『星洲日報』紙面における
「シンガポール」表記の変遷
吉田一郎左:シンガポールがマレーシア連邦に加盟していた1964年の紙面。この頃は中央政府=マレーシア、州政府=シンガポールという表記だった。 1、はじめに
右:Public Company化で政府のコントロール下に置かれた後の1979年の紙面。90年代の中国大陸の新聞レイアウト改革のモデルにもなった。
『星洲日報』創刊号(クリックすると拡大します)戦前、シンガポールに居住する華人は移民一世もしくは二世が多く、シンガポールやマラヤを「故郷に錦を飾るための出稼ぎの地」と考えていた(※1)。彼らは当然のように中国人としてのアイデンティティを持ち、中国に対して帰属意識を抱いていた。それは中国での辛亥革命や抗日戦争という情勢の進展によって一層強められていった。
※1 当時の「マラヤ=馬来」とは、一般的に現在のシンガポールとマレーシア半島部を指す概念で、現在はマレーシアの一部であるサバ、サラワクやブルネイ、インドネシア領カリマンタンは、「ボルネオ=婆羅州」として別地域に認識されていた。当時の華人の中国帰属意識は、シンガポールの華字紙(中国語新聞)にも反映されている。例えば『星洲日報』創刊号(1929年1月15日付)は蒋中正(蒋介石)の揮毫による題字と、孫文の遺言を1面トップに掲げ、創刊の辞では中国を「吾国」「祖国」と表記した(※2)。※2 創刊号の1面に掲載された「今日の主なニュース」は、蒋介石主席の元旦挨拶、孫文の遺言編纂委員会が開会延期、四川省中部の内戦停止、過去1年間の(中国国民党政権による)革命進捗報告、(中国)国内向け公債間もなく発行、白崇禧(広西省の軍閥)遺言編纂委員会に出席できず、奉天派代表の玉樹常が南京到着、張学良が長距離飛行、東省(満州)の国民党政権への合流の経過・・・で、すべて中国国内の記事であり、シンガポールのニュースはない。戦後、シンガポールの政体がイギリス植民地から自治領、マレーシア連邦への加入、そして単独独立と移り変わる中で、シンガポール華人の中国帰属意識は、マラヤ帰属意識へ、さらに今日ではシンガポール帰属意識へと変化していった。そこで本稿では、『星洲日報』のシンガポール地方面(地元ニュースの掲載ページ)に掲げられたタイトル・ロゴや、記事中で「シンガポール」を指して使用される単語の変遷を通して、華人の帰属意識の変化が華字紙の紙面にどう反映されたのか、あるいは逆に華人のオピニオンリーダーたる華字紙が、読者である華人の帰属意識をどのように「誘導」していったのかを探ってみたい。
2、『星洲日報』について
『星洲日報』(Sin Chew Jit Poh)はシンガポールで発行されていた華字紙であり、ライバル紙の『南洋商報』(Nanyang Shang Pau)とともに、シンガポールおよびマラヤ南部の華人を購読対象とする有力紙である。タイガーバームで財をなした胡文虎(AW Boon Haw)が1929年に創刊し、42年~45年の日本軍占領期は停刊を余儀なくされたが、戦後間もなく復刊。クアラルンプール、イポーなどに支局を配置しマラヤ南部での取材網を強化したが、66年からはクアラルンプールでも印刷を開始してマレーシア版を分割。70年代初めに組織改編を行い、マレーシア『星洲日報』の編集を正式に分離した。
1970年代に入るとシンガポールではリー・クアンユーが率いるPAP(人民行動党)政権によるマスコミへの統制が強まった。71年5月に『南洋商報』の編集長、主筆、前総経理を「紙面で共産主義の宣伝を行わせた」と逮捕したのに続き、英字紙『Singapore Herald』の出版許可を取り消した。『星洲日報』でも同月にオーナーの胡蛟(AW Kow)が発行していた英字紙『Eastern Sun』が、「香港の中国共産党系組織から資金を提供されている」と問題にされ、胡蛟は社長退任に追いこまれた。
75年には政府の新聞条例施行により、『星洲日報』はPublic Company化されて政府が経営に介入し、胡一族は経営権を失った。そして83年4月、政府の方針により『星洲日報』は『南洋商報』と合併させられ、『南洋星洲連合早報』(Lianhe Zaobao)(※3) に引き継がれて廃刊した。
