「異物=設定や世界観に存在しないもの」のことだ。「宇宙人」「未来人」「異世界人」「超能力者」は呼ばれていないのである。
ただ、この定義に引っかかる存在がある。それがメディアミックスの重要な要素である「オリジナルキャラクター」だ。つまり、アニメ化の「異物=異常なキャラクター」とは「かばん」というキャラクターに他ならない。
注:かばんちゃんはおかしなやつだ、という意味ではありません。
少し違う視点から考えよう。
アニメ化のオリジナルキャラクターとは、ベテランから見れば「新しい要素」である。新しいコンテンツを導入するときの注意点について、先に挙げた『FFXIV』に「ドマ式麻雀」という新規コンテンツを組み込んだ吉田プロデューサーの話がピタッとはまったので引用したい。このインタビュー、おもしろいから見て。
『FFXIV』麻雀実装で新規・復帰が急増。プロ雀士も参戦し、24時間数秒でマッチングする初のコンテンツへ…実は“住めるゲーム”を目指す新たな挑戦の第一歩だった
ーーメディアに掲載された吉田さんのインタビューを読むと、ドマ式麻雀についてはとくに慎重な言い回しをされていましたね。
吉田氏:なぜそうしたのかといえば、「ドマ式麻雀は、すべてのプレイヤーにとって敵ではない」ということを伝えたかったからです。ドマ式麻雀は、『FFXIV』での生活を豊かにするためのひとつの要素にしか過ぎません。
(中略)
最初のボタンを掛け違えるとネガティブな方向に行ってしまいかねないので、初動の段階でプレイヤーの方々から敵視されないよう、すごく考えてお話をしました。ですので、そこだけ気を付ける必要があるなと。
とはいえ、ドマ式麻雀が始まってしまえば盛り上がってくれるだろうとは思っていたんですが……ここまでポジティブな反応をいただけるとは……それはもう、ビックリするほどですね(笑)。
感心しかない。大切なのは「敵視されない」という優れたバランス感覚である。この感覚を持たずに最初のボタンを掛け違えているプロデューサー・ディレクターは少なくない。
これを1期『けものフレンズ』に戻してみる。するとみなさんは、この物語は「かばん」という新しい「オリジナルキャラクター」が『けものフレンズプロジェクト』に受け入れられてゆく、という一面も持っていることに気づけるはずだ。
主人公単独のプロットも考えられるのに、最初のフレンズ「サーバル」がガイドするかたちで新人の「かばん」とコンビになるプロットにしたのは、「かばん」がすべてのファンにとって敵ではないことを示すためだと、私は考える。
もちろんそれだけではダメだ。このコンビが、「サーバル」や「かばん」や「ジャパリパーク」にとって意味がある、と視聴者が納得できなければ単なる押し付けで終わる。
この視聴者の納得については、先の「伏線」で述べた通りである。
このコンビは不思議だ。主人公ということを差し引いても、かなり特別なペアリングである。
現実の役者は「サーバル=新人」↔「かばん=ベテラン」という組み合わせなのに、『けものフレンズプロジェクト』の世界では「サーバル=ベテラン」↔「かばん=新人」であり、それが1期『けものフレンズ』の物語の進行とともに「互いに助け合うパートナー」になる。このように虚実が交差・対比・相補された多重構造の関係になっている。本当の意味で複雑な関係なのだ。
これで思い出すのは、ユング派の臨床心理学者 河合隼雄が「男女のペア」について述べていた「それぞれが持つ性別、影(シャドウ)、アニマ/アニムスを加えて6人の組み合わせになる」という話である。物語のペアリングを見るときは、背景の構造を考えることも大切だ。
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このオリジナルキャラクター「かばん」と「サーバル」のペアリングは、物語上の大きな縦軸のプロットして存在し、そこに「アライグマ」「フェネック」のペアリングが横軸として交差する。ペアリングは各地を回ってフレンズと出会い、そして別れながらクライマックスへと向かう。その旅の佳境で描かれるのは、「群れ」「死」「生」を、象徴として作品の世界観に落とし込んだ見事な描写の連続である。
みなさんもいっしょに確認してほしいところがある。たつき監督は「異物」や「死」を表現や出来事とは呼ばず、わざわざ「劇薬」という言葉で表している点である。なぜこう表現した?それは監督として、使い方によっては「毒」にも「薬」にもなると知っているからだ。この制作チームは「劇薬」を直接使うようなことは全くせず、調整した「薬」として作品に使った。それが「劇的」な作用をもたらしたのである。
1期『けものフレンズ』は
「制約」から「動物園のアニメ」であることを選択し、「制約」を物語の力に変える戦略をとった。
『カメラを止めるな!』の「制約」
一方、『カメラを止めるな!』。先に述べたことをあらためて。
それは「予算」「人材」!
