2019年03月11日 13:55 - 15:49

Nスタスペシャル 震災8年 ~生死を分ける72時間 巨大地震にあなたは?

『Nスタ』の井上貴博、ホラン千秋、国山ハセン各キャスターが被災地を取材▽乳児を抱え3夜…孤立生活の全容▽南三陸を襲った引き波の脅威▽震災の記憶を未来へ 地震大国日本。いつ来るかもしれない次の大地震への備えを進めているはずだった。  しかし、あの日の教訓は本当に生かされたのか?同じ悲劇は起きなかったのか?  『Nスタ』井上貴博、ホラン千秋、国山ハセン各キャスターが被災地を取材。救助された被災者の判断や行動、救助にあたった人たちの思い、課題…多くの証言を重ねることで、命を救うために知っておくべきことを明らかにしていく。 震災の発生時刻である午後2時46分には、東京の追悼式や各地の黙とうの模様も生中継。さらに、「南海トラフ巨大地震」や「北海道胆振東部地震」にも焦点をあて、巨大地震への備えを考える ■スタジオ   メインキャスター 井上貴博(TBSアナウンサー)  キャスター ホラン千秋  解説 都司嘉宣 (公益財団法人深田地質研究所客員研究員)   ■気仙沼中継   キャスター 国山ハセン(TBSアナウンサー)   「陸から海へ… 知られざる引き波の脅威」  南三陸町の住民は「引き波のあまりの威力に目の前を流されていく人ですら助けられなかった」と当時の様子をホラン千秋キャスターに証言。その脅威をスタジオでも解説する 「壮絶な爪痕を未来へ」  海の間近にあった「気仙沼向洋高校」には3方向から津波が襲った。当時の爪痕が残る校舎を保存し、震災の記憶を未来へ伝えようという取り組みが始まっている。あの日、学校に何が…?   「乳児抱え避難 “孤立生活"からの脱出」  釜石市に住む一家は、津波から逃れ高台の工場へ避難した。限られた水、食料、途切れた情報…。生後3か月の乳児を抱えた一家の行動を井上キャスターが取材する 「南海トラフ地震対策 “避難シェルター"とは」  高知では津波避難タワーの設置が進んでいるが、立地上タワーが不向きな地域も。この解決策として設置された日本初のシェルターをホラン千秋キャスターが取材する。 「北海道ブラックアウト… そのときメディアは」  去年発生した北海道胆振東部地震では停電によりテレビで情報が伝えにくい状態に。被災者が必要な情報を届けるためにHBC北海道放送の担当者がとった行動とは… ◇番組HP  http://www.tbs.co.jp/n-st_311/ 番組の内容と放送時間は変更になる場合があります。 井上貴博 / ホラン千秋 / 都司嘉宣 / 国山ハセン

8年前のあの日。
救助隊の1人1人が胸に刻んでいた
特別な数字がありました。
それは災害時の人命救助におけるタイムリミット。
72時間の壁。
災害の現場では、72時間を超すと
生存率が大きく下がるのです。
地震が起きた午後2時46分からの72時間に
何が起きていたのでしょう。
地震発生から47分。
津波に向かっていく男性。
シャッターを切り続けた女性の思いとは。
地震発生から50分。
およそ300人の命を救ったのは
家族の安否がわからない中、
避難を呼びかけた男性でした。
救助を待ち続けた70時間。
凍える寒さの中、孤立した家族が
生き残るためにしたこととは。
あのとき、多くの命を奪った津波。
私たちは、ある現象に注目しました
引き波です。
陸から海へと戻っていくその波に
もう1つの恐ろしさがありました。
引き波の威力を物語る1枚の写真。
災害は続きます。
去年、北海道で起きたまさかのブラックアウト。
あのとき、人はどう動いたのか。
今、再び忍び寄る脅威。
あの経験を未来へつなげたい。
午後2時46分、地震発生。
宮城県沖を震源とする巨大地震は
マグニチュード9.0の、すさまじいものでした。
かなり大きな揺れとなっています。
被害は東日本全域へ。
震源から380km以上離れた東京でも
最大震度5強を記録したのです。
地震発生から23分。
岩手県釜石市唐丹町の人々は
見たことのない海の表情に驚愕します。
巨大津波は、瞬く間に町の中へ。
今の映像が撮られたのは唐丹湾の北側ですが、
同じ頃、南側でも撮影している人がいました。
映像にはこんな声が…
カメラを回す女性に
男性が逃げろと声をかけています。
撮影をしていたのは池田盛子さんでした。
自宅で撮影を始めましたが
夫に逃げろと促され、高台へ。
そこで再びカメラを回し始めました。
なぜ池田さんは危険を冒してまで撮り続けたのでしょう。
1960年のチリ地震。
マグニチュード9.5の大地震によって
1万7000km離れた日本の太平洋岸にまで
津波が押し寄せました。
その高さ、およそ5m。
今度こそ、津波の恐ろしさをみんなに知らせたい、
その一心だったと言います。
このとき、防災無線が伝えた津波の高さは3m。
池田さんの自宅は海抜12mで
津波の予想よりずっと高い場所にありました。
3mの津波たら大丈夫と思っていた池田さん。
しかし…
