5.体験者の回想に見るタンク・デサント
この項目では、実際にあの戦争を戦った元兵士たちの回想録やインタビューの中から、タンク・デサントの行動が反映されたものを取り上げていく。すなわち自ら跨乗兵を務めた歩兵、または彼らと行動を共にした戦車兵などの記録である。多くはすでに「兵士たちとの対話」にてご紹介ずみだが、それ以外の談話も含まれている。
これらの証言は、実際に現場レベルでタンク・デサントの戦いを体験または見聞きした人々によるものであり、非常に生々しく詳細な内容を含んでいる。1から4までで検討した文献は、いずれも軍当局が定めた「あるべき」デサント像を示す規定集や、兵士たちに学ばせることを目的とした戦例紹介ばかりで、視点はあくまでも上層部のそれでしかない。こうした偏りを少しでも補い、戦場の実相を把握しようとするなら、当事者の証言は有効な材料となる。
しかしながら、回想の類が固有の欠点を抱えている点も認識しなければならない。何よりもまず、基本的には戦争が終わってから数十年後に回顧したものだという問題。人間の記憶力には限界があり、事実の忘却や偽の記憶の混入は避けられない。無意識に思い出すことが拒否される出来事、あるいは記憶の中での美化や卑下も当然あると思う。何しろ相手は戦争なのだ。また、前線将兵の視界はごく狭い範囲に限られるから、しばしば受けた命令の真の意味が理解できなかったり、あるいは逆に目の前の戦況から遠大な結論を出しすぎてしまったりするかもしれない。
こうした様々な欠点、デサントのみならず回想録史料にはつきものの諸問題を念頭に置きつつ、戦場を駆け回った将兵の活き活きとした声に耳を傾けてみることにしよう。
※以下、人名は敬称略。
○エヴゲーニー・ベスソーノフ(歩兵)
1923年モスクワ生まれ。開戦後に入隊し、歩兵学校で指揮官としての教育を受ける。初めて実戦を経験したのが43年夏で、以後終戦まで5つの攻勢作戦に参加。極めて損耗率の高い歩兵小隊長を務めながら激戦をくぐり抜け、生きて勝利の日を迎えた猛者である。
このベスソーノフが2005年に上梓した回想録『ベルリンへ!』は、タンク・デサントの実態を知る上で価値ある内容を含んでいる。正直、自分などがどうこう言うより本書を一冊訳して読んでいただいた方が余程有益かとも思うのだが(デサント云々を離れても非常に面白い従軍記だ)、なかなかそういうわけにもいかないので、以下要点だけをご紹介していく。
ベスソーノフが所属していたのは、第4戦車軍第6親衛機械化軍団第49機械化旅団(後に第35親衛機械化旅団と改称)の第1自動車化歩兵大隊。すなわち、戦車隊と行動を共にする機械化兵団の一員であったわけだ。彼はここから他部隊へ移籍することもなく、終戦まで戦い抜いている。
初陣を飾ったオリョール攻勢ではデサントの描写はなく、通常の歩兵としての陣地攻撃に終始した。続くカーメネツ・ポドリスキー攻勢(1944年2~4月)で、初めて跨乗任務を務めることになる。ただし、当初は戦車隊の鉄道輸送が遅れており、歩兵単独で泥濘の中を苦心しながら歩くしかなかった。少しずつ輸送車両、とりわけアメリカ製のスチュードベーカーが追いついてきたことにより、行軍もはかどることになった。常に戦車に乗って進んだわけではないのである。この状態でスカラト市を攻略した後、3月20日に至り初めてタンク・デサントとして前進を開始。これは敵の後方深くを荒らし回る侵攻戦で、日中は敵空軍の妨害があるため、基本的には夜間行軍を続けながら進んだ。敵に遭遇すれば戦車から降りて戦い、抵抗を排除した後に再び乗車して先を急ぐ。3月25日には攻略目標のカーメネツに至ったが、ドイツ軍はこれほど早い敵軍の到達を予期しておらず、集積した莫大な物資(トラック1000台分以上)がソ連側の手に落ちる結果をもたらした。2か月に及ぶ攻勢の中で、大隊は戦闘を繰り返しながら350キロの前進を達成したが、代償としておよそ90%という恐るべき損害を被った(ただし負傷療養後に復帰した将兵の数も多く、必ずしも全損というわけではない)。
一旦後方に退き休養と補充を経た後、7月にはリヴィウ・サンドミェシュ攻勢が開始された。入念な準備砲撃と航空攻撃で敵の防御線に穴を開け、救援に駆けつける敵の地上部隊をインターセプトした後、いよいよ侵攻部隊たる戦車隊(と跨乗兵)の出番である。ベスソーノフ所属の第1大隊は、作戦開始からこの段階まで損害を受けておらず、意図的に温存されていたものらしい。以後の流れはカーメネツの時と似ており、戦車に乗ってひたすら前進。空襲を避けるため、行軍は基本的に夜間のみ。敵の勢力圏内で活動する戦車隊にとって、ルフトヴァッフェは戦争の最終段階に至るまで深刻な脅威であり続けた。味方戦闘機の護衛は全く受けられなかったが、ベスソーノフ自身はその理由として戦車隊が攻勢の先頭に立って進み、あまりにも友軍主力から離れすぎていたせいではないかと推測している。
