「首吊り嶺」へ送られた国民党の落人たち

~香港・調景嶺~
 
1993年10月
 
 

当時の地図

九龍半島の東端に、調景嶺(ディウゲンレン)という村がありました。周囲を山と海に囲まれて市街地から隔絶されたこの場所に、かつて中国大陸から逃げて来た国民党軍兵士たちの「落人村」がありました。

1920年代から続いていた中国国民党と共産党の内戦は、日本の敗戦後再び激しくなり、国民党軍は各地で敗走。1949年10月に共産党は北京で中華人民共和国の建国を宣言します。国民党の中華民国政府は大陸を捨てて台湾へと逃げますが、海を越えられなかった国民党軍の一部は、国境を越えてベトナムやタイ、ミャンマー、ラオスへ、そしてイギリス支配下の香港へも逃げてきました。香港政庁はとりあえず彼らを香港島西部の難民キャンプに入れましたが、ここは市街地と隣接していたため、冷やかしにやって来た共産党支持者との間でトラブルが絶えず、当時、無人の荒山だった吊頚嶺(ディウゲンレン)に新たな難民キャンプを築いて国民党関係者ら2万人を移したのです。

吊頚嶺とは「首吊り嶺」という意味です。かつてアルフレッド・H・レニーというカナダ人がここに製粉工場を作ったところ事業に失敗。首吊り自殺をしたことから付いた地名ですが、さすがに大陸を追われた落人たちも「首吊り嶺とは酷すぎる」と抗議して、中国語で似たような発音の「調景嶺」に改められました。


調景嶺へは香港島東部の西湾河から定期船が出ていました。船着場には青天白日旗(台湾政府の旗)がびっしり飾られ、ここが国民党の村であることをアピールしています。市街地からの道路もありましたが、バス1台がぎりぎり通れる細い道で、香港名物の2階建てバスは通行できませんでした。かつては定期船も道路もなく、市街地へは山を越えて歩いていったそうですが、1960年まで調景嶺は難民キャンプの扱いで、住民たちは自由に市街地へ出ることはできなかったそうです。

この路地がメインストリート。両側には商店が建ち並び、頭上は青天白日旗だらけです。上海料理や北京餃子など中国各地の食べ物を売る店も多ありました。香港人は基本的に広東語を話してますが、調景嶺の落人たちは様々な地方の出身者がいたので、ここでの共通語は北京語でした。

村には大きな天主堂(カトリック教会)もありました。調景嶺では当初、台湾政府が食糧などの配給を行っていましたが、後にアメリカのキリスト教系慈善団体が援助物資を配るようになり、信者を広げたようです。そういえば香港のランタオ島には、共産党政権を嫌って河北省から移って来たトラビスタ修道院があり、牛乳やクッキーがおいしいと評判になっています。

難民キャンプの事務所。60年以降ここは「ふつうの村」になったのですが、町内会の事務所としてそのまま使われていて、中には蒋介石の大きな肖像画が飾ってありました。

当初、調景嶺に収容された2万人のうち、国民党の軍や政府関係者の多くは52年に台湾へ渡り、90年代には6000人前後が残っていましたが、国民党とは関係ない住民が多数になっていました。初めの頃の調景嶺では食糧の配給が行われていたので、国民党の関係者に化けて食糧をもらおうとした人も少なくなかったようです。

10月10日の「双十節」は中華民国の建国記念日で、調景嶺のお祭りです。村の広場にはお祝いのアーチが飾られていました。

調景嶺には共産党支持者がたびたび嫌がらせにやってきて、52年の蒋介石誕生日には放火により村の大半が焼失、57年と60年には水源池に毒が混ぜられ、数千人の中毒患者を出す事件が起きました。村の青天白日旗が五星紅旗(中華人民共和国の国旗)に取りかえられる事件はしょっちゅうで、村では糾察隊という自警団を作り、左派らしい者を見つけると集団で袋叩きにしていたそうです。70年代末からはそんな物騒な事件はなくなりました。

「双十節」の記念式典会場となった調景嶺中学校。この学校はかつて台湾政府のカリキュラムに即した授業を行い、北京語で教育していました。学校には寮もあって、他の中学校を退学になって行き場をなくした香港人生徒も送りこまれてきたようです。香港映画スターの周潤発(チョウ・ユンファ)もこの中学出身とか。かつて香港では、言うことを聞かない子供に「おまえのような悪ガキは調景嶺の中学に入れるぞ!」と脅すことも、よくあったとか・・・。

