★東ティモール独立記念!特別連載★ 

ひがちも豆知識

ついにというか、ようやくというか、東ティモールも独立国家になりました。このHPの「東ティモール野次馬紀行」コーナーは長らく放置状態にありましたが、ヒガチモ独立のどさくさでYAHOO!に登録してもらい、アクセスカウンターが10倍くらいの速度で上がるようになりました。どう見てもこのHPは香港ネタ中心なんですが、YAHOO!では「インドネシア>島>東チモール」で登録されてるし、見に来た人も「ひがちもネタ」を期待している人が多いかと思いますので、ちょぼちょぼと連載コラムでも書いてみたいと思います。インドネシア併合から独立に至る話は、本がたくさん出てるし、そういうネタを扱ったサイトもたくさんあるので、主にそれ以前の歴史ネタが中心ってことで。東ティモールの現況や歴史の概略についてはこちら、細かな年表はこちらを見てくださいネ!

第1話 架空ドキュメント「西キューシュー独立紛争」 (02/5/20)

大航海時代のポルトガルは、アジアのあちこちに拠点を築いていた。インドのゴア、マレーのマラッカ、中国のマカオ、そしてティモール島一帯の島々などで、後にオランダに奪われたマラッカや東ティモールの周りの地域を除いては、そのままポルトガルの植民地となったのだが、実はポルトガルは日本でも長崎に拠点を築いていた。

時は1580年、キリシタン大名の大村純忠は長崎6か町と茂木村をイエズス会に寄進した。周囲の有力大名に攻められて苦境に陥っていた大村は、ポルトガル人と手を結ぶことで彼らの支援を期待したらしい。かくしてポルトガル人神父に率いられた「イエズス会領ナガサキ」が誕生したのだが、当時の東ティモールもポルトガルが直接支配していたわけでなく、ドミンコ会の神父が「監督神父」と称して統治していたわけで、似たような状況だったわけなのだ。84年には有馬晴信も対抗して浦上村をイエズス会に寄進している。

「イエズス会領ナガサキ」は8年後、バテレン追放を始めた豊臣秀吉によって没収されてしまうのだが、もし秀吉が没収せずに所領を徐々に西九州へ拡大し、「ポルトガル領西キューシュー」として正式な植民地になっていたら、どうだろう?

ポルトガル領西キューシューではカトリック教会が勢力を伸ばし、キリスト教に改宗する住民が増えた。ポルトガル本国やゴアなどから移住して来る人たちもいて、彼らや彼らとの混血人たちが西キューシューの権力を握る。こうしたポルトガル系の住民は数百年にわたって西キューシューに定住していても、母語はポルトガル語だし、名前もポルトガル風だ。一方で、西キューシューの先住民たちは農民や漁民で、ポルトガル語からの外来語が混じった九州弁を喋り、名前は田吾作とか助七とかいう伝統的な名前のままだ。中には教会で洗礼を受けて、伊東マンショ・千々石ミゲル・原マルチノなんて名前の人もいる。

日本では明治維新の後、義務教育が始まって、東九州の住民は標準語も話すようになり、日本の地理や歴史なんかも習って日本人としてのアイデンティティが確立していくが、西キューシューではポルトガルが教育に力を入れず、住民のほとんどは無学文盲のままだ。九州弁を喋り「九州男児」としての自覚はあっても、学校で習ってないから日本語(つまり標準語)はさっぱり通じない。日本が目覚しい経済発展を遂げていくのに対して、万事が消極的統治のポルトガル植民地だった西キューシューの住民は、江戸時代と大して変わらない暮らしを続けていた。

ところが1974年、ポルトガルでクーデターが起こり、新たに誕生したポルトガルの左派政権は植民地の放棄を決定。ポルトガル系住民が指導した左派勢力は「西キューシュー解放戦線」を結成して、独立を主張する。一方で、かつての大名や名主の子孫たちのようなポルトガル以前から先祖代々の地元有力者だった人たちは、日本への併合を主張して内戦が始まった。その結果、ポルトガル軍が残していった武器を得た独立派が勝利して、翌年「西キューシュー共和国」の独立を宣言することになった。

これに対して「西九州は我が国固有の領土である」と激怒したのが日本政府。「日本列島に社会主義政権を樹立させまい」とするアメリカの後押しを受け、自衛隊が軍事侵攻して占領してしまう(憲法第九条には「武力よる威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」とあるけど、西九州は日本の固有領土だから国際紛争に当たらない、というのが日本政府の見解)。日本政府は内戦に敗れて東九州へ逃げ込んでいた併合派の有力者たちを福岡に集め、「日本への併合要請決議」を上げさせて併合を正当化した。

日本政府は西キューシューのインフラを整備し、西キューシュー住民の生活水準は格段に向上した。西キューシュー総督府は「長崎県庁」と改められるが、ポルトガル人に代わって管理職に就いたのは、ほとんどが東京や大阪、福岡などから派遣された日本人ばかり。日本政府は「西九州の住民は長年にわたったポルトガル統治のせいで標準語が話せず、読み書きもできない者が多いので、当面は仕方がない」と説明したが、西キューシューの住民たちは「これでは日本による植民地支配だ」と不満が高まる。経済面でも同様で、資産を接収した旧ポルトガル系企業の重役には本土からの移住者がおさまり、本土から続々と進出して西キューシューを経済支配した日本の大企業も「地元の連中はまともに教育を受けてないから」と、西キューシュー人が雇われるのは肉体労働者ばかりだ。

日本政府は学校をたくさん建て、日本語(つまり標準語)による義務教育を始め、本土同様のカリキュラムで子供たちに日本史や地理、道徳等の授業を行ったが、住民の中にはこれを「日本文化の押し付け」「西キューシュー文化の抹殺」だと反発する声も出て来た。

一方で、「西キューシュー解放戦線」は島原半島の山岳地帯に立てこもり、ポルトガル系混血のシャナナ・グスマンの指揮の下で、予想以上に粘り強いゲリラ戦を続けて抵抗していた。ゲリラの抵抗に手を焼いた日本政府は、独立派との関係を疑った住民に対して厳しい拷問が行い、抗議集会に集まった住民たちに治安出動した自衛隊が発砲して虐殺事件を引き起こしてしまう。

 こうして西キューシュー人の間では「日本による統治はもうごめんだ!」という実感が広まり、「俺たちは日本人じゃなくて西キューシュー人だ」という意識も共有されていった。父親がポルトガル人でポルトガルに亡命した西キューシュー独立派の指導者ラモス・ホルタは「西キューシュー人と日本人は、歴史も文化も民族も違う」と訴え、純粋な西キューシュー人のカトリック神父・下呂司教も日本政府の暴力支配を世界に向けて訴えて、二人はノーベル平和賞を受賞する。20年以上にわたって日本による武力併合に見てみぬふりをして来た国際社会も、西キューシュー問題に関心を寄せるようになった。

そして1999年、アジア通貨危機の後遺症とバブル経済崩壊で苦境にあえぐ日本政府は、IMFからの支援を取り付けようと、国連主導の下で西キューシュー独立をめぐる住民投票の実施を約束した。日本政府としては「独立を主張しているのはほんの一握り。もともと西九州人は東九州と変わらない日本人だし、これまで多額の開発資金をつぎ込んで、経済も生活も教育もポルトガル時代に比べてうんと向上させたことは住民もわかってるはずだ」とタカをくくっていたが、さて、 住民投票の結果は・・・??