これに比べると地上部隊の抵抗は激しくなかったものの、それでも明け方頃に待ち伏せを受け、先頭車両がパンターにより撃破されたことがある。跨乗兵のうち2人か3人がその場で死亡、残る8人ほどは戦車が爆発する前に脱出できた(従って、各車両には10人前後が乗っていた計算になる)。この時ベスソーノフは部下の歩兵を指揮しつつ、旅団砲兵と迫撃砲に支援を要請しているので、これらの砲兵戦力も近くにいたのだろう(タンク・デサントに追随していたのか?)。敵の抵抗は頑強であったが、苦戦の末に何とかこれを退けることができた。
なお、ベスソーノフは土煙で視界が妨げられることを嫌い先頭車両に乗る場合が多かったが、ちょうど待ち伏せを受ける直前に2両目へ乗り換えており、このため戦死を免れたという。戦場ではこうした偶然が人間の生死を左右するものなのだ。
リヴィウに到達した時、第1大隊(実質1個中隊)は友軍の後続部隊をはるかに引き離しており、しかもドイツ軍が待ち構えている東側を迂回し南からアプローチしたため、抵抗にはほとんど遭わずに市内へ入ることができた。ベスソーノフに言わせれば、リヴィウ一番乗りを果たしたのは彼らだったのだが、何しろ兵力があまりにも少ないので積極的な行動に出られず、功績を認めてもらえなかったらしい。その後、別の方角から突入した友軍によりリヴィウは陥落した。
リヴィウ攻略に引き続き、大隊はドニエストル河畔のサムボルを攻撃してから再び戦車に乗り、ヴィスワのサンドミェシュ橋頭堡へ移動した(およそ200キロの行軍)。ここでも激戦が続いたが、当時すでに戦車隊はパンツァーファウストを恐れるようになっており、跨乗歩兵たちは戦車に先駆けて森の中を掃討したとの描写がある。この後、9月半ばには諸兵科軍に受け持ち地区を引き渡し、44年の残りいっぱいは次期作戦に備えての編成作業に費やされた。跨乗兵が戦車に乗り降りするのには慣れが必要で、編成の際にはそうした訓練もみっちりと行われたようだ。
次なる戦いは1945年1月、ポーランドを舞台としたヴィスワ・オーデル攻勢である。砲兵・空軍による準備攻撃→諸兵科軍が敵の防御線に突破口を開く→戦車隊がそこから突入、敵地の奥深くまで侵攻するという流れはリヴィウ以前と同じ。ベスソーノフ小隊は3両の戦車に乗って前衛を務め、大隊主力より5~7キロ先行して進んだ。これは敵の待ち伏せ攻撃を受けやすい危険なポジションであったが、上層部から離れた位置にいたため、ある程度は自らのイニシアティヴを発揮して戦うことができたようだ。友軍との連絡は戦車の無線により保たれていた。
1月のポーランドは日照時間が短く、天候も悪かったからルフトヴァッフェの活動は低調なものとなり、進撃ははかどった。また、単純に敵の後方へ突進するばかりでなく、その途中で多彩な任務をこなしてもいる。具体的には戦車+跨乗兵が夜間に前進して敵の車列を奇襲したり、同じく夜の間に街道の十字路を占拠、敵の退路を閉塞したり。後者の場合は旅団砲兵から2門の76ミリ砲が助っ人に来ているし、退却の際にはトラックに乗る描写もあるから、必ずしも戦車と跨乗兵だけが裸で行動していたわけではなく、状況に応じて様々な戦力を貸し与えられたようだ。また攻勢の途中でIS-2に乗り換えた場面もあるが、これは上級兵団から旅団に配属されたものであるらしい。
基本的に戦闘は下車して行うが、敵の戦力があまりにも微弱であるか、あるいは街道上で遭遇戦が発生した場合に限り、戦車から降りずに射撃しながら通りすぎた。行軍中のドイツ軍部隊に鉢合わせてこれを奇襲、虐殺と言っていいほど一方的な戦果を挙げたこともある。
攻勢はスピーディに展開され、不意を衝かれたドイツ軍は効果的な対応ができず、河川に架かる橋もほとんどが無傷のまま奪取された。とある町に入った時、敵はソ連戦車隊の出現を全く予期しておらず、灯火管制もなかったし、警官が呑気に交通整理を行っていたという。勿論、だからと言って損害がなかったわけではなく、不用意に視界の開けた場所で行軍の準備を行っていたところを遠距離からティーガーに狙い撃たれ、跨乗の歩兵分隊(7~8人)が全滅したケースがある。撃ち漏らされたドイツ軍も危険な存在だった。戦車が故障もしくは破損した場合、跨乗兵は技術班が到着するまでこれを守る義務があるのだが、こんな時に退却する敵と出会ってしまうと悲惨な運命をたどるしかない。ベスソーノフの部下の中でも特に優れた兵士の1人が、落伍戦車の護衛についたまま行方不明となっている。同じ理由により、実戦部隊に帯同する野戦病院も安心できる場所ではない。また、あまりに急な進撃を続けたため輜重隊が追いつかず、食糧は現地調達に頼るケースも多かった。
