マルクス・レーニン・共産主義についての拙稿

 犬沼氏から下記を頂戴したので拙稿を投下しておくことにする。

マルクスの搾取論が間違ってたわけ

 大元はこれ。口は滑らせるもんじゃないですね、という好例であります(汗

 さて、予め断っておくと、「進歩史観を憎悪する問題 ツイート追加」ここのコメント欄にも書いたように、未来決定的(あるいは予言的)歴史観というのは、まったく個人的理由と動機により賛同しないので、決定論的階級闘争史観はまったくどうでも良いし評価もしていません。
 同時に、マルクスが想定しレーニンが継承した(ことにしておく)「労働」と「価値」の設定についても、「現代」においてまったく現状に合致していないとも考えるし、或は「暴力革命論」のようなものに至っては唾棄さえしています。
 と、ここまで読んで頂ければご理解頂けると思いますが、個人的にはマルクス「経済学」といった幻想はまったく評価もしていません。まぁソ連や東欧、或は中国人民共和国やら北朝鮮人民共和国やらの「人民共和国」という名の高度官僚集中独裁体制もまた評価していません。もっとも、それらの政体が実現した「人民共和国」における官僚制度が、マルクスやレーニンが当初想定したような解体をまったく伴っていなかったので、それらは「共産主義」の実現どころか、下手したら「共産主義へ向けた第一段階すら実現しなかった」と、その信奉者から批判もされるでしょうが、そもそも「共産主義」そのものが到底現実適用不能なものだと考えていますので、座学は座学で頑張りましょう、という結論であります。

 その前提の上で、上記の発端のツイートに戻ってみることにします。
 実のところ、その共産主義「理論」が言うほど完結的または論理的だとも考えませんし、いろいろと矛盾も孕みまた相当に夢想なものだとも判断しているので、その意味で「不要、遺物」とすることに、些かの躊躇もありません。
 というか、そもそもマルクス「主義」の実践が、権力の発露の一様態でしかない、という点において、革命夢想家の諸氏にはまったく申し訳ないことながら、「政治的イマジネーションの貧困化、涸渇化という現象のその要因として、マルクス主義が存在しているからであり、これを考えるにはマルクス主義なるものが、基本的な意味で権力の一様態にほかならぬという点をおさえておく必要がある」(吉本隆明著「世界認識の方法」/中央公論社1984/P.18)というフーコーの言葉に大いに同意もしますし、「そのディスクールは、単に過去ばかりではなく、人類の未来に対しても、ある真理の拘束力を波及させるという予言的科学でもあるわけです。つまり、科学性と予言性とが、真理をめぐる拘束力として機能しているという点が重要です」(同著P.19)という点にもフーコーの言に大いに同意であり、同時にそれであればこそ否定もし、だからこそ実践し得なかった(予言的拘束ほど理論は現実に適用するには不可能性が内在されていた)、とも考えます。

