ヒガチモって、どんなとこ?東ティモール(東チモール)とは、インドネシアのやや東寄りあるティモール島の東半分と、西半分のうちオエクシと呼ばれる飛び地を合わせた地域です。オーストラリアからも近く、ダーウィンの北約500kmの位置にあります。
日本ではかつては「葡領チモール」、その後は「東チモール」と呼ばれてきましたが、最近では「東ティモール」という表記が定着しつつあるようです。
面積 1万4609平方メートル(長野県や岩手県とほぼ同じ)
人口 89万人(1999年)。しかし今も数万人が難民となってインドネシア領の西ティモールなどに住む。
国名 東ティモール民主共和国。ティモールとはマレー系の言葉で「東」の意味。だから東ティモールなら「ティモール・ティモール」。またティモール人たちは「ロロサエ」とも呼ぶ。これは日出ずる処の意味で、つまりは「日本」と同じ。
独立 2002年5月20日
首都 ディリ市(人口15万人、94年)
民族 一般に「ティモール人」と総称される人たちには、マレー系のベルーン人を中心に、パプア系やポルトガル人との混血の人たちなどがいる。インドネシアによる併合後はジャワ島などからの移住者も急増した。他に都市部には数千人の華人(中国系)も存在。
言語 独立後の公用語は旧宗主国のポルトガル語とテトゥン語。日常的に使われているのはテトゥン語などのマレー系諸語で、パプア系の言語を話す部族もいる。広く通用しているのが同じマレー系のインドネシア語。英語は国連統治時代に話せる人が増えた。華人は客家語を話す人が多い。国連暫定統治時代の統計によると、東ティモールの住民のうちテトゥン語を話せる人は82%で、以下インドネシア語は43%、ポルトガル語5%、英語2%の順。
教育 小学校から大学まで現在はインドネシア語とテトゥン語による授業が行われている。政府は2005年からポルトガル語による教育に切り替えようとしているが反対が多く、現実的にも実施は難しそう。小学校の就学率は54%(2000年)。
宗教 公式統計ではカトリック90.1%、イスラム3.8%、プロテスタント2.9%。実際には部族固有のアミニズムが盛ん。
通貨 米ドル。ポルトガル植民地時代はマカオの通貨パタカ、インドネシア占領期にはインドネシア・ルピアが使われていた。
産業 白壇の木が特産だったが乱伐により枯渇。農産物は米、イモ、トウモロコシなどだが、20世紀初めからコーヒーの栽培も盛んで、現在のところ唯一の輸出産業。工業など近代産業の発展は遅れているが、将来的には海底油田の開発も期待されている。
国内総生産は3億3211万ドル(97年) 、1人当たりでは393ドル(同)。数字ではベトナム(370ドル)とほぼ同じで、ミャンマー、ラオス、カンボジア(270~280ドル)よりは上ということになっているが、実態は東南アジアで最低レベル。ちなみにインドネシアは1410ドル(99年) 。
元首 独立とともにシャナナ・グスマン(Xanana GUSMAO)が大統領に就任。
閣僚 マリ・アルカティリ(Mari ALKATIRI)首相兼開発・環境相=東ティモール独立革命戦線(FRETILIN)、ジョゼ・ラモス・ホルタ(Jose Ramos HORTA)国務相兼外務協力相=無所属など。9人中6人をFRETILINメンバーが占める。
国会 一院制で全88議席。2001年8月に選挙が行われた制憲会議が独立とともに移行。
政党 2001年8月の制憲会議の結果は以下の通り。他に無所属が1議席。
●東ティモール独立革命戦線(FRETILIN)55議席=もともと社会主義路線を掲げ、インドネシア占領期にはゲリラ戦による独立闘争を続けた独立派の最大勢力
●民主党(PD)7議席=インドネシアの大学で教育を受けた学生組織が結成。ポルトガル語の公用語化に反対
●ティモール社会民主協会(ASDT)6議席=フレティリンから分裂した急進派。75年の「独立宣言」で初代大統領に就任したシャビエル・ド・アマラル氏が結成
●社会民主党(PSD)6議席=インドネシア占領下で東チモール州知事をつとめた元UDTのマリオ・カラスカラオ氏が結成した穏健派
●ティモール民主同盟(UDT)2議席=一貫してフレティリンのライバルだった穏健独立派。インドネシア占領期に東ティモールに残った指導者はインドネシアと協力
●ティモール民衆党 (PPT)2議席=インドネシア併合派の元民兵が結成?