オーデルまでの600キロはわずか13日で走破できたが、ドイツ領内に入ると敵の抵抗も激しさを増し、ウクライナやポーランドでのような快進撃は望むべくもない。ドイツ軍はパンツァーファウストを持った少数の兵士を(決死隊的な)待ち伏せ任務に残し、どうにか戦車の足を止めようとする。一方のソ連軍ではまず跨乗兵が下車して先に進み、敵を掃討してから戦車も前進する場合が多かった。こうした戦闘の場合、いかに戦車と歩兵が協同するかが決め手であるから、先行した歩兵たちは及び腰の戦車隊から援護射撃を受けるために苦労を重ねたようだ。
ベスソーノフの所属する機械化旅団は2月24日に後続の諸兵科軍と交代、前線から下がると再編に入った。そして4月にはいよいよ最後の戦い、ベルリン攻勢の始まりである。ただし、第4親衛戦車軍はベルリンを南に迂回するような形で作戦したため、本格的な市街戦は体験していない。それまでの攻勢と同じく、まずは空軍と歩兵が敵の防御陣地に穴を開けた後、戦車隊がそこから突っ込んでいく。一方のドイツ軍は多数の小部隊を分散させて待ち伏せており、ちょっとでも進むと弾が飛んでくるため、戦車はすぐに停止し跨乗兵が飛び降りて敵を排除する。これでは進撃が遅々として進まず(ドイツ側もそれが狙いだったのだろう)、遂に「跨乗兵は撃たれても降車してはならない」という異例の命令が出されるに至った。だが、しばらくすると普通に戦車から降りて戦っているので、すぐに撤回されたか、実戦部隊の方で無視してしまっていたようだ。歩兵が先に立って戦車の前方を掃討、必要に応じて戦車の火力支援を乞うというスタイルはオーデル攻勢時と変わらない。
流石にドイツ軍の抵抗は激しく、上記のような遅滞戦術にも遭ったため前進は思うに任せなかったというが、しかし攻勢開始後の9昼夜で450キロは進んでいる。とある居住区を通過した際には、ソ連軍の出現を恐れた民間人が家族で縊死している痛ましい光景も目撃されたが、それだけ急な進撃だったのだろう。士気の低いフォルクスシュトルムが集団投降してきたケースもある(ただし1度だけ)。この時期になるとドイツ軍の戦車は明らかに数を減らしており、あまり遭遇せずにすんだ。その代わり、4月23日には行軍中に空襲を受け、甚大な損害を被っている(ベスソーノフの表現によれば、これはドイツ空軍の「白鳥の歌」であった)。
また、当時ベスソーノフの旅団では3個歩兵大隊がローテーションを組んで戦うようになり、「当番」から外れた時にはゆっくり後方を進んでいたようだ(ふざけて仮装行列のようなことをやらかし、上官から叱られたことも)。ヴィスワ以前の攻勢ではなかった描写で、当時のソ連軍にはそれだけの余裕があったのだろう。
4月24日、北から進撃してきた第1ベラルーシ戦線と合体してベルリン包囲が完成したその日に、ベスソーノフは偶々近くへ落下した砲弾の破片で重傷を負う。彼の戦争はここで終わった。病院で診てくれた軍医少佐は、「小隊長や中隊長を務め、しかも戦車跨乗兵として戦っていながら2年間で1回しか重傷を負っていない人間に出会ったのはお前が初めてだ」と述べたという。タンク・デサントに対する同時代人のイメージを象徴するような言葉である。
○ボレスラフ・アガリツォフ(戦車兵)
タンク・デサントについては「非常にネガティヴな印象を持っている」と語る。それというのも、少しでも撃たれると彼らはすぐさま逃げ隠れしてしまい、戦車を敵のパンツァーファウストから守ろうとはしなかったのである。デサントの中には衛生兵もいたのだが、クルーが負傷した肝心な時に助けてくれなかった。空襲の時にはみんなして戦車の下に隠れるから動くこともできない、等々の恨み節が並べられる。
なお、アガリツォフと共に戦った跨乗兵たちは「自動車化歩兵短機関銃手大隊」に所属していた。これは戦車隊に付属する歩兵大隊で、ある意味デサントとなることを運命づけられた人々である。それだけに、アガリツォフのような戦車兵の目から見ると「責任を果たさない」跨乗歩兵たちに対し嫌悪の念が隠せなかったのだろう。
○セミョーン・アルブル(歩兵)
ウクライナでドイツ軍の占領を堪え忍び、解放後に入隊。1943年から45年の春まで、機械化旅団の戦車大隊に所属する跨乗兵として戦う。最初は小銃、後に軽機関銃を装備。1両の戦車に5~6人が跨乗したが、1戦闘ごとに5人中2人は必ず戦死するという過酷な任務であった。
敵の強力な抵抗に遭うと、歩兵は戦車から飛び降りる。一方、例えば補給部隊の荷車などに遭遇した場合、そのまま射撃したり戦車で蹂躙したりすることもあった。また、跨乗兵が戦車に乗るのは戦闘の時だけで、通常は徒歩か馬車、車で前進する。戦車での行軍は一度もなかった。
アルブルは後に引き抜かれて戦車兵(操縦)に転身したが、このことについて「戦車兵は歩兵よりランクが上だった。ただし、跨乗兵は自らを戦車兵とみなしていた」と述べている。
○ドミトリー・アンドレイチューク(歩兵)
