砦を見物しながら北海岸を東へ
東ティモールは東西に細長い国ですが、それでも端から端まで200km足らずしかありません。じゃあ、どうせなら一番東の端まで行ってみようとバウカウからさらに東へ進みました。
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ミニバスだか軽トラだかよくわからない車で出発します。この手の客貨兼用の乗り物は東南アジアの田舎ではポピュラーですね。
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バウカウの外れにある元リゾート海岸。この辺まで来ると海はエメラルド色で、砂浜も真っ白です。
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椰子の木陰に女の子・・・と、それだけの写真なのですが、戦時中に日本で出版された東ティモールの本によれば「葡領チモール島の東部には来歴不明の赤毛族あり」だそうなので、この子がその赤毛族なのかも知れません(?)。
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バウカウから北海岸沿いに東へ行くと30分ほどでナガの町に着きます。海沿いに家が点々と並んでいるだけの小さな町。
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ナガでも商店は華人(中国系)が経営していました。こんな小さな町にも住みついて商売しているとは、華僑パワーには感心しますね。
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東ティモールではどこの田舎町でも一番立派な建物は教会です。それにしても、何が言いたいのか一目でわかる露骨な絵ですね(笑)。
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教会の内部です。それにしてもポルトガル人は帆船の絵が好きね。
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この町で死んだ宣教師の墓のようですが、ここでも同じパターンの絵が・・・。「1946-1990」とあるのでこの墓が建てられたのはインドネシア時代のようです。一見意外な感じがしますが、東ティモールでカトリック信者が増えたのはインドネシア統治下でした。ティモール人の多くは先祖伝来のアミニズムを信仰していましたが、インドネシアのスハルト政権は全国民にイスラム教、キリスト教、ヒンズー教、仏教の4つの宗教のどれかに登録することを義務付けていました。そこで多くの東ティモール人はイスラム教より身近な存在だったキリスト教に登録したのです。また外国人の立ち入りが一切禁止された東ティモールではカトリック組織が海外との唯一の接点となり、インドネシアの支配に抵抗する人達の拠り所の役割も果たしていました。
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海岸を見渡す丘の上にはポルトガル時代からの古い砦がありました。戦時中は日本軍がここに駐屯して、近くの塩湖から取れる塩を専売にして軍票を流通させていたそうです。「金本位制」ならぬ「塩本位制」?
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砦の内部にはインドネシア軍が残したものがいろいろありました。
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ナガから先は人家すらほとんどありません。1時間ほど走ってラウテン(またはラウテム)という町に着きました。町の入り口は日本軍が使っていたという砦が両側を囲み、要塞のようになっています。
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砦の上に上ってみましたが、草が生い茂り牛糞だらけで早々と退散しました。比較的最近作られたようなコンクリート製の設備もあって、インドネシア軍も使っていたようです。
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この一帯はラウテン県と呼ばれ、もともとラウテンは大きな町だったのですが、戦時中に連合軍に徹底的に爆撃されて廃墟となり、県の中心は内陸のロスパロスへ移ってしまいました。今では人家がまばらにあるだけで、町や村というより集落程度の寂しい場所です。
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ラウテン県は韓国軍がPKFを担当していて、砦の横で検問をしていました。
道端にイモを並べて売っていたおばさんがいて、韓国兵がイモを買おうとボディランゲージで交渉していました。イモは1山7000ルピアだったのですが、韓国兵はインドネシア・ルピアを持っていません。そこでおばさんに5ドル札を渡し、イモを全部(5山)買っていきました。当時は1ドル=10000ルピアが相場だったので、この韓国兵は3万5000ルピアのところを5万ルピア払ったわけで、大盤振る舞いしたことになります。しかし、法定通貨になったとはいえおばさんは米ドルを見たことがないし、どこでルピアに交換できるかもわからないようで、5ドル札を手に呆然と韓国兵を見送っていました。そんな光景を野次馬的に写真に撮りながらロスパロスへ向かったのですが、ここで私に「スパイ疑惑」が!? 続きはいずれ。。。。