第2話 ポルトガル人が来る前のティモール島 (02/5/22)

ポルトガルの植民地となる前の東ティモールは、どんな様子だったのか?ティモール島には当時まだ文字はなかったので、ティモール人自身による記録は残っていないが、その様子を知る手がかりとなるのは中国の史書。邪馬台国や卑弥呼の頃の日本の様子を、『魏志倭人伝』で知ることができるのと同じだ。

ティモール島に関する情報を初めて記載した中国の文献は、元朝の時代(1350年)に汪大淵という人が編纂した『島夷誌略』という史書だ。この本は東南アジア各地の地理や特産品、支配者や人々の風俗習慣、中国との関係などを国や島ごとに紹介していて、ティモール島は古里地悶の名で登場する。地悶(dimen)はティモールの音訳だが、古里(guli)はサンスクリット語でgiri=山の意味らしい。

さて、 『島夷誌略』の原文を見てみよう。

居加羅之東北、山無異木、唯檀樹為最盛。
加羅(ハラ=セマオ島の港)の東北にあり、山(ここでは島の意味)には他の木がないほど白檀だけが盛んに繁っている。

以銀、鉄、碗、西洋絲布、色絹之属為之貿易也。
これを銀や鉄、陶器、西洋の布、色染めの絹と交換して貿易している。

地謂之馬頭、凡十有二所。有酋長。
馬頭(港)は十二ヵ所あり、酋長がいる。

田宜穀粟。気候不斉、朝熱而夜冷。
田では穀物がよく獲れる。気候は変化が激しく、朝は暑くて夜は寒い。

風俗淫濫。男女断髪、穿木綿短衫、繋占城布。
風俗は淫乱。男女ともに髪は短く、チャムパ(ベトナム中部にあった王朝)の布を繋ぎ、木綿のシャツを着ている。

市所酒肉価廉、婦不知耻。
市場では酒や「肉」が安く、婦人は恥を知らない。

部領目縦而貪酒色之余、臥不覆被、至染疾者多死。
部領目(船乗り)は暴飲暴食に暴色を重ねたうえ、布団をかけずに寝るため、病気に罹った者は多くが死ぬ。

尚在番苟免、回舟之際、櫛風沐雨、其疾発而為狂熱、
逃れようとしても、帰りの船で身を風雨に晒され、発病すれば高熱を発し、

謂之陰陽交、交則必死。
これを「陰陽交」と言い、交われば必ず死ぬ。

昔泉之呉宅、発舶梢衆百有余人、到彼貿易、
むかし泉州(福建省)の呉氏が、百人余りを集めて船を出し、現地に赴いて貿易を行ったが、

既畢、死者十八九、間存一二、而多羸弱乏力、駕舟随風回舶。
十中八、九は死に、一、二割しか生き残れず、多くは痩せ衰えて力がなくなり、船は風任せで戻ってきた。

或時風恬浪息、黄昏之際、則狂魂蕩唱、歌舞不己。
風が和ぎ波が穏やかな際には、黄昏には狂ったように歌い踊うばかり。

夜則添炬輝燿、使人魂逝而胆寒。吁、良可畏哉。
夜はたいまつを照らし、心底生きた心地がしなかった。ああ、恐ろしいかな。

然則其地雖使有万倍之利何益、
そこでは何万倍もの利益が上がるといえども、

昔柳子厚謂海賈以生易利、観此有甚者乎。
むかし柳子厚は海外貿易とは命と利益を引き換えにするようなものだと言ったが、これぞ典型的な例だろう。

『島夷誌略』によれば、ティモール島は中国にとって交易ルートの最終地点。確かに、いかにも最果ての島という感じの描写だ。白檀は香りの良さが珍重され、中国やインドでは古くからお香や香油の原料、さらに建築資材や漢方薬としても用いられてきた。ティモール島はポルトガル人の到来以前から白檀の特産地として知られ、東アジアとの交易ルートに組みこまれていた。莫大な利益をもたらす白檀貿易は中国の商人にとって魅力的だったが、気候や風習の違いから交易の長旅では多くの犠牲者を出したらしい。婦人は恥を知らないし(!)、酒も女も安いということで、船乗りたちはウハウハ遊んでしまうのだが、「陰陽交」という恐ろしい病気にかかってバタバタ死んでしまったらしい。

この「陰陽交」について、一部の学者は「交われば(つまりセックスすれば)必ず死ぬというし、字面からいっても性病のことだ」と指摘して、ポルトガル人がティモール島一帯へやって来る前に、アメリカ大陸から性病を広めた奴がいたと推測しているが、この病気はどう考えてもマラリアのことだと思う。布団をかけずに寝たら蚊に刺されやすいし、マラリアに感染している女性と並んで寝てて一緒に刺されたら、まずマラリアを移されるだろうし。帰りの船に乗って潜伏期間が過ぎたところで高熱を発するというのもそれっぽい。

そういえば私、東ティモールの田舎町へ行ったとき、教会に泊めてもらったが、暑くて布団をかけずに寝たらいっぱい蚊に刺されて大いに参った。翌日朝早くから隣の部屋にティモール人がたくさん詰め掛けていたので、教会の人に「何かあるんですか?」と尋ねたら、「ここは診療所にもなってるんですよ。患者はほとんどマラリアだね」と言われてパニック状態。慌てて医療ボランティアに来ていた日本のNPOの人に泣きついて、ティモール人に配るはずのマラリア特効薬を分けてもらうことに・・・。そんな自らの体験からも「陰陽交」とはマラリアのことだと思います(笑)。

話をもとに戻して、『島夷誌略』の後、中国の史書ではたびたびティモール島が紹介されるが、記述内容はほぼ同じだ。明の永楽年間(1402-24)に編纂された『星槎勝覧』では、島の名称は「吉里地悶」に変わり(たぶん『島夷誌略』からの写し間違い)、「商船が到着すると、女たちが交易にやって来る」の一文が加わる。

1530年頃に編纂された航海案内書『順風相送』でも、ティモール島は中国からパンダ諸島へ至る航路の最果ての地として紹介され、その先は食人山(人食い人種の住む島」だと描かれている。『順風相送』にはティモール島の十二の港の具体名が漢字で記載されているが、現在その場所を特定できるのは、ティモール島の入り口にあたる居邦(クパン=西ティモールの州都)と、白檀の積み出しが特に多かったという美●港(メナ=西ティモールの東部)だけ。メナには王が居住し、また「仏郎」も住んでいたいう。この仏郎(fuolamg)とはポルトガル人のこと。ポルトガル語の「ファラン(話す)」から来た言葉で、現在でもマカオの広東語では「ポルトガル語」の意味で使われている。この頃すでにティモール島にはポルトガル人(恐らく宣教師)が滞在していたことが伺える。

1617年の『東西洋考』では、ティモール島は遅悶(Chimen)の名で登場し、記載内容もより詳しくなる。「酋長」とともに「王」が存在し、住民たちは王に出会うとしゃがみ込み、合掌をして尊敬を表す。住民に姓はなく、文字や暦も知らず、日にちを数える場合は石を置き、石が千個たまれば縄を結んで記録する。訴訟があった場合には当事者双方に羊を牽かせ、羊がついて行った側の主張を正しいと判断する・・・などの風習が紹介されている。また白檀のほかにもヒハツやビャクズクなどの香料が特産とされ、交易は王が独占するようになり、「交易者が勝手にやって来ることはない」とある。

ポルトガルの植民地となる前のティモール島では、東では主に「リウライ」、西では主に「ラジャ」と呼ばれた土候(酋長)たちが群雄割拠し、それぞれの部族を率いていたと言われる。しかし『東西洋考』の記録によれば、やがて土候たちの上に君臨する「王」が出現し、貿易を支配するようになったらしい。白檀貿易で栄えた12ヶ所の港は、ティモール島の主に西部から中部にかけてで、現在の東ティモールの東部は交易に訪れた者も少なく、その様子ははっきりと記録に残っていない。

●=「蛍」の虫を月に替えた字


第3話 現代の政治がからむ「ティモール王」伝説 (02/5/28)

中国の文献にあるようにティモール島に果たして「王」が存在したかについては、現代の東ティモール独立問題にもからんで論争になっている。

もし、ティモール島全体を支配した王が存在していたとすれば、西洋人がやってくる前のティモール島は東と西で統一されていたことになる。それを引き裂いたのはポルトガルとオランダの植民地支配であって、植民地でなくなった今、ティモール島は統一されるべきだから、東ティモールだけ分離するのは歴史的に見ておかしいというわけで、インドネシアとの併合派に有利となる