●キリスト教民主党(PDC)2議席=UDC/PDCから分裂して結成
●勇敢なるティモール連合(KOTA)2議席=「リウライ」など伝統的な地元有力者が結成。75年にはインドネシア併合を支持したが、99年には独立を支持。
●ティモール国民党(PNT)2議席=インドネシア併合派が結成。国連統治に反対し、インドネシア語の公用語化を掲げる。
●ティモール社会党(PST)1議席=「世界革命」を掲げる第四インター系の社会主義政党
●自由党(PL)1議席
●ティモール民主・キリスト教党 (UDC/PDC)1議席=UDTから分裂して結成
歴史
▼南蛮人がやって来た
ティモール島はもともと「リウライ」や「ラジャ」と呼ばれる土候たちによって、いくつもの小さな国に分れていました。10世紀頃から白檀の産地として知られ、ジャワ島を経由してインドやアラブに輸出されていました。また中国の商人もたびたび交易に訪れていました。
1499年にバスコ・ダ・ガマがインド航路を開拓したことで、東方進出を目指したポルトガルは、1510年にゴア(インド西岸)、1511年にマラッカ(マレー半島南岸)を占領したのに続き、世界的な香料の産地だった現在のインドネシア東部一帯の島々に進出しました。ティモール島にも上陸し、周囲のフローレス島やソロール島とともに占領しました。
またこの時期、ポルトガルは台湾に上陸して「フォルモサ」と名付けたり、1553年には「船の積み荷が濡れたので乾かしたい」という口実でマカオ(中国南岸)に上陸し、そのまま占領しました。日本の種子島に漂着(ということになっているが、ホントは意図的に上陸したらしい)したのも1543年です。▼オランダの勢力拡大
こうしてヨーロッパの対アジア貿易を独占し、莫大な利益をあげたポルトガルですが、1580年にポルトガル本国がスペインの屬領となり弱体化してしまいます。そこに付け込んでアジアに進出してきたのがオランダで、インドネシアの各島を占領するとともに、ポルトガルからマラッカを奪い、さらに1604年から1627年にかけてマカオを攻撃。マカオではポルトガル軍に撃退されましたが(現在でも荷蘭囲=オランダ兵収容所という地名が残ってます)、台湾では南部に砦を築き、長崎の出島ももともとはポルトガル人の居留地でしたが、徳川幕府のキリシタン禁制に便乗して、1639年にオランダ人の居留地となったものです。
ティモール島はポルトガル領として残りましたが、17世紀に西ティモールの良港・クパンをオランダが占領し、1661年の条約でポルトガルは西ティモールから撤退。1859年の条約ではフローレス島やソロール島をオランダに売却しました。1913年の条約でティモール島上での国境線を明確にし、現在の東ティモールの領域が決まりました。▼沈滞の島へ
こうしてポルトガル領として残った東ティモールでしたが、香料の産地である周囲の島々がオランダ領となったことや、特産の白壇が乱伐で減少したことで、経済は不振が続いていました。行政面でも当初はゴア総督の下に置かれていましたが、18世紀にマカオ・ティモール・ソロール県の一部として、マカオ総督の下に置かれました。しかし、1843年にアヘン戦争で英国が香港を占領すると、それまでの貿易拠点としての地位を香港に奪われ、マカオの経済は衰退しました。このため、マカオが東チモールを支えるゆとりはなくなり、東ティモールにも総督が派遣され単独の行政区となりましたが、これによってティモール政庁の財政はますます困窮し、開発や発展が遅れる原因となりました。オランダとの間で領土が確定したことで、ポルトガルは支配を固めようと、それまでのリウライたちを通じた間接統治から直接統治に乗り出したため、19世紀末から20世紀初めにかけて激しい反乱が繰り返されました。ポルトガルは1910年代にようやく反乱を制圧し、コーヒー栽培による産業開発に乗り出します。▼日本の経済進出と占領
コーヒー栽培が軌道に乗った東ティモールへ、積極的に経済進出を行ったのが日本でした。1930年代後半に「海の満鉄」と呼ばれた国策会社の南洋興発が合弁会社を作り、コーヒー産業を支配下に置きました。東ティモールで発見された石油の利権をめぐっても、オーストラリアやオランダと対立することになります。
