おたくのための恋愛至上主義の対策に関する提言


恋愛至上主義とは?

 最近発見された恋愛至上主義なるものは、簡単に説明すれば、恋愛こそ一番大事なことであるという考え方である。
定義などは、他のページや文献にまかせて割愛するが、世の中の流れ的に、十年前ほどまで突き進んでいたバブルが崩壊することによりそれまでの価値観に自信を失った社会が、家族という単位が崩壊していた社会において人のぬくもりを求めて発展した思想であると考えられる。

このページを作成した目的

 文章とは、何らかの目的によって書かれるものであり、このページも例外では無い。

おたく男は乙女におすすめ

 という、名文が世の中にはあるが、これに対する男性への文章というのはあまりに少ない。少なくともグーグルで簡単に検索して見たが発見することはできなかった。そこで、私から何らかの一部の男性たちに寄与できればと思いこの文章を作成してみた。読んで頂ける人に何らかの参考になれば作者としては嬉しい。

恋愛至上主義の成立とブランドヒエラルヒー

 バブル時代には、ブランドヒエラルヒーというものが成立していた。3高(学歴高、背が高、給料が高)というのもそこから発達した発想であったと考えられる。しかしながら、バブルの崩壊とともにそれらの価値観はデフレの影響を受け、銀行や証券会社が潰れるような時代になると、結婚を金銭的に考える女性にとって手に職を持っている人間の多い理系人間の価値はいささか上昇してきたように感じられた。とはいえ、理系の男性の合理的発想というものは、ブランドヒエラルヒーというものに影響され続けていた女性達とかなりの価値観の相違があり、上手くいかない場合が多いというのも最近分かってきたため、恋愛おいては、理系の男性はいまだに敬遠される傾向が強いように感じられる。
 ここで、ブランドヒエラルヒーという考え方について若干触れたいと思う。ブランドヒエラルヒーを説明するのがこの文章の目的では無いので、ここでも詳細については、省かせていただく。で、簡単に説明すると、日本人の80~90%の人間が影響されているのがブランドヒエラルヒーという価値観である。これはどのような価値観かと、マスコミがプレゼンしてきた価値観であって、職業、容姿、収入などの細かい項目において、人間、物の社会における相対位置を決め付ける価値観である。例えば、職業であるならば、医者、弁護士などの高収入の職業が優れており、リーマンと呼ばれるサラリーマンの地位が低くなっている。容姿に関しては、その人のルックス、スタイルだけではなく、学歴や持ち物なども関係しており、服装、時計、財布、車など多岐にわたり点数化されていく。収入に関して言えば、職業から入って来るものだけでは無く、両親がいるか、どこに土地があるかなどの遺産的意味も含まれている。こうやって考えてみると、理系男性の地位が向上したのは、ブランドヒエラルヒーという考え方が崩壊したからではなく、銀行員や証券会社など今まで高上位にいたサラリーマンの地位が彼女らにとって下がったため相対的に上がっただけしかないということに気づく。つまり、現在においてもブランドヒエラルヒーという考え方は未だに健在であり、将来的にもしばらくこの考え方がなくならないことが予想される。
 恋愛至上主義という考え方は、ブランドヒエラルヒーという考え方と相反していると一部では考えられているが、このことは正確では無い。例えば、女性にとって同じように好きだった人がいて、女性側に選択件があった場合、多くの場合このブランドヒエラルヒーという価値観によって男性が選ばれるからである。だからと言って、女性に対する文句を言うのは誤っている。もし男性側に選択件があった場合には、同じような考え方によって女性を選ぶことが多いからだ。そもそもここでは、そういう話が目的では無い。話を戻すと、恋愛至上主義とブランドヒエラルヒーは単純に対立する考え方では無いということである。しかしながら、バブル崩壊後、価値観の転換というものが行われ、ブランドヒエラルヒーより恋愛至上主義というものが優先されるような場面が多数にわたり増えてきたことは間違いない。
 恋愛至上主義という考え方においては、まず第一にこの考え方において女性は男性を評価するため、ブランドヒエラルヒーに用いられる職業はあまり優先されない。その代わりに優先されるのが、容姿や性格などになってきている。確かにブランドヒエラルヒーからは完全に脱却されていないものの中身の重視ということが行われるようになってきているように感じる。ここで、おたく(以降同意義で「おた」も使用する)的な理系男性の地位はどうなったかというと、ブランドヒエラルヒーで相対的に向上した地位がバブル当時と同じように低下した。なぜなら、おたというものを女性は中身として評価されなかったことにある。