ウクライナ出身。上記アルブルと同様に占領経験組で、1944年の解放後に徴兵される。配属された歩兵師団は最高司令部直属の予備戦力で、戦車隊がベラルーシで突破作戦を行う際、タンク・デサントとしてこれを支援するのが役目であった。前線まではトラックで移動し、それからT-34やIS重戦車に跨乗する。重戦車であれば15人は乗ったという。武装は主に短機関銃だが、ドイツ軍からの鹵獲品の方が軽くて取り扱いやすく便利だった。通常は戦闘に入るとすぐさま降車するのだが、敵の防御線を突破し後方に回り込んでの侵攻戦であれば、敵弾に構わず戦車に乗ったまま突き進むこともある。全力で疾走する戦車にしがみつき、不整地では空を飛んでいるのではないか?と感じたほど。損害の多寡は戦況次第だが、敵陣に穴を開ける段階が特に危険で、決死隊的任務であった。
○セミョーン・アリヤ(戦車兵)
その回想でタンク・デサントに触れた個所はないが、戦車が行軍する際、操縦手以外のクルーが車体上面に出ていたという記述は興味深い(特にエンジン上は排熱のため暖かく、人気のある場所であったらしい)。赤軍戦車隊を写した写真で、戦車の上に乗っている人物が全て跨乗兵とは限らず、戦車自体の乗員である可能性も考慮しなければならないからだ。
○セルゲイ・アルハンゲリスキー(歩兵)
本職は飛行機の整備兵であるが、スターリングラード戦の一時期に限り歩兵隊に回された経験を持つ。配属先は自動車化歩兵旅団の短機関銃手中隊で、部隊は専らT-34と組むタンク・デサントとして、ミウス方面で作戦した。後方ではトラックに乗って移動し、戦車に乗るのは戦闘時のみ。戦車が燃料や砲弾を積み込む時には、跨乗兵たちもこれを手伝った。
この地区の戦車隊はスピーディな攻勢で敵に打撃を与えたが、損害も大きかった。跨乗兵は一定の線までは戦車に乗ったまま進み、その後で戦車兵の号令に従い降車、以降は戦車に続いて進んだ。
○アリム・ベキロフ(歩兵)
対空砲兵だが、上記アルハンゲリスキーと同じくスターリングラード戦の時期に歩兵隊へ配属。機械化旅団の短機関銃手を務める。徒歩の行軍で疲れ果てた後、跨乗兵として戦闘に参加。5~6人ずつ戦車に乗り、しばらく前進した後で戦車長の号令により飛び降り、その後は戦車に続いて撃ちながら進むという戦い方であった。
○ニコライ・ベスパールイ(歩兵)
カフカースから東プロイセンまで戦い抜いた歩兵。回想中のタンク・デサント関連個所は簡潔にまとまっているので、以下に全文を訳出しておく。
「私はロコソフスキー元帥の下で、戦車跨乗兵として戦ったこともある。私たちの任務はT-34を守ることだった。行軍の時には戦車に乗って、戦いが始まるや否や飛び降りるんだ。戦車は先に進み、私たちはその後に続いてドイツの歩兵を撃退した」
○ニコライ・ブルツェフ(戦車兵)
乗っていた戦車が地雷を踏み破壊された際、車体後方には10人ほどの跨乗兵がいたが、そのほとんどが命を失った。
○ニコライ・ヴェルシーニン(戦車兵)
すでに開かれた突破口から敵の防御線の裏側へ回り込み、侵攻作戦を行うための戦車隊に所属。敵の火点や自動車などの後方部隊を踏み潰し、停止せずひたすら進み続ける。そして敵歩兵が現れると、同行のタンク・デサントが対処することになっていた。
跨乗歩兵はあらかじめ部隊に配属されてはおらず、戦闘の直前に各車へ割り振られた。理想はできるだけ敵に近づいてからの降車だが、ドイツ軍が1発でも撃ってくると勝手に飛び降りてしまう場合が多かった。懲罰隊員を乗せていったこともある。
○マラート・ヴォロベイチク(歩兵)
1943年秋に応召。配属先は戦車軍団所属の自動車化歩兵旅団で、マクシム重機関銃の1番銃手を務めた。
タンク・デサントに関する談話はインタビュー中3回にわたり現れる。1回目は2両のT-34に機関銃2個分隊(計10名)でポーランドの村を攻撃した時で、真夜中に奇襲をかけたため、ドイツ兵はズボン下1枚という格好で逃げ去ったという。戦車はこの段階で帰ってしまい、機関銃手たちは独力で2昼夜の間村を確保した。2回目はイノロツラフ攻略戦で、これも完全な夜襲となり、街の端から端まで戦車で疾走した後に降車、乱戦を制して任務を達成した。最後はベルリンの戦いであるが、ここでは戦車に乗って市街地に突入した後、早々に降車したように読める。
この他、食糧事情について問われた際に「戦車兵のお世話になることもあった」と答えているので、戦車隊と行動を共にする機会は上記3例にとどまらなかったようだ。また戦車に跨乗する際、機関銃を車体に縛りつけたという描写もある。
○ウラジーミル・ヴォストロフ(自走砲兵)
自走砲SU-76で戦う。ある戦闘では跨乗歩兵を乗せた2両のT-34と共に威力偵察を命じられたが、その実態は敵の砲火を引き寄せ、撃たれることで砲兵陣地の場所を確認するというものであった。
○ヴァシーリー・ブリュホフ(戦車兵)