※3 現在では新聞題字から「南洋星洲」はなくなり『連合早報』。夕刊紙として『連合晩報』がある。胡文虎は『星洲日報』の他にも、『仰光日報』(ミャンマー)、『星光日報』(Sin Kwong Jit Pao=厦門)、『星華日報』(Sin Hwa Jit Pao=汕頭)、『星【門+虫】日報』(Sin Ming Jit Pao=福州)、『星島日報』(Sing Tao Jih Pao=香港)、『星檳日報』(Sing Pin Jih Pao=ペナン)、『星暹日報』(Sing Shan Yit Pao=タイ)、『総匯報』(Chung Wei Pao=シンガポール)、『星中日報』(Sin Chung Jit Poh=シンガポール)などを創刊し、華南から東南アジアにかけて華字紙のネットワークを築いた。『Hong Kong Standard』『Singapore Standard』の英字紙も発行し、シンガポールに本社を置く星系報業(Star News Amalgamated Ltd)を設立してこれらの新聞を統括した。このうち『仰光日報』『星中日報』は戦前に、『総匯報』と中国の各紙は50年代初期に相次いで廃刊となり、香港の2紙は54年の胡文虎の死後間もなく経営が分離され、胡文虎の養女である胡仙が経営していたが、2000年に売却された。『星檳日報』は86年に廃刊となり、マレーシア『星洲日報』は82年にマレーシア政府が外国籍者によるマスメディアの経営権保持を禁止したため、ペナンの建設商が買収(88年に張曉卿 が再買収)しており(※4)、現在でも胡一族の関係者が経営を続けているのは『星暹日報』 だけである(※5)。
※4 張はマレーシア『星洲日報』を購入した後、『砂労越星洲日報』(サラワク)、『柬埔寨星洲日報』(カンボジア)、『印尼星洲日報』(インドネシア)を創刊し、ペナンの『光明日報』(星檳日報の後身)を買収、さらに香港で『明報』『亜洲週刊』も買収して、東南アジア一帯で中国語新聞による新たなネットワークを築いた。また2006年にはマレーシア『南洋商報』と傘下の『中国報』を買収し、マレーシアの華字紙市場をほぼ独占している。3、イギリス植民地時代(~1959年)
※5 71年に別会社の星系報業(タイ)となったが、現在に到るまでオーナーの李益森は胡文虎の弟の娘婿。インフルエンザの猛威で「全星」各民族の学校が学級閉鎖。
まさか地球上すべての学校が閉鎖されて人類滅亡の危機?『星洲日報』のシンガポール地方面にタイトル・ロゴが付けられたのは1952年1月からである。この頃、『星洲日報』は戦争の痛手から本格的に復興し、紙面もそれまでの4~8ページ建てから戦前最盛期と同じ12ページ建てに増強された。
当初のタイトル・ロゴは「本埠新聞」だった。「埠」は波止場、開港場、港町を意味し、「本埠新聞」を直訳すれば「我が港町のニュース」となる。ただし中国語のニュアンス的にはやや古い表現であり、記事本文ではシンガポールを指してもっぱら「本坡」が使用されていた。例えば「本坡政府」「本坡市議会」「本坡郵電局」などである。「坡」は本来、坂道を意味するが、この場合はシンガポール(星加坡)の「ポール」の部分に対する当て字であり、「本坡」はさしずめ「我がポール」に相当する奇妙な表現とも言える。しかし地名の最後の1文字をその都市の略称とするケースには、「本港=香港」などの例もある(※6) 。