一方で、王は存在しなかったとすれば、ティモール島は西洋人が来る前から統一されたことはなかったし、群雄割拠していた土候たちも東部では「リウライ」、西部では「ラジャ」と呼ばれて性質が異なったから(「ラジャ」はインド文化の影響を受けた呼び方で、ジャワ島などインドネシアで広く使われていた)、歴史的にみても東と西は別々ということになり、東ティモール独立派にとって有利となるのだ。

戦前、西ティモールを調査したオランダ人学者は、西ティモールから東ティモールの西部にかけて、テトゥン語とアントニ語を話す人たちの間に「同じ国」としての認識があり、ここにかつてウェラレ王国が存在して、姻戚関係を通じて土候たちを支配したことを明らかにした。また1960年代の調査でも、ティモール島の中西部で「ウェラレ王国の末裔」と称するラジャがまだ存在していて、広範囲なティモール人から特別視されていたことを確認している。

オーストラリアの人類学者ジェームズ・フォックスは、ウェラレ王国の支配領域はかつてティモール島全体の3分の2以上に達し、島に後から移住してきたマレー系の民族が、先住民のメラネシア系やオーストロネシア系住民を支配して成立した王国だと推定している。

中国の文献や上述した調査をまとめると、ポルトガル人の到来より前に、ティモール島には「ウェラレ王国」が存在し、西ティモールの大部分と東ティモールの一部を支配していた。この王国の下で共通語として形成されていったのが、今日東ティモールの共通語として使われているテトゥン語だ。しかし16世紀から17世紀にかけて西洋人がやって来て、白檀貿易がいっそう盛んになると、大きな利益と鉄砲を手に入れた各地のリウライたちの勢力が強くなる一方で、ウェハレ王国の支配力は弱まり、ついには解体してしまったようだ。

数百年前に島を統一した王が存在しようがしまいが、現代の東ティモール住民の多数が「独立したい」と願って独立したんだから、それでいいじゃんと思うのだが、政治権力の側は歴史的にさかのぼって自らを正統化したがるのが世の常というもの。独立後の東ティモールでは「ウェラレ王国」に関する歴史的な調査はおそらくやりにくくなるだろうと思う。

ま、日本でも「天皇の祖先はどこから来たのか」の調査がタブーみたいになっていて、宮内庁が天皇陵の発掘をさせないなんてことがありますね(笑)。


第4話 東ローマ帝国の滅亡と東ティモールの独立 (02/6/3)

ポルトガル人が東チモールへやって来たわけは、1453年の東ローマ帝国(ビサンチン帝国)の滅亡まで遡る。

それまでアジアで産出する胡椒などの香辛料は、エーゲ海に拠点を持つベネチアやジェノバの商人がヨーロッパへ運んでいた。しかしオスマン・トルコの軍勢によって東ローマ帝国の首都コンスタンチノーブルが陥落すると、地中海貿易はイスラム勢力の脅威にさらされるようになり、ヨーロッパとアジアを結ぶ新たな通商ルートの開拓に迫られていた。

一方で、エンリケ航海王子の活躍で、大西洋やアフリカ西岸へ積極的に進出していたポルトガルは、1494年にローマ教皇の裁定によりライバルのスペインとトルデシリャス条約を結んで、全世界の勢力圏を分割。そして1498年にはヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰をまわってインドへの到達に成功し、アジアへの直通航路を開いた。これによってポルトガルはアジアから大量の香辛料をヨーロッパへ運び、いちやく商業大国にのし上がった。

ポルトガルは利幅の大きいアジア貿易を独占しようと、アジア各地の沿岸部に相次いで拠点を確保した。ペルシャ南岸のホルムズやインド西岸のゴアセイロン(スリランカ)に続いて、1511年にマレー半島南岸のマラッカを占領。1514年には中国南岸の屯門(現在の香港郊外)に上陸し、明朝によって再三にわたり放逐されたが、53年に「船の積荷が濡れたので乾かしたい」という口実でマカオへの上陸に成功し、ここを4年後に居留地として確保する。ポルトガル人が種子島にやって来たのもこの頃で、1543年のことだ。

またポルトガルは丁子、ニクズク(ナツメグ)を求めて、「香料諸島」と呼ばれたマルク(モルッカ)諸島にも進出した。1522年にテルナテ島に要塞を建設したのをはじめ、現在のインドネシアにあたる領域に勢力を広げていった。こうして東ティモールもポルトガルの勢力下に入っていったのだ。

ということは、もしも東ローマ帝国が滅亡しなかったら、ポルトガルがアジアへ進出することはなく、東ティモールが西ティモールと切り離されて独立することもなかった?さぁ、どうでしょうね?


第5話 初めて東ティモールに上陸したポルトガル人の謎 (02/6/8)

植民地を支配する者にとって、初めて足跡を印した場所や人物は大いに記念すべきものらしい。

香港には英軍が初めて上陸した場所にその名もpossession point(占領地点)という公園があったし(中国返還の数年前にハイウッド・ロード公園と改称)、ポルトガル植民地だったゴアにはヴァスコ・ダ・ガマ市があった。アメリカが沖縄を統治していた時代にも、那覇にはペリー区という地名があった。これはペリーの乗った黒船が浦賀へ来る前に琉球に立ち寄ったことを記念して命名されたもので、毎年5月の「琉米友好週間」にはペリー一行の仮装行列もやっていた。沖縄の本土復帰後は戦前からの地名だった「山下町」に戻されている。

じゃあ、東ティモールにポルトガル人初めて上陸したのはいつ、どこで、誰だったのか・・・については、実ははっきりしないのだ。

当時のティモール人には文字がなかったから「ポルトガル人の初上陸」についてティモール側の記録は存在しない。ポルトガル側の文書に「ティモール」の名が初めて登場するのは1514年のことで、マラッカの司令官ルイ・デ・ブリト・パタリンがポルトガル国王に宛てた手紙の中で「白檀の島」として紹介されている。

西洋人のティモール島上陸について、現在も残っている最初のはっきりとした記録は、46人のスペイン人が乗ったビクトリア号の乗組員の日記だ。その日記によると、彼らは1522年1月26日にアマバウという町に上陸し、町一番の実力者に食糧を分けてくれるように交渉したが話がまとまらず、長老の1人とバリボという町から来ていたその息子を人質として船に連行。身代金として雄牛6頭とや豚2頭、やぎ5匹を受け取り、かわりに絹や綿、ナイフ、鏡などを与えたという。彼らは島に18日間滞在し、島の他の場所に4人兄弟の王がいることや、島には金が採れる場所があり男女とも金の装飾品を付けていたこと、そしてコロンブスがアメリカ大陸から持ちかえったはずの性病が、すでにティモール島にも広まっていたことなどを記録している。ということは、ビクトリア号より前にティモール島を訪れた西洋人が存在したらしい。世界一周を目指していたマゼランの一行は1511年に近くのソロール島に上陸しているが、この際にティモール島へも立ち寄ったのかも知れない。

ビクトリア号の記録に出てくるアマバウは、現在はアムベノと呼ばれる場所で、ティモール島中部にある東ティモール領の飛び地のあたり。バリボは東西ティモールの国境に近い東ティモール側の町だ。

ポルトガル人の東ティモール初上陸がはっきりしないのは、当時この一帯のポルトガル勢力の中心地が香料の豊富なテルナテ島だったため。ポルトガル人は地元のスルタンによって1574年にテルナテ島から追い出されたが、その後の中心地はティモール島の北側にあるソロール島だった。ソロール島は食糧の自給もままならない小さな島だが、周囲をフローレス島に囲まれた良港があり、マラリアが存在しなかったので貿易の拠点として適していたのだ。

またティモール島の白檀貿易も、良港がある西部のクパンや中部のメナが中心で、現在の東ティモールにあたる地域は未開の「辺境」と見られてポルトガル人に重視されなかった。だからこそ、後にオランダ勢力が破竹の勢いで進出した中で、東ティモールだけが最後までポルトガルの手に残ったとも言えそうだ。