戦車旅団所属の小隊長としてヤッスィ・キシニョウ攻勢に参加。その過程で退却するドイツ軍の一部隊が発見されたため、旅団長は戦車1個小隊に跨乗歩兵をつけて派遣、逃げる敵の先回りをして待ち伏せるという任務を与えた。この計略は図に当たり、小隊は敵に大きな損害を与えている。
○ニコライ・ジェレズノフ(戦車兵)
ウラル義勇兵戦車軍団に所属、実戦参加は1943年夏から。その回想にはタンク・デサントに関わる箇所が豊富に含まれる。歩兵は戦車に乗って移動していたが、射撃時や敵陣突破の際には地面に飛び降り、以降は戦車から離れて戦った。さもなければ味方の戦車に轢き殺される恐れがあったからだ。ただし、戦車に乗ったまま砲塔の陰に隠れて生き残る者も少数だがいたらしい。
戦車兵と跨乗歩兵とでは、同じ小隊長でも戦車兵側に指揮権があった。「あくまでも戦車が歩兵を運ぶのであって、その逆ではないから」だとのこと。休止の時にも、パンツァーファウストを持った敵兵がこっそり接近してこないよう、歩兵に指示を出し見張りに立たせていた。
リヴィウ攻勢の過程で、ジェレズノフ小隊は歩兵1個小隊と対戦車砲2門の配属を受け、本隊の左側面を警戒しながら進んだ。これらの歩兵と砲兵は全て戦車に跨乗している。そして行軍中に敵の戦車隊と接触すると、小隊は森の中へ身を隠して待ち伏せ攻撃を行い、戦車・歩兵・砲兵協力の下で敵に打撃を与えた。
○ボリス・ザハーロフ(戦車兵)
IS重戦車の戦車小隊長。1944年3月のウマニ作戦では、短機関銃手1個分隊を跨乗させている。戦闘中には戦車のハッチを開けておくのが常で、それは車体上の短機関銃手とコミュニケーションを取る必要があり、かつ彼らのおかげで上方からの攻撃は気にしなくてもよかったためであるという。さらに、短機関銃手たちは保温容器に入れて食事を運んでくるなど、戦車兵たちと密接な協力関係にあったことがうかがえる。
○レオニード・カーツ(戦車兵)
1941年のブリャンスクから44年のクリミア戦までを戦い抜いた機関銃手。歩兵がデサントについてくる機会はそれほど多くなかったが、一方で工兵を乗せたこともある。そのうちの1人に頼まれて車内へ入れてやったが、折悪しく戦闘が起きてしまい、件の工兵は戦いの後で「3回殺されても二度と戦車の車内には入らん!」などと悪態をつきながら逃げていったという。余程恐ろしい体験だったのだろう。
○ゲンナージー・キルケヴィチ(歩兵)
1942年夏の戦いで、短機関銃手を乗せたドイツ戦車に追いかけられた経験あり。ドイツ側のタンク・デサントに関する珍しい証言である。
○ニコライ・クジミチョフ(戦車兵)
T-34の戦車長。本格的な実戦参加は1944年夏以降。インタビュー中に「デサント」という言葉は1回も出てこないが、「短機関銃手と一緒に戦った」旨は明言されており、ベルリン市街戦でも彼らから周囲の情報を得、あるいは協同して建物を占領している。状況から判断して、これら短機関銃手は跨乗兵の任務を果たしていた可能性が高いように思う。
○ニコライ・クルバク(歩兵)
1943年召集。当初は歩兵師団、負傷後は戦車軍団所属の自動車化歩兵旅団に配属され、跨乗兵として戦った。まずは砲兵と航空隊が敵陣を破砕し、その後の突破段階でタンク・デサントの出番となる。ただしいつも乗車していたわけではなく、何らかの理由で戦車だけが先行し、待ち伏せを受け撃破されてしまったこともある。降車は分隊長の号令に従って行われたが、その前に撃たれると自分たちの判断で飛び降り、戦車に続いて突撃した。
○アレクサンドル・リョーヴィン(歩兵)
1943年のごく短期間、戦車軍団所属の歩兵小隊長として勤務。突破地区で攻勢の先頭に立ち、戦車に乗って進撃する。夜間攻撃が中心であったが、それでも敵は猛烈な砲火を浴びせて来、赤や白の光の塊が飛んでくるようで恐ろしかった。当然損害も大きく、気がついたら戦車の上から兵士の姿が消え、腕だけが手すりにぶら下がっていたこともあったという。その一方で、「彼らのような勇士がいなければ突破作戦などは絵に描いた餅」と述べている。
◯アルカージー・レペンジン(自走砲兵)
1945年1月、SU-85小隊長として指揮下の自走砲に短機関銃2個分隊を跨乗させ、深夜にドイツ軍司令部の隊列を急襲。敵の将軍を捕らえ重要文書を鹵獲するという大戦果を挙げた。タンク・デサントによる奇襲効果のお手本のような挿話である。
◯マトヴェイ・リフテルマン(降下兵)
惨憺たる結果に終わったドニエプル空挺作戦に参加、ドイツ軍の捕虜となったものの脱走に成功し、モルドヴァの荒野をさまよった後で友軍のタンク・デサントに救出された。その後2週間ほどは、跨乗兵として「御礼奉公」を務めている。これは敵軍の後方を食い荒らすため、テルノポリ方面へ進撃中の戦車旅団であった。
○ドミトリー・ロザー(戦車兵)