その考えはあっさり裏切られました。
なんと唐丹湾の津波は
最大21mを記録したのです。
海抜12mの池田さんの自宅は
2階まで浸水。
二度と住むことはできませんでした。
その後、しばらくこの小屋で暮らした池田さん。
壁には、夫が書いた言葉が。
「3.11忘れるな」。
地震発生から47分。
福島県いわき市で撮られた連続写真です。
男性が津波の方へ歩いていきます。
わずか数十秒の間に
男性が立っていた場所は、すっかり水没。
男性は、どうなってしまったのでしょう。
連続写真を撮影した石川弘子さん。
普段からカメラを持ち歩き
何かあれば必ず記録しています。
巨大地震が起きたら、とにかく高台に避難。
そして、決して戻らないことだと石川さんは言います。
同じ頃、やはりいわき市で
津波の映像を撮っていた人がいました。
声からも伝わる緊迫感。
避難しながらもカメラを回し続けました。
実は撮影していたのは
石川さんの息子の雅晶さん。
一緒に高台へ避難後、
母と同じように記録に残そうと
別の場所で撮影していました。
その後、戻ってきた息子の姿に
石川さんは驚きます。
今、石川さんは福島の被災地を回るツアーで
語り部をしています。
親子が同じ思いで撮った写真や動画。
こうした記録の1つ1つが
津波から身を守る貴重な教訓となっています。
東日本大震災の発生から今日で8年。
「Nスタスペシャル」です。
震災の番組にもかかわらず、
東京のスタジオにいていいものなのか、
正直申し上げますと、
今この瞬間も自問自答しているような状況です。
ですが、スタッフと話し合いを重ねました。
今年は東京のスタジオに残ることにしました。
そして現場からの中継は国山ハセンアナウンサーが担当します。
一方で私たちスタッフ一同、
ずっと変わらない気持ちがあります。
東日本大震災は東北の問題ではなく、日本の問題であるということ。
だからこそ、ここに立ち返りました
番組が注目するのは
生存者救出の目安と言われる72時間。
生き抜くために、命を守るために何をするべきなのか、
時間軸に沿って検証します。
中継です、国山ハセンキャスターが向かったのが
宮城県気仙沼市です。
旧気仙沼向洋高校の校舎の前にいます。
今の状況を伝えてください。
東日本大震災から今日で8年です。
ここ気仙沼は午前中から雨、
時折、強い風が吹きつけています。
私がいるのは気仙沼向洋高校の旧校舎です。
2011年3月11日まで
学校にはたくさんの生徒たちがいて、
いつものように授業を受けていました。
しかし状況は一変しました。
近くを見てみますと当時の状況のまま、
多くの物が見えます。
学校で使われていたであろうテレビやプリンタ、
そして授業で使っていたんでしょうか、
生徒たちの道具なども散乱しています。
教科書なども見えます。
とりわけ目を引くのが、津波で流されてきたと思われます
この車です。
大きく破損しています。
この車の周りには、机やイスが
ぐしゃぐしゃになって折り重なっています。
こういった震災の記憶を後世に伝えていくために
東日本大震災遺構伝承館として
この場所は昨日オープンしました。
昨日は1000人が訪れたということです。
今ハセンさんが立っている場所から、海はどちらの方向になるんです
か?
こちらをご覧ください。
この学校からおよそ400m離れた場所に海があります。
今、白波が立っているのが、この場所からわかります。
実は震災前はここから海は見えなかったんです。
しかし、津波が発生して
近くの家屋、建物などが流され、
今、海が見えている状況なんです。
そしてこの場所は校舎の3階部分に当たります。
ですから、この近くにある車というのは
津波に流されて、3階の窓ガラスを突き破って
この場所に到達したということなんですね。
そのときの津波の高さはどこまで及んだんですか?
ここは3階ですが、実際に津波というのは
1階上の部分、4階、
ですから高さにしておよそ12mまで達したということです。
こういったすさまじいつめ跡が校舎の至るところに
残されている場所です。
今日は中継を交えて、後ほど詳しくこの現場からお伝えしていきます。
後ほどお伝えする際は、震災遺構の
難しさもテレビの前の皆さん、一緒に考えていただければと思います。
すさまじい津波のパワーでした。
なぜ津波の被害はそれほどすさまじいものになるのか、
今回、番組では引き波と言われる現象に注目しました。
宮城県南三陸町で
その引き波に向き合った、
ある男性の証言です。
地震発生から50分。
宮城県南三陸町で写された1枚。
地上17m、3階建てのビルの屋上です。
彼らが目の当たりにした津波の恐ろしさとは。
結婚式や同窓会など
大切なイベントは、いつもここでした。
あちら、穏やかな海が広がっていまして、復興作業、
今も続けられているわけなんです。
そしてあの海の本当に近くにあったのが
あちらの高野会館というわけなんですね。
海からわずか200m。
あの日はお年寄りの演芸会が開かれていて
300人以上が集まっていました。
