ソーセージロールと日本語

遠くの町に、むかしは商売で栄えた家があって、諸事万端、やりくりに苦しんでいた近隣の家ではうらやましいと考えて、なにが繁盛のコツか知りたいと考えたりしていた。
それが代が変わってみると、外からは窺いしれない、見えない所でおかしくなっていたらしくて、なんだか道端で会って短い会話を交わすだけでも、奇妙なことを言うひとたちになってしまっている。

いまの日本の印象といえば、そんなところだろうか。

気のせいかもしれないし、自分の側が日本への関心が少しずつ薄れてきて、気持の上での距離が遠くなってきたからかもしれない。
自分が理解できていると考えている言語ごとに、その言語のいちばん柔らかい部分が露出していそうなサイトを散歩して遊ぶことが多いが、日本語ではツイッタで、日本語は大事にしてきた外国語のひとつなので、自然友達もおおくて、近所のパブで駄弁るかわりに日本語の友達と駄弁ったりする。

ところが急速に日本語が荒っぽい攻撃的なだけの空疎なものになっていて、いや攻撃的というよりも悲鳴に近いといえばいいのか、投げつけるような言葉と呻くような言葉が交錯して、友達は友達で、こちらに顔が向いているときには、見慣れたやさしい、少しはにかんだようなところがある表情をみせていても、知らない人に向かって話しかけているところを横でみていると、苛立った、拳をふりあげたような言葉を使っている。

悪い、というわけではない。
事態が絶望的であるというときに、当の燃えさかる社会のまんなかにいて、のんびり良い天気に晴れ渡った空の話をしていては、そちらのほうが異常だろう。

ただ、なんだかびっくりした気持になって、言語を通してみせる社会の形相が、どんどん凄まじい歪んだものになっていくので、ちょっと寂しい気持になっているだけです。

午後3時で、火曜日ならちょうど仕事を終えて帰る時間なので、医師の友達と新しく出来た菓子屋でコーヒーでも飲もうと考えて病院を訪問したら、ひと足ちがいで帰宅したあとだった。

仕事先からいっぺん帰宅してしまった人間を呼び出してまで会っても仕方がないので、海へでかけることにする。

「海へでかける」というと、少しあらたまったことをするように聞こえるかも知れないが、北島がくびれたようになっているところに位置するオークランドという町は、やたらたくさん浜辺があるので有名な町で、英語ならtucked inという、隠れたように引っ込んでいて、まるで知っている人だけの秘密のプライベートビーチのような浜辺から、タカプナビーチやミッションベイ、セントヘリオスのような長大な砂浜まで、いまインターネットで見てみたら、
「数が多すぎて、いくつあるかは誰も知らない」と書いてあって笑ってしまったが、文字通り無数にあって、外に出て、なにをするか考えつかないと、とりあえずは海へ出るのが習慣になっている。

おおきな枝振りの楡の木陰にクルマを駐めて、芝生をわたって、砂浜に沿って並んでいるベンチに腰掛けて、毎日、明るい青からエメラルドに近い色へ、くしゃくしゃにしたチョコレートの銀紙のようにまぶしく陽光を照らしているかとおもえば、不機嫌な鈍色に、その日の気分によって色を変える海と、その向こうに低くなだらかに稜線が広がるランギトト島を見ている。

日本や日本人のことを考えるのは、国や人間について考えるための最も適切な方法であると信じる理由がある。

日本語の先生は、繰り返し「日本人を特殊だと考えすぎてはならない」と述べていたが、初めはそうおもっていたはずでも、自分の感想では、ほんとうに、ぶっくらこいてしまうほど特殊で、というよりも他の種族と異なっていて、なにもかも逆さまだと言いたいくらい違うが、だからこそ人間に普遍的な問題を見やすい構造をもっている。

しかも日本語は他言語を母語とする人間の理解を拒絶していると表現したくなるほど難解な言語で、実際、なかに分け入ってみると、日本語によって現代的な宇宙像や人間の思考一般、感情の陰翳を表現できるのは奇蹟的な事情によっていて、例えばカタカナ外来語のように、誤解や曖昧な理解、あるときにはまったくの仮の命名であるような言語上のアタッチメントに取り外し可能な語彙や、まったく内容を理解していなくても、なんとなく判っているような顔をして論議をすすめられる言語の特徴が、皮肉なことに、日本語が疑似的な普遍語であることを助けてきた。

多分、おおくの論者が述べてきたように、日本語が外国語の脚注語として発達してきた歴史を持っているからで、初めは中国の文章を読むために乎古止点を発明し、返り点をつけ、送り仮名をつけて、漢字を読み下し、文章そのものを日本語音に変えることで誕生した日本語は、同じ要領で、西洋語、なかでも英語を、従来からの脚注語としての仕組みに日本人の耳に聞こえた音や学習者が綴りから推測した(現実には存在しない)音を母音の少ない日本語で書き表したことを示すカタカナ語や
-ticをつけることを示す「的」を多用して、気分上の理解を喚起する、フランス的、民主的、という言い方を考案して、なんとか消化してこなそうとした。

明治時代に頼山陽が書いた漢詩を読んで吹き出した中国人たちは、一方で、夏目漱石が書いた漢文を読んで、これを書いたのは中国人に違いないと述べたという。
漢文を外国語として学んだ日本人と日本語化された漢文を本来の漢文と信じて磨いていった日本人が、漢文吸収の当時から居たわけだが、不思議なことに西洋語については、西洋語を西洋語のまま習得する日本人は皆無とは言わないまでも稀な存在になってゆく。

それにはカタカナだけで考えてもメリケンがアメリカンに表記を変えてゆく日本の英語教育が介在して影響しているはずだが、ここでは云々するのをやめておきます。

翻訳や通訳は本質的に便宜だけのもので、落ち着いて考えればあたりまえだが、日本語や韓国語のようなグループの言語を英語やフランス語のグループに「翻訳」するのは不可能作業で、それが可能であると考えるのは人間の歴史文化に対する理解が浅薄なのにしかすぎない。

離れ離れに歴史をつみかさねていった欧州やアジアの地方地方の文化が、ようやく接点をもって、境界を共有して、少しづつお互いの領域を浸潤しはじめたのは、インターネット以後の世界の特徴で、長く見積もっても20年の歴史しかないが、
ここが始まりで、もう百年もすると、あるいは日本語をフランス語に「翻訳」できるようになるかもしれない。
まさか、そんな軽薄な理解をする人がいるとはおもわれないが、いままでも瀬川深とかいう、作家だと名乗る人が、とんでもない、高校生が受験英語のレベルで考えるにも失笑されるような浅薄な理解で見当違いな反論を書いてきたことがあったので、念のために述べておくと、ここでは技術的な誤訳というようなことを述べているのではなくて、最も言語が異なることの影響が小さいはずの名詞であってさえ、例えば、おなじ「左手」であっても、うっすらともともとはカトリシズム経由の邪悪な手のイメージがまとわりついている西洋語や、不浄な印象を刻印されているヒンドゥー語の文脈のなかに置かれていると、日本語の左手とは違う言葉だということを述べている。

きみは笑うかもしれないが、眼の前におかれているスプーンでさえ、英語で見ているスプーンと日本語で見ているスプーンでは違う物体なんです。

互換性がない言語は互換性がない社会を形成する。

翻訳文化は言語を一定のルールと定石にしたがって置換してゆけば他文化を自文化に血肉化できるという、根拠のない、一種の宗教的な信念だが、百年以上に渉って誤解をつみあげてきた結果が、いまの日本の「近代」社会で、それは西洋の側からみると、おおまじめに演じられてきた演劇であって、しかも、近代の初期に国家の発展には寄与しないと明治人たちが判断したintegrityというような単語の多くは初めから省かれている、畸形的な言語に基づいた社会だった。

人間は自分の姿を見ることはできない。
鏡という前後が逆になった自己の映像を観ることはできるが、その「観る」が平たい言葉をつかっていえば曲者で、若い男が鏡のなかに見いだす自分の顔は常に整った容貌で有名な俳優の誰かの影響をうけて現実よりハンサムであるのは、誰もが知っている。
鏡がならぶレストランのトイレで、すぐわきに見慣れない顔をした見知らぬ他人が立っていて、飛び退くような気持で、あらためて観ると、自分の横顔だったという経験をしなかった人はいないだろう。

この頃、到底好きになれない言葉だが「マウントをとる」という言葉が流行っている。
あるいは、昔から「猿山の大将」というでしょう?
猿では例えが悪すぎるが、人間は自分の姿を観ることはできなくても、自分ととても似ているが、異なるものからは自分の姿を読み取ることは出来て、西洋人にとっては、日本人と日本人の社会は自分のことについての省察に最も向いているし、日本人にとっては西洋人の社会は自分たちを省みるのに資すべきものであると思う。

日本社会が西洋の人間にとって最も観察に好適なのは日本の西洋化の努力が古くからのものであることによっている。
ちょっと酷い言い方になるが、もうひとつは、その努力が多くの局面では頓珍漢なものだったことにもよっていると思います。

日本の人自身も気が付いているのではないかとおもうが、日本の西洋化への努力に端を発した歴史のなかで最もうまくいったのは科学で、理由は言うまでもない、例えば物理学は翻訳もなにもしない、もちろん方言はあってお国訛りはあるが、共通語の数学をそのまま使ってやってきたので、母語で物理学をさっさと修得しうるという「翻訳」の良い面だけが発揮されたからでしょう。
翻訳文化に最も感謝すべきなのは科学を学ぶ学生であるのは、日本の人なら、あるいは直観的に誰でも知っていることなのかも知れません。

この十年、日本を見つめてきて、学習することがたくさんあった。
いろいろな偶然が重なって、自分にとっては日本は特別な国です。
就職にも何にも利用しないのに日本語をやってどうするんだ、と昔からときどき聞かれたが、スペインの社会について興味をもてばスペイン語を勉強することから始めるのは、あんまり検討さえしないでひとり決めにしまったぼくのルールで、言語の習得は劇的な要素こそ欠いているが毎日淡々とやっていれば、それ自体が楽しい遊びになってゆくもので、準母語に近付いてくると言語ごとに別の人格のようなものが生じて、複数の言語になじんだものにしか判らない醍醐味がある。
それはおおげさにいえば、認識の数だけ宇宙が存在する事実と呼応している。

今年も日本から招待される用事がいくつもあったが、全部断ってしまった。
旅費から何からみんなだしてくれて、行けば毎晩のように豪華な食事が並ぶ晩餐が饗されるのもわかっていて、行かないのはケチな人間としてはもったいなくもないが、別に日本が嫌いなわけではなくて、最も正直な気持ちを述べれば「めんどくさい」のだと思う。