おたくの本質と概念

 おたくに関しての説明は、研究者もおり、いろいろと説明されていることなのでここではしない。ただ、文章上、おたがどのような人間を示しているかを説明しておく必要があるので、私が考えていて、この文章で指摘されているおたについてここで簡単に触れておく。
 おたく(おた)とは、おたという言葉が発見された当時はアニメオタクの意味で使用されるのが一般であった。しかしながら、パソコンおたく、鉄道おたく、無線・盗聴おたく、ペットおたく、アイドルおたくなど沢山のおたくが発見されるに従い、おたくというのは、世間と価値観を同調させない人間に対して用いられるようになっていった。初期の頃は、インドアに関する趣味に対して用いられることが多かったが、現在においては、サッカーおたとかスポーツおたとか広範囲に用いられ、おたとは、価値観を受け入れられない人間という概念的表現になっている
 ところで、おたが初期の頃より、理系的人間に多く見られるという傾向は変わっていない。本質的には違うのだが、そのようになっていった経緯としてはやはり理系的人間に多い合理主義だと考えられる。合理主義は、基本的には既存の価値観に依存されない。勿論、それが合理的理由によって発生した物であったのならば否定をおこなうことは無いというか、逆に肯定することだろう。しかしながら、ブランドヒエラルヒーや恋愛至上主義というのは、恣意的にマスコミより作られた思想であるので、単純にそれに従うことが出来ない。ただ、一般的な合理主義者というのは協調を利用することによって、これらの思想に直接対立するということは行おうとしない。なぜならば、対立するということは合理的では無いからである。
 それならば、なぜ、おた達の価値観が孤立することになってしまったか? という疑問が顕在化してくる。
 ここで、おたと呼ばれる人達の個人主義に触れる必要がある。こういうことを書くと、おたが犯罪者のように考える人がいるかもしれないので、念のため書いておくが、人間は基本的に個人主義的である。ただ、その度合いが低いか低く無いかというだけのことである。勿論、その度合いが低い人間は個人主義者とは呼ばれないのであるが。まあ、個人主義に関して論じたいわけでも無いので、ここではこれ以上説明しない。その個人主義者と勘違いされ易いのが自己中心主義(エゴイズム)である。また、心理学や行動科学の本に詳細が書かれている通りであるからエゴイズムに関しても説明は行わない。興味がある人はご自分で調べていただきたい。とにかく、言葉だけを使用しようとするマスコミにおいて使用されているエゴイズムというのは間違いであり、人間を形成するバランスの上でもエゴイズムは働いているということだけ記述しておく。話がそれてしまったので戻すが、おたにおける個人主義とは、自分の至上する物に対して他人の価値を度外視し、自己を追求するということにある。簡単に言うと、自分が好きなことに対しては、他人の意見を聞かない、ということである。

世の中におけるおたへの対応

 世の中では、これまで述べてきたように、おたが個人主義者であるということにすぐに気づいた。マスコミは、自分達の決定する価値観を受け入れない者達ということで社会的に排除しようと試みてきたが、結局のところマスコミは、自分達が形成するブランドヒエラルヒーの最下位におたというレヴェルを作成することができただけで、おた自体を排除することはできなかった。そもそも、おたは、価値観をブランドヒエラルヒーに求めているわけではなかったから、マスコミの目論見は無駄であったといえる。それでも、おたを社会的に悪印象を植え付けることに成功したのであるが、ここで問題が色々と出てきた。いろいろと出てきた問題のうち一番問題であったのが、マスコミの定義したおたが拡大解釈されるにつれ、おたに入る人間が非常に多くなってしまったことにある。このことによって、一部の人間達のマスコミからの離反が相次ぎ、マスコミの既成概念を疑うようになってきた。このおたに含まれることが多かったのは、理系的人間であった。理系的という表現は適切で無く、合理主義的思想を持ったスペシャリストであることが多かった。マスコミは本質的に自分が理解できないものを嫌悪し、排除を行おうとする。元来、おたの排除もこのような考えの基に行われるものであったが、結局のところスペシャリスト達のマスコミュニケーションへの不信感を植え付けることになった。このことは、マスコミが未知の物、例えばインターネットを便所の落書きと呼んだコメンテータから分かる無知な物であることをスペシャリスト達は、より深く感じるとともに、メールなどの直接的メディアも含むマスコミに異存しないインターネットなどを手に入れるに到った。マスコミュニケーション論は、ここではこれ以上は論じないし、こんなに簡単な話では無いのだが、結論から書けば、お互いに干渉しないことになっていった。マスコミもスペシャリスト達も合理的で無駄な争いは望むところでなかったからである。
 ただ、おたの排除は停止したマスコミであるが、ブランドヒエラルヒーまでは放棄するつもりはなかった。そのため、おたはブランドヒエラルヒーを信仰する人間からは、無視されることとなったが、逆におたワールドを形成するに到りお互いの文化は並行線を辿ることになる。そのこと自体は合理的でお互いにとって利益があることであった。