ありとあらゆる映画・映像作品の「制約」の揺るぎないツートップである。この「制約」でどう勝負したのか?まず、上田監督の撮影の方針を探ろう。
大人になって技術があればあるほどコントロールできてしまうんですけど、コントロールできないものを収めていくのが映画であるというのが自分の中でひとつあるんです。(fjmovie|『カメラを止めるな!』上田慎一郎監督インタビュー)
もうとにかく面白いものを、エンターテインメントを追求して作ろうと。テーマやメッセージは、「出すんじゃなくって、にじみ出てくる」と思っていたので。(上田慎一郎監督は如何にして『カメラを止めるな!』を作ったのか!?~後編~ ※注!ネタバレ含みます!!【Director’s Interview Vol.7.2】 :2ページ目|CINEMORE(シネモア))
あのラストシーンは日暮監督ではなく、濱津隆之というひとりの男として素で本気になっている。その虚実が行ったり来たりするライブ感をカメラに収められれば最高だなと思っていたんですが、最高以上のものになりました(笑)。(2018年『カメ止め』旋風を巻き起こした張本人!上田慎一郎監督ロングインタビュー - ページ 2 / 3 - otoCoto)
僕は『悪魔のいけにえ』(1974年)が大好きで、秋山さんには『悪魔のいけにえ』のDVDを渡して、ヒロインの本気で逃げまどっている感じや悲鳴を参考にしてもらいました。(爆ヒット中の映画『カメラを止めるな!』上田慎一郎監督インタビュー「映画が観た人の現実を前向きに動かしている。これほど嬉しいことはありません」 | ガジェット通信 GetNews)
上田監督は「虚」に「実」をいかに取り込むか、ということを考えている。なぜか。
いや「なぜか」という疑問が、おかしいのかもしれない。
初まりから今まで、映像はずっと「記録」でありつづけてきた。映画とて、この映像の原義からは逃れられない。役者あるいは自然の、そのときにのみ表現される貴重な瞬間を、クライマックスを、フィルムにおさめ続けたのが映画だろう。今は、そういう面倒さから逃げてる映画が市場にのさばっているだけだ。
上田監督の挑戦はそこにあると思う。
だから「フィルム=虚」に「計算をこえた瞬間=実」をおさめるため、計算しつくされた舞台を用意するのだ。実に合理的である。
『カメラを止めるな!』 「戦略」その1
「虚=映画」と「実=シネマプロジェクト」を絡める
fjmovie|『カメラを止めるな!』上田慎一郎監督インタビュー
――ENBUシネマプロジェクトという通常の商業映画とは違うかたちの作品だからこれができたという部分もあるのでしょうか?
上田:とてもありますね。プロデューサーが「上田くんに任せる、好きにやってくれ」って任せてくれたので、ぼくも好き勝手できたんです。たぶんね、普通なら「最初に37分のワンシーンワンカットで撮って、そのあとにこうなってという映画を、この予算で作ります」と企画を出したら「バカなの?」って止められると思うんですよ(笑)。普通の商業映画でやったら予算が10倍とか100倍は行くんじゃないですかね。
ぼくたちはお金がないからそれを手作りでやって、血だらけの衣裳とかも全部ぼくが自宅で作ってベランダで干して(笑)、途中で出てくる家もぼくの自宅ですし、出てくる赤ちゃんはぼくの息子なんです(笑)。ほんとにすべてが手作りで、その手作り感がこの映画の語っていることとすごくマッチしたんだと思いますし、商業映画の場合は知名度のある俳優さんってそんなにスケジュールが取れないと思うので、事前にガッツリとリハーサルをしたりとか呑みに行ったりとか密なコミュニケーションを取る時間がなかなか取れなかったと思うんです。そういう面では、こういう体制でしか作れなかっただろうなと思います。
上田監督は「予算」という「制約=実」を「設定=虚」に取り込もうとする。
作中で作ることを依頼された「37分ワンシーン・ワンカット」の劇中劇『ONE CUT OF THE DEAD』=虚の「限られた予算・人材・時間」という設定は、現実のシネマプロジェクト=実とも重なってくる。
また他の「映画=虚」の設定も、よく見ると「シネマプロジェクト=実」の状況を反映し映画が撮影しやすいよう選択されている。
虚:舞台は廃墟が中心 = 実:一か所で大半の撮影が可能
虚:集まった役者の実力は凸凹 = 実:実際もワークショップ参加者と俳優の混合チーム