M4シャーマン装備の戦車旅団で勤務。この旅団は戦車3個大隊と歩兵(短機関銃手)1個大隊からなり、各戦車大隊に歩兵1個中隊ずつが付属するという編成だった。歩兵たちは戦闘が始まるまでは戦車に乗っているが、ドイツ軍が1発撃ってくるとすぐさま飛び降り、その後は戦車に続いて戦場を駆け回った。また、跨乗兵が砲塔をガンガン叩いたり曳光弾や信号ロケットを撃ったりして敵の場所を教えることもあった。
彼ら歩兵と戦車兵は兄弟のような間柄で、休止の際には歩兵が戦車を守ってくれたし、戦利品なども公平に分かち合う。ロザーの見解によれば、跨乗兵は通常の歩兵より「楽に戦争をしていた」。また、彼らの中には戦車の乗員へ転職する者も少なくなかったという。
○ヴァシーリー・モスカレンコ(戦車兵)
T-34一筋の戦車兵。1943年から実戦参加、戦争末期には中隊長にまで累進した。その談話中では、市街戦におけるタンク・デサントの実態に関し、極めて興味深い細目が語られている。
規則の上では、各戦車には5人から7人の歩兵が跨乗しなければならない。しかし現実には、戦車大隊長車に歩兵大隊長が乗り込むと、10~15人がこれに割かれる。隊長たちも我が身がかわいく、なるべく多くの歩兵を引っ張ってしまうからだ。以下、戦車のランクが下がるに連れて跨乗兵の数も減っていき、最末端の車両だと乗っていない場合すらあった。実際、市街戦においてはデサントつきの方がはるかに有利で、彼らは建物の陰に隠れる敵を見つけ出し、すぐさま戦車に情報を伝えてくれる。また占領地で休止する際も、跨乗兵たちはパンツァーファウストによる奇襲攻撃を防ぐべく見張りに立った。逆に、歩兵は戦闘の中で戦車の車体を弾除けの盾代わりに使っている。
○セルゲイ・オトロシシェンコフ(戦車兵)
プロホロフカ戦車戦を生き抜いた猛者。所属の戦車大隊(21両)には、跨乗兵もしくは短機関銃手1個中隊が配属されていた。勇猛果敢な跨乗歩兵たちには感謝している、とりわけ夜になるとデサントなしでは盲目も同然だったとのこと。ただし跨乗兵も生身の人間だから、戦車と一緒に突撃したり敵弾をかいくぐって進んだりは勿論していない。時には戦車が戦っているのにデサントが追随せず、後で口論になったこともある。また前方の状況が不明な場合は、跨乗兵を斥候に送っていた。
○ユーリー・ポリャコフ(自走砲兵)
4両のSU-76でベルリン近郊を進撃中、敵の待ち伏せに遭いパンツァーファウストで3両を炎上させられ、跨乗兵の半分が死亡する。小柄なSU-76に何人の跨乗兵が乗っていたかは残念ながら言及がない。ただし、生き残りがドイツ兵(7人)を捕まえて残酷に殺したとも述べられているので、4両合計で相当数のデサントがいたことが分かる。
○ニコライ・ポポフ(戦車兵)
スターリングラード戦以来のベテラン。タンク・デサントについて尋ねられた時、「想像してほしいのだが、ミウス川へ進出するまでは跨乗兵がほとんどいなかったんだよ」と述べている。跨乗兵は戦車につきもので、いない方が異常との認識が透けて見える。その後はデサントの数も増え始め、国境を突破する頃には帯同が常態になっていたとのこと。
○ミハイル・レズニコフ(戦車兵)
IS-2重戦車装備の「独立突破連隊」に所属し、1943年秋からベルリン戦まで戦い抜く。連隊には重戦車21両、自動車28両の他に跨乗歩兵1個中隊が付属し、戦車隊と行動を共にしていた。戦車をパンツァーファウストから守るのは砲塔上の機関銃でも増加装甲でもなく、まさに彼ら跨乗兵であり、側溝や塹壕の中を監視しては敵の肉薄攻撃を防いでくれた。戦車のクルーと跨乗兵の間柄は非常に親密で、共に食事を取り、戦車の手入れなども一緒にやっていたが、休止の時には短機関銃手に戦車を守るよう指示した上で自分たちは寝に行ったというから、自ずと上下関係に近いものはできていたようだ。
また、跨乗兵の損耗率は極めて高く、補充として懲罰隊員が送られてくることもあった。
○ウラジーミル・リャブシコ(工兵)
1943年より戦車軍団所属の独立工兵連隊に所属。地雷除去などで戦車隊を直接支援した(一方、戦車旅団付属の工兵小隊は壕掘りなどが主な仕事で、独立工兵連隊とは任務の内容を異にしていたという)。独立工兵は1個中隊ずつ戦車旅団に配属され、さらに1個工兵小隊が1個戦車大隊につくという分割運用であった。この過程で工兵+通信兵(1~2名)が戦車に乗っていくことが多く、ワイヤーやロープで手すりに体を縛りつけて進んだ。そして戦車の行く手を阻む障害物が現れると、すぐに飛び降りこれを排除するのである。例えば地雷の処理、架橋、敵が橋に仕掛けた炸薬の撤去、対戦車壕の爆破などが主な任務であった。一方、工兵中隊は必要な資材一式を積んだトラックを保有していたという証言もあり、車両自体は存在したものの、戦車隊と緊密に協力するため敢えて跨乗を選択していたようだ。