おたの種類と社会復帰

 おたとは、いろいろな方向性があり、すでに複雑になっているのだけども、おたは社会から隔絶されているわけでは無い。単に一つの社会の形態でしかない。良く勘違いされていることなのであるが、別におたは、一般社会と別の社会を形成しているわけではない。そのことは、普通の社会に普通に参加しつつおたであるということから分かる。そもそも、おたは趣味の範囲のものであったわけだから、社会の中ではおたと呼ばれる人も社会的役割を担っているのは別段不思議なことではない。ましてやスペシャリスト的能力は、社会によって有用であったために彼らは十分に最前列で重要な役割を担ってきたことだろうと思う。ところが、ある時点で並行線を辿るかに見えていたおたワールドと恋愛至上主義社会が一部重なり始めてきた。というのは、恋愛至上主義がおたワールドを取り込もうとしたわけでは無く、実際には、おたワールドが恋愛至上主義という概念を取り入れ始めたからである。この取り入れという作業はコマーシャル的なビジネスライクに行われ始めたが、おたワールドにおいては比較的速やかにこの概念は波及していった。これは、ブランドヒエラルヒーと異なり恋愛至上主義は、おたにとって対立する思想ではなかったことを示している。
 しかしながら、単純にそれだけでは無い。おたワールドにおいては、世の中より遅れて入って来た概念であったが、一部のおた達は既にその概念を知っていた。その理由としては、隠れおたの存在にある。
 おたの範囲の広がりは前述した通りだが、そのためブランドヒエラルヒー的思考を持つ人間から疎外されないために、隠れおたというのが台頭し始めた。つまり、実質的にはおたくなのであるが、実生活上はそのことを隠している人達が増えた。隠れおた達は、自己認識している人から気づいていない人まで多彩な範囲を持っているのだが、共通して言えることは、物事に柔軟性があり、協調性があるが、自分のおた的趣味に関してはコンプレックスを持っている。それでも、そのことの有意義さを認めつつ、表面上はマスコミと対立しないが、内心的にブランドヒエラルヒーに敵対しているという傾向がある。そこで、物事のバランス感覚に優れていた隠れおた達は、恋愛至上主義やブランドヒエラルヒーと直接対立はせずに、女性と付き合いつつ、女性の価値観を変革させるというまだるっこしいが、賢い方法を選択した。だから、隠れおた達は、私の知っている限り普通に女性と付き合いつつ自分の趣味の世界を満足させるということにある程度のレヴェルで成功したし、上手くいっている人が多い。思春期を共学で過ごした人間に多いが、女兄弟を持っているとそうなる傾向が強いと個人的には思っている。あなたが、もし隠れおたであるならば、価値観を大きく変えずに恋愛至上主義に対応できると思う。その方法が分からないと思う人は、後述の傾向と対策を読んでいただきたい。
 次に、精神的にも社会的に安定しているのが、開き直りおたである。開き直りおたとは何かというと、自分からおたであることをカミングアウトした人間である。個人的には、関西出身の人に多いと思われる。関西というのは、おたにとっては恵まれた地方で、別におたであったとしても、「本人や周りがおもしろけりゃいいじゃん」という価値観があるため、おたであることを社会的に問題にされない地方だと思う。事実、アニソン(注:アニメソングのこと)を歌うアカペラチームとかがテレビに堂々と出て来れるのは、面白い奴は、いい奴という関西的のりがあるように思われる。関東だとあからさまに嫌悪されやすいおたなのであるが、開き直っているため逆に嫌悪されにくい。関東人は、より強くブランドヒエラルヒーに影響されているのだが、実際に人を判断するときに用いられる尺度は、おたかどうかであるかより、人間的にどうかであるから、明るいおたは、受け入れられ易い。事実、私の知り合いの明るいおたは、別段普通に社会に適応していたし、普通におたじゃない女性とつきっていた。個人的には、彼らはおたであるということにコンプレックスを持っていないため、若しくはコンプレックスを開放することによって、安定した精神を持っていると思われる。
 最後に、一番問題なのは、孤立主義おたである。孤立主義おたとは何かというと、社会から孤立しているおたである。初期に呼ばれていたおたのタイプがこのタイプなのであるが、基本的に社会と同調せず、自分の好き勝手に生きているおたである。このタイプは、周りに迷惑をかけやすいし、本人はそのことを意にも解さないのが問題である。自分がそのタイプであるならば、できるかぎり開き直りおたに変貌するようにした方がよい。ただ、一つの救いは、そのタイプのおたでも、関わり合いを持たなければ、無害であることが多いということである。
 詳細の分類は専門化に委ねることとして、これらのおたが社会復帰するのは一般的に難しいと考えられているが、実際はそのようなことはない。そもそも、隠れおたと開き直りおたは、平常的に社会に参加している。それでいながら、恋愛至上主義に対応できないのはなぜであろうか? そのことを以降、話を進めてみる。