いまさら言わなくても知ってるよ、と言われそうだが、ぼくはとてもとても怠け者なんです。
特に根拠もなく二十代までは隙さえあれば旅行すべきだと考えて、多い年は、自分でも言っていてもほんとうに聞こえないが40回以上海を越えて旅行に出かけている。
長じては、ひとつの町に数ヶ月住みながら転々としたりしていた。

今度は一箇所にsettle downすべきときなのでもあるでしょう。
しばらくはメルボルンとオークランドとクライストチャーチ、あと今年の冬からはクイーンズタウンも範囲に含めようとおもっているが、うろうろして、暖炉に火をくべながら小さい人や猫さんと、空想の世界や現実の世界の話をしたりして、モニさんとふたりで、楽しい時間をすごすだろう。

この頃は、ちょっと「怖いもの見たさ」みたいになっているけど、ちゃんと日本語にも遊びに来ます。

ステーキ&チーズパイやソーセージロールを頬張りながら、海辺のベンチに腰掛けて、日本のことを考えるんだよ。

あの国。
苛酷で、悪意の暗い海のような社会に、善意といっそ子供じみているような純粋さが、そここに点在して、か細い光の星のように瞬いている国。
理解を拒絶した縦書きの垂直な言語が屹立している、この世界でただひとつの国。

変わった国だけどね。

よい友達がたくさんいるんです。

やっぱり、楽しいもの。

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ポイント・イングランドに行ったんだ。
公園の前にクルマを駐めて、坂道をあがって、ポイント・イングランドの銘板の前まで歩いていくと、夏の終わりの、爽やかな風が吹いてくる。

真夏でも、どんなに暑くなっても26度くらいで、過ごしやすいオークランドの夏も、もう終わりで、これからしばらくは、最低気温が16度で最高気温が16度だったりする、オークランドのヘンテコな秋がやってくる。

初めてオークランドに来たときのことをおぼえてるよ。
ぼくは多分5つか6つで、雲ひとつない空から空港に近付くと、馬さんたちが放牧されている牧場に囲まれた空港が見えてきて、果樹園に囲まれたクライストチャーチ空港と好一対で、欧州の淀んだ空気になれていた眼には、まるで別の惑星のようだった。

あの頃から、ニュージーランドという、このいなかっぺな国がずっと好きだったんだとおもう。

バブル経済期の西武プリンスホテルの接客マニュアルには客を来館時の車種別に分類してあって、メルセデスのSクラスから始まって、徒歩でやってくる歓迎されないマヌケな客まで、こと細かに対応の仕方の区別が書いてあったそうだが、ニュージーランドもいまは似たような時期で、以前なら考えられないような光景を観るようになった。

接客業なのに相手がアジア人だとまったく相手をしない。
客のほうが挨拶をしているのに、わざと無視する。
見かねて脇から「この人がハローと言っているじゃないか」というと、白々しく初めて気が付いたような顔で応対を始めるのはいいほうで、ひどい人になると「ああ、そうですね」と言って相変わらず素知らぬ顔を決め込んでいる。

窓に貼りだしてある売り家を見て、「おっ、これはいいな」と思って入っていくと、なにしろヒゲヒゲでぶわっと広がった長い髪(←ときどきは束ねてある)にフリップフロップ(ビーチサンダル)にショーツで、自分でプリントした赤いゴジラが正面で火を吐いていて、背中には青い文字ででっかく「大庭亀夫」と書いてあるTシャツなので、こっちをちらっと見て、「あっ、あんた、間借りの人は隣ですよ」とのたまう。

往時のプリンスホテルとおなじことでいなかっぺな社会というものは、そういうもんです。

わしが最愛の国ニュージーランドの変わり果てた姿に涙がでそうになるが、なあーに、オーストラリアのように資源豊富で中国から入ってくるUSダラーでウハウハハウハウな国と異なって、もともと資源も産業も、なあああーんにもない国なので、ちょっと躓けば、いきなり国ごと経済が破滅するに決まっているので、そうそう心配しているわけではありません。

もっかはやばいけどね。

どおりゃ、クリームドーナッツでも買ってくっか、とおもって、家の近くのヴィレッジと名前がつく、うーんとね、日本でいうと小田急線の各駅停車駅の駅前商店街くらいだろうか、のおおきさの商店街へ歩いていって、時計台がある交叉点に立って信号を待っていると、ランチャ、ベントレーコンティネンタル、ポルシェ、フェラーリ、ポルシェポルシェポルシェ、で、見ていて、なにがなしやるせない気持になってしまう。

うんざりする、と言ったほうがいいか。
なにしろ皆さん驕りたかぶった気持なので運転マナーもめちゃくちゃで、先週も、縦列からいきなり飛び出してきたアウディがいて、窓を開けて「危ないじゃないか」と言ったら、そのおばちゃん(40代・白い人・オッカネモチ風)が「あんたが止まればいいだけでしょう」と言いやがった。

言いやがった、表現として、お下品ですね。
でも「言いやがった」といいたくなります。
だって、普通の道路を普通に走ってるだけなんだよ。
そこに方向指示器もつかわないでいきなり鼻面をぶんまわすように突き出して飛び出しておいて「おまえが止まればいいだろう」って、あんたはロンドン人か。

いちどモニさんが、近所に良い家が売りに出ているから様子を観に行かないかと述べるので、おお、いいね、散歩のついでに一緒に行って訪問しよう、と述べてから、目立つといけないから、モニのBMWで行こう、と言った。

自分で言ってからBMWで行けば目立たないとおもう社会って、だいぶんビョーキかもな、とおもって苦笑する気持になった。

わしガキの頃は、ニュージーランド名物は、ドアが一枚だけ、色が違うシビックやカローラだった。

むかしはネルソンにホンダの工場があって、ここでシビックをつくっていたが、日本にはない色があって、明るい黄緑色や黄色のシビックが結構売れていた。
ところがね、ぶつけられたりすると補修のためのドアがないんですよ。

ニュージーランド人は、ぶつけられたり修理の必要があっても新品なんて滅多に使いません。
中古の部品をストックしてあるカーヤードに行く。

つい最近まで、例えばクライストチャーチのレースコースの近くにはミニの中古部品屋があって、あのミニちゅうクルマは年柄年中ドアの窓を開閉するクランクのハンドルが折れるんだけど、折れると、中古屋に行って、クランクハンドルのぼた山から自分の好きなのを採集してくる。
一個1ドル。

ドアぼた山もあって、安いので、色違いのドアをつけたシビックが通りを徘徊することになります。

それがいまはシビックやモリスマイナーがBMWになって、キドニーグリルがついたクルマならば、どこへ行っても匿名仮面なクルマとして通用する。
めだちたくないときは紺色のBMWがいちばんいい。
モニさんのBMW5はグリーンだけど。

簡単に言うといまの英語圏は中国が世界中から吸い上げたオカネが英語都市に還流することによって空前の大繁栄を遂げている。
もちろんグーグルもあればアップルもあるし、エアバスだってあるんだけど、その上に余剰な資金として中国由来のグリーンバックがすさまじい勢いで流入するので、中国の人が好みそうな英語の町は軒並み不動産バブルを引き起こしている。
伝統的に中国移民が多くて、巨大で完結された中国コミュニティを持ったシアトルやサンフランシスコは目もあてられないほど不動産価格も物価も上昇して、日本語でも年収1400万円では貧困層に分類されるとニュースでやっていたのが話題になった。

シンガポールの指導層のおっちゃんたちとペニンシャラホテルで会食したときも、「中国人問題は深刻だ」と、名前も、ダメなわし目には、どっからどう見ても中国の人たちがまじめに眉根にしわを寄せて述べていた。

もっともシアトルでロサンゼルスでメルボルンでオークランドで、「中国人の買い占めのせいで不動産の値段が暴騰して問題だ」というのは、いつもの例でいくと眉唾でなくもなくて、わしが子供のときにいま外務大臣のウインストン・ピータースが「このままではニュージーランドは日本人の洪水にのみ込まれてしまう」という大演説をぶっこいて、支持率1%に満たない泡沫党が30%を越える人気政党になって、ぶっとんだことがあったが、このときもたまたまニュージーランドにいた義理叔父が、日本領事館まで出向いて日本人移民の数を調べたらニュージーランド全土で500人しかいなかった。

いまインターネットで数字をみると500人ではなくて数千人だったはずで、義理叔父がいくらいいかげんだといっても、桁くらいちゃんと見てこいよ、とおもうが、もしかすると南島だけに限った数字か、あるいはパニクっていた日本領事館がそういう数字を義理叔父に伝えたのかもしれません。

だから中国効果は誇張されている可能性はなくはないが、それにしても、不動産価格も物価も(と、ちょっとここまで書いて心配になったので付け加えておくと不動産価格と物価は統計上も経済の性質上も別のものですね)なんだかすさまじい上がりかたで、このあいだ不動産屋が家に来て「11億円くらいで売ってくれないか」と述べて呆れてしまったが、オークランドでもかつては30万ドル(当時の円貨で1500万円、いまだと2200万円くらい)も出せば小さくても一軒家が買えて、ニュージーランドでは大学で知り合ったカップルが卒業して結婚して、まっさきにやることは10年ローンを組んで「初めの家」を買うことだったが、いまは治安があまりよくない地域でも4000万円はするので、家を手にするにも、よく考えたフィナンシャルプランが必要で、オカネのことがよく判らない若いカップルが気楽にテキトーな気持で家を買うというわけにはいかなくなってしまった。

イギリスという国は、そういう国で、若い人でもなんでも、例えば階級が高い家の人間は無茶なオカネの使い方をする国です。
妹は、渋々認めるとまともなほうの人間で散財も嫌うほうの人間に属するが、それでも大学のときに乗っていたくるまは黒のベントレーのコンチネンタルGTというクルマで、わしも嫌いでないスポーツカーだが、日本円で3000万円くらいするクルマだった。
ちょうど流行りだったからで妹の高校の時の同級生の女の友達は猫も杓子も成金もコンチネンタルGTに乗っていた。

一事が万事で、再び述べると、それがイギリスという国で家の経済とは別に、
「自分にちょうどいい生活」という概念があって、自分の地位や環境に相応しいかどうかで生活スタイルが決まる。

しかしオーストラリアやニュージーンラドは、もともとは若いビンボ国で、そういう国ではないので、いわゆる「成金」が充満して、おもいあがりもはなはだしいというか、驕りたかぶった気持が国中に充満していて、いろいろと鬱陶しいことが起きている。

ニュージーランドはもともと日本とおなじでビンボが似合う国です。
ビンボだからといって、引け目を感じたり、卑下しなくてもいい国というか。
国民性などは正反対に近いが、ビンボになると人間が活き活きしてくる点では、とてもよく似ている。

