マニ教徒の村を訪ねて
世界唯一のマニ教寺院と言われる草庵で新たな情報を入手しました。「数年前に近くの村で、摩尼光仏=おマニ様を祀った廟が発見された」と 言うのです。
そこで滞在予定を一日延ばして、その村=蘇内村へ行ってみることにしました。
蘇内村は草庵がある山の麓にあります。なんか艶めかしい病院の看板を見つけました。
村の内部はこんな感じです。おマニ様を祀っているのは「境主宮」という廟です。中国の都市には町の守り神を祀る城隍廟というのがありますが、この地方の村 で村の守り神を祀っているのが境主宮です。
ところが、村の人たちに境主宮の場所を聞いても、なかなか教えてくれません。「上の方だ」「下の方だ」「知らない」「そんなの無い」と言うのです。「あっ ちの方で別の人に聞いてごらん」という言い方をする人もいて、どうやら境主宮の場所を自分の口から教えるのをはばかっているようです。
村にはあちこちに廟がありますが、境主宮は見つかりません。ここは「老人活動中心」になっていました。
で、30分くらい村の中をウロウロしたあげく、よくある「情報入手のやり 方」を試みました。つまり村の雑貨屋でジュースを買い、「ところで、境主宮に行き たいんだけど、どこ?」と聞いたところ、店の親父は「この道をずっと下って、5階建ての建物の横を右に入ったところだ」とかなり具体的に教えてく れました。3元(約40円)のジュースの力は偉大ですw
それでも道に迷ってしまい、間違ってある一族の立派な廟に来てしまいました。しかし草庵で入手した情報によれば、この一族は明教(マニ教)に関する様々な 儀式や法器を継承している人たちらしいのです。
そこで廟の入り口に座り込んでラーメンを食べていたおばさんに、「日本からわざわざこの村のおマニ様を拝みに来たのですが、境主宮はどこでしょう?」と尋 ねたところ、「じゃあ、ラーメン食べ終わったら、私が連れてってやるよ!」と快諾してくれたうえ、冷たいミネラルウオーターをおごってくれました。
お腹はチャポチャポになりましたが、ありがたいことです。
かくしてやっと境主宮にたどり着きました。。。
村の守り神にしては、道から外れた奥にあり、他の廟と比べてみすぼらしい感じです。何か理由があるのでしょうか?写真を撮っていたら別のおばさんが息子 (らし き人)を連れて参拝に来ました。このおばさんは地元の人ではなく、他の村から来たそうです。
道案内してくれたおばさんもそうでしたが、摩尼光仏を摩尼公(マニコン)と 親しそうに呼んでいました。
これが御本尊です。中央の摩尼光仏(ここでは摩尼仏)の左右に4人、さらに別枠で2人と、合計7人の神様が祀られています。
中央の3人がマニ教の神様です。左側は中国古代の武将、右側は文人の恰好をしていて、すっかり中華風のスタイルです。
「明使」は唐の時代のマニ教経典によれば、「明父」 「大明尊」と呼ばれる光の王国の神(ズルワーン)によって遣わされ、闇の王国と戦い、世界を創造した神 (ミフルヤズド)だそうです。だから武将の姿をしているのでしょう。後に宋の時代の明教では、「神号曰明使(神の名は明使)」と、最高神の扱いになってい ます。村に祀られる課程で、西の方(大秦=ローマ帝国)から来た神様らしいということで、「秦」の字が加わったようです。
一方で「霊相」は、敦煌で発見されたマニ教経典によると、 「妙形特絶」つまり特に美しい姿をしている神で、光の王国の神が闇の悪魔から光の元素を取り戻す ためにミフルヤズドの次に遣わしたようですが、唐のマニ教経典には載っておらず、明教では「夷数(=イエス)」ということになっています。人類の霊魂を救 うためにやって来た神と言うことで、文人の姿をしているようです。
本来ならマニは、神が遣わした預言者に過ぎず、明使や霊相よりも格下のはずですが、「実態のよくわからない神様よりも、具体的な教祖様の方が拝みやすい」 ということで、おマニ様が中央と言うことになったようです。
それに、なんとマニは老子の化身だという伝説もあるのです。 つまり老子が500年かけて西へ旅に出て、インドでブッダとなり説いた教えが仏教で、さらにソ グド国でグァバの実に魂を込めたところ、その身を食べた王妃が妊娠して、胸を破って生まれた子供がマニになったとか。。。。
マニ教の3人の神の左には十八真人、右には境主公という道教の神様が祀られています。
十八真人はよくわかりませんが、草庵が「龍泉書院」という学校に変えられた時に、科挙に合格した18人なのかも知れません。境主公は村の守り神で、本来は 境主宮の主のはずですが、マニ教の神々に庇を貸して母屋を取られた状態で 隅に追いやられてしまいました。人の良さそうな顔をしていますね。。。
さらに、別枠で左側には観音菩薩、右側には福徳正神が祀られています。やはり観音様は人気があるようで、別に祭壇が置かれてお線香(の燃えかす)も多いよ うです。
つまり仏教・道教・マニ教の神々が仲良く並んで村を守ってくれているというわけで、「神も人も安泰なら、村中安泰」と縁起の良いスローガンが貼ってありま す。
境主宮では明使の誕生日(3月23日)に祭りを行っています。日本の盆踊りなどでもそうですが、誰がいくら寄付したのか貼り出してあります。会計報 告も書かれていて、2010年の祭りでは、寄付金収入が2910元、支出は劇団を呼んだ費用3500元、ステージ設置費用200元、線香・灯明代など 102元で、892元の赤字、そこで貯金を取り崩して残高は43061.56元・・・だそうです。
マニ教の戒律では肉食は禁止され、かつて明教は「喫菜事魔」、つまり菜食をして魔のような事をする連中だと言われていました。現在でもおマニ様が祀ってあ る草庵や境主宮では、中国のふつうの寺や廟のようにブタやトリの丸焼きを供えたりはしません。主に果物を供えるのですが、マニの魂が宿っていたグァバだけ は禁物だそうです。
草庵に祀られているのは摩尼光仏だけなのに、境主宮には3人祀られているのはなぜでしょう?かつては草庵の他に、明使を祀る寺院と霊相を祀る寺院 も存在していましたが、明の時代に閉鎖させられ、学校に変えられた草庵とともに、村人たちが神様を村の境主宮に移して合祀したようです。
境主宮には1960年代まで、摩尼光仏や明使、霊相の木彫りの神像も安置されていましたが、文化大革命で紅衛兵に燃やされるのを恐れて、村人の家へ移し、 現在では一族の家に祀られているとか。
他にも、この村には摩尼光仏の真言が伝承されていて、草庵の 石に刻まれていた「清浄光明 大力智慧 無上至真 摩尼光仏」という16文字を唱えながら手で印を結ぶと、「全身が赤い光に包まれて邪気が払える」と信じ られていたりと、明教以来の呪術が伝わっていて、2005年に調査にやって来たイギリスやオーストラリアの調査団が「21世紀に現存するマニ教信仰」だとお墨付きを与えています。
数百年にわたって邪教扱いされたうえに、近年では文化大革命で神を拝むこと自体が「迷信だ」と批判されても、村人たちは他所者には伏せながらマニ教由来の 信仰を、マニの本来の教えはとっくにチンプンカンプンとなりながらも続けてきたのです。いわば隠れキリシタンならぬ隠れマニ教徒でしょうか。
境主宮の「発見」が契機となって、他にもおマニ様が祀られている村が次々と見つかっているようです。