そして太平洋戦争が勃発すると、日本軍はオランダ軍を攻撃し、インドネシア(当時は蘭印)を占領します。ポルトガルは中立国でしたが、ティモール島はオーストラリアに近かったため、連合軍が「日本軍に取られたら困る」と上陸、間もなく日本軍も上陸し、戦闘の末、東ティモールを占領しました。日本軍は総督を除くポルトガル人を「保護」するために収容所へ入れ、東ティモールを実質的な統治下に置きました。戦闘や占領下の食糧不足、労務徴発などによる酷使などで、東ティモールの人口は戦争中に約1割に相当する4万人減少したとも言われています。▼落日の植民地帝国
終戦の直前、インドネシアは独立を宣言し、再び戻ってきたオランダ軍と闘い、50年に独立しますが、東ティモールはそのままポルトガルの植民地として残ります。これは独立したばかりで政治的にも不安定だったインドネシアには、東ティモールを占領するゆとりがなかったことや、ポルトガルがあくまで植民地の独立や返還を認めなかったためです。
しかしポルトガルの各植民地でも、独立運動が相次いで激化しました。モザンビーク(アフリカ東岸)やアンゴラ(アフリカ西岸)では内戦に突入。インド西岸のゴア、ディウ、ダマンは61年にインド軍に無血占領され、マカオも66年に住民が暴動を起こし、マカオ総督は中国に「我々はポルトガルに引き揚げる」と申し出ましたが、「いま返還されたら香港人が動揺するので、おまえらがしばらく預かってろ」と逆に説得されるという始末でした。
東ティモールでも70年代に入ると独立運動グループができました。▼貧困の植民地と「マウベレ主義」
西欧の最貧国にまで落ちぶれたポルトガルの支配の下で、東ティモールの産業は停滞し、大部分の住民の暮らしは最低のレベルでした。例えば1970年の住民1人あたりの年間所得は103米ドル、中学・高校は5校しかなく生徒数はわずか1127人、文盲率は95~99%に達していました。また医師も全土で20人足らずしかおらず、平均寿命は37・5歳、乳児死亡率は30%に達していました。
こうした中で結成された東ティモール独立革命戦線(FRETILIN=フレティリン)は、住民の95%を占めたマウベレ(読み書きができず、医者にかかったことがなく、年間所得が40米ドル以下の貧民)を教育し武装させる、社会主義的な「マウベレ主義」を掲げました。▼インドネシアによる武力併合
ところが74年、ポルトガル本国でクーデターが発生し、「植民地の放棄」を掲げた社会主義政権が誕生しました。東ティモールでは社会主義路線を掲げた独立派のFRETILINのほか、親ポルトガルで穏健独立派のUDT(ティモール民主同盟)や、インドネシアへの併合派のAPODETI (ティモール人民民主協会 )などが結成されましたが、75年8月にFRETILINとUDTとの間で武力衝突が発生。ポルトガルのティモール政庁は行政を放棄してアタウロ島へ逃げたため、UDTを制圧したFRETILINが11月に、「東ティモール民主共和国」の独立を宣言しました。
これを機に、インドネシアが「併合派からの要請を受けた」として本格的に武力侵攻、ポルトガルの政府関係者は完全に逃亡します。インドネシア軍はディリなどを占領し、UDTやAPODETIの幹部に「併合要請決議」を挙げさせて、76年に東ティモールを併合しました。一方、山間部に退いたFRETILINはゲリラ戦で抵抗を続けます。インドネシアは東ティモールで道路や学校、病院などの整備を進めますが、その一方でゲリラ掃討と称して虐殺事件を起こしたり、抗議する住民を厳しく弾圧するなどして、20万人の犠牲者が出たと言われています。またジャワ島からの移住や同化政策を強引に進めたため、東ティモール人の反インドネシア感情は強まり、その反動もあって、独立運動を側面から支えたカトリック教会が住民の信仰を集め、ポルトガルに親近感を持つ住民も増えました。▼一転して独立投票へ
国連安保理は75年に、インドネシアに即時撤兵を要求しました。しかしアメリカや日本、オーストラリアやアセアン各国などは、実質的な干渉は行いませんでした。これは当時、インドシナ各国で社会主義政権が誕生するなど、アジアで東西冷戦が緊張する中で、FRETILINが社会主義路線を掲げていたことや、各国は経済的な利益のためにインドネシアとの「友好」を重視していたためです。