※6 香港の華字紙は地元ニュースを「本港新聞(略して港聞)」と表記する。また植民地時代のシンガポール総督は中国語で「坡督」、香港総督は「港督」だった。また当時の紙面では「全市」「市民」の表現も使用された。当時のシンガポールの行政単位は市区(市街地)と郷村区(郊外地区)に分かれていたが、記事における「全市」「市民」は市区のみを指す用語ではなく、シンガポール全域や住民一般を意味した。ただし56年から公民権要求運動が高揚すると、「全星」「全星人民」「全星各民族」などの表記が増え、59年6月のシンガポール自治領政府発足とともに市政庁、市議会が廃止されると「全市」の表記は姿を消した。「市民」の表記はその後も稀に使われるものの、「全民」「居民」がより多く使用されるようになる。特定の民族(言語・宗教グループ)を指す言葉として、華人については「我僑」「吾僑」、インド人は「印僑」などの表現が見られ、シンガポール在住のインド系イスラム教徒を指して「旅星巴僑」 の表記も使われた(1957年5月8日付)。「僑」や「旅星」にはシンガポールに一時的に居住する寄宿者のニュアンスがあるが、この種の表現は50年代末には姿を消し、華人は「華籍人士」「華人」、インド人は「印籍人士」、インド系イスラム教徒は「印籍回教徒」の表記が定着する(※7)。
※7 「巴」は巴基斯旦(パキスタン)の略。ただし香港やシンガポールでは、パキスタン系住民の多くはパキスタン独立前に移住したため、「インド人モスリム」と理解されている。総じて植民地時代には、シンガポールは移民の上陸地点としての港町であり、その住民は各民族(言語・宗教グループ)ごとの出稼ぎ僑民として捉える概念が、『星洲日報』の表記にも色濃く残っていた。しかし公民権要求運動を通じて各民族(言語・宗教グループ)を超えた「全シンガポール人」の概念が紙面にも反映されていったようだ。4、自治領発足からマレーシア連邦参加まで(1959年~1965年)
1959年6月のシンガポール自治領(中国語では自治邦)発足と同時に、『星洲日報』の記事からシンガポールを指す用語として「本坡」の表記は減少する。代わって一時的に「星加坡」や「自治邦」が使用されるが、間もなく「本邦」が定着する。ただしタイトル・ロゴでは60年1月に「本埠新聞」から「本坡新聞」への変更が行われた。記事本文で使用されなくなった古い表記をあえてタイトル・ロゴに採用したのは、一種の「文学的用法」ともいえ、東京を江戸、大阪を浪速と表記するのと共通する感覚があると思われる。
シンガポールは63年9月16日、サバ、サラワクとともにマラヤ連邦と合併してマレーシア連邦の一員となる。これに伴い『星洲日報』では同日付より、地方面のタイトル・ロゴを「本坡新聞」から「星加坡新聞」へ変更した。マレーシアの首都であるクアラルンプールは中国語表記では「吉隆坡」であり、それまでの本坡(我がポール)では、シンガポールの「坡」かクアラルンプールの「坡」かが曖昧となる。「シンガポール・ニュース」と銘打つことで対象を明確にするものであった。
しかしこの変更は政治的要因というより、『星洲日報』自身の商業的要因によるものが大きいと思われる。マレーシア連邦の発足と前後して、シンガポールとマラヤでは華人企業の大規模化に伴う統一市場の形成が促進されるなか、メディア産業においてもマラヤとの一体化が進んだ。シンガポールの中国語有線放送局である麗的呼声(Rediffusion) がマラヤ各地に進出したほか(※8)、62年には『南洋商報』がクアラルンプールでの現地印刷を開始。『星洲日報』はペナンに姉妹紙『星梹日報』が存在したため、それまでマラヤ進出にはあまり積極的ではなかったが、『南洋商報』に対抗してマラヤ南部での販売を拡大し、クアラルンプールでの印刷準備を進めた(印刷開始は66年)。クアラルンプールでの読者が拡大すれば「本坡新聞」のタイトルは不都合なものとなるのである。
※8 もと英国資本系。香港、タイにも進出し、シンガポールと1990年代にFMラジオ局に転換したマレーシアで現存。一方で、記事本文中ではマレーシア連邦参加後も「本邦」の表記が引き続き使用された。シンガポールはマレーシアの自治洲(中国語では自治邦)であり、リー・クアンユーは「本邦総理李光耀」とされた。これに対してマレーシアは「我国」と表記され(※9) 、マレーシア連邦のトンク・アブドル・ラーマン首相は「我国総理東姑」とされた。シンガポール州政府と連邦政府はそれぞれ「本邦政府」「中央政府」 と書き分けられている(※10)。またシンガポール全体を指す「全星」とは別に、マレーシア全体を指す表現として「全国」、マレーシア国民を「国人」とする用語が登場し、併用された。※9 合併前のマラヤ連邦は「連合邦」と表記された。総じて言えば、マレーシア連邦の成立によって、マレーシアを指して「我国」「全国」とする表記は、ごく自然に使用され始めたといえる。
