人間であるという難問について

行ってみると幅が3メートルくらいの道路だった。
花屋があったのをおぼえているので、いまでも場所を特定するのは簡単なのではなかろうか。

ビルの4階の窓から通りを隔てた反対側のビルの窓に向かって「奇声を発しながら」コンピュータを投げつけている男がいると警察に通報があったのは、なにしろ夜中で、東京駅のすぐ近くのオフィス街のことなので、たまたま通りかかった通行人か、近くのビルで深夜まで働いていたサラリーマンかなにかだったのでしょう。

「なんだか、でっかい男の人で、大声で叫びながら、コンピュータやモニターを向かいのビルの事務所に向かって投げつけているんですけど、その叫び声が、どうも英語なんですよね」
と述べている。

警官が通報を聞いて4人で急行してみると、なるほど2メートルは優にありそうな大男のガイジンが、いくつもいくつもデスクトップコンピュータを通りを隔てたビルに向かってぶん投げている。

やめなさい、と言っても、ぜんぜん、やめません。
おとなしくお縄につく様子が微塵もないので、4人でわっと取りかかったら、
あっというまに4人とも殴り倒されてしまった。

いったん待避して、本部に応援を要請して、結局40人動員してやっと取り押さえた、とあります。

ニュージーランドのクライストチャーチからセールスにやってきて、供述によると、「こんな社会は人間の社会ではない」とおもったのが理由だという。

どいつもこいつも、マジメで礼儀正しい、規則を守って勤勉に働くクソ野郎ばかりだ、と取調室でどなりまくって、そのまま眠りこけてしまったそうです。

マイケルジャクソンの幼児性愛の実態を被害者の口から洗い浚い詳細なディテールとともに述べたLeaving Neverlandは破壊的なドキュメンタリだった。
最もショックがおおきかったのは、言うまでもない、数多くのアルバムセールスの売り上げ世界記録を支えたマイケルジャクソンのファンたちで、最も一般的な感想は「もうマイケルジャクソンの音楽を(精神的に)聴けなくなってしまった。
それが悲しい」というものでした。

HBOのドキュメンタリが、あちこちでネットのオンライン公開になった、ちょうどその日に、名前を聞いたことがない、なんとかいう名前の日本の俳優がコカインでつかまって、まだ判決が出たわけではないが、警察がつかまえて、本人が「やった」と言ってるんだから科人だろう、という日本の習慣にしたがって、すっかり有罪あつかいになって、その結果、いろいろなドラマに多岐に渉って出ていたらしいのが、どうやら全部、例えばDVDなら回収になるらしい、というニュースがあったようだったが、マイケルジャクソンの場合は、そういうことではなくて、気持の上で隔壁ができてしまって、マイケルジャクソンの声をもう聞けなくなってしまった、という意味です。

去年は巧みな演技で知られるケヴィン・スペイシーが、やはり未成年に対する同性愛で告発されて、主演していたNetflixのドル箱ドラマHouse of Cardsが打ち切りになった。

すでに撮影をほぼ終了していたAll the Money in the Worldは、急遽Christpher Plummerを代役に立てて取り直しをするという離れ業を演じて完成にこぎつけた。

こういう流れは文明の段階が進歩するにつれて、女の人であったり、子供であったりする、より最悪には女の子供であったりすれば、どうなっても文句すら言わせてもらえないような社会が、徐々に、いらいらするほどゆっくり、人間であれば属性がなんであろうが、みなが(考えてみれば、あんまり当たり前で茫然とすることには)平等である、同じ人間であるにしかすぎない、という偏見による乱雑さが解消される方向にすすんでゆく自然の流れにしかすぎない。

発端は、ハリウッドの帝王と言われたプロデューサーHarvey Weinsteinが無数の性的ハラスメント、強姦を含む、権力を背景にした有無をいわせぬ性的な暴君としての行いをAshley JuddやRose McGowanたちが、文字通り職業生命を賭けて告発した、いまでも長くて苦しい女の人達の戦いが続いているMe Too movementでした。

Emma WatsonのHeForShe運動

https://gamayauber1001.wordpress.com/2014/09/23/heforshe/

もそうだが、最近になって女の人達が、アメリカでインドで、これ以上男達の横暴を許さないと強く決意して続々と起ち上がってくる様子には、おもわず「歴史的必然」という古色蒼然とした用語をおもいださせるところがある。

ハリウッドで仕事をするひとたちのなかで、最も素晴らしい姉妹といえば、誰に聞いてもPatriciaとRossannaのArquette姉妹の名前を挙げるだろう。

単純に言って、ふたりともとんでもなく聡明な上に倫理意識が強く、恐れずに正しいと信じたことを、どんな巨大な権力に向かってもはっきりと言葉にして述べるからで、みなが尊敬している。

Rossanna Arquetteが2002年に作ったドキュメンタリSearching for Debra Winger には、もうすでに、Me too運動の萌芽が見えている。
あのとき、すべてを言えなかったことを、やっと言えるようになるまで15年かかったことになる。

では生涯に渉って未成年を含む若い女の人たちに対して強姦を含む性的暴力とハラスメントを繰り返してきた、ほとんど20世紀最悪と言っていい性的predatorだったことが知られるピカソはどうなのか?