第6話 神父が先頭に立ったティモール島征服戦争 (02/6/21)

ポルトガルによるティモール島の植民地化では、教会が果たした役割が大きかった。

ポルトガルはアジアとアフリカ東岸の植民地をインディア領と総称し、中心地のゴアに副王を置き各植民地に総督を派遣したが、ティモール島一帯には総督や役人は派遣されなかった。香料貿易は国家独占で行われ、カピタン・モール(司令官)に率いられた商船隊が年1回、季節風を利用して訪れるだけで、宣教師たちは砦や教会を築いて定住し、住民を改宗させて教会とポルトガルに忠誠を誓わせた。また互いに抗争を続けていたリウライやラジャに銃を与えて味方につけ、支配を徐々に固めていった。

ポルトガル国王はスペインとの世界分割の見かえりとして、ローマ教皇から新しい征服地におけるカトリックの布教と保護を義務付けられていた。教会は宗教的権威だけでなく植民地での司法や行政にも権限を持ち、現地の神父は監督教父としてカピタン(軍政長官)を任命した。また教会は商館の代理として現地での集荷を担当することで、貿易でも大きな利益を上げ、これを布教の経費に充てていた。つまりポルトガルの植民地征服は、軍事進出と商業進出、布教とが一体となって進められたのだ。

布教の中心となったのはカトリックの修道会で、日本やマカオ、マラッカではイエズス会が中心だったが、ティモール一帯では主に活動したのはドミニコ会。ドミニコ会の神父は1556年、ソロール島に教会や修道院を建設し、周辺の島々へ渡って布教を続けた。この結果、1560年代前半までにソロール、フローレス、ティモールの各島で五千人がキリスト教に改宗した。ティモール島で最初の教会は1589年にメナ(西ティモールの東部)で建てられた。しかし現地のラジャが一夫多妻を認めないカトリックへの改宗を拒んだため、神父は布教を断念し、この教会は半年で閉鎖された。ティモール島での教会建設が本格化するのは、それから半世紀経ってからだった。

ティモール島一帯では教会が先頭に立って支配を確立したため、ポルトガルはかつて東ティモールは戦争を経ずに植民地となったとアピールしていた。例えば20世紀初めにティモール総督を務めたドヴアルテは、その著書で「宣教師達の努力によって一発の銃声も聞かず、一回の外交的折衝をも煩わせず、平和裏にポルトガル領と化した」「初期の宣教師達は、柔和と質素と有徳とによって、間もなく原住民達を心服せしめ、彼等は続々宣教師達の手を通じて、ポルトガル王に忠誠を誓うに至った」と自賛している。

しかし当然のことながら、ティモール島の植民地も武力征服で築かれたもので、時として神父自らが軍隊を率いて改宗しようとしないリウライやラジャを攻撃した。その最大の戦争とも言えるのが、それまで島内の多くのリウライたちを従えていたウェヘレ王国の征服だ。

1641年、ソロール島の監督教父だったドミニコ会のアントニオ・デ・サン・ジャシント神父は、70人の軍勢を率いてメナに上陸。地元の女性ラジャを改宗させたのに続いて西へ進み、クパン(西ティモールの中心地)のラジャを改宗させてティモール島をサンタクルス島と命名した。そして島の中部(つまり東西ティモールの境界一帯)にあったウェヘレ王国を攻撃し、翌年ついにここを征服する。ウェヘレ王国の敗北によって、その支配下にあった島内のリウライやラジャたちは続々とキリスト教に改宗し、ウェヘレ王国の代わりにポルトガルを新たな「従うべき権威」と見なすようになった。

ポルトガルによるティモール島征服は、西洋人が初めて渡来してから120年ほど経った後、教会によって実行に移されたのだった。


第7話 オランダの世界進出とティモール島での勢力範囲 (02/7/1)

スペインとともに世界を二分する勢いだったポルトガル帝国も、繁栄は長くは続かなかった。1580年にエンリケ王が後継者を残さないまま死去すると、ポルトガル王家の血筋を引くスペイン国王のフェリペ二世がポルトガル国王にも即位し、ポルトガルは事実上スペインに併合されてしまったのだ。一方それと前後して、新たな海の覇者として登場したのがオランダだ。

オランダはスペインの支配下に置かれていたが、1581年に独立を達成した。もともとオランダは独立前から貿易でポルトガルと密接な関係にあり、世界各地からポルトガルへ運ばれた商品をヨーロッパの各港へ中継貿易することで潤っていた。しかしスペインは、オランダ独立への報復としてポルトガルの港からオランダ船を締め出したため、死活問題となったオランダはスペインやポルトガルの植民地を奪取しようと、アフリカやブラジルなど世界各地で攻撃を仕掛けた。

アジアでは1600年にマニラ沖でオランダがスペイン艦隊を打ち破ったのを皮切りに、半世紀にわたる植民地争奪戦が繰り広げられる。オランダはマカオ(ポルトガル)とマニラ(スペイン)に30年間に及ぶ波状攻撃を繰り返し、ポルトガル領だったセイロンマラッカを攻略。台湾では南部に拠点を築いて北部のスペイン勢力を追い出した。日本との貿易でも1641年の鎖国令によって貿易独占に成功する。オランダ商館が置かれた長崎の出島は、もともとはポルトガル人居留地として建設されたものだった。

一方でオランダは、1601年に東インド会社(VOC)を設立し、テルナテ島、アンポン島を占領して香料諸島からポルトガルを放逐するとともにジャワ島へ進出。1619年にジャカルタを占領して「バタビア市」を建設し、ここをアジアにおける拠点とした。オランダは周辺の王国の征服を続け、こうしてオランダ領東インド(略して蘭印)、つまり現在のインドネシアの領域ができあがった。

1613年からオランダはティモール一帯へも攻め込んだ。ポルトガル支配の中心地だったソロール島は、約半世紀にわたって葡蘭両軍が幾度となく攻防戦を繰り返したため荒廃し、ポルトガルは36年に拠点をフローレス島東部のララントゥカへ移した。また白檀の積み出し港があったティモール島の西部や中部でも両軍の戦いが続き、オランダは52年にクパンの砦を占領してティモール島西部に拠点を構えた。

一時はオランダがポルトガル勢力を一掃するかに見えた戦いも、1640年にポルトガルがスペインから再び独立し、52年から74年まで続いたイギリス-オランダ戦争で、オランダが世界の海での覇権を失っていくと形勢が変わった。葡蘭両国は61年にその時点での勢力範囲をお互いに認め合う平和条約を結び、ティモール島では西部はオランダが、中部や東部はポルトガルが支配することが確認された。

こうしてティモール島は、遠く離れたヨーロッパでの政変や勢力バランスの変化の結果として、ポルトガル領とオランダ領とに島がニ分割されることになった。

もっともこの時代の植民地には明確な国境線はなく、西洋人は重要な港に砦を築き、その地での貿易を独占したに過ぎなかった。またウェヘレ王国に代わって各地のリウライやラジャと同盟関係を結ぶことによって支配下に置き、兵力や賦役を動員させた。

この同盟関係は、日本の戦国時代とも共通していると言えそうだ。各地の武将が「豊臣方」「徳川方」に付いたように、リウライやラジャはそれぞれポルトガルやオランダと同盟を結んだ。しかし形勢の変化によっては反乱を起こしたり、他方へ寝返ったりが繰り返されていく。双方の間に明確な国境線は引かれず、どのリウライを味方に付けているかによって、ポルトガルとオランダの勢力範囲が存在したに過ぎず、それは固定したものではなかった。

戦国時代の日本の庶民にとって、自分たちを支配しているのはあくまで地元の武将で、その武将が「豊臣方」か「徳川方」かなんて関係なかったのと同様に、一般のティモール人にとっては、自分たちを支配しているのはあくまで地元のリウライやラジャで、島が二分割されたことは当時はまったく意味を持っていなかったのだ。


第8話 年貢制度導入への反乱とディリへの首府移転 (02/7/6)