虚:劇中劇はゾンビもの = 実:低予算・騒々しさ・楽しさのイメージができあがっている
以下は、地上波放送(2019.3.8)副音声での制作チームの話より
虚:劇中劇のクランクイン = 実:現実の映画のクランクインも同じ日ー役者のコンディションが似ている
虚:美術(台本や車両etc)・小物 = 実:撮影用の本物・スタッフ私物ー費用が抑えられる
虚:機材室(倉庫) = 実:特殊造形の方のアトリエー美術があってもおかしくない
特に台本が本物というのは、「セリフを確認してた」と話していたように、演技経験の少ない役者がいつでも自然に確認できるな、と感心した。
そして役者と観客の劇中劇への印象も、作品の進行とともに虚実に絡めとられてゆく。
[前半:劇中劇]
役者:映画で劇中劇をする=虚中の虚
観客:「ゾンビもの?」=実
[中盤:経緯]
役者:映画の役を演ずる=虚
観客:「撮影だった」=虚
[後半:舞台裏]
役者:映画の役からはみ出る=虚中の実
観客:「なるほど!」=実
さらにエンディングのメイキングを見ることで観客の頭の中は、
劇中劇 ← 映画の中の撮影チーム ← 映画 ← 現実の映画の撮影チーム ← 観客←その構造に気づいた観客
という入れ子の構造になってゆく。そうなると虚実の関係は・・・
いやいや、とてもじゃないけど分析し終わる構造ではありません!もーどれだけ複雑な構造をしているのか、上田監督の構成力がわかっていただけたら幸いだ。
ここに挙げられてないものも含めた準備や設定の全てが「はみ出した瞬間をとらえるため」の計算されつくした舞台なのである。
『カメラを止めるな!』 「戦略」その2
「虚=役」から「実=役者」をはみ出させる
上田慎一郎監督は如何にして『カメラを止めるな!』を作ったのか!?~前編~【Director’s Interview Vol.7.1】 :2ページ目|CINEMORE(シネモア)
Q:不器用な人をキャスティングすると映画製作が難しくなるのでは、と思ってしまうのですが・・・?
上田:器用な人をキャスティングしたら、この映画はできなかったと思うんです。物語で描いている37分ワンカットの映像を撮り切るために、虚実ない交ぜになる状態を作りたかったのかもしれないですね。器用な人は余裕ができちゃうじゃないですか。余裕があると、やっぱり現実と虚構を分けて演じれちゃう。
スタッフもキャストも全員が余裕のない中で、今自分は登場人物として笑っているのか、自分として笑っているのか。登場人物として走っているのか、自分として走っているのかが曖昧になってくる感覚を作りたかったんでしょうね。
あと、器用で技術があると、何回でも同じ言い回しやトーンでセリフを言えたりするんですけど、毎テイク結構違ったりするんですよ、濱津さんとかも。
Q:「さっきの演技をもう一回やって」っていうのが、できないんですね。
上田:そうですね。できる人もいますけど、できない人が多い気がしますね。だから、最初の37分も、計算しているトラブルとガチのトラブルが混在しています。緻密に脚本も書いて、リハーサルも重ねているんですけど、現場では「予期せぬことが起きてほしい」と思いながら撮っているんです。でも、その予期せぬことを起こそうとしたら、その作為は映ってしまうから、俺らが手が届くかどうか、ぎりぎりのところで火花を散らせば、予期せぬことは自然と起きるだろうという計算のもとで、撮っています。
(中略)
Q:その意図しないサスペンスフルな動きになってしまう人を評して、「ポンコツ」という表現になるんですね。
上田:そうですね。キャパがオーバーしたときに出てくる火事場の馬鹿力だったり、その一回きりのものだったりというのを、映画の中に閉じ込めたいから、というか。
以下は、地上波放送(2019.3.8)副音声での制作チームの話より
アドリブ:助監督役のゾンビ用コンタクトが入らず遅れる→間をつなぐ
アドリブ:ヒロインの足元のカットでくつひもがほどける→上半身のカットに
ハプニング:音声役のゾンビの血しぶきがカメラのレンズにつく→拭く
ハプニング:現実のカメラマンアシスタントが転倒→脚本に反映
上田監督は「人材」という「制約」を「制約」としない。撮影でのハプニングを、参加者のパーソナリティーや演技力を、映画の原動力に変えてゆく。
じゃあ上田監督は、なぜそこまでドキュメンタリーを、予期せぬことを大切にするのか?