○アレクサンドル・リャザノフ(歩兵)
様々な部隊をめぐり歩いた遍歴の兵士。オデッサ解放後の段階でSU-122装備の自走砲部隊に移籍し、跨乗歩兵として勤務する。1両に5人ずつが乗り、自走砲の車長から指揮された。任務はパンツァーファウストを持った敵の歩兵と戦うことで、戦闘が始まる前に降車し、自走砲を援護した。ただし、跨乗兵時代には「車に乗った」とも述べているので、ずっと自走砲だけで行軍したわけでもないらしい
ヴィスワを越えたある日の戦いで、リャザノフを含む跨乗兵たちは降車し敵の歩兵を撃退していたところ、自走砲とはぐれてしまった。仕方がないので手近な歩兵隊と合流し、以後は同隊の迫撃砲兵として勤務している。軍隊にあるまじき「自由」さで、極めて珍しい事例だとは思うのだが、このようなケースもあったようだ。
○ニコライ・ソボリ(歩兵)
ベラルーシ生まれ、ドイツ軍による占領を経験した後1944年夏に歩兵として応召。時々だがタンク・デサント任務につかされた。戦車の後ろに乗った者は生き残り、前に乗った者は戦死したという。
○ボリス・フェオクチストフ(衛生兵)
戦車旅団所属の衛生将校。1943年2月のハリコフ戦において、旅団はタンク・デサントによる攻撃をかけることになり、フェオクチストフはこれに同行する衛生兵を選抜するよう命令された。攻撃隊は短機関銃手1個中隊に戦車4両で編成。夜間に出発していること、また旅団長がこの任務をафера(ぼろもうけを狙うインチキ仕事の意)と呼んでいることから、敵の不意を衝く奇襲攻撃を目論んでいたものらしい。だがこの目論見は成功せず、戦車は待ち構えていたドイツ軍に捕捉され、跨乗兵と共に撃破されている。
○ニコライ・チャラシヴィリ(歩兵)
トビリシの歩兵学校を卒業後、最初は戦車旅団所属の自動車化歩兵大隊、後には歩兵師団の一員として、スターリングラードからベルリンまでを戦い抜く。このうちの一時期でタンク・デサントを務めたことがあるらしい。以下、インタビューから該当部分を抜き出しておく。
「(戦車跨乗兵を務めたことはありますか?という問いに対し)ある。6人でトランスミッション[戦車の車体後部]の上に寝そべるのだ。戦車が戦闘を開始すると、みんなでそこから飛び降りて、自分の戦車を守る。戦車は前進し、我々もこれに並んで進むわけだ。敵は戦車を狙って撃ってくる。もしも兵士に当たったら、あんたに想像できるかな、肉のかけらしか残らないよ!本当に恐ろしかった!」
○ヴァシーリー・チェピク(歩兵)
ウクライナでドイツ軍による占領生活を体験した後、1943年末に入隊。配属先は機械化旅団の自動車化歩兵大隊で、基本的には短機関銃装備のデサント要員であったが、ドイツ語が理解できたため偵察隊員としても活動した。
戦車は単独ではたちどころに撃破されてしまうため、戦車兵はデサントの存在に大変満足していたという。戦車に対し強力な砲火が浴びせられると、跨乗兵はすぐさま降車して戦うのだが、ドイツ軍の抵抗が弱ければ車上に残る場合もあった。敵の塹壕を占拠し、捕虜を取るのが跨乗兵の役目。これは他の体験者にはない珍しい証言であるが、チェピクは偵察任務も兼ねており、情報取集のため捕虜を生け捕りにする必要があったから、特殊な事例と言えるかもしれない。
最後のベルリン攻防戦でも戦車に乗って市内へ入ったが、ある一定の地点に到達したところで分散し、その後は純粋に歩兵として市街戦を戦い抜いた。
○ミハイル・チェルノモルジク(砲兵)
弟アルカージーが戦車跨乗の歩兵中隊長として勤務、負傷し傷痍軍人となっている。戦後彼が話してくれたところによれば、タンク・デサントは甚大な損害を被り、「どんな懲罰中隊よりも悪い」状況に置かれるとのこと。一方のドイツ軍は、戦車による突破が成功してから歩兵が続いてくるか、あるいは装甲輸送車で戦車を支援するケースが一般的で、デサントの使用は極めて稀だった(が、あったことはあったらしい)。これらの経験から、チェルノモルジクは「ドイツ軍の方が人員を大切にしていた」との印象を持っている。
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正直なところ、もっとシンプルにまとめたかったのだが、蓋を開けてみればご覧の通り。考えてみれば、生の戦場体験を「シンプルにまとめる」ことなどできない相談で、実際の戦場よろしくどうしても雑多にならざるを得ないのだ。しかしながら、この色々様々な談話を通して見てみると、デサントに関する共通のキーワードが拾えるのではないかと思う。
まず第一に損害である。この点については贅言を要しないだろう。何と言っても生身の人間が戦車の上に乗っていくのだから、危険極まりない任務であることは間違いない。当事者たる跨乗兵と戦車兵の告白に目を通していただくだけで、タンク・デサントが被った損害の大きさを充分に理解できるものと思う。またベスソーノフの回想の最後に現れる軍医少佐のコメントも、同時代人が持っていた跨乗兵のイメージを端的に物語っている。
