曹洞宗大興寺
石鳥谷町大興寺23-1
大興寺、稗貫氏、宝篋印塔、稗貫氏の始祖、秘宝、あか地蔵、土仏観世音 如幻塚(いたこ塚)
大興時:稗貫氏の菩提寺
大興寺山門 | 寺伝によれば、大興寺の開山は永徳元年(1381年)であり、梅山禅師により開山された。梅山禅師は曹洞宗開祖・道元禅師から7世の法脈を継いだ方で、大興寺村の山中に草庵を結んで座禅した。そのとき、土地の郷主沢田佐五兵衛忠貞が永和年間(1375~79年)寺へ土地を寄付。そこで一宇を建て「大興寺」と称したのが始まりとされている。大興寺は稗貫氏代々の菩提寺である。 稗貫氏が地頭として着任したのが建久8年(1197年)とすれば、約180年の間当地以外に菩提寺があったと思われる。 |
大興寺本堂入口 | 稗貫氏の歴史を最も詳細に伝えていると思われる、瀬川氏系図によると、稗貫家14代稗貫出羽守広信は、永享7,8年(1435年)の戦いで、南部氏、葛西氏の大群を勇戦奮闘した稗貫家の党首で、後年、寛正3年(1462年)足利氏の内紛に参戦して、沖津で戦死して、大興寺に葬送されたとある。大興寺が菩提寺となったのは恐らくこの頃からと思われる。なお、寺伝では、天文22年(1554年)稗貫武重から寺領として70石拝領したと伝えている。 |
宝篋印塔(ほうきょういんとう) | 大興寺の後ろの山地に、稗貫氏の墓と伝えられている石碑が2基あります。一基は官位や身分が高い人のために建てられるという宝篋印塔で、もう一基は高さが約1.8メートルの自然石のものです。 宝篋印塔は、高さが約1.8メートルあり、基礎、塔身、蓋、相輪といわれる部分から成り立っており、風化により部分的にはかけてはいるものの、ほぼ原形をとどめております。建造は室町時代後期で、形式の整ったものでは、県内で最も規模が大きいものといわれています。 石塔(墓碑)は古代から中世にかけて発生しました。層塔や宝塔、宝篋印塔、五輪塔などが造られました。近世に入り、笠附石碑や方柱無蓋碑などに変容してゆきましたが、これらは上層階級の人々のためのものでした。一般庶民の墓地に加工した石碑が建てられるようになったのは、近世以降のことといわれています。 尚、大興寺の由緒記によれば、この宝篋印塔は、天正3年(1575年)3月14日に亡くなった稗貫大和守藤原武重の墓碑とされています。又、自然石の墓碑は、寛文4年(1664年)5月21日に、稗貫氏の子孫と考えられる藤原祐清が、老母徳譽宗公のために建立したものです。又、稗貫氏の墓は、このほかに、町内には中寺林の光林寺に1基あります。これは五輪塔で、延慶2年(1309年)に亡くなった稗貫太郎俊之のものです。 |
大興寺本堂 | <稗貫氏に関して> 稗貫氏は、文治5年(1189年)に平泉藤原氏の滅亡後、稗貫郡の地頭として入部(国)しました。稗貫氏の始祖としては、武蔵の国(埼玉、東京)の御家人中条成尋とする説が有力で、中条氏は和賀郡の地頭であった和賀氏の始祖とも言われています。 稗貫氏の始祖としては常陸国中村の山陰氏の子孫鈴木蔵人朝宗を父に持つ藤原広重(為家)の説もある。広重は文治5年(1189年)源頼朝の藤原泰平征伐に際し戦功を立て、その恩賞として稗貫郡を賜り、稗貫氏と称するようになった。建久年間(1190-99年)に稗貫郡に下向し郡主となったとされている。 稗貫氏の居城としては、花巻市小瀬川の小瀬川舘や同城内の鳥谷ヶ崎城の他、同本館の十八ヶ(さかりが)城、同天下田の日居城、石鳥谷町大瀬川の大瀬川舘などの説があります。しかし、記録もなく、不明のままであるが、転々と居城を変えたと見られている。 |
鐘突き堂 | <大興寺の秘宝> 曼陀羅袈裟 伝来、天童山如浄禪(中国宗朝の師)より道元禅師へ授与された。 麒麟肉付払子 伝来同断五輪形黒塗り 手内法華教 伝来同断、道元禅師が手の中に握り隠して悪魔外道を済度した。 水晶水滴数珠 伝来同断、水晶の大五十五個、小十八個、菩提樹四十三個の数珠 法王の羽 伝来同断、長さ一尺六寸幅二寸 虎刎(とらはらい)の杖 伝来同断、道元禅師が、宗の国で蒙古におそわれたとき手に抱えていた柱杖がたちまち龍になって猛虎を走らしめたという。 |