ただただ貼っつけてるだけになるが、この下のインタビューだけでも読んでほしい。
――特に若手の映像クリエイターはテーマを決めて作品をつくることが多いと思いますが
そうですね。でも、「自分らしいクリエイティブ」を決めてしまったら苦しくなると思うんです。
そのテーマから外れたとき、本当に自分のクリエイティブなのか迷うじゃないですか。なので、それを一旦忘れて、毎日を夢中で生きていた方がよっぽど自分らしい、唯一無二のクリエイティブに通じると思うんです。
そうだ…この間、若手クリエイターに向けたメッセージで「クリエイターとは何でしょうか?」と聞かれたんですよ。その時、僕は「人間だ」と答えました。
――「人生からにじみ出るメッセージ」つまり、個人の生き様が上田監督の考える作家性ということですね
『カメラを止めるな!』の前、短編映画を7本ほどつくっていた時期は「自分らしい映画をつくろう」と作家性を捻出していました。
一方、『カメラを止めるな!』は必死に制作するなかでクリエイティビティがにじみ出た作品です。つまり、過去作とは逆に作家性の純度が高い作品だと考えています。
僕もこの考えに行きつくのに時間がかかりましたが、『カメラを止めるな!』を皆さんに観ていただけたことで、「作家性はにじみ出るもの」という考えに確信をもつことができました。
この作品には「本質はにじみ出るもの」という原理がすみずみにまで働いている。にじみ出た上田監督の「作家性」、役者の方々それぞれの「パーソナリティー(人間性)」が、フィルムの中に躍動感を持ったまま封じ込められている。
それは、そのときその人たちにしか出せない輝きの記録であり、その意味で『カメラを止めるな!』は近年で最も映画の、映像の原義に近づこうと挑戦し、見事な作品によって観客に回答を提示したのである。私は上田監督と制作チームに敬意を表したい。
『カメラを止めるな!』は
「制約」を計算に入れた「虚実」混ざり合う舞台を作り、「制約」を映画の核とした。
みっつめの「共通する思考」とは?
フライングだけどここまで読んで下さった方、ほんとにありがとう。
私はここまで書いて、やっと気づいた。みなさんも気づいたかもしれない。
それまで私がどこかで抱いていた「経験の少ない小規模プロダクション」と「経験の少ない素人演劇集団」の「奇跡のストーリー」というイメージは全く間違っていた。誤った「演出」である。
両作品のプロデューサー・ディレクターと制作チームは、状況を分析し、戦略を立て、得意なやり方で勝負した。
不利な制約を避けず、利用するために考え、工夫したのだ。
彼らにふさわしいイメージとは、『七人の侍』である。
プロデューサー・ディレクターに共通する思考 その3
考え、工夫する
最後に
プロデューサー・ディレクターの共通思考
1 基本を忠実に行う
2 キャラクターを丁寧に表現する
3 考え、工夫する
私は「クリエイター」という肩書を疑っている。
人間みんながクリエイターとも呼べるからだ。
だから今回の記事はプロデューサー・ディレクターという肩書に絞った。
これなら何をしている人かわかりやすい。
その上で、彼らの「作家性」を考えてみたかった。
彼らは、制約を戦略として生かした。
自分たちの得意なやり方で、楽しんで、自分たちの作品を作った。
「作家性」を問う以前に「堅実」で「独創的」だった。
それがファンに愛されて、ヒットしてゆく作品を生み出した。
作品の成功や質には、プロデューサーやディレクターの仕事が大きくかかわっているのだ。
それがわかってよかった。
これからも両作品の制作チームのような、気づかれにくくも堅実な仕事を評価し、また参考にしていきたいと思う。
あらためて両制作チームに感謝申し上げます。
www.youtube.com すごくいい企画。おもしろかったです!
そしてここまで、こんなに長い記事を読んで下さったみなさんに感謝します。
前回の記事にもたくさんの感想をいただき、優しい人が多くて嬉しかったです。
みんなも好きな評論、書いて?
2019.3.7 Kousuke
※本文中の誤りは、遠慮なくご指摘下さい。
追記
※『カメラを止めるな!』の原作について2019年2月27日に公式より発表がありました。これにより上田監督と映画の着想となった舞台の原作者は「共同原作」と表記されることになりました。私はどちらが「オリジナル」であるかという論争よりもまず、話し合いによる妥協点を見出し、公式に正確な情報を発表した2つの作品の代表者に敬意を表したいという考えです。これにより映画はお蔵入りすることなく、舞台版のDVDが発売される可能性が残されました。私たちにとって最も不幸なのは、作品を鑑賞する機会そのものが奪われることだと私は考えます。
2019.3.8
「サーバル」は「シンガポールの…」→「多摩動物公園のサーバル」に修正:ご指摘ありがとうございます!
地上波放送の副音声の話を追加
2019.3.9
「「あとまだ5分あります」・・・」ツイッターより引用を追加:許可をいただき感謝いたします!
2019.3.12
動画『三幕構成を通して観るけものフレンズ一期』の紹介を追記
※リツイートやブックマークして下さった方、ありがとうございます。
本記事の内容が、みなさんの議論の叩き台のひとつになれれば本望です。