初めまして、ホラン千秋と申します
当時、館内にいた佐々木真さん。
町の福祉を担当していました。一緒に中へ…
町に津波が迫る中、
お年寄りら300人以上を屋上へ
誘導し続けた佐々木さん。
間もなく、津波は高野会館へ。
そして数十秒後には屋上に到達したのです。
町をのみ込んだ津波に異変が現れたのは
まさに、その頃でした。
地震発生から51分。
町に津波が到達した6分後の映像です。
画面手前では、水は海から陸へ流れていますが
奥では、陸から海へ向かっています
町を囲む山にぶつかり、行き場を失った津波が
海へと戻ろうとしていました。
内陸に達した津波が
あらゆるものをのみ込んで戻っていく引き波。
それが高野会館に向かっていました。
引き波は津波に襲われた各地で発生しました。
この引き波が生む、恐ろしい現象がありました。
岩手県釜石市の映像です。
海へ戻っていく引き波が
港の岸壁を滝のように流れ落ちています。
引き波が岸壁を通過するときに
起きるという滝つぼ現象。
激しい力で海へ戻っていく引き波は
岸壁を流れ落ちるときに渦を生みます。
そこに人がのまれると
まるで滝つぼに落ちたように浮き上がれなくなるのです。
現在、2500人に上る行方不明者
引き波にのまれた人も多いと考えられています。
地震発生から16時間12分。
自衛隊のヘリが高野会館の屋上をとらえました。
多くの避難民の方が確認できております。
会館にいたおよそ300人は
屋上で一夜を明かし、全員無事でした。
でも、佐々木さんには気がかりなことが。
妻と4人の子ども、家族全員の安否がわからなかったのです。
ようやく水が引き、子どもたちが通っていた
志津川小学校へと向かった佐々木さん。
そこには大勢の避難者が身を寄せていました。
祈るように中へ…
21時間ぶりの家族の再会でした。
このときの気持ちを当時小学5年生だった
長女の夏蓮さんが作文に書いていました。
お昼頃、体育館で余震に
ドキドキしながら過ごしていると
出入り口の方から頭にタオルを巻いて
見たことのあるジャンパーで
泥まみれのズボンを靴下に入れて
勇ましく歩いてくる人がいました。
お父さん、お父さんでした。
4人で抱きついて喜びました。
私はうれしくて涙が止まりませんでした。
お父さんはギュッと抱きしめてくれました。
お父さんのにおいがしました。
よく…、涙がにじんで見えない。
よく頑張ったと褒められました。
あれから8年。
小学5年生だった夏蓮さんは大学生になりました。
今、ソフトボールに夢中です。
あの日を忘れない、
震災の記憶を今も胸に持ち続けています。
震災があって人生では計画していなかったことが
その後どんどん起きた、
こんなはずじゃなかったの連続だったと
佐々木さんはおっしゃっていたんですが、
震災を経験された皆さんからすると
本当にこんなはずじゃなかったと、皆そういう思いだったんだろうな
と思いましたね。
あの文章というのは、娘さんの人柄
そしてそれを受け取ったお父さんのお人柄
にじみ出ているような気がしました。
ここからは津波の恐ろしさ、
特に引き波に着目したいんです。
専門家です、地震学者で津波のご専門の
都司嘉宣さんに加わっていただきます、よろしくお願いします。
まず、津波と聞きますと、
私たち、陸に向かってくる
大きな波というイメージがあると思います。
その波には2つ種類があります。
さらに、東日本大震災の引き波、
幾つかの要因が重なり
破壊力が上がりました。
1つは地形です。
ここの落差があるということですね。
こういった地形的な要因というのは日本中、
数多くのところで言える気がするんですが、
滝つぼということに関しては
専門家の皆さんは想定されていたことなんですか?
いや、今回の津波で初めて見る、
経験する現象ということができますね。
そこに集まってくる力というのは、
想像以上のものですか?
入ってくるときは満遍なく入るんですが、
戻っていくときは、水の道を決めて
そこへ集まってきて、
しかも瓦礫をいっぱい運びながら1つに落ちてきますね。
集約しているからこそ、力が増すということですか。
ここは震災発生後、時間がたつほど
考え方が変わってくる難しい点であると思うんですが?
大きな津波を経験した前と後で
物の考え方をある程度変えなきゃいけないと思いますね。
津波が襲ってきた、その高さの中では
もう人間が寝起きする、
特に老人がいる、あるいは幼児がいる、
そうした日常生活を営むということはもうやめるべきなんで
ただし、人が行ってはいけないわけではない。
いざというとき逃げることができる、
働いている若い人が水産加工場をつくるとか、
ガソリンスタンドなどをそういう場所につくって
いざというときに逃げるのはいいんですが、
人が生活してはいけない、
そういうふうに物を切り替えて考えなきゃいけないでしょうね。
確かにこの問題は海沿いを取材していても
海が目視できないので
逆に変化がわからないじゃないかという意見もある。
そのバランスは大変微妙なところですね?