技術のありかたひとつみても、日本は零戦に象徴されるように竹ひご文化といえばいいか、新型の高速艦上戦闘機をつくるのに、千馬力に満たないエンジンで、骨格に手作業で穴を開けて重量を軽くして、人馬一体、ちょうど後年のMX5(ユーノスロードスター)のような、やさしい線で出来たいわばたおやかな技術を結晶させるのは、ビンボで文化のポテンシャルが全開になる社会だからでしょう。

一生懸命やっているのに気の毒な感じもするが、いまの安倍政権が世界のあちこちでバカっぽさをヒソヒソされるのも、多分、政権の中心を担う麻生太郎と安倍晋三というふたりの政治家が、若い時からの名うての遊び人で、努力ということにはまったく縁がない、いわば「反日本文化」的な半生を送ってきたふたりの老人だからではないかとおもうことがある。

世相の、韓国の人を、なんだか必死になって見下そうとしてみたり、ツイッタを開けても名誉白人と呼びたくなるような、「見て!見て!わたくし、白人たちに伍して、大活躍して成功してコガネをためたのよ!!」と窓を開けて叫んでいるような傷ましいと形容したくなる日本人の数の多さも、つまりは本来はビンボになじむ文化スタイルが富裕を前提に出来ている文化に適応しようとして、機能不全を起こしているのだと見える。

なあんにもない小さな部屋で、小さな机に向かって、一杯の極上品の紅茶に、王室御用達のビスケットを並べて、「この机は王侯の匂いがする」とつぶやく幸福には、そこはかとなく日本のビンボの良い匂いがする。

「馥郁たる貧困」などはフランス語ならば言語の矛盾だが、日本語だと案外表現として成り立ちそうです。

わしはいつも日本の人は、経済の崩壊も、貧乏も恐れる必要はないのではないかとおもっている。
イギリス人の文化では貧困はもちこたえることができなくて、かつて惨めさに耐えかねた労働階級のマジメ人たちは、小さな船にほとんど着の身着のままの姿で乗り込んで、地球を半周した二万キロの向こうの小島に未来を託すことにした。
誰かが「そこでは一生懸命に働けば小さくても自分の家が持てて、子供を学校に行かせることができる。なにより、出身が低いからといって誰にもバカにされることがない」と言ったからでした。

わしはクライストチャーチの家にガレージを新築しに来てくれた人が、午後のお茶を出しにいったら、イギリスからやってきたばかりの移民の人だったが、「この国ではマネージャーにミスターをつけないで呼んでいいので驚いた」と述べていた。
ファーストネームでいいんだよ、と述べてから、ジョン、ジョン、となんだか舌で大事なものの名前をいつくしむように転がしてでもいるかのような発音で述べていたのをおぼえている。

そのとき、自分の祖国の階級社会というものが、いかに残酷で罪深いものか学習したのでした。

ビンボでも、皆がちからをあわせて助けあって、どうにかこうにか生きのびる社会へニュージーランドはまた戻ってゆくに違いない。

そうして、なんにも根拠はないのだけど、日本もまた経済の崩壊が誰の目にもあきらかになったとき、いまのインチキな響きのそれではない本来の「美しい国」の相貌を取り戻すのではないかとおもうのです。

そのときは、一緒にビンボしようね。
楽しいとおもうぞ。

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十七歳

どう言い逃れをしても、だれかが20歳まで、この腐った世界を生き延びるということは、その人間が、なれきって、欺瞞に対して不感症になってしまっていることの証拠でしかない。

少なくともおれは20歳になってしまう人間を信用しない。

きみが地下鉄の駅の構内で、やにさがった、目つきが気に入らないおやじをぶん殴ると、おまわりがやってくる。
おやじが威丈高なことをいって、おまわりさん、こういうカスがいまの日本を悪くしているんだ、おもいきり厳罰に処してやってください、とかなんとか言っている。

めんどくさいから、このおやじがおれの尻に触ったんですよ、と告げてやると、おまわりは突然ひるんだ顔になって、「まあ、とにかくあなたたちでよく話しあって」という。

「よく話しあって」。
なにを?
見ず知らずのクソおやじとおれがなんの話をすればいいというのだろう。
おれがあくまで、おやじにおれの尻にさわりやがって、訴えてやる、おまえの家庭をめちゃくちゃにしてやるからそう思え、というと、おやじは50代の汚い中年男の顔をくしゃくしゃにして泣きだしやがった。
きみは、わたしがそんなことをしなかったのを知っているじゃないか。
どうして、きみはわたしをそんなにいじめたいんだい?

いじめる?
おれが、おまえみたいな薄汚いおやじを「いじめる」のか?
カンにさわるので、おまえの頭がどうかしちまっただけで、てめえはたしかにおれのケツにさわったじゃねえか、この変態野郎、という。
まったく不愉快なやつ。

朝から、ろくなことがない。

人間には人間同士で通じる言葉などありはしない。
疑うのなら、家に帰って、自分の親が自分をどのていど理解しているかやってみるがいい。
あいつらが知っているのは、きみではない。
ドラマでみたり、結婚してから話しあった子供のことはよく知っているが、それはきみ自身じゃないんだよ。
それは自分の所有ラベルがべったり背中に貼り付けてあるかわいい息子や愛らしい娘で、きみとはなんの関係もない親の願望にしかすぎない。

世界と意志を疎通するのに言葉に頼るのはばかげているだろう。
第一、 おれには世界とコミュニケーションをもつことの意味がわからない。
無意味だろう、そんなこと。
世界がきみを理解して、きみが世界を正しく解釈してやって、それでどうなるというのだろう。

和解するのか?
一日の終わりに、世界ときみはお互いの関係が壊れずに無事だったことを祝うのか?

どうしても世界と意志を通じたければ、ナイフを持って町にでかけるというのはどうか。
誰でもいいから、刺してみればいい。
世界は突然よそよそしい顔を捨てて、きみとのあいだで感情の血液を循環させはじめる。
言葉はお互いをわかりあうためにあるわけじゃない。
言葉はお互いを疎外するためにある。

おれはきみになんか興味がないことを伝えるために言葉を使う。
なぜかって?

きみが生きているからだよ。
おれは生きている人間には興味はない。
もっともらしいことをしゃべって、下卑た眼で、なあ、そうだろう?
きみにもぼくがいうことがわかるだろう?とこちらをうかがう生きた人間が、おれは嫌いなんだよ。

死んだ人間は素晴らしい。
もう死んでしまった人間には、少しも卑屈なところがない。
もう世界になにも求めてはいないからね。
死は人間を高貴にするとはおもわないか。

おれは死体を自分の部屋にひとつ欲しいといつもおもっている。
腐って、耐えられないほどの臭いを放って、ぐずぐずに崩れ落ちる屍。
力なく肘掛けにおかれた手のひらの甲からは、まるで洗ったような白く光る骨が見えている。

死体がそばにあれば、もしかしたら、おれにも世界が愛せるのではないか。

桜木町のバッグ屋で万引きをしようとして失敗したことがある。
財布を、うまく鞄に落とし込んで隠したとおもったが、店主のおやじにみとがめられた。

そいつはね。
警察につきだすとわめきだすかとおもったら、猫なで声で、下手にでた声で、
きみは綺麗だねえ、と言い出すんだよ。

結局、おれは、店の二階の、誰もいない冷房もない部屋で、そのおやじのあれをくわえさせられることになった。
強くかむな。
もう少し舌をひっこめてつかえ。
やさしくしろ。

さんざん注文をつけられて、30分くらいも、顎がいたくなって、あとで感覚がなくなるまでなめさせておいて、最後は髪の毛をつかまれて、頭を前後にゆらせてのどまで突っ込みやがった。

財布をもらった。
終電に近い桜木町の高架のプラットフォームのベンチに腰かけて財布をだしてみたら、なかに新品の1万円札が3枚はいっていた。

おれは泣いた。
あたりまえだろう。
めちゃくちゃに泣いた。

気が付くと、どっかの会社の制服を着たクソババアが、あなた、だいじょうぶ? と顔をのぞきこんでいた。

葉山に行きたい。
おれは葉山に行ったことがないんだよ。
いつか学校をさぼって、図書館でインターネットを観ていたら、いまどきお目にかかれないような、古い、クソ日本語で書かれたブログにでくわした。
いまどきジジイでも使わないような古くさいクソ日本語は、でも、おれには気にいったんだ。

プロフィルをみるとイギリス人だと書いてあったが、そんなのウソに決まってる。
日本語で育たなかった人間が、あんな日本語を書けるわけはない。
けっ、インチキ野郎め、とおもって読んでいたら、引き込まれてしまって、結局、午後のあいだじゅう読んでしまった。
世の中には、じっさい、いろんなヘンな野郎がいるもんだよな。

ところで、そいつが子供のときの日本の思い出として、葉山の、長者ヶ崎や鐙摺の海に迫る山や、その鐙摺の頂のうしろからあらわれる輝かしい白さの積雲のことを書いていて、それから、おれにとっては葉山は頭のなかで聖地のようになってしまった。

切符を買って、横須賀線に行くのでは、おれはきっと、あのインチキ野郎が書いた葉山には着けっこない。
そんな行きかたではダメなんだよ。

もちろんクルマで行ったってダメだし、最近は大学生たちがよくやるように自転車で行ったって、あの葉山には着くわけはない。

おれはボロボロで、もうあんまり生きるちからが残ってない。
もともと20歳になるまで生きているような狡猾で自分にウソをつくのがうまい人間じゃないから、きっとこんな感じになるだろうとはおもってたけど、それにしても、こんなふうに、立つのもやっとな気持になるとはおもわなかった。

頭を毛布がおおっているみたいといえばいいのか。
どんよりと頭のなかが曇っていて、なにもする気が起こらない。
机に向かって、なにかしようとなんとか腰掛けても、自分はなんてダメな人間だろうという気持がこみあげてきて、涙がとまらなくなる。

なにもしたくないし、なにもできないんだよ。

でも葉山にいって、あのインチキ野郎が述べたように、沖にでて、低い山を振り返れば、また生きていけるのではないか。
そうしてみることには、自分が20歳を越えて生きていくためのなにかがあるのではないか。

いつも、そうおもうんだけど。

でも、もう間に合わないかもしれない。
ファミレスの窓際の席に座って、大通りの向こう側をぼんやり観ている。
あの交叉点に立っている人間たちは、なんだって、信号が変わって、通りを渡りだしたあとも、渡り出す前の自分とおなじだと、あんなに自信をもって、疑いもしないで歩いていけるのだろう。

おれは、違う。
おれは通りを渡ることひとつにしても、どこかに行きたいからわたるんじゃないんだ。

サイレーンの声。
誰かがおれを呼んでいるような気がするから通りをわたるんだよ。
おれは、まるで人間のような顔をして、もう20歳をすぎているのに、腐った人間でないふりをして、いつかあの通りをわたるだろう。

でも、ビルの影から射してきた夕陽があたったとたんに、冷たい空気のなかに、ふっと消えてしまうにちがいない。
知ってるんだよ、おれは。
自分がそんなふうに、この世界からいなくなることを。