※10 現在、一国二制度下での香港の華字紙が、「本港政府」「中央政府」と同様の書き分けを行っている。4、マレーシア連邦離脱からPublic Company化まで(1965年~1975年)
マレーシアからの分離独立の記事(クリックすると全体に拡大します)65年8月9日にシンガポールはマレーシア連邦から離脱し、単独で独立した。この独立は突然のものであり、『星洲日報』紙面ではシンガポールに関する表記はしばらく混乱が続いた。
※シンガポールとマレーシアの合併と分離の経緯はこちらを参照。地方面のタイトル・ロゴは独立後も引き続き「星加坡新聞」が使用されたが、記事本文中の表記では「本邦」が目立って減少し、代わって主に「星加坡」が使用されるようになったほか、まれに「共和国」の表現も出現した。また政府機関や政府要人については、それまでの「本邦教育部」「本邦財政部長」が、「教育部」「財政部長」のように単独で使用されるケースが多くなった。一方で、それまで「我国」とされていたマレーシア連邦に関する表記は、独立直後から「大馬」 に変わった(※11)。ただしシンガポールを「我国」とする表記の出現はそれからかなり遅れ、筆者が確認した限りではシンガポール・ドル貨幣の発行翌日の紙面(1967年6月13日付)からであり、「星加坡」と同水準の頻度で使用されるようになったのは、政府が新聞へ圧力を強めた71年以降になってからである。
※11 中国語でマレーシアは正式には「馬来西亜」だが、従来のマラヤ(馬来亜)よりも拡大したため「大馬」と略した。マレーシア連邦の発足時と比べて、シンガポールの独立から紙面での「我国」「全国」の使用までには数年間のブランクが存在した。これは自治領時代には『星洲日報』で「我国」の表記はなく(※12) 、マレーシア連邦の成立は「『我国』と書く対象の誕生」であったのに対し、シンガポール独立は「『我国』と書く対象の変更」であったこと。そして記者・読者を含めた当時のシンガポール華人にとって、それまでの「国」に対するイメージは広大な国土や人口を有した国家であり、シンガポールのような狭小な都市国家には潜在的な違和感が存在したのではないかと思われる。※12 戦後も1950年代初頭までは、「我国」「全国」は中国を指す用語として使用された。一方で、マラヤ全域(シンガポールを含む)を指す用語としては、「全馬来亜」「全馬」「星馬」が用いられた。5、Public Company化から廃刊まで(1976年~1983年)簡体字が一部に混じり始めた頃の『星洲日報』
経、来、亜などは中国大陸とも違う独自の略字74年に施行された新聞条例により、シンガポールの各新聞社はPublic Company(公共公司)として改組されることになり、『星洲日報』の発行は75年7月、胡一族の星系報業から新たに設立された星洲日報(シンガポール)有限公司に譲渡された。新会社は株式が上場されるとともに、個人の持ち株比率は1人3%以内に制限され、取締役会に政府派遣役員が加わり、代表取締役は社外の著名財界人から任命された。新会社の役員に占める胡一族の割合は、当初は9人中3人、77年以降は8人中1人に過ぎず、オーナー経営は完全に廃され、経営は事実上政府のコントロール下に置かれた。
Public Companyへの移行と共に、地方面のタイトル・ロゴは「星加坡新聞」から「新加坡新聞」に変更された。記事本文からも「星加坡」の表記は完全に消え、「新加坡」に統一された (※13)。星加坡と新加坡はともにシンガポールの中国語表記であるが、星加坡(Xingjiabo)は広東語的な音訳で、シンガポールを含む東南アジアの華人の間で広く用いられてきた表記であるのに対し、新加坡(Xinjiabo)は北京語による音訳 で中国政府が公式に使用する表記である(※14)。翌76年5月にはリー・クワンユー首相が訪中し、シンガポールは中国との国交を樹立した。また「我国」は「新加坡」以上に頻繁に用いられるようになり、「全国」の使用も目立って増えた。