一応それを考えて14mとか
20m近い防波堤がつくられていますね。
このぐらい高ければ一応は防げるのと、
もう1つは、滝つぼ現象が起きる前に
ここにある程度水をためて
沖に戻っていく流れを
緩和するという効果がありますので
これはこれで有効な施設ができていると言えます。
命をどう守っていくのか、引き波について
気仙沼ではどういった状況だったんでしょうか。
中継で聞いてみます、ハセンさんお願いします。
気仙沼向洋高校旧校舎です。
ここ気仙沼、先ほどから雨風が
より一層強くなってきたように感じます。
そしてこの場所もその引き波の被害があったと思われます。
その威力がわかる場所があるんです。
外に出てきました、
この校舎と校舎の間、
多くの物が折り重なっています。
瓦礫、トラック、そして車が2台、折り重なっているのがわかります。
これらのものは津波、引き波によって流されてきたのでは
ないかということが考えられます。
2011年3月11日、一体この場所で
何があったのか、取材しました。
宮城県の気仙沼向洋高校。
当時、校舎は海のすぐそばにありました。
その距離、わずか200m。
水産高校である向洋高校が
この地に移転したのは42年前でした。
画面奥が北校舎で、手前が南校舎。
どちらも鉄筋コンクリート4階建てです。
移転は、海での実習が多いためでした。
8年前の震災当日には
およそ170人の生徒がいましたが、
全員、高台に避難し、無事でした。
一方で教員らおよそ50人は校舎に残りました。
当時、校舎に残った1人、畠山茂樹先生。
津波が迫ってきたのは、屋上に避難した直後だったと振り返ります。
三方を海に囲まれた気仙沼向洋高校。
津波は、なんとその三方向から襲ってきたのです。
予想をはるかに超える巨大津波。
畠山さんは、恐怖に震えながらも
持っていたカメラのシャッターを切り続けました。
午後3時25分。
瓦礫を運ぶ真っ黒な津波が校庭に到達。
広いと思っていた校庭が
あっという間にのみ込まれました。
津波が校舎の4階に達するまで
10分もかからなかったと言います。
完全に水没した3階部分に飛び込んできた車。
今もそのままにしてあります。
そして4階、扉に残る跡が物語るのは
水位が地上12mまで上がったこと。
さらに津波は、信じられないものを運んできました。
海沿いにあった冷凍工場です。
建物がまるごと先生たちがいた校舎へ。
気仙沼向洋高校の校舎をめがけてきた冷凍工場。
直撃するかと思われましたが、
ぶつかる寸前で奇跡的に向きを変え
校舎をかすめるようにして流れていきました。
しかし、4階の外壁には
かすめただけにもかかわらず、大きな傷跡が。
その衝撃でバラバラになった工場の壁の一部が
今も校舎の中に散乱しています。
そして、さらなる恐怖、引き波の発生です。
家屋や瓦礫がすさまじい力で海に引きずり込まれていきます。
三方を海に囲まれた気仙沼向洋高校の周りにも
たくさんの家屋が流されてきました。
午後3時40分、畠山さんがとらえた1枚の写真。
流されてきたのは、一軒家の2階部分だけ。
この家は、その後、思わぬ運命をたどります。
なんと北校舎と、隣にあった生徒会館の間に
偶然、挟まったのです。
南校舎を迂回するように流されてきて
北校舎と生徒会館の間に挟まり
そのまま止まった家。
実は中に、この家に住む女性2人がいました。
ここが実際に挟まっていた場所。
これは翌朝に撮った1枚。
ようやく全容が明らかになりました。
少しでも角度が違えば、今にも落下してしまいそうな家。
中にいた女性2人の無事も確認できたと言います。
しかし、辺りにはまだ水が残っていて
歩いて避難することはできません。
偶然流れ着いたボート。
このボートを使い、女性2人と先生たちは次々と脱出。
高校に残っていたおよそ50人は全員助かったのです。
あの日、押し波と引き波に耐え抜いた校舎。
津波のすさまじさを語り継ぐ震災遺構として
保存されることになりました。
震災の記憶を後世に伝えるため、
気仙沼市は校舎をそのまま残すだけではなく
ここ、伝承館をオープンさせました
この場所には当時の写真が飾られています。
生々しくそのときの様子を物語っています。
今日も午前中から多くの方が
この伝承館を訪れていますが、
1枚1枚見入っていたのがとても印象的です。
そしてこの通路を進んでいきますと
1枚、ドアがあります。
ドアを開きます、すると2011年3月11日、
震災のつめ跡をそのまま保存した
東日本大震災遺構伝承館に来ています。
私の後ろに見えている場所は、
当時、教室として使われていた場所です。
天井ははがれ落ち、鉄製の瓦礫などが散乱しています。
当時のまま8年たちました。
さて、ここからはこの場所の館長であります
佐藤克美さんとともに伝えていきます。
改めてこの場所をオープンする経緯を教えてください。
この場所は津波がありまして
地元の方々から、多くの方々から
残すべきだという意見がありまして、
こちらを残すことになりました。
伝えていくためということですね。
そうですね。ぜひ歩きながらまたお話を伺って
いきたいんですが
つめ跡が生々しく残っている、
それでも伝えていくということですよね。
例えばこういった場所もよくわかると思いますが、
流れてきたものですか。
こちらも本来はトイレなんですが、
トイレの中にソファーがそのまま
流れ着いていると。
そして歩みを進めていきますと
学校として使われていた場所ですが、
物が散乱していますね。ここは保健室と言われていました。
そして、見ていただくとわかるとおり
ベッドが、そして車いすが流れ着いて
そのまま、こちらに張りついているような形になっています。
さらに隣も広いスペースがありますけれども。
こちらは学校の先生方が使っていた会議室と聞いています。
一点気になるのが、窓がありません
今日のように雨や風が強いときというのは
やはりこの伝承館も影響を受けてしまうのでは
ないかと思うんですが。
こちらはあえて津波の脅威を知っていただくためにも
窓はそのまま、3月11日のまま、
窓はないままにしています。
当時の状況を伝えるために、あえてなくしているということなんです
ね。
私も先月、この場所に来ましたけれども、
来る日によって表情が異なります。
これから、この被災地を伝えていくことが
この伝承館の大きな大きな意義なんだと思います。
佐藤さん、震災遺構として残すこと
悩んだ部分もあるのではないでしょうか、いかがですか?