オランダとの抗争が一段落すると、ポルトガルは17世紀末にそれまで教会任せだった統治を本格化させることに決めた。

東アジアにおけるポルトガルの拠点だったマカオは、徳川幕府の鎖国によって対日貿易が壊滅したことで経済的に大打撃を受け、ティモール島からもたらされる白檀の中継貿易が重要な収入源になっていた。そこでポルトガルはティモール一帯における統治の中心地をフローレス島のララントゥカからティモール島中部のリファウへ移し、ここを首府と定めてゴアから総督を派遣して常駐させることにした。またその経費をまかなうため、勢力下にあったリウライにフィンタス(年貢)の納入を義務付けた。年貢の対象となる品物は白檀、蝋、石油や穀物など各地の特産によって定められた。

ポルトガルによる統治の制度化は、リウライたちのほか、それまで現地で権力を握っていた教会や、トパッセと呼ばれる土着化したポルトガル系住民から強い反発を招き、数十年にわたる戦乱が続いた。

かつて旧ポルトガル植民地には、現地民と混血して定住したポルトガル系の住民が少なくない。アジアではインドのゴアン(ゴア人)、マラッカのユーラシアン(欧亜混血人)、マカオのマカニーズ(土生葡人)などがいて、現在でもポルトガル式の風習を守りながら生活している。これは大航海時代のポルトガルが女性の海外渡航を認めず、兵士たちに補助金を与えて現地の女性と結婚することを奨励したためで、こうして生まれた子供たちには父親に与えた称号を引き継がせて優遇した。本国の人口が少なく大規模な移民を送り出せなかったポルトガルは、混血によって植民地にポルトガルに忠実な住民層を形成しようとしたのだ。

トパッセはポルトガルとティモール一帯の先住民のほか、インド人やアフリカ人の血も引き、ポルトガル語と現地の言葉に精通していた。当時ティモール一帯に常駐していたポルトガル人は、本国から派遣された神父と数十人の兵士だけで、オランダやリウライとの戦闘で常にポルトガル人として戦ったトパッセたちは、やがて現地での権力を握り、リウライたちを従えて、新たにゴアから派遣されることになった総督に反抗した。

こうして1695年、ゴアから派遣された初代総督のアントニオ・デ・メスキタ・ピメンタルは、トパッセによって追い返され、次の総督も追放された。リファウで実際に常駐できたのは1702年に着任したアントニオ・コエリョ・ゲレイロ総督からで、トパッセを高官に登用したり、リウライたちに称号を授けて懐柔しようとしたが、一時的な安定しかもたらさなかった。

1719年からは年貢に反発して、中部でリウライたちが大規模な反乱を起こした。反乱は半世紀にわたって続き、オランダもこれに乗じて中部へ勢力範囲を拡大した。リファウは反乱軍に包囲され、トパッセによる総督暗殺事件も起きた。年貢の納入が途絶えたリファウでは食糧が不足し、マカオへ緊急援助を求めるほどに困窮した。こうした中で東部のマナトトを支配していたリウライだけは反乱に加わらずポルトガルへの忠誠を明らかにしていたため、1769年にメネセス総督は首府の移転を決断。1200人の住民とともにリファウを船で脱出して東へ逃げ、ディリを新たな首府と定めた。こうして現在の東ティモールにあたる地域がポルトガルの本拠地となった。西ティモールの北海岸にある東ティモールの飛び地オエクシは、かつて主都が置かれたリファウの場所にあたる。

主都がディリに移った後、ポルトガルによる統治はようやく安定し始めた。それまで支配が及んでいなかった島の東部でも、ラウテン、ビケケの辺りまでポルトガルの影響下に置かれた。ポルトガルは40ヵ所に砦を築き、リウライを通じて兵を集め、年貢を取りたてた。その一方で、地理的に隔絶されたソロール島やフローレス島は徐々に名目的な支配領域に過ぎなくなっていった。

白檀の産出は乱伐によって減少し、かわってロウケツ染めの原料となる蝋や、ベッコウ、鯨、そして奴隷などの輸出が増え、マカオから移住して来た中国人が商業を独占し始めた。ポルトガルによる白檀の専売制度は廃止され、かわって税関を設立して関税を徴収したが、ティモール政庁の財政は慢性的な赤字が続き、1820年からは毎年マカオ政庁からの補助金で支えられる状態となった。

こうして財政面や貿易面で、東ティモールはマカオへの依存を強めていく。その頃マカオでは、ポルトガル系住民が自治権の承認を求めてゴアから派遣された総督と対立し、1844年にインディア領から分離してマカオ・ティモール・ソロール州が設立された。東ティモールは名実ともにマカオの管轄下に入り、マカオの通貨パタカが法定通貨となった。


第9話 東西ティモールの分割 (02/7/24)

フランス革命による近代国家の成立やイギリスの産業革命によって、植民地のあり方は大きく変化した。

古代フェニキア人の地中海進出から始まって、伝統的な植民地経営とは砦を築いて拠点となる港を確保し、商館を建てて貿易を独占し、利益を上げることだった。国境線というものはあいまいで、住民の管理は支配下に置いた現地人の土候に任せ、反乱が起きた場合にだけ介入した。しかし産業革命で工業生産が飛躍的に増大すると、植民地は天然資源やプランテーション作物の供給源となり、本国の工業製品を輸出する市場ともなった。また住民は労働力という「資源」となり、植民地の生産性を高めるべく計画的なインフラ整備を行うための財源として徴税体制の整備が必要になった。つまり近代的な植民地経営のためには、国境線と領域を明確に定めて帰属する土地と住民をはっきりさせることが不可欠だったのだ。日本でも幕末から明治維新にかけて、近代国家となるためにまず手がけたのは小笠原諸島の領有宣言や琉球処分、千島樺太交換条約など、帰属する土地と住民を確定する作業だったのである。

こうして19世紀には列強諸国による全世界規模で植民地の分割が行われた。しかしその頃、ポルトガル本国では政局が混迷していたため、ポルトガルは植民地に対する統治意欲を失いつつあった。

1807年、ヨーロッパ大陸を席巻しつつあったナポレオン率いるフランスは、スペインと手を結んでポルトガルへ侵入した。国王はリスボン陥落の直前に海に逃れブラジルへ向かったが、ナポレオンの敗北後も帰国しようとせず、ブラジルへ移った貴族たちは本国の所領から地代を送金させ、ポルトガル本国はあたかもブラジルの植民地に転落したような状態となった。1820年に本国で立憲革命が起きると、ブラジルに残った王室は独立を宣言し、最大の植民地を失ったポルトガルは19世紀の前半を通じて内戦と反乱が続く。

こうした中でアフリカ分割に関するヨーロッパ列強の会議が行われた。ポルトガルなど伝統的な海洋植民地帝国は「(ヨーロッパ人で)最初に発見し上陸したのは誰か」という歴史的権利を尊重するよう主張したが、強大な軍事力を背景にした新興植民地帝国のイギリス、フランス、ドイツが主張した「現在誰が占領しているか」という実効支配が基準とされることになった。このため、沿岸部に砦や商館を築くだけだったポルトガルには不利となり、アフリカ南部東岸のモザンビークと西岸のアンゴラを結ぶ広大な領土を主張したものの、カイロからケープタウンにいたるアフリカ大陸の南北を貫こうとするイギリスと真っ向から対立し、1890年と91年の条約でアフリカ内陸部の主権を放棄することになった。

ティモール一帯でもポルトガルとオランダとの間で国境を画定するための交渉が始まった。これに先立って1841年、アヘン戦争でイギリスが香港を手に入れると、中国における対ヨーロッパ貿易拠点としての地位を奪われたマカオの繁栄は一気に失われた。このためマカオはティモールの財政を支えきれなくなり、幾度かの紆余曲折を経て、ティモール一帯の行政はマカオから切り離されて単独の州となった。そのためティモール政庁はソロール島やフローレス島の砦にたった数人の兵士を駐屯させる費用にも窮するようになり、オランダと植民地分割の交渉にあたっていたロベス・デ・リマ総督は、ティモール島以外での主権をすべて放棄することで合意した。この決定はポルトガル本国から猛反発を受けリマ総督は翌年更迭されるが、結局ポルトガルは1859年にそれまで支配していたフローレス島東部とソロール、アドナラ、レンバタ、パンター、アロールの各島を、20万フロリンでオランダへ売却する内容のリスボン条約を結んだ。これによってポルトガルの領土は東ティモールとディリ沖合のアタウロ島だけに限定されることになった。