おたにおける価値観の相違

 実は、一部のおた達は、かなりの前の時点で恋愛至上主義への変革を認めて融合、対応を行ってきた。バランス感覚が優れていたものは、おたである以前に時代の先端的モダーン主義者であった。そういう人達は、マスコミの提示する価値観を否定しつつもバランス良く、ブランドヒエラルヒーや恋愛至上主義の考え方を取り入れていった。そのため、時代感覚を失うこと無く、いや逆に時代の先端を開拓しつつあるように思われる時もある。そのような人々に対して、私が助言することは必要ないし意味をなさない。
 しかしながら、私の見てきたおたの大半は、マスコミの提示する価値観を否定するようでいて、より強く影響を受ける者が多かった。つまり、おたという部分でのブランドヒエラルヒーは否定しているのに、学歴や職業やその他の部分でのブランドヒエラルヒーを認めていたりする。その考え方に関して私は疑問に感じずに得ない。おたであるなら、ブランドヒエラルヒーを認めずに恋愛至上主義に突っ走ってもいいと思われるのにである。ここで注意深い人間は気づくであろう。一部のおたの人間の価値観が非常に古いもので、単純化されたものであるということに。
 それでは、なぜそのような古い価値観に彼らが束縛されることになったかを考えてみる。私達が一般的に単純化された古い価値観というのは、どのような場面で遭遇するか、遭遇したか考えていただきたい。すると、昔読んだ少年、少女漫画にそのような価値観が多く用いられていたことを思い出す。
 最近の少女漫画には、最近の価値観が用いられ複雑系の恋愛が多いらしいが(実際には知らないが)、そのような内容は彼らには好まれない。専門的には複雑系を操る彼らであるが、実際社会の人間関係では複雑系は好まない傾向にある。そこで、バイブル的に読まれることが多くなるのが、そのような単純系の恋愛ストーリーである。さらに困ったことに、単純系のストーリーというのは、男性漫画にとても多く、作者は恋愛経験がほとんど無いのではないかと思われるようなものが人気になったりしている。これらのものを読んで信じた人間が勘違いをするのも仕方が無いことだと思われる。普通の人の場合は、そう影響を受けた話の真似をしてみて失敗して学んでいくのだが、おたの場合はそのような行動をとらないためにそこで学ぶことが出来ない人が多い。そうして、その価値観だけを信用してしまうのである。
 そこで、異性と付き合うためには、その価値観に会う人を捜すか、自分の価値観を変える必要があるのだが、世間一般でそのような価値観を持った人間というのは非常に少ない。どうすればいいか、それをこれから考えて行きたいと思う。


