どこまで本気?の独立宣言で、若き日の「食人大統領」に襲われた国

ブガンダ王国
 
首都:カンパラ

1300年ごろ 建国
1894年8月27日 イギリスの保護領となる
1961年1月1日 ブガンダがイギリスからの独立を宣言す るが、実行されず
1962年10月9日 ウガンダがイギリスから独立。ブガン ダはウガンダ内の王国として存続
1966年5月20日 ブガンダがウガンダからの独立を宣言
1966年5月24日 ブガンダ王の宮殿がウガンダ軍に占領 され、王国消滅

ウガンダの地図 

ウガンダといえばアミン大統領を思い浮かべます。中央アフリカのボカサ皇帝と並んで・・・、いやそれ以 上にハチャメチャな独裁者でした。

ある日突然「アラーのお告げがあった」と言い出してウガンダの経済を支配していたインド人を国外追放し、側近や一族郎党を引き連れて町 を練り歩き、インド人経営者がいなくなって空っぽになった会社や商店を「ここはおまえにやる。あそこはおまえに」と分け与えたり(当然、経済はめちゃく ちゃに)、それにイギリスが抗議すればイギリス系企業も接収して、やはり側近に分け与えたり(経済は輪をかけて壊滅的に)、気に食わない判決を下した裁判 官を公開処刑するなど30~40万人を粛清したと言われ、刑務所では囚人に他の囚人をハンマーで撲殺させ、死んだ囚人の肉を食事に出したり・・・そういえ ばアミン大統領といえば食人大統領として世界に名を馳せ、そういうタイト ルの映画にもなっています。本人も「人間の肉は塩味がきつかった」とコメントしたとかしないとか。

アミン大統領は元ヘビー級ボクシングのチャンピオンで、タンザニアとの国境紛争では高校教師出身のニエレレ大統領に「男同士、ボクシン グで決着しよう」などと平和的(?)な提案をしています(実はウガンダ軍がタンザニア軍に偽装してウガンダへ攻め込んだのが紛争の発端)。アントニオ猪木と異種格闘技戦も開催する予定でしたが、結局タンザニア軍やタンザニアに支援された反政 府ゲリラ「ウガンダ民族解放戦線」に首都カンバラを占領されて、アミンは国外へ亡命したため実現しませんでした(ちょっと残念)。

やって来たイギリス人にうまく立ち回って王国存続

さて、ウガンダという国名は、何百年も前からこの地にあった「ブガンダ王国」にちなんで付けられたもの。そのブガンダ王国はイギリスの 植民地統治の下でも残り、1962年にイギリスからウガンダが独立した後も「国の中の国」と して存在し続けていたが、66年にウガンダからの独立を宣言し、その直後にアミン大佐(当時)率いるウガンダ軍によって宮殿に攻め込まれ、消滅したのでし た。

ビクトリア湖とアルバート湖、エドワード湖などに囲まれたウガンダ一帯は、肥沃な土地が広がり古くから農耕民族が定住していたが、やが て西から牛牧民が侵入して先住民を征服し、ブニョロ王国やブガンダ王国、トロ王国、アンコーレ王国な どが鼎立していった。これらの王国のうち当初はブニョロ王国が強大だったが、17世紀半ばを頂点に衰え始め、代わって台頭したのがブガンダ王国だった。

ブガンダが勢力を伸ばしたのは中央集権が進んでいたためで、新たな土地を征服した際、他の王国では王族や地元の有力者を地方の首長にし たが、ブガンダでは戦闘で功績のあった者を王が長官に任命して地方に配置した。王族や地元有力者が地方を支配すれば、やがて独立王国のような勢力を築いて 王を脅かしかねないが、ブガンダでは中央が長官を通じて地方を直接コントロールする仕組みを確立して基盤を固めた。またブガンダ王は宰相や大臣を置いて国 政の実務を行わせ、官僚機構も整えていった。

19世紀後半になると、この地にもヨーロッパ勢力が進出して来る。1869年にはエジプト副王から赤道州(スーダン南部)の知事に任命 されたイギリス人のベイカーが、北からブニョロ王国に侵入して武力併合しようとしたが撃退され、74年には後任者のゴー トン(後にスーダン総督)がやって来るが、ブガンダ王は「一緒に手を組んでブニョロを攻撃しよう」と持ちかけたと思えば、象牙取引の提案で時間を 稼いだり、はたまたゴートンの使者を拘留したりと翻弄し続けたため、ゴートンは「こりゃダメだ」と引き揚げざるをえなかった。