  

「中華民国万歳」「光復大陸(大陸を奪還しよう)」などのスローガン。

台湾へ移った国民党政権は、大陸の共産党政権を「共匪(共産匪賊)」と呼び、あくまで「共産ゲリラが国土の大半を乗っ取ったにすぎない」と主張していました。そのため「反攻大陸」つまり政府軍(国民党軍)は台湾で態勢を整え直して、来るべき時期に共産ゲリラ(人民解放軍)の掃討戦を行って一気に大陸を奪い返そうと呼びかけ、調景嶺の住民たちも再び故郷へ帰れる日を待ち望んでいました。実際に国民党軍は50年代、広東省や福建省、浙江省などの沿岸諸島に小規模な上陸作戦を行いましたが、いずれも失敗し、逆に大陳列島(浙江省)などを失ってしまいます。金門島や馬祖島(福建省)も人民解放軍の砲撃にさらされて、大陸奪還の望みは絶たれてしまいました。

そして90年代、李登輝総統の下で国民党政権の台湾化が進められると、調景嶺の住人たちの国民党に対する思いも変化してきました。日本のマスコミは一時、調景嶺を「リトル台湾」と紹介していましたが、彼らが忠誠を尽くすのはあくまで「中国国民党」であって、「台湾国民党」ではないのです。

1997年の香港返還を控えて落人村の成り行きが注目されていましたが、香港政庁は1988年に調景嶺のニュータウン開発計画と、落人村の取り壊しを発表しました。政治的にやっかいな場所を返還前に処理しておこうとしたわけです。同じ時期に取り壊しが発表された九龍城砦と同様に、住民たちは立ち退き反対運動を繰り広げていましたが、九龍城砦では経済面での補償要求が中心だったのに対して、調景嶺では「他の場所での村の再建」を掲げていました。

調景嶺の奥には将軍澳(ジャンク・ベイ)という静かな入り江が広がっていましたが、ここでは埋め立て工事が進み、大きなニュータウンが建設されていました。

この写真を撮ったのは93年秋ですが、すでに調景嶺の手前まで埋め立てが迫っていました。落人村は96年夏に立ち退きが完了し、翌年の香港返還を迎えます。現在では小さな家がへばりついていた斜面を崩して海が埋め立てられ、高層マンションが完成しつつあります。香港島と九龍の市街地から地下鉄が開通して乗換駅となり、写真のような風景はもはや想像できないほどに変わっているでしょう。

調景嶺の住人たちはどうなったのでしょうか?台湾政府はかつて「香港返還に際しては、忠貞分子(国民党に忠を尽くした人たち)は台湾で受け入れる」と発表したことがありましたが、実行には移されませんでした。国民党独裁の時代ならいざ知らず、民主化が進んだ台湾では「国民党に忠を尽くした」を理由に特別扱いするわけにはいきません。一方で、調景嶺の住民たちも表面的には「台湾政府に面倒を見てもらいたい」と言いながら、本音では台湾へ行くことは望んでいませんでした。年老いた落人たちは長年住み慣れた香港を離れたくはなかったのです。台湾独立運動や、李登輝総統の「私もかつては日本人だった」発言は、かつて日本軍とも戦った落人たちの心を、台湾政府からいっそう遠ざけることになりました。

ニュータウンとなった現在の調景嶺と厚徳邨
結局、調景嶺を立ち退かされた人たちは、将軍澳ニュータウンの「厚徳邨」という公営団地に集められて住んでいます。中国返還後の香港では、公共の場所で青天白日旗を掲揚することが禁止され、団地に「落人村」の面影はありません。現在では大陸から逃げて来た落人たちのほとんどは亡くなり、台湾でも民進党の総統が誕生して、国民党政権はもはや存在しなくなりました。

落人村では満州出身という老人に会いました。親に決められた結婚が嫌で家を飛び出したあと張作霖の軍閥に入り、満州事変で関東軍に追われて張学良将軍とともに華北へ移り、西安事件で国民党軍に編入され、日本軍と戦った後、人民解放軍に敗れて香港へ・・・・と流転の末にこの村に辿りついたそうです。「日本の侵略がなければ、ここへ来ることはなかったはずだよ」と言いながら、青天白日旗をプレゼントしてくれました。今でも元気なら、100歳を超えているはずです。

●関連リンク
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写真と文:吉田一郎@ヤジ研