おたな男における女性と付き合うための傾向と対策

恋愛至上主義なんて糞食らえ

 やっと、本題に入って来たこの文章であるが、まずこのことを否定してみる。別にそれでもいいと思うし、それでもいいと思う人は悩む必要は無く、そのままの人生を送れば良いだろう。だが、何も悩まずにその生き方を選択した人はたいていの場合後悔しているように感じられる。しばらくした後、ふと気がついて振り返ってみるとおたく的知識しか持っていない自分に気づき、異性とどのように付き合えば良いか分からず、もっと悲しいj悲しい状態の場合、人間と普通に付き合うことが困難な自分に気づく場合さえある。人は、若い時に変更することはさして困難では無いのだが、年をとってから考え方を変更することは、若い時に比べてはるかに困難である。気づいた時にはもう変更できないことに気づくことが多い。
 私の先輩で、「もう、俺社会復帰不可能だな」と自嘲的に言う先輩がいた。この人は、自分の趣味が年齢に対して社会一般に受け入れられないことを知っていつつも、自分の趣味が好きだからこういうことを言っていた。こういう考えなら良いと思う。将来、もし、自分自身悩んだとしても、自分で趣味の方を選んだ自分がいたことを認めているわけだから、少しは後悔するかもしれないが、前向きに生きていくことができる。
 逆に、何も考えずにおたでい続けるならば危険だ。社会を呪ってみたり、過去を恨んでみたり、ネガティブな思考が働く可能性が高いからだ。そのためにも、自分がおた、若しくはその状態に近いと思う人は是非自分自身がどうあるべきかを考えていただきたい。そのことが、ポジティブな発想の原動力になると思われるからだ。

結婚はしなくても良いんだよ

 私の大学生時代の友人に、「結婚しない人はへんだ」という考え方を持った人がいた。何が変なのか理解できないのだが、彼らは、40歳すぎて結婚できない人に対して、あの人は変だと言い続けていた。私からみても彼らは(自分を含めても)もてそうになかったので、そんな人の心配をしている暇があるのならば、自分の心配をした方がいいのでは無いかと言いたくなったのだが、まあそんなことを言っても無駄だと言うことを知っていたので、何も言わなかった。
 ここで、あることにふと気づく、おたの多くは結婚しなければいけないという固定観念に縛られているということに。結婚の必要性は自分で決めれば良いことであり、現在は結婚する意義に関して考え始めているという時代であるのにこのような考え方に束縛されている理由は、前述した単純化社会価値観によるものと思われる。
 ただ、私はこの考え方を頭ごなしに否定する気は無い。それも一つの考え方であるのだから。と言いつつも、世の中一般ではこの価値観は変わってきているように思われる。少なくとも、付き合ったらすぐに結婚ということはなくなってきている。そのことは頭の片隅にでもいれておいた方が良いように思える。

見合いをかたくなに否定する理由は?

 何故だか良く分からないのだが、お見合いを否定する人が世の中には結構いる。所詮、お見合いだって出会いの一つの形態であるに過ぎないのに、そのことを否定しようとする根拠が私には良く分からない。お見合いというのは、合理的根拠があっていままで続けられてきたものだから、非常に効率が良いものだと思う。その行為を否定するのは、単純系恋愛至上主義ともいうべき、単純なドラマティックなストーリーを価値観として植え付けられているからだと感じるのだが、おたの場合、更に不思議な考え方がまとわりついている。「お見合いをしたら結婚しなくてはいけない」というのが、それなのだが、はっきし言って意味不明、理解不可能である。もっと酷い話になると、「写真をみた瞬間に、お見合いをさせられて、無理やり結婚させられる」というものだ。この考え方に到ると、私は彼らにその考え方はおかしいんじゃないかという事を説明するのさえ馬鹿げている行為だと考えさせられる。そもそも、彼らは「自分が断られるかもしれない」という選択肢が全く頭の中にはいっていない。お見合いする相手というのを大抵の場合、親は金持ちだがブスで不細工という良くある漫画に出てくるようなシチュエーションしか想像できないのである。
 だが、実際に私の知っている人でお見合いで結婚した人は、美人な人の方が多いし、夫婦円満な人の方が多い。また、お見合いを何回やっても上手くいかないという人もいる。だから、お見合いなんてそんなに深く考えることもないと思われる。それでも幾人かは、お見合いはかたっくるしいという。そのように感じる人はやらなくてもいいと思う。ただ、そういう考えならば、お見合いを否定したりする必要は無く、ましてや、お見合いで結婚した人を馬鹿にした言いかたをするのはおかしいのではなかろうか。なんにせよ、数年前「女の人紹介しようか?」と言ってくれた人に対し「是非、紹介して下さい」と答えた人は、別件ではあるが結婚して幸せに暮らしているが、「大きなお世話」と答えた人は、いまだに独身である。このことは、良い教訓ではなかろうか。


実際にどうしろというの?