おれは、そのとき、はじめて自分がやすんじて人間であると感じられるにちがいない。

きみのところにやってきて、そのとき、さよならが言えるかどうかはわからないけれど。

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日本史 第三回 片方しか翼をもたない天使たちについて

有栖川公園の丘の上にある図書館から、ひとりの若者が出てきたところだった。
若者、といっても、ぼくの眼にはまだ子供で、ひどく痩せていて、膝が突き出たジーンズに、ブラシもしていなさそうな長い髪がほどんど肩にまでかかっている。

おまけに本人は気が付いていないが、上下に「ひょこたん、ひょこたん」と音がしそうな歩き方で、それなのに足をひきずっているような、不思議な歩き方をする。

角の交番のところまでくると、立ち番の若い警官をちょっとにらみつけるような顔をしながら信号を待っている。
昼ご飯を食べてから午後の古典文学の授業に出ようとおもっていたが、めんどくさくなった。

なだらかな、長い坂を下りて広尾駅に出るか、産院下の交差点に出て、そこから坂をあがって都営バスで渋谷に出るか、あるいは、平坦だが距離が長い、中国大使館の前を通って材木町の交叉点に出る道を行って、六本木に出るか、
なんだか毎日おなじことで悩むので、いっそ月、水、金は広尾駅から日比谷線、というように決めてしまえばいいのではないかとおもうが、それもバカバカしいような気がする。

午後の授業に出る気がなくなった理由は、いつもの怠惰だけではなくて、昼ご飯にでかけた定食屋で見た光景のせいでもある。

学園紛争が長かったので、とっくのむかしに学生食堂が逃げ出した学校のなかには、ひどく不味いパサパサした菓子パンを売っている、近所のベーカリー「キクヤ」の出店以外はなにも食べ物を調達できる店がなかったので、もう中学生の頃から、きみは学校の外で昼ご飯を食べるのに慣れていて、いちばんおいしいのは西武グループの堤の家がある坂のうえの交叉点にある「キッチンあき」だったが、ここでは3年生たちが幅を利かせていて、カウンター席だけの店内なのにコーヒーまで注文してくつろいでいるので、
「おい。ふざけんなよ。午後の授業がはじまっちまうだろう」と後ろから立って待っている2年生が声を荒げても、
「うるせーぞ、2年坊主、おまえら、ここで食べるのは百年早いわ。
下の那須まで走っていって食ってこいよ」と集団でせせら笑う始末で、埒があかないので、倍近く払わねばならないフィッシャーマンズワーフに出かけなければいけないことも多かった。

その日も、そういう事情で、フィッシャーマンズワーフに出かけたが、店内に一歩入ると、3年生も2年生も店のコーナーにおいてあるテレビの画面を見つめている。

なんだろう?と思って見ると、雪のなかで機動隊が伏せている。
軽井沢のあさま山荘というところで、「連合赤軍」が銃をもって籠城しているのだという。

きみの高校のなかにも、赤軍派はいた。
戦記派叛旗派がいて、青年解放同盟がいて、あとはお決まりの中核派、革マルといて、革マルの幹部だった世界史の教師は横浜線で中核派の集団に襲われて頭蓋骨陥没の重傷で休講中だったりしていた。

でも「連合赤軍」という名前は初耳だった。

顔にみおぼえがある3年生の背の高い男が「殺せ!殺せ!やっちまえ!」と叫んでいる。
そのまわりで他の3年生たちが、げらげら笑い転げている。
「マルキなんて、みんなぶち殺せ」

きみも実は通りに出てヘルメットをかぶったことがある。
学校の友達の誘いはぜんぶことわって、深夜、こっそり相模原にでかけて、戦車の搬入に反対して集まっていた大学生たちに混じって、どのセクトにも属さないことを示す黒いヘルメットを手にして、デモの隊列に加わった。

結果は、ひどくがっかりさせられるもので、実際に加わってみるとまるで軍隊で、見るからに軽薄なリーダー格の演説がうまい大学生が、最前列に並べた高校生たちに逃げるな逃げるなと叫びながら、機動隊が放水車を前面に押し寄せてくると高校生たちを盾にするかっこうで、一目散に逃げていった。
逃げていく後ろでは、高校生たちが機動隊員にジュラルミンの盾で殴られ、女の高校生たちは髪をつかまれてひきずりまわされて泣き叫んでいたが、リーダーたちは振り返らなかったので気が付きもしなかっただろう。

きみの姿をみかけたらしい3年生が、次の日、「おまえ、いったいあそこで何をしていたんだ。公安の犬じゃないのか」と述べたので、きみはすっかり嫌気がさして、そのまま学生運動と名の付くものには背を向けてしまった。
その3年生が、公安が高校生たちのなかに放ったスパイだったと判ったのは、ずっとあと、大学を卒業してから、友達に初めて聞いて知った。

政治というものはそういうものだと、その頃にはもう判っていたので、ただ、そうだろうな、とおもっただけだった自分の気持ちを、きみは見知らぬ人の心をのぞき込むような得たいのしれない不思議なものだとおもうようになっていきます。

「時の時」という、いまではもう使われなくなった言葉がある。
きみが麻布の丘の上にある学校で中学と高校時代を過ごした数年は、日本という国にとっての「時の時」というべき時代だったのだとおもう。
誰にも言わないだけで、「世の中のために働きたい」という都会人らしくない、当時の日本人たちが聞いたらふきだしてしまうような純粋な気持ちでおもいつめて、本郷の大学を出ると、きみは大学院をあきらめて、といっても成績や家庭経済の理由ではなくて、人文系の大学院に行く級友たちに馴染めなかったからだけども、仕事につくことにする。
選択肢は朝日新聞社という新聞社と大学院と公務員で、結局きみは上級公務員試験を受けて、霞ヶ関に通う毎日を選ぶことになる。

振り返ってみると、その頃の日本は、自分達では一人前の先進国を自認していたが、ほんとうはまだ中進国くらいの社会でなかっただろうか。

後年、きみが霞ヶ関官庁のありかたにすっかり嫌気がさして、国費をつかって、でもひそかに日本には戻らないぞと決めて向かったボストン郊外のケンブリッジという町で、おなじ学校を出た、それなのにあの学校ではときどきあることで、あんまり見かけたことのない顔の日本人がいたでしょう?

いつもUnoピザで、おもしろくもなさそうな顔でピザを食べながら、ピッチャーのアイスティーを真冬でもガブ飲みしていたあの奇妙な日本人は、実は、あとになってぼくの叔母と結婚するひとで、いまでもときどきスカイプで話したりするんだけど、あのひとは朝、わざわざいちど日比谷に戻って、高校へ行くまえに、三信ビルの地下にあったアメリカ人相手のダイナーで、一杯のウイスキーとステーキサンドイッチを食べてから学校へ行くのをしばらく習慣にしていたのだけれど、ちょうど日比谷線の出口から出て坂をのぼる頃になると、長身のイギリス人の双子の姉妹が学校へ行く途中であることが多かったそうです。

「ところがね、この双子の高校生のねーちゃんたちがジャガーに乗って学校へ行くんだよ!」と、いつか、この義理の叔父が興奮気味に話してくれたことがある。
金髪で背が高くて、すんごい美人の双子の姉妹なんだけど、毎朝みるたびに、
なにがなし、日本はまだまだダメだなあ、おれたちはビンボだし、ダメだ、とほとんど意味もなく考えた。

悪い癖で、そのときは言わなかったが、実はぼくはこの「双子の姉妹」を知っていて、あのふたりは当時高校生ではなくて休暇中の大学の一年生だったはずで、クルマもジャガーではなくてMorgan Plus 8だが、着飾るのが好きで、上手なひとたちだったので、若いときも、義理叔父が感嘆して落胆したように、東京の日本人たちに自分達の富裕と美貌をみせつけては喜んでいたのは想像にかたくない、というか、想像すると、あの愉快なおばちゃんたちの若い頃らしくて、なんとなく笑ってしまう。

それはともかく、ちょうどきみがケンブリッジで毎日めちゃくちゃな量の本を読まされてペーパーチェイスとディベートの毎日を送っているあいだに、きみの故国ではおおきな変化が起きていたのだとおもいます。

それはつまりは、身も蓋もない言い方をしてしまえば、中進国が先進国になってゆく過程だった。
きみが本郷にあがったあと、用事があって出向いた駒場で「ポパイ」という雑誌をにぎりしめた田舎の進学校出の「東大生」たちが「どこにいけばお嬢様学校の女子大生とやれるか」について夢中になって話しているのを聞いて、自分の大学に嫌気がさした、と義理叔父に述べたそうだが、また聞きでその話を聞いて、ぼくがおもいうかべたのは2009年にシンガポールで会った友達が、まったくおなじ話をしていたことだった。

あさま山荘事件は1972年で、そのころのきみにとっては留学、まして「移住」などは到底現実味をもたない選択肢だった。
一週間程度の海外への観光旅行ですら、団体旅行で行くのが普通だった頃のことで、後年、きみが留学したときも省庁が直截派遣するか人事院がオカネを貸与して、日本にもどってきて働く約束で送り出してくれるか、ふたつにひとつしか選択はなかった。

1982年になると、ハーバードのいわゆるアングラ、学部にも日本人が入っていくようになります。
留学は普通のことになって、当時のことで、留学してアメリカで就職してしまえば、日本には戻ってくる方法がないのとおなじで、程度がわるい人間だけがアメリカで就職することになっていたが、それでも、海外で生活する日本人は増えていった。

連合赤軍事件の一年前、赤軍派の重信房子が奥平姓のパスポートで出国に成功してパレスチナに脱出するのは1971年で、奥平剛士との偽装結婚によって得た姓で簡単にパスポートをつくれたのは、要するに当時の日本社会の常識では新左翼の活動家が「海外に高飛びする」こと自体が考えられないようなことだったからでした。

1972年から1982年への、日本の相貌ががらりと変わる10年間を書くために、ぼくはきみのところに戻ってこようとおもっているが、
今回はちょっと疲れたので、ひとりの女の人のことについて触れて記事を閉じたい。

キッコーマンで働きながら明治大学の夜間学部で勉強に励む苦学生だった重信房子には、同じ明治大学の夜学に通う遠山美枝子という友達がいました。

おしゃれが好きで、おいしいものが好きで、重信房子とふたりで居酒屋に行けば、ビールを飲んで、日本社会の不正について怒りあう、仲のよい友達同士だった。
通りに出てデモに加わり、投石をする勇気はなかったが隊列のなかを重信房子と肩を並べて歩いて「シュプレヒコール」をあげた。