こちらとしては、市としては、地元の方々から
多くの方々からここを残すべきだという話がありましたので
残すことに異論はないと。
視覚に訴えるものを残すべきだという声が多かったんでしょうね。
佐藤館長、貴重なお話、ありがとうございました。
今日は全国各地で追悼式典がとり行われます。
私たちのカメラは釜石祈りのパーク、
今、映っている場所です。
今日オープンした追悼施設。
あとは福島のJヴィレッジなどにもカメラを出しています。
その辺りの様子も踏まえながら
画面を東京の国立劇場へと移します。
この後、黙とう、そして総理の式辞へと移ります。
黙とう。
黙とうを終わります。
今年も大勢の方が私たちの取材に応じてくださいました。
心より感謝申し上げます、
本当にどうもありがとうございました。
スタッフ一同、取材していて、今年特に
強く感じたことがあります。
特に多く耳にした言葉があるんです。
私が話してもいいものだろうかという声です。
自分の感じたこと、見聞きしたもの
経験したことを伝えたい。
その一方で、周りで多くの方が亡くなった、
今もなお震災に苦しんでいらっしゃる方が
数多くいる。
その状況の中で
私がしゃべってもいいものだろうかという葛藤です。
震災発生後、時間がたつほど深くなる傷、
葛藤、悩み。
これらも含め、東北の問題ではありません。
日本の問題です。
本日ここに秋篠宮同妃両殿下のご臨席を仰ぎ
東日本大震災8周年追悼式を挙行するに当たり
政府を代表して謹んで追悼の言葉を申し上げます。
かけがえのない多くの命が失われ、
東北地方を中心に未曾有の被害をもたらした
東日本大震災の発生から8年の歳月が流れました。
最愛のご家族やご親族、ご友人を失われた方々の
お気持ちを思うと、今なお哀惜の念にたえません。
ここに改めて衷心より哀悼の意を表します。
また、被災されたすべての方々に
心からお見舞いを申し上げます。
震災から8年がたち、
被災地の復興は着実に前進しております。
地震津波被災地域においては
復興の総仕上げに向け、
生活に密着したインフラの復旧はおおむね終了し、
住まいの再建も今年度末で
おおむね完了する見込みです。
原発事故によって大きな被害を受けた
福島の被災地域では、帰還困難区域を除く
ほとんどの地域で避難指示が解除され、
本格的な復興再生に向けて
生活環境の整備が進むとともに
帰還困難区域においても
特定復興再生拠点の整備が始まり、
避難指示の解除に向けた取り組みが
動き出しています。
一方で、いまだ1万4000人の皆さんが仮設住宅での
避難生活を強いられるなど長期にわたって
不自由な生活を送られています。
政府として、今後も被災したお一人お一人が置かれた状況に
寄り添いながら、心身の健康の維持や
住宅生活再建に関する支援、
さらに子どもたちが安心して学ぶことができる
教育環境の確保など、生活再建のステージに応じた
切れ目のない支援を行い、
復興を加速してまいります。
原子力災害被害地域においては
帰還に向けた生活、産業の環境の整備や
産業、生業の再生支援などを着実に進めてまいります。
震災による大きな犠牲のもとに得られた貴重な教訓を
決して風化させてはなりません。
国民の命を守る防災、
減災対策を不断に見直してまいります。
今後、ハードからソフトに至るまで
あらゆる分野において
3年間集中で災害に強い国づくり、
国土強靱化を進めていくことを改めてここに固くお誓いいたします。
震災の発生以来地元の方々や
関係するすべての方々の大変なご努力に支えられながら
復興が進んでまいりました。
本日ここにご列席の世界各国、
各地域の皆様からも多くの
温かく心強いご支援をいただいています。
心より感謝と敬意を表したいと存じます。
東日本大震災の教訓と我が国が有する
防災の知見や技術を世界各国
各地域の防災対策に役立てていくことが
我々の責務であり、今後も防災分野における
国際貢献を一層強力に進めてまいります。
安倍総理の言葉にもありました
生活再建のスピード、
かなり異なる状況になってきたんです。
被災者という一言ではくくれないほど
多様化している現状があります。
私たちはあの日何があったのか、
微力ながら伝えることしかできません。
ですが、いつどこで地震が起きてもおかしくないという状況は
続いているわけですよね。
今後、30年間に最大80%の確率で
起きるとされているのが南海トラフ巨大地震です。
この巨大地震にどう備えるのか、
高知県の取り組みを取材しました。
津波から身を守る手段は
この8年で大きく変わりました。
東海から九州にかけての太平洋岸を
巨大津波が襲うとされる南海トラフ巨大地震。
最悪の場合、死者は32万人以上と言われています。
中でも最大の津波が想定されているのが高知県です。
この8年で津波避難タワーが
5基から111基にまで急増しました。
こちらは南国市のタワー、高さは14.5mです。
ここまで屋根があって、
ここから屋根がないんですね。
屋根には、救助ヘリが場所を特定できるように
タワーの名前が大きく書かれています。
そこからちょっと右にずれて、あそこにもあります。
しかし、こうした避難タワーが建てられない
危険な地域がありました。
高知県室戸市都呂地区。
海と崖に挟まれ、タワーを建てる平地がないのです。
そこでおととし、日本初の避難施設をつくりました。
津波シェルターです。
このシェルター、崖をL字型にくり抜いたトンネルになっています。
入り口の前には瓦礫を食い止める太い柱。
最初に避難してきた人が入り口の扉を開けます。