1884年から85年にかけて列強諸国がベルリン会議を開きアフリカの分割を決め、89年から90年にかけてイギリスとドイツでビクト リア湖を境にしたお互いの勢力圏を決めると、ウガンダへのイギリスの進出は再び盛んになってくる。この頃ブガンダではザンジバルなど沿海部からアラブ商人 によってイスラム教がもたらされ、一方でヨーロッパ人宣教師によってキリスト教を広まってきた。ブガンダ王のムワンガ2世は、これら新しい宗教への改宗者 を処刑するなどして弾圧していたが、イスラム教に改宗した兄弟たちに追放されてしまった。王座を追われたムワンガ2世に手を差し伸べたのがイギリスとフラ ンスで、ムワンガ2世はキリスト教徒軍を率いて王位を回復し、ヨーロッパとの結びつきを深めることになった。

王国の近代化を進めたダウディ・クワ2世
イギ リスは当初、ウガンダもケニアと同じくイギリス東アフリカ会社(IBEA)に統治させよう と、会社に遠征軍を派遣させた。遠征軍がまず到着したブガンダでは、ムワンガ2世は会社に従うことを受け入れたが、イスラム教徒が多いブニョロでは激しい 抵抗を受けて征服できなかった。このため東アフリカ会社では「軍事支出がかさんで採算に合わない」と撤退し、イギリス政府が保護領にして従来の王国(土侯 国)を残したまま統治するように泣きついた。こうしてイギリスは仕方なく1894年にブガンダ王国を保護領に し、96年に残るブニョロ、トロ、アンコーレの各王国も保護領とした。

いわばブニョロ王国が東アフリカ会社軍に激しく抵抗してくれたおかげで、ブガンダなどの王国は残されるようになった形だ。ブガンダはム ワンガ2世がイギリスに反乱を起こしてセーシェルへ追放されたが、息子のダウディ・クワ2世は抵抗を続けるブニョロ征伐に協力してイギリスとの関係を固 め、1900年には総理、大蔵、法務の3大臣からなる行政府と「ルキコ」と呼ばれる立法議会(※)を開設して、近代的な統治システムを確立し、ブガンダは 諸王国の中でも特別な存在となった。

※ルキコは王が任命した89人の議員で構成され、司法権限も擁して最高裁判所を兼 ねた。
「単独で独立するぞ」と脅して連邦制での王国存続を実現

さて戦後。東アフリカでも独立運動がさかんとなり、ケニアでは「マウマウ団」によるゲリラ戦が始まったが、ウガンダではイギリスからの 独立運動よりもイギリスの手先となったブガンダ王国の民主化を要求する声の方が高まり、45年にはブガンダ王国の閣僚退任を求めて暴動が起きたため、翌年 から議会に選挙制度が導入され、51年には王が閣僚を任命する際には議会に諮らなくてはならないなどの改革に迫られた。

しかし1953年、イギリス本国の植民地相が、中 央アフリカ連邦をモデルにした、東アフリカ連邦(ウガンダ、ケニア、タ ンガニーカ)結成の可能性(※)をほのめかすと、「白人支配の連邦を作られてはたまらない」と黒人たちは猛反発。ブガンダでは単独での独立を求め る声が高まり、ブガンダ王のムテサ2世は議会に突き上げられて、イギリスのウガンダ総督に対して「ブガンダ独立と、そのスケジュールを明らかにしてくれ」 と要求したところ、総督はムテサ2世を逮捕してロンドンへ送ってしまった。かくしてそれまでは「イギリスの手先」「専制君主」と評判の悪かったムテサ2世は、いちやく反植民地闘争のヒーローとなり、、ムテサ2世の帰還要求という形でかえって独立 運動が盛んになってしまう。

※イギリスの東アフリカ3植民地の統合は1920年代から計画されていて、関税同 盟や共通通貨(東アフリカ・シリング)が実施され、1940年代には鉄道や港湾管理会社、郵便、控訴審、徴税機関、航空会社(東アフリカ航空)などが統合 された。これらの共同運営は3ヵ国の独立後も維持され、67年には「アメリカ合衆国式の統合」を目指す東アフリカ共同体が設置されたが、アミン大統領の登 場でウガンダとタンザニア、ウガンダとケニアの国境紛争が起き、親西側のケニアと社会主義路線のタンザニアの対立も深まって、77年に解体した。しかし経 済のグローバル化の風潮の中で政治統合は抜きにしても経済的統合の必要性が確認されて、2001年に再発足。
イ ギリスは仕方なく2年後にムテサ2世をブガンダへ送り返し、ウガンダの独立へ向けた交渉が始まったが、すっかり自信を深めたブガンダ王国は王国存続のため にあれこれ画策し始めた。ウガンダ総督が独立に向けて直接選挙による立法評議会を選出しようとすればブガンダ王国は選挙をボイコットし、ブガンダ以外を地 盤にウガンダ人民連合(UPU)が結成されて「単一共和国によるウガンダ独立」を主張すれば、ブガンダ王国では「王のみ」を意味するKYを結成して、連邦 制を要求。連邦制が受け入れられないと見るや、ブガンダ王国は61年1月にイギリスから単独で独立すると宣 言した。