 いままで長々と書いてきたが、結局のところ気になるのはこの部分ではなかろうか。だが、どうすればいい? と聞かれて困るのは私である。良く知っている人ならばそれなりのアドバイスを出すことができるが、年齢も考え方も目的も違う人に対し説明するのは困難である。おたくという言葉が広範囲に使用されていることもある。じゃ、ここまで読んできたのが意味無いじゃんと怒るかもしれない。ちょっと待ってくれ。絶対に上手く良く方法などは何処にも無いが、参考になる意見はある。そのまま使えるか分からないが、一人の意見として良く考えてもらいたい。

結婚したい人

 結婚したいという目的がある場合、お見合いをするのがベストである。だが、お見合いだったらすぐに決まるよと考えている人に限って、簡単に決まらない。逆に、お見合いですぐに結婚することができるような人は、普通に恋愛して結婚することも大して難しくないだろう。ただ、効率はお見合いの方が大抵の場合良い。それは、歴史的にお見合いという制度が長続きしていることからも明らかなことである。まあ、簡単に上手くいけば良いのだが、上手くいかない場合も多い。そのような場合、以下のことを検討していただきたい。
・まず、相手側から断ってくる場合
 ちゃんと理由を尋ねる必要がある。それを怠る人は、何回やっても上手くいかないことになる可能性が高い。自分の悪いといわれた部分を修正していけば、必ず人間として変わっていけることと思う。ただ、遠慮してか本当の理由を話てくれないことが多いが、それを聞かないと意味が無い。自分のためと考えてずうずうしく、質問した方がいいだろう。
・自分から断りたくなった場合
 性格や価値観が合わないということは多い。だが、その場合でもいろいろと話をすることは大事である。最終的に断るつもりでも、他人の価値観を学ぶつもりで付き合ったほうが良い。但し、お見合いなのだから後々揉めるような行為を慎んだ方が無難だと思われる。

とりあえず、恋愛したい人

 異性と普通に付き合ったことが無いことが悪いと思っている人がいる。別にそんなことないのに。何歳になったら、どれくらいの恋愛経験がないとおかしいという人がいる。どうでもいいことなのに。
 ところで、恋愛しようとした場合、今まで読んできた部分でおたに当てはまる、若しくは、考えかたが納得できないという人は結構いることと思う。そこで、そう感じた場合、あなたが男なら女性の考え方を学ぶ必要がある。ベストの教師は女性兄弟なので、貴方に姉か妹がいたら女性の恋愛観というものを聞くと良い。ただ、女兄弟がいない場合や、女兄弟がおたの場合は、この手法は使えない。女性のおたであっても、おたの一般的特有として、周りの人間関係に希薄であることが多く、参考になりづらい。ましてや、女王様モードに入っている場合、全くもって参考にならない。聞くだけ有害な場合が多い。
 ほんで、そんな場合どうするか。そういうことを話してくれる女友達を作れば良いということに気づく。まあ、インターネットの掲示板とかで尋ねることも最近では可能であるが、やはり生の話を聞いた方が良い場合が多い。というのも、インターネットの掲示板に書き込みをする女性は考え方が偏っている可能性が高いためである。
 その前に、問題がある。女友達が出来るかどうかということである。出来ない人は、まず男の友達を作ることが大事である。ただ、自分と同じような考え方をもっていない人が望ましい。可能であれば、彼女のいる友達がいい。要するに経験者の意見を聞くことは重要だねということである。
 おたと呼ばれることが多い人達は、個人主義者であることが多いと言う事を記述してきたが別に友達が全くいないというわけでは無い。ただ、友人を選ぶ場合、人間は似たようなタイプを選ぶことが多いため、彼らは自分と同じようなタイプを選ぶことが多い。良く言われる、美人の友達は美人が多く、デブな人の友人はデブが多いというようなことである。一概に適用することは出来ないから容姿と性格は関連性があるから、似たような人間が集まり易いということである。そこで、おたがおたの友達を持っていたとしても、友人としては良いかもしれないが、恋愛ということに対しては全くメリットは無い。だから、できるのならば、いろいろな恋愛経験をしている人や女性に持てるという人と友達になってもらうと良い場合が多い。
 更に、友達が出来ないという人は、かなり問題である。その人は、孤立主義者になっていると考えられる。そうでなければ、人間恐怖症の可能性もある。どちらにせよ、精神的にバランスが良くない状態と考えられる。治療法は、精神科の範囲なのでここでは触れないが、自分でその状態に不安がある程度のレヴェルであれば、他人とのコミュニケーションを増やすことによって簡単に直ることだろうと思う。
 要するにこの項目で言いたかったことは、恋愛をしたかったら、経験豊富な人に聞くことが一番だということである。いくら偉そうなことを言っていても経験が少ない人は、大抵頓珍漢なことを言っているような気がする。不幸な人は、そういう人に影響されてしまう人である。話を聞くときには良く考えてもらいたいものだ。