ティモール島上での国境線の画定交渉も難航した。それまで東西ティモールには明確な国境線は引かれず、両国がどのリウライと同盟関係を結んだかによって勢力範囲が分かれていただけだった。しかもリウライたちの中には葡蘭双方と同盟関係を結んだり、相手方に寝返る者もいたので、その勢力範囲すらかなり曖昧な状態だった。その隙に乗じてオランダは徐々に勢力範囲を拡大し、1818年にはティモール島中部のアタププを占領した。アタププはポルトガルにとってディリに次いで関税収入のある港だったが、徴税に反発していた地元の中国人商人たちはオランダ側に協力した。このように両国の勢力範囲は常に流動的だったのだ。

ポルトガルは他の島での主権放棄と引き換えにティモール島の全てを譲るようオランダと交渉したが失敗し、リスボン条約ではティモール島の東西分割と一応の国境線が定められた。ただし原則として「味方につけているリウライの支配領域=国境」としたため、双方には多くの飛び地が残り、飛び地での反乱鎮圧やそのための軍隊通過をめぐって両国間のトラブルが続いた。これらの飛び地は1904年のハーグ条約や1914年の国際法廷による仲裁で解消されたが、リファウを中心としたティモール島中部のオエクシ地区だけは、かつてティモール政庁の首府が置かれたという「歴史的権利」が認められ、ポルトガル領の飛び地として残された。

こうしてようやく現在の東ティモールの国境が確定したのだ。しかし国境線はあくまでポルトガルとオランダの外交的駆け引きによって決まったもので、ティモール人たちの伝統的な文化圏や帰属意識とは異なるものだった。またポルトガルが放棄したソロール島やフローレス島のトパッセたちは数十年にわたってオランダに抵抗し続け、現在でもカトリック教会を中心とした共同体を維持している。

ということは、ナポレオンがヨーロッパを征服しないでポルトガルがもうちょっとしっかりしていたら、アフリカ分割会議でポルトガルの主張した「歴史的権利」が尊重されていたら、アヘン戦争が起きなくて香港がイギリス領にならずマカオがもっと繁栄していたら、ティモール島は丸ごとポルトガル領になっていて周囲の島々もポルトガル領だったかも知れず、「東ティモール」は存在しなかった・・・ということになりそうだけど、どうでしょうね?


第10話 セポイによる討伐作戦と「参勤交代」制度の導入 (02/7/31)

国境線が決まり領土が確定すると、ポルトガルは東ティモール全域での実効支配に乗り出す。これはリウライたちの地位を形骸化し、ティモールの伝統社会を破壊するとともに、住民たちに植民地建設のためのさまざまな義務や負担を強いる結果をもたらした。このため各地で激しい抵抗運動が繰り返され、東ティモールは約半世紀にわたって戦乱が続いた。

それまでポルトガルの統治は首府ディリ周辺だけにしか及ばず、本国から派遣された70人の兵士は慣れぬ気候と士気の低下で、大部分が病院か監獄で暮らしているとまで言われる状態だった。ディリ以外では50人あまりのリウライがそれぞれ世襲的な領地を伝統的な方法で支配しており、各地のカトリック教会もリウライたちと結んで大きな影響力を持っていたので、ティモール政庁は実質的な権力を行使することができなかった。そこでポルトガルは第一段階として地方での恒常的な支配の確立に取りかかった。つまりポルトガルによる「天下統一」である。

リスボン条約が締結された1859年に着任したアフォンゾ・デ・カストロ総督は、官吏の綱紀粛清に取り組むとともに、翌年にはインドやアフリカから傭兵を導入して討伐隊を組織し、東部へ出兵してリウライたちに帰順を誓わせた。インドからの傭兵とは、イギリス統治下のインドで現地民兵として雇われていたセポイと呼ばれる兵士たち。軍隊で使用する銃の薬莢に、ヒンズー教徒が神聖視する牛やイスラム教徒が不浄視する豚の油が塗られていたことをきっかけに、1857年に反乱を起こしてデリーを占領した。これが世界史の教科書にも出てくる「セポイの乱」だが、反乱の背景にはカースト制度などインドの伝統的な社会構造がイギリスによって破壊されてしまうことへの不安があった。反乱は1年足らずで鎮圧され、セポイの一部はポルトガル領のゴアへ亡命する。彼らはポルトガルの傭兵となり、ちょうど討伐作戦を進めていた東ティモールへ派兵された。皮肉なことに今度は彼らが東ティモールの伝統的な社会構造を破壊するために先兵となったのである。

リウライが帰順した地域では、ディリのほかマナトト、ヴェマーセ、ビケケ、ラウテン、アラス、ブルスコ、カイラコ、マウベラ、バトゥガデ、オエクシの計11ヵ所に屯所(ポスト)を設置し、下士官クラスの屯所長(ポスト長)と兵士を駐屯させた。それまでは地方で反乱が起きてポルトガル軍が制圧しても、軍隊がディリに戻れば再び支配が及ばなくなるという状態を繰り返していたが、屯所の設置により地方でも恒常的な支配が行えるようになった。屯所はポルトガルが東ティモールから撤退する1975年まで、地方における軍政一体の行政機構として重要な役割を担った。

屯所の設置とともに、リウライにはコーヒーの栽培が強制され、収穫の20%を政庁へ年貢として上納し、残りも政庁が定めた公定価格で売却することが定められた。今日、東ティモール最大の輸出商品となっているコーヒーは、1816年にアルコフォラード総督によってもたらされたが、その生産が本格化したのは地方支配の確立によって強制栽培政策が実施されてからのことだ。それまでティモールの特産品だった白檀は、長年の乱伐によって資源が枯渇しつつあり、政庁は新たな外貨収入源としてコーヒー栽培を重視していた。また69年にはポルトガル本国が奴隷制度を廃止したため、主にモザンビークから連れて来たアフリカ人奴隷に代わり、住民をコーヒー栽培の労働力として利用する必要があった。

このほか、屯所長は道路建設や支配拡大のための軍事作戦にしばしば住民を徴用したため、過重の負担に耐えかねたティモール人の抵抗運動が頻発した。61年にはディリ近郊のラクロ、ウルメラで大規模な反乱が起き、カストロ総督は中国人商人やアフリカ人奴隷から、女性や子供にまで武装を命令するなどディリは緊迫した状況に包まれた。オランダ海軍の助けを借りてようやく危機を脱すると、ポルトガルは東ティモール西部の制圧に取りかかった。

国境に近い西部一帯は、古くから貿易が盛んでリウライたちに銃が行き渡っていた。また当時はオランダ領の飛び地が散在し、オランダと結んで勢力を拡大しようとするリウライもいた。例えば隣り合ったリキサとマウベラのリウライは長年抗争を続けていたが、ポルトガルに協力的なリキサのリウライに対抗するため、マウベラのリウライはオランダに支援を求め、オランダもマウベラ一帯の領有権を主張していた。しかし国境が確定したことでポルトガル軍の軍事行動にオランダ側も協力するようになった。

一方で65年からは、主だったリウライたちをディリに集めて一定期間居住させることにした。いわば参勤交代制度の導入である。ディリに住まわせたリウライたちには、総督主催のパーティーを催したり洋装を与えるなどして懐柔に努める一方で、63年にはディリに寄宿制の学校を設立し、リウライに子弟を入学させることを義務付けた。この学校ではポルトガル教育を施して卒業後は官吏などに登用し、植民地統治を支えるティモール人エリートの育成を始めた。