あか地蔵 | 大興寺あか地蔵・・・病魔を退散させるお地蔵様 大興寺境内の東側に安置されている赤い衣をまとっているのがあか地蔵です。高さ1.5m幅0.8m。いつ頃造られたのか定かではないが、煩っている部分を強くさすると、病魔が退散するという言い伝えがある。訪れる参拝者が多かったため、地蔵本体の10数カ所に深いくぼみがある。 |
一休像と後ろは水芭蕉群生沼 | 当寺の開山禅師である梅山禅師が、京都の六角通りを托鉢して歩いていた時、道ばたで3人の童子たちが土をこねって土仏像を作って遊んでいました。あまりにも素晴らしい出来映えに、禅師がその童子たちに土仏像をほしいと言ったところ、 「実はこの仏像は禅師にあげようと思って造っていたのだ」と言い、 「我らは三者明神である」といって天空の彼方へ消え去りました。 梅山禅師は、有り難さと信心肝に銘じ、天空の彼方に向かって深く深く礼拝し、その土仏像を頂いたという。その後、この土仏像を負仏として奉持し、回国修業の旅を続けたのであった。 |
土仏観世音山門 | 旅の途中、禅師が山賊の家にそれと知らずに宿泊した時のことでした。夜中に山賊は禅師の首を切って裏山の藪の中に捨ててきました。翌朝になって、禅師が元気で出てきたのに驚いて、首を捨てた裏山の藪に言ってみたところ、土仏像の首が切られて転がっていた。 あまりの不思議に驚いた山賊は、自分の犯した罪の恐ろしさを痛感し、今まで犯した数々の悪行を告白し、懺悔し、禅師にお願いしてその場で髪を切り、出家し禅師に仕えたという。禅師も又、今更ながら三社明神から賜った、奉持の土仏観世音のあらたかな仏恩に深く感謝して回国修業を続けたのであった。 禅師は、益々健康で修業につとめ、危害や疫病に冒されることは無かったという。 |
土仏観世音お堂 | 開山禅師が三社明神から賜ったという土仏観世音は丈が4寸6分(約14センチ)だが、その土仏像を安置しているお堂は全てケヤキ素木細工で棟札には弘化3年(1846年)大興寺26世徳宗代に再再建されたものと分かる。工匠は南部の名工と言われた勧次郎親子が7カ年もかかって完成したものである。特に2代目勧次郎は竜の細工では他に比するものがないといわれている。向拝の柱の3方、正面唐戸、4方の欄間、腰欄間などに彫刻を施し、中でも昇降の両竜は優秀作といわれる。 |
如幻塚 | 伝承に寄れば、大興寺九世の宿鷺(しゅくろ)がここを通った時塚のそばで子供が泣いていました。住職は大変哀れに思い寺に連れ帰ってその子を養育しました。その子は非常に聡明な子で、成長して名を如弦と称し大興寺の十世を任されました。如弦の母はいたこ(口寄せする巫女)で、如弦を出産後亡くなり、この塚に葬られたと言われています。如幻は大興寺十世として寺院の隆盛に力を尽くしましたが、後には陸前高田市米崎町にある普門寺の住職になりました。普門寺は現在大興寺の末寺となっていますが、当時、葛西氏の家臣で浜田城(米崎町館)主であった千葉宗編が、普門寺が荒廃しことを嘆き、永正元年(1504年)海よりにあった寺を現在地に再建しました。そして如幻和尚を招請し、寺領として寺に千石給しました。普門寺は初め臨済宗でしたが再興の際曹洞宗に代わったと言われています。 |
「如幻誕生の処」と刻まれた石碑 | 塚の周辺は現在は水田となっていますが、かつては林になっていました。大興寺の方から塚の方へ道が通っており道は塚の手前から左折になり、八日市の方に通じていました。宿鷺がここを通ったのは町に酒を買いに行く途中のことだったと言われております。塚の面積は広く、高さは水田から3メートル程になっています。土が小高く盛られ、回りには小石が頑丈に積まれています。又、塚の上には「如幻誕生の処」と刻まれた石碑が西向きに建てられています。これは如幻を引き取って育ててくれた大興寺の方向に向けるという意味と、亡き母がいつまでも子を見守るという意味で西向きに建てられたものと思われます。 如幻塚には毎年8月9日に大興寺で行って供養しているほか、同12日には塚の周辺の人たちが行って供養しています。又、今は伐採されてなくなりましたが、昭和16年までは石碑の南側に松の古木が残っていました。これは墓標として植えられたものではないかと考えられています。 |