あん? テクニック? その前に必要なことがあるんじゃないの?

 よく恋愛テクニックという言葉を使う人がいる。んなの、雑誌の売上戦略じゃんと思ってしまうのは私だけなのだろうか。なんにせよ、そんなん役に立ちやしない。というのは、人間、十人十色だから雑誌の通りになんかなりゃしないからである。ただ、マニュアルを読むことは参考になるし、その通りにおこなってみて失敗するのも経験である。成功するならば、問題無いことであるし。
 まっ、とりあえず、友達にそういう話をできる人がいないとかの場合はマニュアル本を読むのもいい。また、女性エッセイあたりも参考になる。個人的には柴門ふみあたりがいいんじゃないかと思うが、一人だけの意見に留まらずいろいろと読むのが良いと思う。また、小説で言えば氷室冴子とかが明確で読みやすく理解し易いと思う。文章が嫌だと言う人は(そんな人はこんな長い文章は読んでいないと思うが)B-バージンやつるもく独身寮がお薦めである。冬物語とか読んで勘違いしてはいけない(内容はおもしろいけどね)。
 なんにせよ、直接人から聞けない場合は、本から学べってことである。人から聞くことがベストなんだけれども、その次あたりには良いと思う。ただ、インターネットで同じようなものを求めるのは難しい。というのも、ウェブページを作っているのはほとんどが男性だと思うし、女性で作っている人は多数の女性とは違う考えを持っている人が多いと思われるからである。どうしてもインターネットでやりたいという人は、その手のMLや相談ページなど読むのが良いと思われる。

より成長するために

 世の中の物語というのは、大抵付き合うことになった時点で終わってしまう。だが、現実はそんなことはなく、付き合うことより付き合ってからの方が大変である。勿論、付き合ってからは、安定感や安心感があるからそういう不安感みたいなどきどきとした気持ちは無くなると思うが、その分いろいろと問題が発生することと思う。
 勘違いしている人は、付き合ったらすぐ結婚とか考えているようだが、実際には上手くいかないことのほうが多い。上手くいかないことは仕方が無い。ただ、そこで、何が悪かったかを確認しておかないと同じ失敗をする可能性が高い。長続きがしないという人はこの失敗を重ねている可能性が高い。別れた時に成長する人と逆に退化していく人はこの時点で明確に分かれていく。成長する人は年と恋愛とともに魅力ある人間になっていき、退化していく人は、心が荒んだりひねくれたりしていく。どうせなら、魅力ある人間になった方が良くないだろうか、そう考えずにはいられない。

ふと思うこと

 一気呵成に書き上げてしまって、読み直してみるとブランドヒエラルヒーと恋愛至上主義に関しての文章になってしまっていた。おかしい、本来の目的「おたく男は乙女におすすめ」に対応する文章の作成というのは完全に忘れ去られている。ふと思う。この文章は参考になったのだろうかと。ふと思う。自分の言いたかったことは書くことができたのかと。ふと思う。結局のところ、一般に言われているところと結論が一緒になっていたのではないのだろうかと。だが、それでもいいのかもしれない。この文章の需要があれば読まれることだろうし、需要が無ければ書いた本人も忘れ去ることだろう。
 ただ、需要があれば追加されたり、変更されたりすることもあるかもしれない。感想などくれば、更に頑張ってしまうかもしれない。
 どうだか分からないが、なにか読んでいただいた貴方の心に届くものがあれば幸である。