「来たわね、この時が」
彼女は自らの拳を握り締め僕にそう言う。歯を剥き出し、目をギラギラと輝かせている様はまるで飢えた狼のようだ。
「ええ」
同じように僕も、身体が炎のように熱くなっているのを感じつつ、上擦りそうになる声を押さえつけて応える。
僕と彼女にある共通点は2つ。身体の底から湧き上がるような興奮と、『負けたくない』という気持ち。
「いくわよ」
「いつでも」
ピリピリとした緊張感が極限にまで高まる。今はもう彼女しか見えない。
彼女が動く。それに合わせて僕もスっと小さく息を吸い、手を添える。
そして――
『ジャンケン、ポン!』
目に映るのは2つの拳。つまり、あいこだ。
「ふふ、どうやら同じ事を考えていたようね」
彼女の言う通りらしい。ジャンケンは上級者ほどチョキを出す傾向にある。同時に興奮している時などはグーを出す確率が高い。それを踏まえて彼女の出すパターンを考えたが、同様に彼女もそこまで辿り着いていたようだ。
だが、この1戦目はまだ終わっていない。あいこだった。まだ次がある。
再び張り詰めた空気が2人の周りを覆う。
相手の目を見てタイミングを伺う。2回目の掛け声。
『あいこで、ポン!』
「……ッ!!」
僕はチョキ、そして彼女は――グーだった。
「一戦目は私の勝ち、みたいね」
「そのようですね」
――抑えろ、抑えろ、抑えろ
声が震えそうになる。この動揺を悟られてはいけない。ペースはあちらに飲み込まれた。これ以上悪くしてはならない。幸いこの勝負は3回ある。2回勝てば僕が勝者、完全に負けた訳では無い。挽回できる。
彼女の勝ち誇った顔が癪に障るが、落ち着いてきたおかげで冷静に見ることが出来る。今だけ浮かれているといい。
さて、二戦目だ。大事な場面。彼女にペースがある故に、ここで勝てば一気に引き込める。
僕は一戦目でグーとチョキを出した。だから彼女はパーを嫌でも意識せざるを得ない。更に、彼女の勝ち手はグーだった。人は上手くいくとその時の行動をトレースしたがる。つまり、彼女にとってのグーは今、不確定要素の多い魔手。
そしてダメ出しの一手!
「僕は次、必ずパーを出します……!」
彼女の目を、獣のようにギラつく目を見据えて宣言する。逸らさない。絶対に目を逸らさない。僕の絞って絞って絞り切ってようやく捻り出せる、なけなしの誠実さを全て彼女にぶつける!
「そう……、本気なのね。いいわ、来てみなさいッ!」
そして、闘志と闘志がぶつかり合う!
『ジャンケン、ポン!』
「はっ……! ははは! 」
――来た、来た、来た! 読み通り!
目に映る手は、僕から伸びるパーと彼女から伸びるグーだった。
そう来ると思った。僕は必ず裏を読み、その裏をさらに読む。彼女はそんな僕の癖を知っている。つまり僕の思考した先で彼女は、僕がチョキを出すと思った。
彼女は僕の思考を読むことに囚われたため、気づかなかったのだろう。僕に勝てる手を読んで、読んで、読んだとしても、僕の最初のパーには絶対に勝てないということを。
「チッ……」
彼女の顔が屈辱に歪む。そういう、感情に素直なところも、僕が彼女を獣と揶揄する所以だ。
「さて、最後ですね。結局いつものように三戦目までもつれ込みました」
「そうね」
先程と打って変わって彼女は無表情になった。
――僕は知っている。長い間ずっと一緒にいたからこそ分かる。そういう時の君は本物の獣だ。本能のままに従う。だからこそ読みやすい。獣故に、僕に、人間に勝てない!
最後は勢いで決める。彼女の思考も手に取るように分かる。
負けられない、絶対に負けられない。ジャンケンという凄惨な闘いに身を浸し、勝つ事しか許されない己の魂。互いに互いの血で洗い合うように争いあってきた。いつまで続くか分からない。だが、今は、今だけは目の前の勝利が欲しい!
だからこそ――
「僕が!」
「私が!」
『必ず勝つ!』
『ジャンケン! ポン!』
――勝者と敗者が生まれる瞬間は悲愴だ
「な、ぜ……?」
彼女の全てを引き裂くように突き立てられた2つの指。そして、力なく揺れる僕の開かれた手。決まった。
「完璧に分かっていたはずだ……。お前の思考も! 癖も! 感情も! 全て! なのに……どうして……」
視界が真っ赤に染まる。底から沸き起こる激情が抑えられない。
「今までの全てがブラフだった。ただそれだけよ」
彼女から発せられた、何も感じられない言葉に戸惑う。思考が追いつかなかった。少しの間をもってようやくその言葉を理解した時、身体の奥で何かが折れる音が聞こえた。
「はは……」
――そうか、そうだったのか。感情的で短絡的な獣は、僕だったわけか……
身体から重さが消えた。
▽▼▽▼
魂が抜けたかのようにスっと崩れ落ちる男。嘲りか怒り、または哀しみか、何も読み取れない複雑な表情でそれを見つめる女。2人を包む、暗く重苦しい空気。
「パパもママも、よく飽きないわね。だいたい、家事くらい順番ですればいいのに」
そんな様子を横目で見ながら、そう呟きトーストをかじる少女。
今日もまた、彼らに平和な朝が訪れた。