重信房子がパスポートを取得して海外に活動の拠点をつくりに去ってしまったことを「たいせつな友達と会えなくなる」という気持で考えることが出来る感受性の持ち主だった。

重信が去ったあとのことは、言うまでもない。
日本共産党革命左派と赤軍派が合同して連合赤軍が形成されると、自動的に党員になった遠山美枝子は、外国人の眼からみれば銃砲店を襲って奪った実銃を持っているだけで、ままごと遊びにしかみえない「軍事訓練」に参加させられる。
リーダーになった永田洋子に口紅をしていたのを見咎められて、十分に革命的な自覚を持っていないと責められ、しかも他の革命的自覚が足りないとされた党員を殴ることに手加減をくわえたことを追究されて、みなが観ている前で自分で自分の顔が滅茶苦茶になるまで殴ることを強制される。
渾身のちからで自分の顔を数時間にわたって殴りつづけさせられた遠山美枝子は、真冬の戸外で柱に縛り付けられたまま寒さと自分が自分の肉体に加えたショックのせいで死ぬ。

麻布の丘の食堂で高校生たちが、「殺せ!やっちまえ!」と叫んでいたころには、もう遠山美枝子は冷たい死体になって榛名山中で置き去りにされていた。

遠くからみると、事件の全体は政治的ですらなくて、中進国社会が先進国社会に遷移する途中ではよくみられる愚かさの表現でしかない。
どこまでも愚かだった若者たちは、いまでもおぼえているリクリエーションセンターのGIたちがふきだすような「ガキのペイントボールサバイバルゲームより子供の遊びじみている」と評された「軍事訓練」で革命的自覚が足りない12人の若者を拷問を加えて殺し、最後はあさま山荘に立てこもって、ふたりの警察官とひとりの民間人を射殺して投降する。

このあさま山荘事件が、奇妙なほどの沈黙のうちに日本人が「左翼」に見切りをつけて決定的に、そこまで他国では考えられないほどの深く長い伝統をもっていた一般民衆の左翼運動に対する共感に終止符を打った出来事であることを発見したぼくは、軽井沢の押し立て山の麓にある、あさま山荘を訪ねていったことがあります。
軽井沢ニューレイクタウンという日本にはよくある書割じみた、ヨーロッパをまねた、いかにも安っぽい新開発別荘地で、人口の、池というにも小さすぎる「湖」に結婚ビジネス用のチャペルが立っていて、水の上にはお決まりのスワンをかたどった、いつ観てもマヌケな感じがする例のボートが浮いていた。

その「湖」の岸辺に立って、ぼくが考えていたのは、連合赤軍のメンバーやきみの話に出てくる「やっちまえ!ぶち殺せ!」と叫んでいた高校生たちのなかで、ただひとり自分に理解できそうな遠山美枝子という、意志の弱い、おしゃれ好きの、でもひと一倍社会の不正に敏感な勤労学生のことだった。

日本は彼女の死を分水嶺にするようにして、冷笑と都会人気取りがないまぜになった、いまの日本に直截つづく名状しがたいうすっぺらな「先進国社会」へ向かって歩き始める。
政治に殺された愚かな若者たちのことは存在もしなかったように綺麗さっぱり忘れ去ってしまう。

遠山美枝子。
1972年逝去
享年二十五歳

彼女が十分に学力はあったのに昼間の学部にすすまなかったのは早くに父親を亡くし、低賃金に喘いでいた母親を助けるためでした。

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日本史 第二回 滅亡の理由

今の時代は物質的の革命によりて、その精神を奪はれつゝあるなり。その革命は内部に於て相容れざる分子の撞突(たうとつ)より来りしにあらず。外部の刺激に動かされて来りしものなり。革命にあらず、移動なり。人心自(おのづか)ら持重するところある能はず、知らず識らずこの移動の激浪に投じて、自から殺ろさゞるもの稀なり。その本来の道義は薄弱にして、以て彼等を縛するに足らず、その新来の道義は根蔕(こんたい)を生ずるに至らず、以て彼等を制するに堪へず。その事業その社交、その会話その言語、悉(こと/″\)く移動の時代を証せざるものなし。斯の如くにして国民の精神は能(よ)くその発露者なる詩人を通じて、文字の上にあらはれ出でんや。
 国としての誇負(プライド)、いづくにかある。人種としての尊大、何(いづ)くにかある。民としての栄誉、何くにかある。適(たまた)ま大声疾呼して、国を誇り民を負(たの)むものあれど、彼等は耳を閉ぢて之を聞かざるなり。彼等の中に一国としての共通の感情あらず。彼等の中に一民としての共有の花園あらず。彼等の中に一人種としての共同の意志あらず。晏逸(あんいつ)は彼等の宝なり、遊惰は彼等の糧(かて)なり。思想の如き、彼等は今日に於て渇望する所にあらざるなり。
 今の時代に創造的思想の欠乏せるは、思想家の罪にあらず、時代の罪なり。物質的革命に急なるの時、曷(いづく)んぞ高尚なる思弁に耳を傾くるの暇あらんや。曷んぞ幽美なる想像に耽るの暇あらんや。彼等は哲学を以て懶眠(らんみん)の具となせり、彼等は詩歌を以て消閑の器となせり。彼等が眼は舞台の華美にあらざれば奪ふこと能はず。彼等が耳は卑猥(ひわい)なる音楽にあらざれば娯楽せしむること能はず。彼等が脳膸は奇異を旨とする探偵小説にあらざれば以て慰藉(ゐしや)を与ふることなし。然らざれば大言壮語して、以て彼等の胆を破らざる可からず。然らざれば平凡なる真理と普通なる道義を繰返して、彼等の心を飽かしめざるべからず。彼等は詩歌なきの民なり。文字を求むれども、詩歌を求めざるなり。作詩家を求むれども、詩人を求めざるなり。
 汝詩人となれるものよ、汝詩人とならんとするものよ、この国民が強(し)ひて汝を探偵の作家とせんとするを怒る勿(なか)れ、この国民が汝によりて艶語を聞き、情話を聴かんとするを怪しむ勿れ、この国民が汝を雑誌店上の雑貨となさんとするを恨む勿れ、噫(あゝ)詩人よ、詩人たらんとするものよ、汝等は不幸にして今の時代に生れたり、汝の雄大なる舌は、陋小(ろうせう)なる箱庭の中にありて鳴らさゞるべからず。汝の運命はこの箱庭の中にありて能く講じ、能く歌ひ、能く罵り、能く笑ふに過ぎざるのみ。汝は須(すべか)らく十七文字を以て甘んずべし、能く軽口を言ひ、能く頓智を出すを以て満足すべし。汝は須らく三十一文字を以て甘んずべし、雪月花をくりかへすを以て満足すべし、にえきらぬ恋歌を歌ふを以て満足すべし。汝がドラマを歌ふは贅沢なり、汝が詩論をなすは愚癡なり、汝はある記者が言へる如く偽(いつ)はりの詩人なり、怪しき詩論家なり、汝を罵るもの斯く言へり、汝も亦た自から罵りて斯く言ふべし。
 汝を囲める現実は、汝を駆りて幽遠に迷はしむ。然れども汝は幽遠の事を語るべからず、汝の幽遠を語るは、寧ろ湯屋の番頭が裸躰を論ずるに如(し)かざればなり。汝の耳には兵隊の跫音(あしおと)を以て最上の音楽として満足すべし、汝の眼には芳年流の美人絵を以て最上の美術と認むべし、汝の口にはアンコロを以て最上の珍味とすべし、吁(あゝ)、汝、詩論をなすものよ、汝、詩歌に労するものよ、帰れ、帰りて汝が店頭に出でよ。

あなたが死んだ、ちょうど百年後に、ひとりのイギリス人の子供が、真っ青な顔をして自動車の後席に座っている。
馬入橋、という名前の橋だったとおもいます。
平塚にある、鎌倉と箱根の往還で、いつも渋滞がある橋で、その橋にさしかかる頃には、運転している叔父が心配になってバックミラーを何度も覗き込んでは、
「ガメ、だいじょうぶかい? 顔色が真っ白で紙のようだけど」と訊ねるほどになっていた。

従兄弟がいれば、笑って、こいつお腹がへっただけだよ、と自分の父親に告げただろうけど、生憎、東京から叔母と一緒に電車で箱根へ向かった従兄弟は、車内にいなかった。

奈良で倒れてしまったことがある。
「青くなったり、赤くなったりして、まるで信号機みたいだった」とあとで義理叔父が笑っていたとおり、糖分の不足で、気分が悪くなって、奈良公園を歩いて横切っているうちに、そのままどおっと倒れてしまった。

なぜガメは自分が誤解されているときになにも言わないのか、とよく怒られたが、黙っていることに理由などないのだから、答えられるわけはない。
強いていえば言い訳をするのがめんどくさい。
周りの人間がすべて敵になって襲いかかってきても、きみたちはぼくじゃなくて誰それを敵とすべきなのに間違っているんだよ、と説明するくらいなら、黙って防御して、自分に襲いかかってきた人間をすべて暴力で床に並べてしまったほうが楽だ、という程度にぼくは怠け者で、子供のときもそうだったが、実をいうと、いまもそれは変わらない。

小田原の市境を越えると、鈍感な叔父も、ようやっと、なにが起こっているのかに気がついてレストランを探し始めた。
ぼくは内心、さっきから義理叔父が盛んに訊いている、どんなレストランがいいかなんてどうでもいいから、いちばん近い食べ物がある店にクルマを駐めてくれればいいだけなのに、と、この気が利かない日本人のおっさんにうんざりした気持でいる。
料理屋である必要すらなくて、バナナ一本だけでも、この気持わるさはいっぺんに収まるのに。

結局、裏通りに入ったところで、義理叔父はファミリーレストランを見つけて、
そこに入った。
窓際の席で、たしかパンケーキとサンデーを食べて、やっと気分がよくなった。

窓の外に小さなモニュメントのようなものが見えていて、いったいこれはなんだろう?と観るともなしに観ていると、テーブルの向こうに座っている義理叔父が、
「驚いたな。ここは北村透谷が生まれた場所じゃないか」とつぶやいていたのだとおもいます。

そのころは文章を読むどころか、あなたの名前も知らないので、それはぼんやりした記憶になって、過去の色がついたガラス玉がそこここに散乱しているような場所に埋もれていって、このときの光景と、素っ気ないどころか、めんどうそうでさえあるデザインの、というよりもデザインが欠落したモニュメントを思い出して、あれがあなたの生誕の場所を記念した碑であったことに気が付いたのは、ずっとあとになって、ニュージーランドという国の、南島の、一家がもっていた牧場のライブリでのことでした。

日本の歴史を話そうとしているのに、あなたの名前を外すわけにはいかない。
いつか、そう述べたら、「それは歴史というより文学史のほうだね」と述べた日本の人がいたが、文学の歴史が社会の歴史と別に存在していると意識される社会があるとすれば、要するに魂がはがれおちてしまった社会で、いくらなんでも日本はまだそこまで落ちぶれてはいないだろう。