開け方は比較的に、誰が来ても
わかりやすいようにはなっているんですね。
入るとすぐ目の前に、津波をせき止める止水扉が。
ハンドルで開けると、
中に、止水扉がもう1枚。
あー、奥結構、奥行きありますね。
こちらは、高齢者が休める畳のベンチ。
下に食料などが備蓄してあります。
ここで最大71人が、丸1日過ごすことができます。
奥はらせん階段になっていて、
高さ23mの場所に出られます。
あー、外に出られますね、これね。
うわっ、登ってきただけありますね
結構高いところまで。
津波により最大で10mの浸水が
想定されている都呂地区。
津波が到達するのは、地震発生から
わずか16分と考えられています。
今回、いざというとき実際にシェルターを使う皆さんに
協力していただき、本番さながらの
避難シミュレーションを実施しました。
あちらのシェルターに皆さん避難されるということです。
避難の対象となるのは、およそ50人。
サイレンが鳴ると、即避難開始。
シェルターから80mの自宅に住む吉川ハルエさんです。
実は、初めての本格的な訓練。
わずか16分で津波が到達するという高知県都呂地区の
避難シミュレーション。
皆さん続々と津波シェルターに集まってきます。
1人目の方が到着されたのは
大体1分過ぎですね。
順調と思いきや…
重たい止水扉がなかなか開かず
シェルターの外にちょっとした渋滞が起きてしまいました。
今ね、4分過ぎなんですけれども
多くの方、入ってきましたよ。
まだどんどんいらっしゃいますね。
ここで止水扉を閉めます。
でも、まだ避難できていない人はどうするのでしょう。
そのとき、1人の住民が
何やら機械を操作しました。
逃げ遅れた人が外にいないかチェックするために
入り口の上にカメラが設置されているのです。
津波到達まであと4分、
手押し車の男性が到着しました。
体の不自由なお年寄りが
津波到達前にシェルターに
たどり着けるかが課題となっています。
一方で、こんな意見も。
窪内三富さんの自宅は
シェルターから65m。
自宅には、ほとんど歩けない母親がいます。
窪内さん自身も足が悪く
シェルターまで背負えません。
自宅により近い裏山に逃げた方がいいのではと
今、思案しています。しかし…
お一人でも、今の石の階段、
結構、大変だったじゃないですか。
お母様をおぶるとなりますと…。
もちろんそうなんですけど、かなり大変は大変ですよね。
高齢者の避難には多くの課題が残されています。
津波から命を守る難しさに
私たちは向き合っていかなければなりません。
津波から命を守るために、
これをしておけば大丈夫、
これがあれば大丈夫というものはなくて
本当にその土地その土地に合った避難対策が
大切なんだなと、このシェルターの取材をして
改めて感じましたね。
映像にもあるような急峻な地形、
そして高齢世帯が多くいらっしゃる、
この課題は同じ多くの自治体が抱えているということで
視察にも多く訪れるそうなんです。
今日お越しの都司さんは古文書にも精通されているということです
が、
どんなことを感じ取ってらっしゃいますか?
実は江戸時代の初め、1603年から
現在までに3回、南海、東海地震が起きていますね。
そのうち2回は江戸時代、
幕末の1854年、安政元年という年、
それから今から300年ぐらい前の
1707年、宝永4年という年、
3つ、古い南海地震が起きていますね。
両方とも大きな津波を伴っています。
やはり地震大国日本に暮らしている以上、
過去から学ぶ、歴史から学ぶというのは
非常に重要ですか?
はい、それと同時に
過去から学ぶと申しますが、
南海地震でも、現在73歳より年上の方が
生存しておられたんですね。
76歳より上の人は自分自身で覚えているはずなんですが、
1つ落とし穴がありまして、あの南海地震は
100年に1回起きる南海地震の中でも
小粒だったんです、あれが来ると思ってはいけない、
江戸時代の古文書を丁寧に読んでおきますと
1707年の宝永の津波というのは
より大きい津波であったんですね。
これが来ると思わなければいけない。
具体的な数を言いますと
高知県では、昭和21年では
一番高いところでは6m、
安政元年は9m、
宝永のときは
およそ20mを超えた津波がまいりました。
これが来ると考えなきゃいけません。
その時々に応じて規模が違う、
だからこそ調べる上で、しっかり調べないと
誤った情報になってしまうおそれもあるのかもしれません。
ここで時間軸を東日本大震災へ
今一度戻します。
震災発生から1時間です。
津波の迫る海岸沿いの公園、
孤立した方々がいました、ご覧ください。
地震発生から1時間16分。
津波で大きな被害が発生しています、確認できますでしょうか、
画面中央、火災も発生しています。
宮城県仙台市に津波が到達していました。
市内で最も被害が大きかったのが、この若林区。
339人が命を落としました。
これも若林区で撮られた津波の映像です。
撮影されたのは、海から300mほど離れた
高台にある公園でした。
カメラを回していた根本暁生さんは
公園スタッフ。
来園者を避難させていた、まさにそのとき
津波が襲ってきました。
逃げ遅れた3人と公園スタッフが2人。
合わせて5人で、海抜およそ16mのこの場所へ。
しかし…
このラインは、津波の痕跡に沿って
後に教訓として植えられた植物。
津波はすぐ足元まで来ていたのです。
展望台に上った5人。
そこからの光景に目を疑います。
このときの根本さんたちを
自衛隊のヘリコプターがとらえていました。