メトロポリタンミュージアムはBalthus の絵を取り下げて、D.C.のNational Gallery of ArtはChuck Closeのエクスヒビションをキャンセルしたが、ピカソの絵画は世界中で飾られているのはなぜなのか?

芸術家として優れていることはモンスターであることの免罪符になるのか?

アメリカという国は、よく知られているようにpolitically correctであることに、ほとんど偏執的と言いたくなるくらいに厳密であろうとする国で、欧州人は、よくアメリカ人をさして「さすが狂信的ピューリタンの子孫である」だなどと、たいへん失礼なことまでいう。

宗教や性的平等、人種、年齢、…そういう誰かが傷付く可能性がある事柄に対しては、極めて注意して発言しなければならなくて、おなじ英語国民でもpolitically incorrectな冗談が大好きな連合王国人とは好対照をなしている。

おなじ英語国民であることよりも欧州人であることのほうがおおきく働いているからで、日本で伝えられているMe too関連の海外ニュースは殆どアメリカベースのものなので、見えにくいが、欧州での議論を洩れ聞いたアメリカ人たちは、よく憤激している。

Me too運動に対して、カトリーヌ・ドヌーブたちがアメリカ人たちの耳には性差別擁護としか聞こえない意見を述べたことは、日本でも伝えられたはずです。

欧州人の友達と話していると、自他共に認めるトップエリート層、日本語で書くと嫌味なだけだが、フランスのような国には、厳然として、実体を持つ人間の集団としてエリートというものが存在するので、その意味で書くのだけれども、エリートたちとその他の国民とで意見がきっぱりふたつに分かれているようにも見えて、
庶民層はアメリカ人とほぼ同じ歴史的な流れのなかに立っている。
カトリーヌ・ドヌーブたちが意見を述べたときも、「ああいうのは、一部の旧世代の老人たちの特殊な意見だ」と長い間フランスに住んでいる日本の人達が述べていたが、自分の友達たちと話してみると印象が異なって、アメリカ式のpolitical correctnessで話がすすめば、人間の芸術性あるいは人間性そのものが死んでしまう、という。

極端なひとは「いまの世界は芸術家を排除しようとしていると感じる。俗物支配の世界には我慢できない」と述べて、話していると、どうやら、ピューリタン的な狂気の「俗物」にはEmma Watsonたちも含まれているように見受けられました。

人間を高みに引き上げて、天上の神との対話することさえ可能にする芸術という人間の能力は、疑いもなく人間が持っている能力のなかで最高のものだが、困ったことに、人間が着実に文明をつみあげて出来た社会のなかでは反社会的な性質を持っている。

かつてソビエト時代のロシア人たちは、音楽でも絵画でも文学でも、あふれるような民族的な才能をもった芸術性の高い国民であるのに、反社会とみなされる表現が許されなかったことで、ひどく苦しんだ。
ロシア人たちと話していると、ソビエトが倒れた原因のひとつは、これなのではないかと思うくらいの解決されないフラストレーションだったようでした。

一方では、いくらなんでも炭鉱のカナリアに較べるわけにはいかないが社会が非人間的になってゆくと、真っ先に悲鳴をあげはじめたり、周囲に理解できない奇妙な行動に走り始めるのは、芸術家という種族の特徴で、芸術の才能のない市民の側は、自分達それぞれの正義を求める運動が、のりしろのない、ギシギシと音がしそうな「正しさ」に陥っていないかどうかを感知するひとつの手段として、自分が作品やパフォーマンスを評価するartistたちの反応に注意を払うことはいいことであるし、必要なことでもあるとおもう。

なんだか森のなかの老人のように「宇宙にはいろいろな秘密があるのですよ」と述べてもいい。
笑ってはいかむ。
個人には人間全体に普遍的な正しさはなかなか見えないし、人間に普遍的な正しさ自体も神にとっては玉突き玉の初めのひとつであることもよくある。

禁酒法や宗教裁判を考えたひとびとは、あれをおおまじめに人間が従うべき正義だと考えていたのを忘れてはいけない。
それを逆手にとって正義など相対的なものだと嘯くようなマヌケな人間の凡庸に陥ってはどうにもならないが、芸術という回路を開くことに成功して、いわば宇宙の意志に向かって感受性をもっている人間の叫び声には耳をすまさなければならない。

人間の法で神を裁いてはならない。
文明のルールは、神の意志は裁かなくても神の意志を伝えた人間は人間の法によって裁くことになっているのだけれども。

今日は随分困難なことを一緒に考えることになってしまった。
アラン・シリトーにThe Loneliness of the Long-Distance Runner (邦題:長距離走者の孤独) という小説があるが、社会のなかの人間は、多かれ少なかれ、Smithなのであるとおもっています。

あの走者の孤独が判らない人びとが唱える正しさを恐れることは、案外、人間の社会を守ることにも通じているのかも知れません。

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