ずっとあとになって、一年のうち何ヶ月かを東京で過ごそうと決めたぼくは、自分の生活の利便を考えて広尾山というところにアパートを買いますが、それは失敗で、あの辺りの、麻布、霞町、広尾、一の橋という一帯は、退屈な町で、銀座にでかけていくことが多かった。

あなたが歩いた、数寄屋橋から木挽町にかけて、尾張町や新橋まで、ぼくもよく歩いて、そういうときにはいつも、

革命にあらず、移動なり。

という、あなたの雷鳴のような声を聴いていた。

あなたが死んだあと、日本は、あなたが危惧したとおり、

汝の耳には兵隊の跫音(あしおと)を以て最上の音楽として満足すべし、

「物質的の繁栄」のためには当時はまだ世界最大の富裕を誇っていた富める隣国である中国を侵略して掠奪するのが最もてっとり早いことに気が付いて、清との戦争を始めます。

計画上は、うまくいくはずの近代軍の運営を、まるで乗馬をおぼえたての成り上がりの若者のようにして、おっかなびっくり、海戦でいえば、後年、史上初めて統制された艦隊行動によって敵を組織的に撃砕する、世界の海戦の範をつくる「ツシマ海戦」を戦って海上部隊戦闘の理想を示したのとおなじ国の艦隊とはおもえぬほど、ぶざまな叩き合いを繰り返して、それでもなんとか勝って、勝利のトロフィーとして、台湾を領土化し、朝鮮半島を植民地化する。

あなたが一生を通じて恐れたことは、日本人が西洋の倫理を希求し、善を信じ、美に憧れる面に興味をもたずに、てっとり早く幾許かのオカネを手にするための道具としての西洋の、特に軍事につながる技術の習得に夢中になることでした。

あなたは、西洋人にとっても西洋人が最大の敵であったことを、よく知っているただひとりの日本人だった。
あなたが生きていた時代に、文字通り血みどろの闘争を繰り広げて、物質の価値に眼がくらんだ、ゆるんだ口元に欲望の唾をためて、眼を血走らせて冨の蓄積に狂奔する「悪しき同胞」と戦っていたのは西洋人たちでしたが、もちろん、その戦いの敵もまたおなじ西洋の人間でした。

天上の価値と地上の利便が正面から戦えば、どんな時代でも地上の利便が勝つに決まっている。

あなたは恋愛こそが人間を解き放つのだと述べて、それこそが人間の魂を地上の桎梏から天上へと解放する鍵なのだと言ったが、一方で、おなじ日本人の同胞たちが、物質的の、「悪しき西洋」に向かって走りだすのではないかと常に恐れていた。

結果は、残念なことに、あなたが恐れていたとおりになりました。
もうすぐ、あなたの危惧をうけつぐことになる人に、夏目漱石という人がいます。
この背丈が低い、小さな小さな男の人は、不幸なことにロンドンに住んで、
イギリス人という生き物の尊大さ、粗暴さ、自分達と異なる種類の人間達への容赦のない軽蔑を目撃して、一生ぬぐいさることができない傷を心に負ってしまう。

この人が、どんなことに心を悩ませて、息をするのにも努力がいるような気持でロンドンの毎日を暮らしていたかは、日記のなかで、ある日、向こうから、ついぞ見かけないほど目立って背が低い男がこちらに向かって歩いてくるのを認めて、わざとすぐ近くをすれちがってみて、自分がその滑稽なほど背が低い男よりも、さらに背が低いことを発見して、どうしようもなく落胆する記述にうまく書かれている。

漱石という人は、同時代の森鴎外のような、自分の観念をとおして着飾った自分を欧州の町に置いてみるのではなしに、ただぽんと地上に投げ出された現実として自分を見て、人種差別を見つめることが出来る人でした。

実際、人種差別というものの本質を夏目漱石という人ほどよく知っていた人は、日本では、いまに至るまで、いないでしょう。

故郷の田舎町で見知った見苦しい風体の西洋人たちと異なって、気圧されるほど美しい西洋人のカップルに列車で出会って茫然としている青年三四郎に、向かいの席の中年の紳士が
「お互いは哀れだなあ」と言い出す。

反発を感じた三四郎が「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と述べると、この紳士は
平静な顔で、にべもなく、「滅びるね」という。

この「三四郎」という小説が書かれたのは、あなたが自殺した年から数えて十五年後、「滅びるね」という紳士の予言どおり日本が滅亡する直截の原因になった日露戦争が日本の勝利で終わった1905年から3年が経った1908年のことでした。

1945年、つまり近代知性の希望を担った三四郎が上京する列車のなかで出会った紳士が、この国は傲慢によって滅びるだろうと観察を述べた40年後に、日本はこの紳士の予言のとおりに、世界の歴史にも稀な国家まるごとの滅亡を経験する。

その破滅と破壊のすさまじさは、あなたの時代の人間の想像力の限界を遙かに越えていて、あなたが滅びてしまえばいいとまでおもいつめた、西洋の悪しき意匠の書割そのままの町並は、文字通り見渡す限りの瓦礫になって、核爆弾によって破壊された広島の町には、町の中心地の至るところに、核爆発のエネルギーによって、ただの影となった人間が壁に焼き付けられた姿を残すことになる。

日本人は、しかし、その徹底的な破滅をさえ生き延びて、今度こそは魂の高みの力によって生きようとする。
昨日までインドネシアを取ればいくら儲かると計算を口にしていたひとびとが、眼を輝かせて自由の価値について熱っぽく語るひとびとの口まねをするようになります。

精神的価値を価値と認めた、日本の歴史には稀有の、というよりも後年に日本人が捏造した歴史とはやや事情が異なってゆいいつの時期が、こうして始まります。

当然のこと、ひとびとは真実の言葉を求め、古代にまで遡って自分達の魂を発掘して、ほぼ10年ほども精神的価値にすがって生きようとする。

でも直ぐに成果がでないことを自分達で考えるのは苦手なんですよね。
アメリカ人たちが、共産中国の攻勢に慌てふためいて、日本全体を反共基地化することに決めて、誰がどんなふうに計算しても過剰な投資をして、貧弱な市場に洪水のように資金を投入したことで、日本人の魂はふっとんでしまいます。

途中ではおもしろいことがあって、もともと喉から手がでるほど欲しかった元手になる冨を、あろうことかかつての敵アメリカが供給してくれたのを幸い、自分達がかつて満州で視た国家社会主義経済の夢を本土で実現するべく、かつてのファシズム経済のチャンピオン岸信介たちの手で、国民個々の生活の質などまるで考慮する必要がなかった全体主義経済は予想通りうまくいって、1980年代にはアメリカをおびやかすほどになって日本の鷹揚な主人のつもりでいたアメリカ人たちを恐慌に陥れる。

でもその日本の台頭がもたらしたアメリカ人たちと自由社会にとっての深刻な危機は、冷戦構造が終わることによって日本の地政学的優位が失われることによって、あっさり終焉を迎えます。

あなたの生誕を記念した碑を、意味もわからずにぼんやりと眺めていた子供は、やがて、あなたの国の言葉に興味を持って、なんという偶然か、あなたが書いた文章にめぐりあうのですよ。

それは「哀詞序」という、近代日本語のごく初期にかかれたのに、多分近代日本語の頂点をなす凄艶な美しさをたたえた文章で、女学雑誌の編集部から原稿料を値下げしたいという死活に関わる要望を伝えられたうえに、結婚を取り巻く倫理を捨てて激しい恋に落ちた相手の若い女のひとが亡くなった、個人的な絶望のなかで書かれた文章でした。

我はあからさまに我が心を曰ふ、物に感ずること深くして、悲に沈むこと常ならざるを。我は明然(あきらか)に我が情を曰ふ、美しきものに意を傾くること人に過ぎて多きを。然はあれども、わが美くしと思ふは人の美くしと思ふものにあらず、わが物に感ずるは世間の衆生が感ずる如きにあらず。物を通じて心に徹せざれば、自ら休むことを知らず。形を鑿(うが)ちて精に入らざれば、自ら甘んずること難し。人われを呼びて万有的趣味の賊となせど、われは既に万有造化の美に感ずるの時を失へり。

まだおぼえていますか?
これは、あなたが死ぬ前年にあなたが書いた文章で、ぼくにとっては最も初期に暗誦できるようになった日本語の文章でした。

ぼくは、あなたの文章が開いてくれたドアから日本の文明の歴史に分け入っていくことになる。

いつか、ほら、ぼくが酔っ払って泊まったホテルで、あなたがぼくの夢を訪問したことがあったでしょう?
夢のなかで、あなたの二の腕に後ろから触れた瞬間、あなたの自分の国へのすさまじい怒りを指先に感じて、驚いて、ひどく魘されて、モニに起こされた。

あのあと、モニは、どんなことがあってもあのホテルに宿泊することを拒むようになった。

いまでは、もう、あのホテルがあなたが自殺した地面のうえに立っていることも知っています。

死ぬ前、あなたは疲れ果てて、自分はもう老いて、生きていく力が残されていない。
自分のまえには、すでにどんな希望もない、とつぶやいていた。

北村透谷。
1894年逝去。
享年二十五歳

例え悪夢のなかでもいい、もういちど、あなたに会える日がくるだろうか?

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日本史 第一回 無謀なこころみのための前書き

愚かさだけが人間を救う力を持っているという事実は人間の最大の皮肉であるとおもう。
知性の極北で世界に対して絶望した若者を救うのは、どんな時代でも美しく若い肉体をもった人への恋だったし、人間の魂を地上の凡庸から引きはがして、中空へ天上へと押し上げるのは、ただ肉体に心地よい盲目の情熱だけが出来る離れ業だった。

人間は不思議な生き物で、おなじ人間として理解できなくはないが、人間が持っている能力のなかで最もたいしたことがない「知力」という能力において自己を誇りたがるが、言うまでもない、5千年のあいだ思考を費やしても暴力による殺しあいひとつ止めることができない「知性」など、あってもなくてもおなじで、強いて存在を認めることにしても本能や反射とは誤差の範囲で、なにも文字のような大仰なものを編み出して記録するほどのものではなかった。

ゴッドレーヘッドへ行く細道から横へそれて、よく海辺を歩いた。
考えてみれば母親の演出による偶然で、違う言い方をすれば、これを「思うツボ」ともいうが、子供のときに、国というよりは南極に近い島の圧倒的な自然の総称と考えた方がよさそうなニュージーランドと出会えたことは、一生の幸福のはじまりだった。

そのうちに訊いてみようとおもうが、多分、母親と父親とは、どうやら根っからの都会っ子に育ってしまいそうな息子の行く末を心配したものであるに違いない。
このカップルは、都会というものをまったく信用していないカップルで、頼りのない床の間の自然しかない「都会」という場所を軽蔑していた。

ふたりとも都会で生まれて育って、もちろん郊外に家を持っていて週末をそこで過ごしてはいたが、都会の利便のなかで一生を組み立ててきたひとたちであるのに、
都会とゴミ箱を区別していないところがいつもあった。

ジョニーという父親の友達は、特にぼくと気があって、さまざまな話をしてくれたが、この法廷弁護士の言葉で描写される父親は、多感な、絶望した都会の知性に富んだ青年であって、自分が知っている父親とはまるで異なる人のようだった。

それは普段の父親とはまったく異なるが、よく見知った感じのする青年、….そう、ほとんどぼく自身だった。

その発見をしたときの気持を正直に述べれば、きみは、腹を抱えてげらげら笑い出すに決まってるが、ぼくは、すっかり感動してしまったんだよ。
あのちょっと申し訳なさそうに「わたしですか?わたしは、いま典型的なイングランド人を演じている最中で、忙しくて、申し訳ないが、ちょっと自分の真の姿をあなたにご披露するひまがないのです」とでも言うような、よく訓練された、没個性の、絵に描いたような連合王国のエリートで、それでもだんだん判ってくると端倪すべからざる知性を持った、まるで存在自体がunderstatementだとでも形容したくなるおっちゃんが、自分とそっくりの人間であるなんて!

