タイ・ミャンマー国境地帯3
車だったら1時間足らずのところを1泊2日かけて歩き、ようやく国民党の落人村に着きました。この町はタイ語でドイ・メサロンと言うのですが、中国人は美斯楽(メイスールー)と優雅な名前を付けています。しかし最果ての寒村といった趣きの場所です。
これは国民党軍第93部隊の練兵場だった建物です。私が訪れた時の数年前まで、この一帯にはタイ政府の統治は及ばず、中国の共産党政権打倒を目指す国民党軍が台湾政府と連絡を取りながら支配していました。しかし85年に部隊の指揮者だった段希文将軍が死に、翌年国民党軍は解散してタイ政府の統治下に入りました。もっとも旧国民党軍は「自衛隊」と名を変えて、タイ国防衛のために引き続き武装訓練を続けていました。
「自強」というスローガンはかつて台湾でも至るところにありました。自らを強くしていつか中国大陸を奪い返そう!という意味ですが、本省人(台湾出身者)の李登輝が総統となってから「反攻大陸」のスローガンは姿を消し、台湾は実質的に独立の道を歩むことになりました。この落人村の国民党部隊が解散したのは、「中国大陸奪還への出撃拠点」としての存在意義がなくなったこととも関連が深いでしょう。中国からやって来た老人たちは国民党に忠誠を尽くしても李登輝総統は嫌いという人が多いようでした。私が滞在していた時にも、村では「台湾政府が民進党を解散させた。台湾独立派への弾圧がやっと始まった!」というデマが飛んでいました。
中国式の廟もあります。バンコクの中華街の廟と比べるといかにも貧弱ですが妙にケバケバしいです。村にはこのほかキリスト教会もありました。貧しいこの村へアメリカのキリスト教団体などが援助物資を送り、信者を広げたようです。
村の商店には周辺の少数民族が買い物に来ていました。最近ではタイ政府によりタイ語教育が始まっていますが、村の共通語はもっぱら中国語でした。
家に掲げてあった題字には「蒋中正」の署名が・・・。蒋中正とは蒋介石のことですが、家の人に聞いたら「ニセモノに決まってるじゃん!」とのこと。
かつて国民党軍はアヘンを栽培して資金源にしていましたが、今では中国茶の産地に変わりました。茶の種子は台湾政府から贈られたそうです。これって、一種の「手切れ金」みたいなものですかね?「エイズに効く」というアヤシげな茶を売っていた老人は国民党兵士ではなく、共産党政権の下で大学教授をしていたそうです。しかし文化大革命の時に迫害されてこの落人村まで逃げて来たとか。
下界とは隔絶されていた落人村も、タイ政府の統治下に入ってからはチェンライやメサイと結ぶ道路が開通し、チェンマイへ向かう道路もできました。ドイ・メサロンはいちやく観光名所となり、バンコクからタイ人のツアー観光客が押しかけています。段将軍記念館という建物は土産物屋で、将軍の遺族が経営しています。吉林省産の高麗人参茶など共産中国から輸入した商品がズラリと並んでいました。
記念館の一角には段将軍の肖像がありました。肖像を作った時の寄付者名簿には「麻薬王クンサー」の中国名である張奇夫の名前もあります。
クンサーは国民党兵士の父とシャン族の母との間に生まれ、当初は国民党軍に参加していました。やがて国民党と袂を分かち、シャン族の独立ゲリラを率いながら大々的にアヘンを栽培し、この一帯を世界最大の麻薬供給地「ゴールデン・トライアングル」として有名にした悪名高き人物です。実はクンサーはもともとアメリカの支援で勢力を築いたのですが、やがてアメリカは「麻薬撲滅」を掲げてクンサーを国際指名手配にしたため、クンサーは拠点をタイ領内からミャンマーへと移しました。アメリカが育てた人物なのにアメリカによって「最大の悪人」扱いされるなんて、なんだかビン・ラディンみたいですね。
国民党軍の司令部は「サクラ・レストラン」なる中華料理屋に変わりました。国民党なのになぜ桜?中華民国の国花は梅のはずだったんだけどね。
ちなみに中国からタイ・ミャンマー国境地帯へ逃れた国民党軍の物語は、これまでに台湾で2回映画化されています。1本目は90年の劉徳華(アンディ・ラウ)主演作品で『異域』、2本目は93年の梁朝偉(トニー・レォン)主演作品で『異域之末路英雄』 、後者は『エンド・オブ・ザ・ロード』というタイトルで日本でも公開されました。なかなか迫力あり涙あり、それでいてしっかりギャグもありの戦争映画です。