展望台に5人が見えます。
彼らがいる、この公園の一角だけを残して
大きな市街地は完全に水没していたのです。
現実とは思えない事態に驚いた5人。
急いで地面にメッセージを書きました。
空へ向けたメッセージ。
5人、ヒナン、ブジ。
午後5時過ぎに無事、救助されました。
でも、この日、現場にたどり着けないヘリもあったのです。
地震発生から15時間32分。
宮城県亘理町の写真です。
津波から一夜が明けても
水は一向に引いていません。
撮影したのは山梨県の防災ヘリ。
地震後すぐ山梨を発ったのですが、
現場にたどり着いたのは、翌朝でした。
何があったのでしょう。
地震から54分後、
消防庁が各地の防災ヘリに出動を指示。
山梨では、普段、南アルプスなどで活動する
防災ヘリがいち早く準備を始めました。
午後4時9分、山梨を離陸。
仙台空港で燃料を補給した後、
岩手へ向かう計画でしたが…
仙台空港に津波が押し寄せています、滑走路に水が押し寄せています
仙台空港が津波にのまれ、着陸できなくなったのです。
急きょ予定を変更し、午後5時過ぎに福島空港に入りました。
一刻も早く救助に向かいたかった隊員たちですが、日没で断念。
空港で一夜を明かします。
そして、日の出とともに新たな目的地、
宮城県の亘理町へ向かうことになったのです。
ようやくたどり着いた現場。
その被害は、想像をはるかに超えていました。
震災2日目にして、ようやく現場にたどり着いた山梨の防災ヘリ。
瓦礫の中で孤立していた男性を見つけました。
その後も住民を次々と救出。
日頃から磨いてきた山岳救助の技術が
瓦礫で着陸できない被災地で生かされました。
山梨の防災ヘリは、この日
54人の住民を救出したのです。
しかし、悔しいことがありました。
日没が迫る頃…
取り残された人数を示す「5人」の文字。
屋根の上に人もいます。
このとき、真っ先に屋根の上に降りていった武井さん。
待っていたのは…
5人のうちの1人が寒さの中で既に亡くなっていたのです。
この日は防災ヘリだけで全国から35機が出動。
活動場所の調整や各自治体との連絡で
混乱が相次いでいました。
武井さんは、もっと多くの命を救えたはずだと
今も悔やんでいます。
こうした隊員たちの思いが今、生かされようとしています。
例えば、こんなシステムができました。
飛行中の全国すべての防災ヘリの位置を
瞬時に把握できるようにしたのです。
救える命もあった、そんな後悔を少しでもなくすために。
地震発生から24時間8分。
宮城県の石巻赤十字病院は
さながら野戦病院のようでした。
甚大な津波被害を受けた石巻。
しかし、機能していた病院はここだけ。
スタッフ総出で殺到する患者を
重篤度によって分け、対応に当たっていました。
最も重篤な患者の治療を担っていた植田信策医師。
ある懸念を抱き始めていました。
それは、東日本大震災で
後に3701人が認定された
避難所などでの災害関連死。
地震から3日後の石巻の避難所です。
医師が特に心配していたのが、
冷たい床での生活が長引くことや
エコノミークラス症候群のリスクでした。
目にとまったのが、地震から2週間あまり後のこんなツイート。
発信したのは、大阪で段ボール会社を
経営する水谷嘉浩さん。
植田医師が早速、ベッドを見たいと連絡すると…
植田医師は水谷さんとともに
段ボールベッドを避難所に届け始めました。
東日本大震災の避難所で
初めて使われた段ボールベッド。
やがて、各地の避難所へと広がっていったのです。
これは現在の段ボールベッド。
高さ30cm、24個の箱からなるこのベッド。
床に寝るより最大9度も暖かいと言います。
しかも…
こうして少しでも動けば
エコノミークラス症候群などの予防にもつながります。
これに注目したのが、北海道で
防災学を研究する根本昌宏教授。
あの震災後、防災訓練を指導するかたわら
段ボールベッドの備蓄もしていました。
去年、42人が犠牲となった北海道胆振東部地震。
根本教授は、発生から62時間後には
段ボールベッドの搬送を始めていました。
4日目の早朝には、400の段ボールベッドが厚真町に到着。
そこには医療チームとして石巻の植田医師、
そして、段ボール会社の水谷さんの姿も。
大きく変わった避難所の光景。
北海道地震の災害関連死は
これまで、1人にとどまっています
全国の段ボール業者から被災地へ
ベッドを届けるネットワークも完成しつつあります。
今の課題は、もっと多くの人に
このベッドの必要性を知ってもらうこと。
知ることで救える命が確実にあります。
知ることで救える命、
避難所生活で特に重要だと言われているのは
TKB、この3つなんだそうです。
トイレ、キッチン、ベッド。
この段ボールベッド、ご紹介したものは横にすると
キッチンとしても応用できるということで
利便性が高いそうなんですね。心の負担もそうですし、
体の負担も軽減してくれそうですね。
避難訓練も石巻では
避難するだけが訓練ではなくて、
避難した後、避難所生活も含めて
訓練をしようという動きも広まっているそうです。
そして、この8年で大きく変わったこと、
その1つといえば、スマートフォンの普及だと思います。
スマートフォンを持っている世帯、保有率で見ていきます。
まさに爆発的に増えたと言えるスマートフォン、
テレビの前の皆さんも日々、お世話になっているという方、
多くいらっしゃると思います。
震災に遭ったとき、我々の行動がどう変わるんでしょうか。
去年、実際に北海道で地震が起きたとき
停電の中で被災者はある共通の困難と
向き合うことになりました。