※13 ただし、シンガポールの略称としては引き続き「星」が使用された。これは「新」を略称とした場合、例えば「新総理」は「シンガポールの総理」か「新しい総理」かが紛らわしいためである。79年春に『星洲日報』は大規模な紙面改革を行った。伝統的な縦組みレイアウトから英字紙式の横組みレイアウトへ転換し、中国大陸で使用される簡略字の全面使用に踏み切った。これに伴い地方面のタイトル・ロゴは姿を消したが、変わって地方面のページには日付の横に「本国新聞」(我が国のニュース)」の表示が記載されることになった。
※14 広東語による発音では「サンガーボー」となり原音から離れるため、広東系華人の間では抵抗が大きい。
この時期、シンガポール政府はそれまで反政府運動の担い手となっていた華語系住民(※15)の基盤を崩すために言語政策を強化していた。77年にリー・クアンユー首相が華語(北京語)の普及と中国語方言の使用自粛を呼びかけたのに続き、79年6月から「華語普及運動」が全面的に展開された。北京語の普及は一見、華語系住民の尊重にも思えるが、現実には華語系住民の母語であった方言を消滅させ、出身地別に構成されていた華語系住民のコミュニティを破壊することが狙いであった。また「華人の共通語である華語を学べば、全ての華人と意思疎通が容易になる」という論理は、必然的に「シンガポール人の共通語である英語を学べば、全てのシンガポール人と意思疎通が容易になる」という結果に行きつく。
※15 中国語の各方言(福建語、広東語、潮州語、客家語など)を母語とし、華語で教育を受けた住民。これに対してリー・クアンユーらPAP政権の幹部は、中国系でも英語やマレー語を母語とし、英語教育を受けた英語系住民が主導権を握り、「華語系住民は中国語による教育を通じて、中国政府の共産主義思想の影響を強く受けている」と対決姿勢を採っていた。華語系住民の最高学府であった南洋大学は75年から教授言語が英語化されたのに続き、80年には実質的にシンガポール大学に吸収される形で廃校となった。一方、華語系住民のオピニオンリーダーであった華字紙も同様の運命をたどり、『星洲日報』は1983年4月「狭い市場での無駄な競争を省く」という政府方針により『南洋商報』と合併させられ、54年の歴史に幕を降ろすことになった。78年における『星洲日報』の一日平均発行部数は11万9000部で68年と比べて85%増、税引前利益は406万シンガポールドルで68年の367%増に達し、経営は順調だったにもかかわらずである。『星洲日報』と『南洋商報』を引き継いで創刊された『連合早報』は、翌84年に英字紙『The Straits Times』と合併してシンガポール・プレス・ホールディングス(SPH)となった。同社は華字大衆紙の『新明日報』(※16)やマレー語紙『Berita Harian』、タミール語紙『Tamil Murasu』を相次いで買収し、シンガポールのすべての日刊紙を発行する独占企業となった。SPHの歴代社長には政府の元高官が就任しており、シンガポールの出版メディアは完全に政府の統制下に置かれている。
※16 『新明日報』についてはこちらを参照。6、おわりにイギリス植民地から自治領、マレーシア連邦下の自治州、そして独立国へと、シンガポールの政体の変遷とともに、『星洲日報』地方面のタイトル・ロゴやシンガポールを指す記事本文の表記は紆余曲折を経て変化しており、それは華人のシンガポールに対する「仮住まいの港町」から「我が国」への、帰属意識の変化の流れに対応している。
ただし、政体の変化と記事本文での用語使用との間にはタイムラグが見られ、その過渡期には一時的に「星加坡」という中性的な地名表記が多用された。特にシンガポール独立から「我国」「本国」の使用までには数年にわたる時間差が見られ、華人の間にそれまでの国家概念とは異なった「都市国家シンガポール」誕生への違和感が存在したことが窺える。紙面からそのような戸惑いが完全に払拭されたのは、政府が『星洲日報』の経営権を事実上掌握した1970年代後半以降のことであった。
