九龍城砦探検記1 地底の迷路を歩く
  

  

左の写真は南側から見た1985年の九龍城砦です。城砦の南側は窪地になっていて、当時は木造のスラムが周囲を取り巻いていました。右の写真は86年にスラムが撤去され、剥き出しになった後の城砦。細長いビルが隙間なくびっしり建てこんで、まるで巨大なコンクリートの塊のようです。

かつてここには本物の城砦があり、清朝の役人や兵隊が駐屯していました。1899年にこの一帯が中国から英国へ租借された時、九龍城砦だけはいわば飛び地の中の飛び地 のような存在として、香港の中にあってここだけが中国領として残されました。だから香港=英国の法律はここには及ばず、香港警察も内部に立ち入ることができなかったのです。一方で、まわりを英国軍に囲まれた清朝の兵隊はほどなくここから逃げ出してしまい、国民党政権も戦後の共産党政権も九龍城砦に役人を派遣せず、中国の法律も及びませんでした。このためどこの国の法律も適用されない「無法地帯」となったのです。戦後、大陸からの難民が香港へ殺到すると、城砦内の建物も次々と高層ビルに建て替えられ、こんな姿になりました。
 

城砦南端の龍津道。かつて通路の右側は木造スラム街でとても薄気味悪い一角でしたが、86年にスラムが撤去されてからは気抜けするほど明るい通りになりました。「牙科」「牙醫」の看板を掲げた歯医者が目立ちます。香港で医者になるには英国の医師免許が必要ですが、城砦には法律が適用されなかったのでここで開業するなら免許は不要でした。もっとも「無免許医」と言っても、ほとんどは中国の免許を持った医師だからそれなりの腕前です。というか、歯医者がたくさん密集していたので、腕が悪い医者は営業が成り立たなかったでしょうね。

ところどころに、薄気味悪い入口がぽっかり開いていて城砦内部へ続いています。これはその中の1つで西城路のり口。迷路のように入り組んだ通路の両側は、建築法などを無視した建物に覆われて昼でも暗く、澱んだ臭気が鼻を突きます。
 

城砦の通路には1つ1つ名前がついていました。龍津路、老人街、大井街など・・・。ここはかつてアヘンやヘロインを売る屋台が並んでいたという「伝説」もある光明街。「城砦福利会」とは城砦内部の町内会です。よく見るとアヘン商人から大財閥にのし上がったジャーディン・マセソン商会のマークが付いていました。町内会のスポンサーだったのかな?

「光明街」といってもやはり薄暗い通路です。九龍城砦には当時約3ヘクタールの敷地に5万人もの人が住んでいました。1平方キロメートルあたりの人口密度に直せば約160万人で、畳1枚分の土地に5人が暮らすという超過密エリアでした。
 

  

城砦の中央部を東西に貫く龍津路。頭上にはホースや電線が垂れ下がっています。建物と建物の間に隙間がないので、水道管や下水管、電線や電話線、テレビの共同ケーブルはこうやって配線するしかないようです。ホースの間には上の階の住民が投げ捨てたゴミがたくさん挟まっていました。下水管が壊れても修理できないため、汚水がボタボタ降り注いで通行不能の通路もありました。ビニールシートを張って通れるようにした場所もあります。
 

  

「みんなで力を合わせて、泥棒を捕まえよう」「ここで強盗をした者は、捕まえしだい、手を斬り足を斬る」
警察がやって来れなかったので、住民たちは自警団を作り、自分たちで治安を守っていました。

  

龍城路沿いには「龍津義学」という学校もありました。入口には獅子が鎮座しています。学校の1階は物置になっていて、奥には廟がありました。城砦の中心、かつて清朝の役所の建物があったところは、幼稚園や老人ホームになっていました。

その老人ホームの入口前に転がっていた、アヘン戦争当時の大砲。後に九龍城砦が取り壊された時、このあたりから「九龍寨城」と書かれた石製の額が発見され、それまで九龍城砦や九龍城寨と呼ばれていたのに、実は九龍寨城(ガウロンチャイセン)が本来の名称だったことがわかりました。そのため城砦の跡地に作られた公園は「九龍寨城公園」と命名され、無残な姿をさらしていた大砲も、今ではペンキを塗りなおされて、文化財として展示されています。

その2:屋上から啓徳空港を見下ろす

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