むかしはね、快活で機知に富んだ母親、華やかな才気のかたまり然とした人が、なぜこんな退屈なおっさんと一緒にいられるのだろう、と考えた。
よく同情していた。

長じて、自分の母親と父親が周囲の反対を押し切っての大恋愛の末に結婚したのだとしって、心からぶっくらこいてしまった。

母親は父親がなにを演じていたのか、よく知っていたのだとおもいます。

子供のころ、いちど「おかあさまは、おとうさまを退屈な人間だと考えたことがありますか?」と思い切って訊いてみたら、母親は愛車のジャガーのEタイプの下から仰向けに作業用の台車ごと滑り出てきて、スパナを持ったまま、オイルで煤けた顔でじっとぼくの顔を見ていたが、次の瞬間、それはそれは可笑しそうに、世の中にこれほど愉快なことには生まれて初めて出会ったとでもいうような楽しそうな笑い声で、大笑いした。

それから、「息子よ。聴きなさい。
これからあなたの背がどんどん伸びて、もっと遠くが見えるようになれば、近くのことも判るようになるでしょう」
と述べた。

そして、それは、その通りでした。
ぼくは、自分が父親を嫌いにならずにすんだ幸運な息子のひとりに数えることになっていきます。

多分、父親と母親が地球を半周したふたつの国を往復して暮らすという大胆な計画をもったのは、あのときの自分のひとことがきっかけだったのではないかと思っている。

両親は、ぼくの、考えや記憶を内心で何度も反芻する危険な癖を見破っていたのだとおもう。

自然が人間の知性に授ける叡知は、読書や学問、都会の喧噪が人間に与える知恵とはまるで異なっている。
言語や人工の森林のなかでは人間は万物の霊長だが、自然のなかでは、荒々しく、個々の人間の生命への配慮などいっさいない、まるで神の暴力そのもののような自然の力に抗して、知恵をはたいて、必死に生き延びる存在でしかない。

冬の山をスキーで滑り降りたり、フィヨルドを何日もカヤックで旅行したり、そういうイメージ通りの自然のなかでの生活よりも、もっと単純に、例えば満月の夜に農場のパドックに出ると、濃い青色の、と言うと表現だとおもうかもしれないが、実際に月の光はコバルトブルーと形容したくなるほど濃い青色になることがある、月の光のなかで、自分がなんともいえない狂気のなかに引き込まれていくのが実感としてわかる。
世界中の言語に月と狂気を結びつける言葉はいくらもあるけれども、あれは、ただの写実にすぎないのね。
瞳孔がおおきくひらいてきて、総身の体毛がふわっと逆立つような気持になる。
肉体はどうなのかわからないが、魂は獣に姿を変えて、歩くというよりは彷徨するようになります。

あるいは、密度が高い白色の雲は高度によって積雲と定義されるわけだけど、あれとおなじ、いわばもこもことした雲が、背伸びして手をのばせば届きそうなところに降りてきたことがある。
家の軒よりも低いところに雲海が出来ている。

また別のときには、夕暮れ時、やはり地上すれすれ、どころか膝よりも下におりてきた雲が、茜色に輝きだして、やがて薔薇色になって、そのときはオープンロードを運転していたひとがひとり残らずクルマを止めて、その「美しい」というような言葉では到底形容しきれない、この世のものではない何かに、ただ息を呑むことになった。

ニュージーランドの南島というところは、そういうことがいくらでもある土地柄で、ぼくは一年の数ヶ月をその神秘的な土地ですごして、どんな本にも書かれていない世界観を持つことになった。

それはどんな世界観かというと神を前提とした無神論とでもいうべき世界観で、人間が信仰してきた、人間側のリアリテの感覚を満足させようとするようなちゃちな神ではなくて、現実に自分が眼に見なければ、誰がどんなに上手に説明して描写しても嘘にしか聞こえない世界こそが自分たちの現実の世界なのだという現実に立脚している。

死者がよみがえり、空が眼の下におりてきて、星が煌めきながら空いっぱいに回転してみせる世界は、人間の現実の感覚を嘲笑っているのだとおもいます。

今日から、少しずつ、ぼくは自分の話をしていこうと思っているんだよ。
いまはたくさんいると言ってもいい日本語の友達たちにあてて、自分がいったいどこから来て、どんな姿をしていて、なにを考えているのか、説明しようと考えています。

もっと日本語がうまくなってからとおもっていたんだけど、最近の日本語への情熱のなさから考えて、もうそろそろ見切りをつけなければ。

ぼくはね。
むかしからの付き合いのひとたちはすでに知っていることだし、最近の付き合いのひとはさぞかしびっくりするだろうけど、日本という文明と、そこに住んでいる人間が好きなんです。
それがなぜかは、これから、おいおいあきらかになっていくだろう。

言語というものは、嘘がつけない正直なものでもあれば、その言語を使って現に生きている民族の背丈よりも遙かに高い、いまではすっかり忘れられた、その民族にいちどは属して死んだひとびとの叡知と感情がいっぱいに詰まったものでもある。
もっと正確にいえば、いま生きて毎日を生活している現代日本人は、その歴史のなかに堆積した日本語と語彙の地上に映る影にしかすぎない。

自分達では言語を使っているつもりでも、現実は言語がいま生きている人間のほうを乗り物にしているので、その逆ではありえない。
その逆がなりたつのは言語が未発達で、せいぜい伝達の便宜を満たすのが関の山だというような場合だけでしょう。

ちょうどシェイクスピアの劇中の人間たちが彼らの内なる英語につき動かされて、企み、試み、喜び、哀しみにくれるように、どんな国のどんな社会でも、人間は言語という傀儡師が操る一場の劇でしかない。

あのほとんど世界のどんな観察者にも観察されないできた東のはての島で、どれほどの神への挑戦や人間の限界への挑戦がおこなわれてきたか、これから、一緒に出かけて訪問しようとおもっています。

きみがこの風変わりなこころみに最後まで付き合ってくれる忍耐心をもっていてくれればいいんだけど。

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日本語の生活

身に付けた日本語能力を、どうしようかと時々考える。
日本語はツイッタとこのブログにしか使っていない。
あたりまえだが家のなかで日本語はいっさい使われていないし、かーちゃんシスターの夫は日本人で、息子も日本語を話すが、最近はどういうわけかこのふたりとも日本語が混ざらなくなって、英語だけのほうが楽なようです。
義理叔父は日本語のほうが楽は楽なのだとおもうが、英語と日本語を切り替える力業は誰にとっても不自然な頭の働きで、日本語でずっと話せるのならいいが途中で英語に切りかわるくらいだったら初めから最後まで英語のほうが楽だ、ということなのでしょう。

最近は、というほうが正確だとおもうが、町でも日本人同士が、お互いに日本人だと判っているらしいのに英語で話しているのをみかける。
これも理由は簡単に判って、まわりと英語でやりとりしているのに、相手が日本人だと判ったからと言って「日本の方ですか? ああ、そうだとおもいました」に始まって、取り分けほかに人がいるときには、いちいち日本人に話す対象が変わったときだけ日本語に直すのがめんどうなのでしょう。
気持として自然である気がする。

ツイッタや日本語ブログも、以前は日本の人に話しかけるのに使っていた。
柄になく政治や社会についての話題も多かったのは、日本の人がまったく気が付いていないことで、ちょうど日本の社会にとって致命的になりかねないことがどんどん進行しているときにあたっていたからで、まさかブログやツイッタで微かでも日本語社会に影響を与えることなど出来るはずがないのは判り切ったことだったが、日本語をたまたま勉強して、英語ならcommitmentという、関わりがあれば、やらなければならないことが生じるのは、普通の人間ならあたりまえの感覚で、特にはてなとかいう鬱陶しいおじさんやおばさんがたくさん群れている集団には迷惑したが、ニセガイジンだのなんだの「捕鯨はやめたほうがいい」「男女の格差がひどすぎる」「冷戦構造がなくなったことを踏まえないと地政学上、どんどん不利な場所に追い込まれる」、2007年から2014年くらいまでの前半のあいだじゅう、冷笑や罵声を投げつけられまくりながら、何度も書いてきたのは、いま残っているブログ記事だけからみても明らかであるとおもいます。

そういう段階が過ぎた後半になるとアベノミクスという日本の経済構造を根底から覆す世紀の愚策に政府が乗り出したのに驚いて、もともと日本人など頭からケーベツしていて、アベノミクスみたいな他国ではとうの昔に否定された政策理論も、日本のようなやや未開な心性の全体主義社会ならうまくいくかもとちょっとだけ実験動物観察的な興味をもった程度のクルーグマンの「やってみれば」のひとことを「ノーベル賞学者のお墨付き」のように押し戴いて国の運命を賭けてしまうのはたいへんな間違いだと、前後十くらいも記事を書いたりして、そのあとは、日本の人がのんびりしているあいだに、ずんずん進んでいく全体主義化、あるいはそれまでは民主主義の皮をかぶせてあった全体主義の可視化について書いたりしていた。

親愛なるメグ @sakai_meg さんが、今日の朝、こう述べている

このくらいはバラしてしまってもいいとおもうが、メグさんはテキサスに住んでいる人で、アメリカ人のコピーに熱中して、その割にはアメリカ人が信奉する本質的価値は見落としてしまっている傾向がなくもない日本の人のなかでは、珍しいくらいたくさん本を読んで、頭と心のなかに充満した英語の圧力を利用して自分の頭で考えて行動することができる人です。