しかし98年、アジア金融危機でインドネシア経済が破綻したのに続き、独裁的なスハルト政権が倒れたことで、東ティモールは大きな転機を迎えました。ハビビ大統領は東チモールを特別自治州とする提案を行い、「東ティモールの住民が自治州を認めないなら、インドネシアは領有を放棄し、独立を認める」と発表しました。ハビビ大統領にすれば経済再建への支援を先進国から取りつけるため、人権問題で非難を浴びていた東ティモールで住民投票を行うことにしたものの、「76年以来インドネシアは多額の資金を投じて東ティモールを開発してきた実績があるから、住民は特別自治州で満足するだろう」とタカをくくっていたふしがあります。このため国連が監視団を派遣し、99年8月に特別自治州としてインドネシアに残るか独立かを決める住民投票が実施されることになりましたが、今度はむしろインドネシア併合派が危機感を覚え、民兵などを組織してテロ行動を続けました。▼21世紀初の新たな独立国家へ
住民投票の結果、78.5%の東ティモール人がインドネシア内での特別自治州となることを拒否したため、東ティモールは独立することが決まりました。しかし住民投票の開票中からインドネシア軍に支えられた併合派民兵が武力による激しい破壊活動を行いました。全土の建物の75%が破壊され、再び虐殺事件も引き起こされ、住民の多くは西ティモールなどへ難民となって逃げました。国連安保理は多国籍軍「東ティモール国際軍」の派遣して併合派民兵を制圧し、独立までの過渡的な政府として99年10月に国連東ティモール暫定統治機構(UNTAET)を設立しました。UNTAETの下で難民の帰還やインフラの再建、独立国家を支える人材の育成などが行われ、世界各国からNGO等も支援に乗り出します。そして大統領選挙ではFRETILINの軍事組織の元司令官だったシャナナ・グスマンが選出され、2002年5月20日に、21世紀初の新たな独立国として「東ティモール民主共和国」が誕生しました。▼東ティモールの当面の課題
こうして念願の独立を達成した東ティモールですが、独立後の道は険しいものとなりそうです。第一に経済の問題で、特産のコーヒー生産を中心に農業国としての国作りを進めていく方針ですが、その他の産業はほとんどなく、ティモール海の海底油田もどれだけの埋蔵量があるのかはまだ未知数で開発は進んでおらず、経済水準は東南アジアで最低レベルです。首都ディリでは半数以上の人が失業していると言われ、治安が悪化しつつあります。第二に併合派との和解です。99年の独立投票では約2割の人が特別自治州としてインドネシアへの併合に賛成しました。インドネシアに協力的だった人、とりわけ独立投票時に残虐行為を行った併合派民兵は、東ティモールへ戻ると報復されることを恐れて今も西ティモールに逃げたままです。彼らの存在は東西ティモール国境地帯の治安に大きな脅威になるとともに、インドネシア占領期に公務員や管理職にいた人が戻って来ないことは、東ティモールの国作りにとって大きな損失となります。虐殺行為の当事者に対しては公正な裁判を約束しながら帰還を呼びかけなくてはなりません。第三に独立派内部での対立です。独立派ゲリラのリーダーやインドネシア占領期に海外へ亡命していた人たちの間ではポルトガルへの傾倒が強い一方で、インドネシアの大学で教育を受けた若い世代の間では「ポルトガル語の公用語化」への反発が高まっており、独立派の政党は分裂を重ねています。また独立派ゲリラの兵士は部隊解散後も仕事が見つけられない者が多く、政府に対する不満が爆発する恐れもあります。そして第四にインドネシアとの関係です。産業に乏しい東ティモールは食料品や日用雑貨の多くをインドネシアからの輸入に頼らざるを得ず、家族や親戚が民族的には同じ西ティモールに住んでいる人も少なくありません。インドネシアと良好な関係を築くことは、東ティモールの生存にとって不可欠な要素となるでしょう。
※う~ん、何だが前半はヒガチモの歴史というより、アジアのポルトガル史みたいになってしまった(笑)
いちおう参考文献は、平凡社『世界大百科辞典』(75年版ほか)、パソナプレス社『香港通信』(92年9月号、97年2月号)などです。
東ティモールのもう少し詳しい歴史は こちら を見てくださいネ。