しかし63年には給与未払いが続いていたポルトガル人兵士が反乱を起こしてセポイたちを追放、87年にはティモール人部隊が反乱を起こしてアルフレード・マイア総督を暗殺するなど、ポルトガル軍の内部でも混乱が続き、拠点が確保できたのは主に北海岸だけだった。


第11話 「廃藩置県」の断行とマヌファイの反乱 (02/8/12)

東ティモール全域での統治機構がほぼ確立したのは、94年に就任したセレスチーノ・ダ・シルバ総督の時代だ。シルバ総督は94年から96年にかけて内陸部で討伐作戦を行い、レメイシャ、アイレウ、カイラコ、エルメラ、コントラ・コスタ、ボイバウなどに屯所を設置したのに続き、国境地帯の南海岸に勢力を築いていたマヌファイ土侯領を総攻撃した。ドン・ドゥアルテとドン・ボアベントゥラの父子に率いられたマヌファイの民衆は、山間部に塹壕、土塁、落とし穴などを築きゲリラ戦で抵抗した。密林での戦いにポルトガル軍は苦戦し、アフリカ人の傭兵250人を投入して2年がかりでようやく制圧した。こうして1897年までにポルトガルはバリボ、デリバーテ、ボボナロ、ライバイ、ロロトイ、スアイ、ライメイなど国境沿いにも屯所を設置し、西南部を手中に収めたが、この過程で多くの住民が虐殺されたり故郷を追われて難民となり、コレラの流行も重なって国境地帯の人口は激減した。

ポルトガルの植民地統治が消極的だったのは、本国から派遣される総督の任期が短く、長期的な計画を実施できなかったせいでもある。総督は通常3年交替で、1年や2年で更迭されることも少なくなかった。そんななかでシルバ総督は14年間にわたって在任し、東ティモールでまがりなりにも植民地経営の近代化を果たすことができた。このためポルトガル時代には、彼は「ティモール王」のあだ名でその「業績」を称えられていた。

シルバはオランダと飛び地の整理に関する条約を結び、国境線をより明確にするとともに、40キロごとに屯所を設置して兵士を駐屯させ、屯所間には電話を敷設して全土に通信網を築いた。これによって地方で反乱が起きても、鎮圧のために軍隊を迅速に派遣できるようにした。またオランダ領から帰郷を望んだ難民を、特定の集落に移住することを条件に認めてコーヒーの栽培を行わせたほか、ジャワ島からゴムの樹を移入して栽培に成功させた。1897年には国策会社の祖国勤労農事会社(SAPT)を設立したり、豪州企業に石油採掘権を与えるなどして産業の振興を図った。

そして近代化の総仕上げともいえるのが税制改革だった。相次ぐ討伐作戦のため20世紀初頭のティモール政庁の歳出は約50%が軍事費に費やされ、財政破綻の状況が続いていた。チモール政庁は1896年から正式にマカオから分離した自治県となったにも関わらず、財政的には相変わらずマカオからの補助金で支えられ、ポルトガル本国で10年ごとに公債を発行して公務員や兵士の未払い賃金に充てるという綱渡り的な状況が続いていた。産業開発のための公共事業を行うには、それまでのリウライを通じた前近代的な年貢制度に代わって、住民から直接に税金を徴収することによって安定した歳入の確保が必要になった。近代的な税制の導入にあたっては、政府による人口の掌握と貨幣経済の浸透が不可欠だが、19世紀末までに全土の実効支配(屯所網の設置)と法定通貨の制定(マカオ・パタカの導入)が行われており、前提条件は整いつつあった。

こうして1906年、18歳から60歳までの全ての成年男子を対象に人頭税が導入された。人頭税収入のうち半額は地方税分として各屯所やリウライにも配分されたが、それとともにリウライは住民から独自に徴税や年貢の取り立てを行うことが禁止され、土侯領は経済的な自主性を失い、その地位はティモール政庁の地方機構として組み入れられた。つまり税制改革は東チモールにおける「廃藩置県」を意味し、ティモール政庁による中央集権体制を完成させたのである。日本では徳川家による恒常的な全国支配体制の確立から明治政府による中央集権の完成まで約250年かかったが、東ティモールではそれを50年間で行ったことになる。

フィロメーロ・ダ・カマーラ総督が1911年、人頭税の増税を実施すると、これに反発したマヌファイのティモール人たちは、再びドン・ボアベントゥラを先頭にかつてない激しい反ポルトガル戦争を起こす。半年に及んだ戦いで殺された住民は1万5000人とも2万5000人とも言われ、1万2000人の住民が立てこもったレオラコ山では女性や子供を含む3000人が虐殺された。ポルトガルはマカオやモザンビークから軍艦を急派したが、鎮圧作戦の先頭に立たされたのは、ポルトガルに協力的なリウライを通じて動員されたティモール人の現地民兵だった。「明日は敵になるかも知れない」と信用されなかった彼らには十分な銃は支給されず、主に投槍や刀を手にして鎮圧戦に動員され、多くの者が犠牲となった。ポルトガル兵の死者が28人だったのに対して、現地民兵の犠牲者は1万2000人に達した。

こうして鎮圧に成功したカマーラ総督は、1912年8月に反乱犠牲者をディリでさらし首にし、それを囲んで盛大なカーニバルを催してポルトガルによる強権支配の確立を誇示した。捕虜となった首謀者たちはアフリカへ流罪となり、国境地帯では多くのリウライが伝統的な慣習には依らず総督によって任命し直された。

マヌファイの抵抗は今日では侵略に対する抵抗運動の象徴とされ、刑務所で命を落としたドン・ボアベントゥラはティモール民族を率いた英雄とされている。


第12話 ポルトガルの財政再建のために強制労働させられたティモール人 (02/9/4)

ポルトガルでは1910年に王制が倒れて共和国となったが、内戦と第一次世界大戦の影響で深刻な財政危機に見舞われ、経済が混乱した。しかし28年に「財政独裁」を掲げて蔵相に就任したサラザール教授は、増税と海軍・教育支出の大幅削減によって初年度から均衡予算を実現し、経済立て直しに成功した。「ポルトガルの救世主」として国民の絶大な支持を集めたサラザールは32年に首相に就任した。サラザールの主張は「財政の均衡なくして経済の発展はなく、経済の発展なくして社会の安寧はなく、社会の安寧なくして政治の安定はない」というもので、均衡財政を最優先するものだった。こうしてポルトガルの各植民地でも財政自立が至上命令とされ、毎年巨額な赤字が続いていたティモール政庁も、財政再建が急務とされた。

東ティモールではマヌファイの反乱が鎮圧された後、植民地支配への主だった抵抗運動は終息した。人頭税はティモール政庁にとって最大の財源となり、1924年から33年にかけて租税収入全体に占める割合は平均で46・26%に達した。人頭税は賃金労働者が年間16パタカ、それ以外のものは11パタカだったが、現金で納税できない者は1ヶ月の強制労働が科せられた。農村部では貨幣経済が浸透しておらず、住民には現金収入がほとんどなかったので、全体で6割以上の納税者が強制労働に従事し、ティモール政庁はこれを利用して道路や公共施設の建設を進めた。

強制労働には竹棒を持った見張りの監視の下で行われ、逃亡を企てたものには容赦ない体罰が加えられた。人里離れた道路工事現場では満足な食事や寝具が与えられず、健康を損ねた者が多かった。東ティモールの人口は1927年の45万1000人が、37年は45万6723人と停滞していたが、これは昼と夜の温度差が激しい気候で野宿を続けさせられたために、道路工事中に肺炎で死亡するものが激増したためだった。14世紀に『島夷誌略』はティモール島との交易の様子を「船乗りたちは布団をかけずに寝るため、病気にかかれば多くが死ぬ」と描いていたが、20世紀になってティモール人が同じ状況に置かれたのだ。

