すべてを失った大英帝国の大失態

南アラビア連邦

南アラブ首長国連邦→南アラビア連邦
首都:イッティハード 人口:125万人(1965年)

1959年2月11日 英領アデン保護領の6首長国で 南アラブ首長国連邦を結成(後に加盟首長国は10ヵ国に増える)
1962年4月4日 ラヘジ、アクラビ、アワーゼル、上アウ ラキ・シャリフ 下アウラキ、ファドリー、ダリ、下ヤーファ、ワーヘディ、ベイハンの10首長国で南アラビア連邦を結成
1963年1月18日 直轄植民地のアデンが加盟
1963年3月30日 ハワーシェブ、シャイブの両首長国が 加盟
1964年6月 上アウラキ・スルタン国が加盟
1965年 アラウィ、マフラヒ両首長国が加盟
1967年11月30日 南アラビア連邦に上ヤーファ首長 国、ハドラマウト保護領、英領カマラン島を加えて、南イエメン人民共和国としてイギリスから独立。首長国は廃止

アデン保護領の土侯国の勢力分布図(1930年代) 
ハドラマウト保護領の土侯国の勢力分布図(1930年代)  
南アラビア連邦を構成した首長国の地図(1965年時点) 青は連邦加盟の首長国、緑は北イエメン領、赤は連邦に加わらなかった首長国

まだ飛行機がなかった時代、ヨーロッパとアジアを結ぶ大動脈といえば、まずス エズ運河。その(ヨーロッパから見れば)出口に当たるアラビア半島の南端は、19世紀半ばにヨーロッパの列強(特に英仏)が覇を競った場所 で、インドをはじめアジアに広大な植民地を持っていたイギリスが拠点にしたのがアデン港で(※)、アジアや東アフリカへの入口として中継貿易地として栄え たほか、船舶の補給港として貯炭所や石油精製工場があった。戦後、アジアやアフリカで植民地の独立が相次ぐ中で、イギリスがアデンを中心になんとか勢力を 確保しようと試みて、失敗したのが南アラビア連邦だった。

※昭和20年代に描かれた手塚治虫の『ジャングル大帝』も前半の舞台はアデンで、 アデンでなぜか学校の教師をしていた(本業は探偵)のヒゲオヤジと甥のケン一少年のもとに、ザ ンジバルからロンドンの動物園に送られるライオンの子供(レオ)が、貨物船から脱走してやって来るという設定だった。今ではぱっとしないアデンや ザンジバルだが、当時の日本人にとっては「アフリカへの入口」というイメージがあったんでしょうね。
英領アデン植民地は、アデンの港の周りだけが直轄植民地で、面積の大部分を占め るアデン保護領やハドラマウト保護領には、スルタンやシャイフ、イマームその他もろもろの称号を持つ数十の首長国(当時の表現だと土侯国)が群雄割拠していた。首長とは地元部族を率いるリーダーや、かつてイエメン王から守護として派 遣されたのが独立した者、トルコ人の末裔、インドの傭兵隊長あがり、果ては山賊や海賊の親玉もどきもいて、い わば戦国大名みたいな存在だった

首長国の領域は絶えず変動し、分裂や併合を繰り返していたが、イギリスはこれらの地域ではまったく統治を行わず、首長たちに補助金を支 給し、それを毎月アデンまで取りに来させて懐柔していた。イギリスとしてはアデンの港だけを支配すればいいのであって、周囲の部族が港へ攻めて来ないよう に、豪族たちを手なずけていたというのが保護領の実態だった。

さて1956年、エジプトのナセル大統領がそれまで英仏資本が握っていたスエズ運河の国有化を発表すると、イギリスとフランスはエジプ トに出兵するが国際的な非難を浴びて撤退。ナセル大統領は一躍アラブのヒーローとなった(こ ちらを参照)。中東から欧米勢力(及びその象徴たるイスラエル)を駆逐するために、全てのアラブは団結せよ!という「アラブの大義」を掲げた汎アラブ主義(またはナセル主義)は瞬く間にアラブ各国の民衆に広がり、イエメン王国(北イエメン)に いたっては、58年にナセル大統領が率いるアラブ連合に加盟して、「かつてイギリス帝国主義に奪われたアデンを取り戻せ」とイギリス軍に攻撃を仕掛け始め た。

イギリスはこれに対抗して、59年からアデン保護領の首長たちを徐々に組織化し、南アラ ブ首長国連邦を結成した。60年に国連総会で「植民地独立付与宣言」が決議されたことを受けて、62年にはもっと本格的な南アラビア連邦を結成する。翌年には直轄植民地のアデンも加盟させて、外交と防衛を除く自治権を与え、 68年までに独立させることを約束した。南アラビア連邦の首都は、アデン郊外にイッティハード(「統 一」の意味)という町を作って、そこに置かれた。設立当初はアデン抜きの連邦だったからそうなったのだが、実質的にはイギリスのアデン政庁が業務を取り仕 切っていた。

※ムカッラのクアイチ首長国やサユーンのカーシリ首長国など、ハドラマウトの首長 国は南アラビア連邦には加わらなかった。クアイチ首長国のスルタンは、インド最大のハ イデラバード藩王国の傭兵隊長出身で、それなりの近代的社会制度を整えていて、自力で独立するだけの自信があったためらしい。また1961年にク アイチとカーシリはアメリカの石油会社に利権を与えて試掘を開始させ、両国は司法を除く行政を統一する連邦制樹立の協定を結んだ。このとき石油が出たら南 アラビア連邦とは「別枠」で独立するつもりだったようだ。またアデン保護領の中でも北イエメンと関係が深い上ヤーファ首長国は、連邦に加わらなかった。
  