 さて、では何故、それでもなお「マルクス」や「レーニン」は色褪せずに済む可能性は何処にあるのか。
 ここからはまったく個人的見解であり、或は研究者諸氏や実践者には、ある意味での噴飯物になるであろうことを承知で書いていくが、自分が個人的にそこに見出す可能性は、「主義」やまたは「経済学」、 或は「歴史観」や「階級概念」では「まったくない」ことは断言しておく。上述の通り、自分はそれら総体にはまったくもって賛同も納得もしていないし、また同意もしない。そういうことではまったくなしに、枝葉の部分にこそ、その着目し見直されるべき点もあるだろう、という意味で、「マルクス主義」或は「マルクス=レーニン主義」或は「共産主義」との決別と遺物化と平行して、その枝葉に立ち現れる原点的問題意識こそ焦点になる、とも考えます。そしてそれらの言は今なお、或は他の「主義」として、或は別の「行動」の中に立ち現れる言でもあり、珍しい物では決してありません。
 たとえば、バーゼルにおける国際社会党臨時大会の宣言において「とくに大会は、セルビア、ブルガリア、ルーマニア、ギリシア間の旧敵対関係の再生に反対するばかりでなく、現在別の陣営に属しているバルカン民族、すなわちトルコ人、アルバニア人に対するどのような迫害にも反対すべきことを、バルカンの社会主義者たちに要求する。だから、バルカンの社会主義者は、これらの諸民族のどのような権利剥奪ともたたかい、ときはなたれた国民的排外主義に反対して、アルバニア人、トルコ人、ルーマニア人をもふくめた全バルカン民族の友好を宣言する義務をおうている。」(レーニン著、宇高元輔訳「帝国主義」/岩波書店1956/P.211)といった、その原理原則をまず率先して自らに「義務」として課そうとする態度は肯定します(その後の進展は別として)。この態度はそれが実践されている限りにおいて、否定すべきではないだろうし、何よりこういった理念はその後の人権の進展にも寄与したはずでしょう(当人達が望む形であったか否かを問わず)。
 また、プロレタリア「階級」というものが、理論上の幻想であったとしても、「機械装置が次第に労働の差異を消滅させ、賃金をほとんどどこにおいても一様の低い水準に引き下げるので、プロレタリア階級の内部における利害、生活状態はますます平均化される。」(マルクス・エンゲルス著、大内兵衛・向坂逸郎訳「共産党宣言」/岩波書店1951/P.51)と述べられたそれのうち、一部は実際に現出している点は考慮されてよいようには思う(実際には一様の低い水準に引き下がったわけではなく、機械装置はおろか職能そのものにおいてさえ置換可能なものが低くなり、置換不可能なものは高くなるといった「利害の深化」が発生しているので、あくまで「一部」ではある)。また、「現存社会内の多かれ少なかれかくれた内乱を追求して、それが公然たる革命となって爆発する点まで達した。」(同著P.55)といった、顕在化しない軋轢が限界を超えるといかに社会不安を惹起するかという点において「それをさせてしまうとさらに酷いものがやってくる」という反面教師的意味で、意味がないわけではないようにも思えます。そういった「革命」騒ぎになる前に社会はその軋轢を「発見」し「向かい合い」なんらかの「妥結点」を見つけるべきで、放置し黙認しあるいは無視するのではなく。
 或は、ラッサールの社会主義に対して述べられた「マルクスは言う、ここには実際「平等の権利」があるにはあるが、しかし、これはやはり「ブルジョワ的権利」であって、他のすべての権利と同じく不平等を前提している。すべて権利とは、実際にはひとしくなく、たがいに平等でない種々の人間に、同じ尺度を適用することである。「平等な権利」が平等の侵害である不公正であるのは、このためである。」(レーニン著、宇高元輔訳「国家と革命」/岩波文庫1957/P.130)と述べられた際に気を付けるべきは権利が「ブルジョワ的か否か」といったマルクスやレーニンが掲げた命題の根幹の部分「ではなく」、形式的権利が平等であったとしても、それが不平等を内在することは実際に存在し得るものであり、同時に「平等でない種々の人間に同じ尺度を適用する」ことの意味合いを推し量ることでもあるでしょう。ただ、個人的にはここから革命やらに展開することは求めもしない。同時にこういった着眼において重要なのは「民主主義」における「形式的平等」であったり、「自由主義」における「外形的権利」というものが、それであるが故に内在的不平等を惹起する、という点を考慮の上で、それが実質面で是正される方向で指向「され続ける」必要がある、というに留めたい。完全に民主主義的平等を、レーニンの言うような形で(武装した人民・兵士により「すべての人」が国家的機能を遂行し、或は順番に統治する形で)実現するのは夢想どころか悪夢でもあり、ましてやそれを「自主的に参加」するなど、理想ではあり得ても現実にはあり得ないでしょう(強制されない限り)。一方で「社会主義のもとでは、「原始的」民主主義のうちの多くのものが、不可避的にふたたび活気づくであろう。」(同著P.163)といった、原則論としての「国民すべてがその「民主主義」に自発的に参加すべき」という理想そのものは「永遠に実現しないが常に求め続けるべき」ものであろうし、それは同時に「民主主義」の本質でもあるでしょう。

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 まったくもって身も蓋もない話にはなるものの、個人的には、そう、まったく個人的には、マルクスやレーニンが打ち立てた「理論」そのものではなく、彼らが「民主主義の理想形」として思い描いたもの(それは永遠に実現もせず、また共産主義革命を経るものでもないもの)を、その枝葉の部分で現代になお有効な部分を「摘み食い」することはできるだろう、という意味において、マルクス・レーニン「主義」ではなく、また「マルクス経済学」でも「階級史観」でもなく、その「発端」なり「問題意識」のみをリサイクルすることができる「程度」には無価値ではないだろう、と。
 摘み食いの結果、当然にマルクスやレーニンが追い求めた「共産主義」は永遠に実現しない、ということにはなるわけですが。

 犬沼氏の問いかけに対して妥当な応答になっているようには思わないので恐縮なのだが、マルクスやら(或はエンゲルスやら)からレーニン或は帝国主義や資本論、或は労働と価値をめぐる彼らの誤謬はまったく「どうでも良い」ことではないか、と。それを「思索するに至った意識」という、理論や実践以前の、或は思索・哲学の根源を射程にする、という意味において「のみ」は、まだ捨てなくても良いのではないだろうか、と。いみじくも前部で引用した吉本隆明の「世界認識の方法」において吉本とフーコーとの対談で合意点となっている「縁を切るべき対象としてマルクスとマルクス主義を区別する」(同著P.17)といった感じで、且つマルクス(レーニンでも良いです)が「何を考えていて、何処に欠点があり、何処が着眼点としてあれだけの影響を及ぼしたのか」という点を「のみ」は、有効とは言わないまでも、無効ではないのではないでしょうか。同著で「<プロレタリアートと資本家>という概念なのですが、吉本さんは、この概念と現実とを混合してはならないと明言されています。」(P,130)とフーコーが語った際、同時にそれが「いわゆる<マルクス主義>者とは完全に異なる解釈」と指摘しているのは示唆的ではありますが、その主義主張が「実践的」あるいは「構築された論理的」という意味において、まったく無価値或は誤謬であったとしても、彼の人達が思索した位相が、或は深層が何処にあり、それはどの程度現在も資本主義或は民主主義或は自由主義において内在され是正され「続ける」ものなのか、といったものを考慮する場合において、無価値ではないのではないか、と考える次第です。

P.S.これ共産主義者や研究者から盛大に不勉強なり日和見主義なり剽窃者なりと言われるんだろうなぁ

■参考・引用文献(注:上記引用と増刷・発刊年が異なるものがあります)

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