それは、日本が今まで経験したことのない
ブラックアウトでした。
2018年9月6日未明、北海道胆振東部地震が発生。
北海道の全域295万戸が停電するという
未曾有の事態に陥ったのです。
大停電を経験した札幌の人は…
では、テレビ局では何が起きていたのでしょう。
地震が起きた午前3時7分。
局内にいたHBC北海道放送報道部の藤田記者。
非常用電源で停電を免れ、すぐに放送を準備します。
地震発生から12分、特別番組開始
しかしその後、北海道全域が停電し
ほとんどの場所でテレビが見られなくなったのです。
ここで動いたのが、北海道放送で
インターネットを担当する山岡英二さんでした。
テレビが見られない人のためにニュース動画を
リアルタイムでネットでも視聴できるようにしたのです。
これならスマートフォンで、どこでも見ることができます。
妻にも伝えました。
ところが…
動画はバッテリーを早く消耗させてしまう、
思わぬ落とし穴でした。
そこで注目したのが、緊急時にテレビ画面の
左サイドと下で流す字幕、通称L字。
テレビやラジオの記者が取材した内容をまとめた
文字情報でした。
実は、北海道放送では災害時、
ネットでもL字を一覧で見られるようにと
ホームページを改良したばかりでした。
文字情報ならバッテリーの消耗を抑えられる。
山岡さんは被災者が必要としそうな情報をかき集め
ひたすら文字で発信し続けました。
同じ頃、札幌市役所は大変なことになっていました。
これが当日の様子。
北海道全域でブラックアウトが起きた日、
札幌市役所には大行列ができていました。
その数、最大900人。
その目的は携帯の充電。
自家発電機がある市役所で
充電サービスを始めたところ、ネットで一気に拡散。
人が殺到したのです。
停電初日には、待ち時間と充電時間を合わせて
9時間半かかった人もいました。
ツイッターではこんな呼びかけも。
なんと、海上保安庁の巡視船を使って充電サービスが行われたのです。
自分たちにも何か支援ができないか。
そう考えた小樽海上保安部による
充電サービスでした。さらに…
延べ1206人もが
巡視船の充電サービスに助けられました。
災害時にスマホの電源をどう確保するか、
日頃からの備えが必要です。
生存者救出の目安といわれる震災後72時間。
その間、どう命をつなぐかに再び注目します。
岩手釜石です。
津波から避難し、およそ70時間にわたって
孤立生活を強いられた一家がいました。
助けが来るまでにとった行動を取材しています。
地震発生から42時間49分。
40人が孤立していました。
突然、ライフラインを断たれた彼ら
命をつないだ小さな機転とは?
あの日、ここ釜石の箱崎町にも津波が。
残されたのは、瓦礫の山。
こちらの家は、1階部分がほぼ壊滅しました。
住んでいた金野秀昭さんと梨紗さん夫婦。
とるものもとりあえず、高台へ避難します。
そこは秀昭さんが勤める工場でした。
市街地に続く一本道が瓦礫で分断されたため、
ここに避難したおよそ40人が孤立状態になったのです。
それは秀昭さんの父親の機転。
断水の直前に飲み水を確保できました。
みんなで瓦礫を拾い集め、
焼却炉で燃やして寒さをしのぎました。
さらに…
家々からかき集めた食べ物を温めて、分け合いました。
でも、孤立が続くにつれ、夫婦には新たな不安が。
実は赤ちゃんがいたのです。
琥珀君、まだ生後3カ月でした。
ストレスで食べられなくなった梨紗さん。
幼い琥珀君を気遣い
さらにストレスを抱えていました。
一筋の光が差したのは3日目。
ヘリコプターが助けに来ると情報が入ったのです。
ヘリが着陸できそうな空き地を探し回った秀昭さん。
ようやく小さな平地を見つけます。
秀昭さんは山林を切り開き
平地までのルートをつくりました。
平地にたどり着いたときの1枚です。
石灰で地面に目印を書き
車にあった発煙筒でヘリを誘導。
高齢者やケガ人を送り出し、あとは翌日に持ち越されました。
そして…
地震発生から70時間。
金野さん一家も無事、救助されたのです。
それから4カ月後にうれしいことがありました。
震災が起きたのは結婚式の計画を立てていたさなかだったのです。
同じく被災した10組のカップルと
合同で式を挙げることができました。
あれから8年、琥珀君は8歳になりました。
もう2人の弟のお兄ちゃん。
この町で元気に暮らしています。
若い力、そして子どもの力が
これからを支えていくんだろうと思います。
今の映像の最中、愛媛県で
震度3の地震が発生しました。
今後、日本はどうなっていくのか。
都司さん、私たち日本に住む上で
地震に気を抜けないわけですよね。
はい、実は8年前にマグニチュード9.0が起きたんですが、
これの影響、これによって誘導された
中規模地震、
マグニチュード7、これはまだまだ起きる可能性があります。
平安時代の例でいっても
やはり同じような地震が起きたんですが、
その9年後に関東で関連の地震が起きています。
一度地震によってパワーが開放されたとしても
また周期を巡って
そのときが来るということですか?
いや、違います、それの隣り合うところ。
北は岩手県の北。
南は茨城県の前辺りなんですが、
その北側の隣、南側の隣を
震源とする
やや大きな地震、マグニチュード7ぐらいの地震が
起きる可能性がまだ普段よりは高いということがいえると思います。
そのことを肝に銘じて行動していくということですね。

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