例えば政治信条に耳を傾けていると「メグさん、過激派なんじゃない?」とからかいたくなったりするが、イギリスでたくさん出会ったうすっぺらで読みが浅い進歩主義政治を信奉する日本移民のひとたちとは、また違って、メグさんの場合はくちにしないだけでアメリカ社会を通してみた人間性への絶望が「世の中をなんとかして変えなければ」という焦慮に駆りたてた結果であるように見えました。

こちとらは、と突然へんな日本語を使うのは、いまちょっと使ってみたくなったというだけで他に何の理由もないが、20歳余くらいまでは社会を変革しなければと考えていろいろと活動して、通りで石はなげるは、討論会で相手が顔をあおざめさせて怒りのあまりぶるぶる震え出すような言葉を述べるは、しまいにはわざわざ大西洋を越えてでかけていって、暴力をふるったりしていたが、こりゃあかんわになって、政治というものがドアの向こう側というかこっち側というかにしか、結局はないものだと考えるに至ってしまったが、メグさんは、希望を捨てていない。

ただ「早くに怒って落選させないと、手遅れになる」と述べたりしてるところを見ると、うふふふ、かわいい、とおもってしまうので、日本はもうすっかり手遅れで、社会が変わっていける点は通り過ぎてしまって、いまさらなにをやってみたところでとっくに手遅れですよ、とおもわないわけにいかない。

別に日本に限ったことではないが、政治的にマヌケな人間というものはそういうもので、日本がうまく立ち回って、狡猾という言葉は外交では褒め言葉だが、アメリカ相手に狡猾な立ち回りを繰り広げて、アメリカに対しては植民地のような顔をしながら、独立国としての実質を維持して、維持どころか、当のアメリカ自体に敗戦国日本に逆に支配されるのではないかと恐怖を与えるところまでいっていたことは、ブログには何度も書いた。

憲法第九条の終わりに
https://gamayauber1001.wordpress.com/2014/04/14/wherepeaceends/

葉巻と白足袋
https://gamayauber1001.wordpress.com/2014/04/27/shigeru_yoshida/

平和憲法という魔法の杖を捨てる
https://gamayauber1001.wordpress.com/2016/07/02/wand/

ところが、そのあいだじゅう、「進歩的知識人」たちは「日本はアメリカの植民地に過ぎない」「日本はアメリカの属国だ」「アメリカの犬」とボロ負けに負けた敗戦国である自国の苦渋と知恵に満ちた外交を罵り続けて、政治議論という一国の社会にとっては最も肝腎な場所を糾弾でわめきちらす声と、その罵りをはぐらかす不正直の応酬の荒野に変えていった。
いざ議論が必要なときには、議論が交わされるべき町は風が吹き荒ぶ不毛の土地になりはてていた。

日本の社会ではタブーになっているが、オカネに眼がくらんで暴力団と結びついて早くから没落した正統右翼よりも、日本社会の天然全体主義ぶりに乗っかって立場主義つまりは相対主義から一歩も出ずに「敵の敵は味方」「人間性はダメでも味方は味方」に終始して大多数の日本人から呆れ果てられて信用を失った左翼の側によりおおきな現在の日本の戦前回帰に責任があるのは、日本から一歩でれば、日本語マスメディアの犯罪性と並んで誰でもが知っている。

はてな人たちの薄気味の悪い集団中傷を十年以上放置しておくことによって、自分たちの「リベラル言論」がいかに質のわるい人間—ほとんどならず者と呼ばれるべきひとたち—-によって担われているか、一緒に歩いてきてくれたひとたちは息をのむようにして見つめて、よく知っているはずです。

そうこうしているうちに、いつごろからと特定すべきか、日本は後戻りできる地点を過ぎてしまった。

いつか我が友オダキンが「どうもガメは、最近、妙にやさしくて怪しい。どうやら日本はもうダメだとあきらめているのではないか」と述べていたが、
ははは、ばれちったか、というか、他の人がこっそりおなじことをつぶやいているのも何人か眼にしたので正直に言ってしまうが、死期が定まった病人に「がんばれば治る」と励ますくらい残酷なことはない。

風来坊のガイジンに「言い過ぎだ」「そこまでのことはありえない」と暢気に述べていたことが悉くほんとうになってしまった時点で、「もう手遅れ」なのは考えてみれば、これも当たり前のことです。

ツイッタではよくドイツが曲がりなりにも再び国際社会に受け入れられたのは、戦後ドイツのアイデンティティそのものを「ナチの否定」「ナチズムの敵対者としての国家」に置いたからだという話をする。
自分はドイツ人だが「あの」ドイツ人とは違う。われわれはかつてのドイツ人とは敵対する立場なのだ、という考えを国民としての主張はおろか、国のアイデンティティそのものとして採用することで再生した。

だからきみがドイツ人で、「そうは言ってもナチにもカッコイイとこがあったよなー」と秘かにおもっている場合は、当時はまだ50万円がとこはした航空券代を払って日本の東京の、渋谷というところにある大盛堂書店の地下にあるミリタリーグッズ店まで、遙々でかけてオリジナルの軍装品を密輸しなければならなかった。

ドイツ人にとっては、彼らにとっての伝説のミリタリーショップが東京にあるのは偶然ではなくて、論理的必然性があることで、なぜなら、日本こそがかつてのナチの「お仲間の国」で、しかも日本のほうは彼らの祖国と正反対に、自分達のアイデンティティを戦前の大日本帝国からの一貫性に求めている。
ドイツ人とはまるで反対に日本人は世界最悪の帝国と言われた大日本帝国が意匠を変えただけで中身はおなじであることをむしろ誇りにしている。

ナチは残酷だったが日本は何万人だかのたいした数でないアジア人を勢い余ってちょっと集団強姦したり処刑したりしただけなので話が異なるのだと驚くべきことをマジメに言い放つ日本の人に何人も会ってぶっくらこいたのをおぼえているが、普通にはナチに勝るとも劣らない残虐行為に耽って自滅したと認識されている大日本帝国は、なぜナチがダメなのにおめこぼしになったかというと、そんな日本人に都合がいい理由ではもちろんなくて、ナチドイツが強大な国で、伝説の、地獄から姿をあらわしたブラックドラゴンそのままの軍事力の強さで、ヒットラーが犯したいくつかの素人っぽいマヌケな判断の誤りがなければ、いまごろはとっくにナチの世界になっていて、アーリア人だけが人間で残りは家畜というナチの夢の世界が実現していたはずなのに較べて、日本はそのドイツの尻馬に乗って「バスに乗り遅れるな」の、いとも品性下劣な標語のもとに各国の軍事力がドイツとの戦場に引き寄せられたあとに出来た真空地帯、インドシナ、インドネシア、東アジア、オセアニアに少しでも分け前を手にしようと火事場泥棒に乗り込んで行ったにすぎない、という事情がある。

アメリカの日本に対する認識は一貫して後年のサダムフセインのイラクやISISに対するのと似た「厄介だが取るに足りない悪の勢力」です。

だからアメリカのホワイトハウスや議会の関心は圧倒的にドイツの戦後に集中していて、日本は、アメリカ占領軍にすべてを丸投げしてすませてしまった。

日本の戦後民主主義の奇妙なくらいの投げやりで荒っぽい構成は、あれはつまりは「軍人が考えた民主社会」なのだとおもいあたれば簡単に説明がついてしまう。
ダグラスマッカーサーには、一国の未来に対するビジョンや洞察などはまったくなくて、ほんの数年先に自分の統治に都合がいい社会制度を採用しておしつけたのに過ぎない。

やっと食っていけるていどの非武装軽工業国家をつくるのが目的だったが、そこがビジョンのない政治の哀しさで、共産主義の圧力が高まり、冷戦が起こり、ついには38度線を越えてコミュニストの軍隊が押し寄せてくるに至って、泥縄に泥縄を注ぎ足して編んで、人材不足の苦し紛れに満州で戦犯として連行した国家社会主義者の一団(例:岸信介)まで無罪放免にして、なんだかヘンなものをつくってしまったのが戦後日本だった。

戦後日本のさまざまな制度上の矛盾、つじつまのあわない社会理念は、つまり、そうやって「出来てしまった」ものだった。

いろいろと表面を覆う夾雑物を取りのけて仔細に眺めてみると、芯のところにあるのは「もともと自由など必要としていない国民に自由を押しつけてしまった」という人間性というものへの理解を根本から欠いたアメリカ占領軍将校たちの態度に行き当たる。
日本人が信じたくないのは当たり前だが、アメリカにとってはもともと戦後日本は、「あんまり本国からオカネをもちださなくてもなんとか食料や軍需製品を自給自足できる国の体裁をとらせた巨大基地」にしかすぎないので、日本人がアメリカ人にはおもいもよらない悪知恵(というのはアメリカ人から見てのことで、日本人からすれば誇りにおもうべきだとおもうが)を発揮して80年代に自国を脅かす強国になったときには、どれほど慌てふためいたか、英語ではいくらでも記録があります。

ところが、かつて自分たちがスパイとして雇って首相をやらせていた人物岸信介の孫が、因果はめぐる糸車、日本の人気がある首相になるに及んで、また日本が自国の忠実な犬として働いてくれることに落着した。
しかも今度は食料と軍需品だけでなくて、兵士の供給もゆくゆくは日本現地で調達できる見通しになっている。

もともとが世界に名だたる好戦性で鳴らした日本人自身も、新しい事態を好感をもってうけとめていて、なんのことはない、全体主義日本とアメリカが共存共栄するためには、こっちの形のほうがよかった、ということに落ち着いている。

冷戦が終わって、新しい安定構造を模索していたのが、安倍政権の明示的な日本帝国の復活が日本人によって支持が表明されるに至ったことで落着したということで、歴史というものはこうなると安定してしまって、なかなか動かすことができないので、「もう日本が1940年代後半に一瞬夢に見た自由社会に戻ることはないだろう」と世界中が判断している。
それを悲しむのは日本にもひとにぎりはいる自由を求めるひとびとだけでしょう。

そうすると、西洋の人間のなかでも際立ってわがままな自分としては、観光に立ち寄るくらいのほかは日本に戻ったりする機会があるわけはないので、原題にもどる、自分が身に付けた日本語はどうするかなあ、とおもいます。

言語は特にある程度上手になったあとでは習得が楽しくはあるが維持するのが難しい能力の代表で、なんとかして機会を見つけて使いつづけないと、あっというまにダメになってしまう。
例が妙ちきりんだがペットを飼っているようなものでもある。
絶えず気を配り、餌をあげて、水をあげて、ときどきは特別な集中力で配慮を向けなければ勝手に病気になって死んでしまう。

せめて読みたい本や映画がたくさんあればよいと願うが、いかんせん、自分で興味がもてるのはせいぜい1960年代くらいまでで、そのあとになると、まるで趣味にかなわない。

困ったなあ、とおもっています。

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