もっとも、歳入の約半分をイギリスからの交付金に頼っていたブガンダ王国は本気で独立するつもりはなかったようで、「独立日」の1月1日になっても何も起きずじまい。しかしブガンダの強硬姿勢は十分伝わって、ウガンダ を連邦制としブガンダ王国は連邦構成国、その他の3王国を準構成国とすることや、連邦議会のうちブガンダ選出の議席は選挙を行わずブガンダ議会による間接 選挙とすること(※)などの条件で、62年10月にイギリスからウガンダが独立することが決まった。

※住民が直接選挙をすれば住民の意向がストレートに連邦議会へ反映されるが、ブガ ンダ議会が連邦議員を選出する形にすれば、ブガンダ議会での多数派(王国維持の保守派)がブガンダ選出の連邦議員を独占できるというカラクリ。
独立直後のムテサ2世大統領とオボデ首相
独立 後のウガンダでは、ムテサ2世が象徴的な大統領となり、UPUとKYが連立与党を組んでUPUのオボデが首相に就任した。連邦と王国の共存はスムーズに いったかと思ったが、64年にオボデ首相がブガンダの一部であるブヤガ地区とブガンガジ地区で住民投票を実施して、ブニョロへ編入することを決めたため対 立するようになった。両地区はもともとブニョロ王国の領土だったが、植民地化の過程でイギリスに協力したブガンダ王国がブニョロ征伐で占領し、そのままブ ガンダ領にしていた地域だった。住民はブニョロへの返還を求めていたのだが、これを契機にブガンダ王国では危機感が高まっていった。

そして66年2月、連邦議会でKYの書記長が「アミン大佐(後に有名な大統領になった人)がコンゴ国境で金や象牙の密輸に手を染め、首 相らも関与している」と爆弾発言をしたため紛糾。議会では調査委員会を設置することを決めたが、オボテ首相は反対派を逮捕して憲法を停止。大統領の権限を 強化した暫定憲法を作って自らが大統領に就任してしまった。

再び「独立するぞ」と脅したら王国滅亡に・・・でも復 活?

かくしてブガンダ議会は「連邦政府は10日以内にブガンダ王国内から立ち去ること」と、事 実上の独立宣言を行い、ウ・タント国連事務総長に調停を求めた。もっともウガンダの首都カンパラはブガンダ王国にあるわけで、首都から立ち 退けとはいくらなんでも無理な話だし、61年の独立宣言と同じでポーズということだったようだ(と思いきや、アフリカでは連邦政府を首都から立ち退かせて独 立した実例もある)。しかし5日後にアミン大佐に率いられた部隊がブガンダの宮殿を急襲して占領し、ムテサ2世はイギリスへ亡命、ブガンダ王国は 崩壊した。

ムテサ2世は69年にアルコール中毒で死亡し、ロンドン警察は「自殺によるもの」と発表したが、オボデ政権によって暗殺されたとも言わ れている(※)。

※アミン大佐の宮殿襲撃では数千人の王国支持者も殺害されたらしい。後に大統領に なったアミンは、ブガンダ住民の歓心を得るために、ムテサ2世の遺骸をブガンダに運んで盛大な国葬を行った。
ウガンダを世界に知 らしめたアミン
結 局ブガンダ王国とウガンダの両立は、イギリスからの独立から3年半しか持たなかった。植民地支配下でも存続してきた王国が、独立したとたんに滅ぼされると いうのはよくあるケースで、植民地からの独立は、民族運動であるとともに民主化運動でもあるわけですね。

他の3王国も67年に廃止され、単一共和国となったウガンダでは71年にアミン少将(大佐から昇進していた)がクーデターを起こしてオ ボデを追放。冒頭の恐怖政治を敷き、79年にアミンが追放された後も79年、85年、86年とクーデターが続いて政情は混迷したが、その後は安定政権が続 いて、経済も復興しているようだ。

1993年にはブガンダやその他3王国の王(の後継者)たちが「伝統的もしくは文化的 リーダー」として復権しましたが、王国の復活ではなく、王たちはある種の特権が認められたものの、行政や立法、地方自治体などの権限はなく 政治活動も禁止されています。いわば人間国宝みたいな扱いなんでしょうか。そういえばブガンダの王様の結婚式が日本のテレビ番組で放送されていましたが、 観光の目玉としての役割も期待されてるのかも。

左からアンコーレ王国、ブニョロ王国、トロ王国の旗
    

●関連リンク

Buganda.com ブガンダ王国の紹介。現ムテビ2世の写真もあります(英語)
Toro Kingdom トロ王国のサイト(英語)
BUNYORO-KITARA  Kingdom ブニョロ王国のサイト(英語)
 
 


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