別表:『星洲日報』記事における「シンガポール」を示す各用語の使用頻度
* 『従星洲日報看星洲五十年』に収録された紙面の、見出し、キャプションおよび記事の書き出し部分のみの使用頻度を集計。
1945~51 1952~55 1956~58 1959~63 1963~65 1965~67 1968~71 1972~75 1976~79 本坡 87 77 55 23 1 海峡植民地 1 本島 1 星嘉坡 1 1 新嘉坡 2 1 本市 1 自治邦 6 本邦 53 18 4 4 2 1 星加坡 6 1 6 31 2 51 60 26 星洲 9 1 6 2 6 2 我国(M) 3 共和国 1 新加坡 5 1 1 1 41 我国(S) 10 24 81
全市
1
1
1
1
1
1
1
1
1全星 3 1 3 6 4 全島 3 1 全国(M) 1 全国(S) 2 3 16
我国(C)
4
1
1
1
1
1
1
1
1全国(C) 2 国内(C) 1
* 我国(M)、全国(M)はマレーシア連邦を指して使用されたもの。
* 我国(S)、全国(S)はシンガポール共和国を指して使用されたもの。
* 我国(C)、全国(C)、国内(C)は中国を指して使用されたもの。
* 63年はマレーシアの成立(9月16日)、65年はシンガポールの独立(8月10日)を区切りとした。参考文献:
『英領馬来・緬甸及豪州に於ける華僑』 満鉄東亜経済研究局、1941年2月、日本
『従星洲日報看星洲五十年』 星洲日報、1980年1月、シンガポール
『星暹日報創刊四十週年報慶特刊』 星暹日報、1990年1月、タイ
大田勇 『華人社会研究の視点』 古今書院、1998年5月、日本
『星島日報創刊六十周年紀念特刊』 星島日報、1998年6月、香港マレーシアとシンガポールについてはこちらやこちらも参照してくださいね
●関連リンク
■南洋・星洲連合早報 ★中→日訳 ...........シンガポールの華字紙。1983年に『星洲日報』と『南洋商報』が合併し国有化
■星洲日報 英語版 .........マレーシアの華字紙。香港『明報』と同じ経営者
■光明日報 .........ペナンの華字紙。『星洲日報』の姉妹紙
■砂労越星洲日報 ..........サラワクの華字紙。『星洲日報』の姉妹紙
■柬埔寨星洲日報 ..........カンボジアの華字紙。『星洲日報』の姉妹紙
■印尼星洲日報 ..........インドネシアの華字紙。『星洲日報』の姉妹紙
■明報★中→日訳Yahoo!香港版 ★中→日訳 .........香港のリベラル系高級紙。全文を読むには登録(無料)が必要。「Yahoo香港版」の方が良い
■星島日報 ★中→日訳 Yahoo!香港版 ★中→日訳 .........70年代には香港の代表紙だったとこ。不動産情報に強い。「Yahoo香港版」の方が良い
■南洋商報 ★中→日訳 .........マレーシアの華字紙。『星洲日報』が買収
■中国報 ★中→日訳 .......... マレーシアの華字紙。『南洋商報』系の大衆紙
■麗的呼声 .........シンガポールの中国語有線ラジオ局
■麗的FM98.8 .........マレーシアの中国語民放ラジオ局。96年に有線ラジオ局からFM局へ衣替え。音楽番組のネットライブ放送が聴けるその他東南アジアのメディア各社はこちらのリンク集でどうぞ。
山本博之 書評 原不二夫著『マラヤ華僑と中国―帰属意識転換過程の研究』 原先生、お元気ですか?
廖赤陽 書評 原不二夫著『マラヤ華僑と中国―帰属意識転換過程の研究』 同上
馬来西亜華文報業180年歴史 『南洋商報』に掲載された中国語新聞の歴史(中国語)
国際南洋大学之友 リー政権に潰されたシンガポールの華人大学の同窓会組織(中国語)
龍角散 商品情報 「タイガーバーム」って、日本では龍角散が作っているそうな
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