過酷な強制労働から逃れるために、コーヒー農場で働き現金収入を得ようとするティモール人が増えたが、法定賃金は男子1ヶ月わずか3パタカ、食事代を合わせても4・5パタカに抑えられ、大農場を経営していたSAPTは大きな利益を上げた。労働者の雇用斡旋は屯所長を通じて行われたため、屯所長はリウライをしのぐ権力を握っていった。人頭税のほかに、ティモール政庁は建物の修繕、木の伐採、儀式や祝宴に伴う家畜の屠殺、結婚やティモール人にとって最大の娯楽である闘鶏など、生活に関わる様々な事柄に税金をかけた。これに対し、主にポルトガル人や華人が負担する不動産税、産業税、登録税などは租税収入のわずか6・22%を占めるに過ぎなかった。

こうして1934年以降のチモール政庁は財政黒字を達成したが、35年度の歳出ではポルトガル本国への分担金や献金、引退した政庁高官や将兵への恩給が約4分の1に達し、軍事費も依然として12・56%を占めていた。これに対して教育支出はたったの1・69%で、教会への支出の半分以下だった。公共事業が強制労働に依存して行われていた土木費も4・19%を占めるに過ぎない。このようにティモール政庁の財政は、文字通りティモール人からの搾取によって支えられ、その支出はポルトガル人のためにより多く費やされていた。


第13話 文盲率99%以上の植民地教育 (02/9/26)

植民地における教育には、主に3つのタイプがある。日本式英国式、それからポルトガル式だ。

日本は優秀な労働者を育成するため、植民地では初等教育の普及に力を入れた。日本人が通う小学校のほかに現地住民が通う公学校を作り、徹底した日本語教育を行った。南洋諸島や台湾の山岳地帯の先住民(高砂族)の小さな集落にも学校が建てられ、就学率は6割を超えた。しかしエリート育成は行わなかった。台湾に台北帝国大学、朝鮮には京城帝国大学が設立されたが、それらは現地に住む日本人子弟のためのもので、現地住民の入学はまず困難だった。台湾の李登輝前総統が京都大学に入学したのも、台北帝大が台湾人にほとんど門を閉ざしていたからだ。

イギリスはその逆で、植民地では高等教育に力を入れた。香港大学やマラヤ大学(現在のシンガポール大学)はもっぱら英語による現地住民のための高等教育機関で、親英的なエリートを積極的に育成しようとした。優秀な学生には奨学金を与えてオクスフォードやケンブリッジ大学に留学させた。しかし初等教育の普及には力を入れず、例えば香港の場合、義務教育制度ができたのはようやく1980年になってからで、小中学校の大部分は今も私立学校だ。

「住民に教育を普及させてもエリートは育てない」のが日本式なら、「少数のエリートは育てても住民に教育は普及させない」のが英国式だが、ポルトガル式はというと「住民に教育を普及させずエリートも育てない」というもの。例えばマカオでは、大学が設立されたのは1980年代になってからで、義務教育は99年の中国返還まで実施されずじまいだった。

なにしろポルトガル本国からして教育に不熱心な国だ。1930年の識字率はわずか32・2%で、国民の半分以上がアルファベッドの読み書きができなかった。その植民地、とりわけ財政事情が最も悪かった東ティモールで満足な公教育を行うはずはなかった。

東ティモールでの教育は、リウライの子弟にポルトガル語教育を授けるための寄宿制学校を除けば、教会が運営する学校があるだけで、ポルトガル語やキリスト教、算数などを教えていた。しかし1910年にポルトガルで王制が倒れると、共和党政府は宗教は迷信でありポルトガルの後進性の原因はカトリックにあるという「反教権主義」を唱え、カトリック修道会を解散させて教会財産の没収を行った。このため東ティモールでも教会学校はほぼ閉鎖状態となり、ティチモール政庁は代わって小学校と実業学校を合わせて16ヵ所開校したが、教育の普及はさらに遅れることになった。教会学校は1916年に再開され、20年代末の段階では小学校が教師6人、助手7人、生徒数約200人、教会学校が神父15人、助手10人、生徒数約500人だった。この他に裁縫や大工などの実業学校と修道院があり、27年の生徒総数は1193人、卒業者はわずか53人で、中学以上の学校は存在しなかった。

ティモール人で読み書きができる者はリウライの子弟など限られたごく少数の者だけだった。1927年の政庁統計によると総人口45万1604人のうち、読み書きができた者は1822人、読むことだけができた者は742人で、識字率はわずか0・57%。住民の99%以上は字が読めなかったのだ。しかも中国人(華僑)やポルトガルとの混血者を除けば、ティモール人で読み書きが出来たのは数百人しかいなかったかも知れない。もっとも東ティモールには新聞や雑誌は存在せず、学校で字を習ってもそれを生かせる機会はまったくなかった。

この状況は戦後になってもかわらなかった。学校の数は増えたものの、学校で使われる教育言語はポルトガル語で、ティモール人が話すテトゥン語は採用されず、大部分の住民は学校教育を受けられなかった。ティモール人の間に教育が普及したのは、インドネシアが武力併合した1970年代後半以降のことだ。


第14話 東西ティモールでの民族意識の分化 (02/10/7)

第一次世界大戦の後、国際的な民族自決の潮流の中で、アジアでも反植民地運動が沸き起こった。1919年には朝鮮で日本の植民地支配からの独立を求める三・一運動(マンセー事件)が、中国では反帝国主義、反日本、反軍閥の全国的な抗議運動(五四運動)が発生し、これら反植民地の運動は東南アジア各地へも広がっていったが、近代教育が欠如していた東ティモールではこれらの動きから取り残されていた。東ティモールで反体制の思想を有していたのはポルトガルから送りこまれた流刑者たちだった。

ポルトガルでは1933年に「新国家」体制憲法が公布され、イタリアのムッソリーニ政権を範としたファシズム体制を強化した。サラザール首相は36年から蔵相、外相、陸相、海相も兼任して長期独裁政権を確立し、ヒトラー・ユーゲントを模したポルトガル青年団も結成された。東ティモールは流刑植民地とされ、ポルトガルで弾圧された自由主義者や共産主義者が政治犯として送りこまれた。流刑者は東ティモールに着くと月20八パタカの手当を支給されて生活の自由が認められ、農場や商社の事務員や工事現場の監督などとして働く者が多かった。彼らの中にはその後東ティモールに定住し、テイモール人と結婚した者も少なくない。後にインドネシア占領下で東ティモールの独立運動のリーダーの1人で現在東ティモールの外相に就任しているラモス・ホルタの父親も、この時に送りこまれた流刑者の1人だった。

一方でオランダ領の西ティモールでは、ジャワ島で高等教育を受けたインテリ層を中心に、「インドネシア人」としての民族意識が形成されつつあった。オランダは1901年から、「未開の原住民」を文明化させるのがオランダの任務であるという「倫理政策」を実施して教育の向上を図り、18年には国民参議会を設立した。これを受けて植民地支配に対する抵抗運動も、武力反乱から政治闘争へ移り、08年の「プティ・ウトモ」を皮切りに、イスラム同盟(12年)、インドネシア国民党(PNI=27年)、インドネシア党(パルティンド=31年)、大インドネシア党(パリンドラ=36年)、インドネシア政治連合(GAPI=39年)など様々な政治団体が結成された。それまでの部族、王国、島ごとに行われていたオランダへの抵抗運動は、インドネシア全体の自治権拡大や独立を求める運動に変わり、共通語としてのムラユ語(後のインドネシア語)の普及運動も始まった。西ティモールでも22年にティモール人同盟(Timorsch Verbond)が結成され、33年にはPNIの影響を受けてジャワ島のバンドンで学生が中心となりティモール青年団(Timorshe Jongeren)が結成された。また25年にはインドネシア共産党(PKI)の支部がクパンに開設されている。

こうして1920年代から30年代にかけて、ポルトガルとオランダによる近代的植民地統治の違いによって、ティモール島の東と西では同じ言葉を話していても別々の政治意識や民族意識が芽生えていった。当時これらの民族意識はあくまで一部のインテリ層に限られ、近代教育と無縁であった大多数のティモール人は従来からの部族意識のもとに暮らしていたが、東西ティモールでの別々の民族意識の芽生えは、後に東ティモール独立への伏線となっていった。

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