アデンの繁華街(左)。イギリスのアデン総督(左端)と南ア ラビア連邦のバハルン首相(左から2人目)

イギリスの目論見は、南アラビア連邦を親英国家として独立させ、アデン港などの軍事拠点を引き続き確保することだった。アデンの都市住 民は北イエメンやアラブ各地から集まってきた者が多く、汎アラブ主義に共鳴していた。特に62年末、北イエメンで王制が倒れ、汎アラブ主義の新政権ができ ると、王党派はサウジアラビアに亡命政権を構えて内戦となり、新政権を援助するためエジプト軍が介入。アデンでは南イエメンも即時独立してこれに合流しよ うという声が高まっていた。そこでイギリスは、これまでせっせと手なずけた保守的な首長たちに政治的主導権を握らせて、アデンの住民を押さえつけようとし たのだ。

67年に独立した頃 の地図。首都の名前はアッシャーブに変更され
北イエメンの海岸沿いにあるカマラン島やハドラマウト地方も 加わった。
アデン の町の住民にとってみれば、「南アラビア連邦」のまま独立することは、前近代的で「野蛮な土侯」たちに支配されることになるから、たまったもんじゃない。かくして占領下南イエメン解放戦線(FLOSY)南イエメン民族解放戦線((NLF)な どのゲリラ組織が生まれて、イギリス人の立法評議会議長や親英派のアラブ人へのテロが繰り返された。

イギリスは65年に南アラビア連邦の自治権を停止して直接統治に乗り出し、汎アラブ主義を前面に掲げてアデンで勢力を伸ばした FLOSYとの対決にもっぱら力を注いでいたが、反英・反連邦テロは一向に収拾しなかったので、66年には大統領と二院制の議会を持つ南アラブ連合共和国として独立させる構想を提案し、連邦を構成する各首長国やアデンの諸政党、そして FLOSYとも会談を行った。

しかしその間にFLOSYよりも急進的な社会主義路線を唱えるNLFが台頭。北イエメンに出兵していたエジプトが、67年8月に軍事費 負担に耐えかねて撤退すると、エジプトの支援を受けていたFLOSYの力は急激に衰え、NLFは保護領の首長国を次々と攻略したのに続き、10月末に NLFはアデンでFLOSYに総攻撃をかけて、アデンの町も占領してしまった。

事態の急展開に面食らったイギリスは、紅海の出口・バブエルマンデブ海峡の中央にあるペ リム島を国連管理下に置いて拠点を残す構想を発表したが、ウ・タント国連事務総長に「南アラビア連邦の自決権を求める国連決議に反する」と相手に されなかったうえ、ここもあっさりNLFに占領されてしまうと、予定を切り上げて67年11月末に英領アデンすべての独立を認めると発表。イギリス外相は 「その時点で実際にアデンを支配している者に権力を譲り渡す」となかばヤケクソの発言をしたが、その通りに11月29日になってイギリスはアデンを掌握し ていたNLFと独立協定を結んでそそくさと撤退。こうして翌日、南アラビア連邦は消滅して、代わってハドラマウト保護領やカラマン島などを加えた英領アデ ン全域は、NLFの政権の下で南イエメン人民共和国として独立した。首都イッティハードは アッシャーブ(「人民」の意味)と改名され、残っていた首長国もすべて廃止されて、一部の首長たちはイギリスやサウジアラビアへ亡命した。

こうしてイギリスの目論見は完全に外れて、すべてを失った。もはや大英帝国の栄光は見る影もないことを思い知ったイギリスは、翌年早々 にスエズ以東からの軍事的撤退を発表する(その結果はこ ちらも参照)。それでもイギリスは「アデンの住民の所得の3分の2は、イギリス軍の駐留から生まれているから、イギリス抜きでは南イエメンは成り 立たないはず」などと甘いことも考えていたが、南イエメンではNLFの中の急進派が実権を握り、NLFはイエメン社会党と名を変えてソ連に急接近。「親英 国家を樹立して軍事拠点を残す」どころか、南イエメンはアラビア半島唯一の社会主義国となり、アデン港はソ 連の海軍基地になってしまいましたとさ。

南アラビア連邦に加盟した各首長国の様子はこちらを、その後の南イエメンと、イエメン統一については、こちらも参照してくださいね。


  
左:1963年の南アラビア 連邦のようす、右:南アラビア連邦の崩壊(1967)


●関連リンク
South Arabia  南アラビア連邦やクアイチ首長国、カシーリ首長国の切手

参考資料:
『ハドラマウト事情・附アデン植民地事情』 (東亜研究所 1942)
『西南アジア・アフリカ総覧』 (日本国際協会 1957)
『世界地理風俗大系 第12巻西アジア』 (誠文堂新光社 1964)
『世界の文化地理. 第4巻 西アジア』 (講談社 1966)
『世界大百科事典』 (平凡社 1971)
手塚治虫 『ジャングル大帝』 (文民社 1976)
F・ハリデー著 岩永博、菊池弘、伏見楚代子訳 『現代アラビア』 (法政大学出版局 1978)
『世界年鑑』 (共同通信社) 1964~68年の各年度版
Answers.com http://www.answers.com/
British-Yemeni Society http://www.al-bab.com/bys/
 
 

「消 滅した国々」へ戻る

『世界飛び地領 土研究会』TOPへ戻る