ジャカルタの国電で、暴動の爪痕見物へ之2

コタ駅の北側には港があり、駅と港の間はオランダ植民地時代の中心街です。いかにも植民地といった建物が並んでますが、今では博物館などになっています。

一方、駅の南側は中華街の商業地区。メインストリート沿いには立派なビルが並んでますが、廃墟と化したものも少なくありません。このビルは上層部が放火され、放置されたようです。

投石の跡が生々しい建物もたくさんありました。

メインストリート沿いの商店はほとんど休業していました。商店は堅くシャッターを閉じ、その前に屋台を出して営業している店も多かったです。これなら万が一暴動が発生しても、屋台が壊される程度で被害が少なくて済むということでしょうか。

中華街の奥に入っていきます。他の東南アジアの中華街と違い、殺伐として活気がありません。漢字の看板が禁止されているので、ちょっと違和感があります。

投票日の数日前の暴動よりも、98年春の大暴動の被害をそのまま残した建物が目立ちました。すぐにきれいに修理したら、「あそこの店は金がある」とかえって狙われてしまうということでしょうか。

  

インドネシアで唯一出ている華字紙(中国語新聞)です。英語が苦手な私にとって、漢文でインドネシアの動きが読めるのはありがたい(笑)。写真の一番下の人物は、哈庇庇総統(ハビビ大統領)です。題字の下には「民族の統一と団結、建設のために」と国策スローガンが躍ります。しかし、広告欄を見ると「小中学生のお子様を、シンガポールにてお預かりいたします」というコピーがズラリ。
 

 マーケットの方はもう少し活気があったのですが、例によって、写真がどっかへ行ってしまった…(笑)。まぁ、見つかり次第アップします。それにしても、インドネシアの華人(中国系)の人達は、中国語教育が禁止されているのに、北京語をとても上手に話すので驚きました。店で買い物をしようとすると、まずは必ずインドネシア語で話しかけて来るのですが、わからずにポカンとしていると、小声の北京語で「要什麼?(何がほしいの?)」と聞いてきます。これはやはり先行き不安なので、いざとなれば他の国に逃げ出す覚悟でいるためでしょう。ラオスやカンボジアの華人も北京語が上手でした。タイの華人は社会が安定しているので、一生タイを離れるつもりはなく、北京語はさっぱり苦手なのとは対照的です。
 中華街のビデオ屋では、「獅子舞」が香港の街を練り歩くだけのビデオに人集りがしていました。「獅子舞」ビデオをこっそり見ながら、中華文化を忘れないということでしょうか…。

 この廃屋のような建物は床屋で、とりあえず営業していました。店の入口には朽ちかけた「理」の字だけが残っていました。たぶん「理髪」の理でしょう。
 こういう風に漢字の痕跡が残っている店も少なくありませんでした。インドネシアで漢字の看板が禁止されたのは65年のことですが、つまりこれらの店は、30年以上も全く改装していないことになります

 インドネシア経済の実権は、人口わずか3%足らずの華人が握っているのですが、彼らはインドネシアで稼いだ金を、あまりインドネシアでの再投資には使っていないようです。その一方で、70年代からはインドネシアの華人資本はこぞって香港に進出し、最近では「祖国の発展のために」と大規模な中国への投資を行っています。

 もし、日本に400万人の中国人がやって来て、日本経済を支配してしまい、その一方で日本国内では30年以上も金を出して看板1枚書き換えようとせず、儲けたお金は片っ端から「祖国への恩返し」と中国に持って行ってしまったとしたら…。インドネシア人がことあるたびに暴動を起こして、中華街を破壊する気持ちもわかるような気がします。

 しかし、逆に華人の立場に立ってみれば、「どうせインドネシアに投資しても、暴動のたびに壊されて大損害だし、いつまた政府に『財産没収』といわれるかわからないから、稼いだ金は安全なところに移す」というのも一理ありますね。

 つまり「悪循環」ということのようです。

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