空襲の夜が明けて、東京に広大な焼け野原が広がった。この光景をみて直ちに、防空対策を担当する内務省が発した命令がある。
残念ながら、「避難せよ、身を守れ」という布告ではなく、科学的見地から「このように消火せよ」という指示でもない。空襲予告ビラを所持するなという命令であった。
空襲予告ビラとは、全国各地で上空から米軍機が散布したものである。時期により内容が異なり、1945年7月に散布されたものは、このように攻撃対象都市を列挙していた。
なお、ここに書かれた12都市は、1945年7月から8月にかけて予告通りに空襲を受けている(高岡市の空襲被災地域は現在は射水市内となっている)。
予告ビラが初めて散布されたのは、東京大空襲の1ヵ月前、1945年2月17日であった。関東から東海地方までの広範囲で、落ちたビラを恐る恐る拾ったという体験談が多く残っている。
この空襲予告を国民が真に受けると、不安や動揺が広がり、都市から大勢が逃げ出す事態が起きたり、政府批判・戦争批判の世論が高まりかねない。
そこで、憲兵司令部は火消しに走った。
「(ビラは)荒唐無稽だ」「敵の宣伝を流布してはならない」「発見したら直ちに憲兵隊や警察に届け出よ。一枚たりとも国土に存在させぬように」と発表し、それが新聞各紙にも掲載された。
ところが1ヵ月後の東京大空襲では、空襲予告ビラに書かれたとおり甚大な被害が出た。今後も空襲予告ビラの散布は繰り返されるだろう。政府としては「次はこの街が攻撃される」という動揺が広がるのを何としても避けたい。
そこで、東京大空襲の日に、「敵のビラを届け出ずに所持した者は最大で懲役2ヵ月に処する」という命令を定めてしまった(内務省令「敵の文書、図書等の届出等に関する件」)。
避難施設や消火機材の整備は遅々として進まないのに、こうした国民統制は迅速に進むのである。
本来は、空襲予告ビラが撒かれたら、それを隠すのではなく、むしろ周知して「この街から逃げてください」と知らせるべきではないか。そうすれば多数の生命が助けられたのではないか。悔やまれてならない。