その一方で、体験者の談話を子細に検討すれば、敵弾を浴びながら突撃という通俗的(かつ戯画的)なデサント像は最早成り立ち得ないのではないかと思う。ほとんどの場合、跨乗兵は撃たれればすぐに(時には撃たれる前に)戦車から降りている。よほど敵の抵抗が微弱であるか、あるいは先を急ぐ場合には乗車したままその場を通過していたようだが、全体としては少数派でしかない。標的となってまで戦車の上に乗る意味はなく、危険が迫れば降車するという、ある意味当たり前の行動を取っていたのである。寧ろ、それでもなお損害が大きかったという事実について考えなければならない。
また、公式な規定集や戦訓集で強調されているタンク・デサントの奇襲効果についても、複数の談話からこれを確認することができる。戦車と跨乗兵による夜襲や夜間行軍の登場する場面は意外に多い。不意討ちが決まれば大きな戦果が得られたことは、例えば機関銃手ヴォロベイチクや自走砲兵レペンジンの体験談などで明らかだ。赤軍上層部の思い描いた理想的デサント像はこのようなものであったのだろうと思う。
次に、跨乗兵が果たした具体的な役割を見てみると、戦車の護衛が真っ先に挙げられる。複数の跨乗歩兵経験者が、自分たちの任務は「戦車を守ること」であったと言い切っている。とりわけ、敵の肉薄攻撃を受けやすい市街戦となるとデサントは必須の存在に近く、戦車兵モスカレンコの談話はその辺りの事情を端的に表している。
同時に、戦車隊を投入した長距離侵攻戦におけるタンク・デサントの運用も目立っている。これについては何と言ってもベスソーノフの回想が圧巻だが、他にも数人の経験者がいる。最初に砲兵と航空隊、諸兵科軍の攻撃により敵の防御線に穴を開けると、そこへ大量の戦車を送り込み、無防備な敵の後方に向かって一気呵成に進撃するという戦術。その際、跨乗兵は必ず戦車に帯同するものとされていたようだ。非常に有効だが危険も大きい任務であったことは、やはり上記ベスソーノフの体験が雄弁に物語っている。
跨乗任務につく兵士たちの所属を見ると、同じ戦車旅団に含まれる歩兵大隊か、あるいは戦車軍団麾下の歩兵旅団という場合が多い。つまり、大枠では最初から戦車との協力が期待されるポジションにいたわけだ。興味深いのが歩兵アンドレイチュークの事例で、彼の原隊は最高司令部直属の予備歩兵師団であり、突破作戦が始まると適宜戦車隊に回されてタンク・デサントを編成したのだという。戦車隊に付属する跨乗兵の「専門家」とは別に、かなり高いレベルでのデサント予備軍が用意されていたことになる。
いずれにせよ、多くの跨乗兵は常日頃から戦車隊との親密な関係を築いており、これについては戦車兵・歩兵双方の側からの証言がある。例外は戦車兵アガリツォフで、デサントに対するネガティヴな感情を隠そうとしていない。ただし、彼の場合も「本来戦車を守るべき跨乗兵が守ってくれなかった」という部分から出発しているので、跨乗兵に対する期待の大きさの裏返しと言えなくもない。いずれにせよ、タンク・デサントにおいては戦車の中に乗る者も上に乗る者も一蓮托生とならざるを得なかった。
具体的に何人が「戦車の上」に乗るかについては、これは回想により様々である。大体5人から15人といったところか。極めて興味深い証言を残しているのが戦車兵モスカレンコで、隊長クラスは自分の身を守るため多くの跨乗兵を乗せていき、下位の戦車ほどその数が少なくなった由である。戦車兵にとって、デサントの多寡は死活問題と見なされていたことが分かる。
跨乗兵はその大半が歩兵であったが、わずかながら工兵や通信兵、衛生兵などが乗っていったとの談話もある。とりわけ工兵リャブシコは、戦車隊に帯同してその前進を支援し、現場で障害物(地雷や対戦車壕など)の撤去にあたっていた。跨乗兵+戦闘工兵という危険極まりない任務を与えられ、しかも生還した兵士が存在したのである。
なお、上記のリャブシコは跨乗に際し戦車の手すりへ体を縛りつけたと言っているが、これは他の体験談には出てこないユニークな特徴である。いつ敵の襲撃を受けるか分からない歩兵と異なり、工兵は多少なりとも降車までの余裕があったから、戦車に体を固定するという芸当も可能だったのではないかと思う。しかしながら、仮にこの状態で戦車もろともやられた場合、その死体を見たドイツ兵の中には「戦車に縛られたまま突っ込んできた敵がいた!」と勘違いした者もいたはずだ。一部に流布している「縛られた/閉じ込められた戦車兵」というソ連軍残酷譚のルーツを探る上で、1つの手掛かりとなる事象ではないかと思う。
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ここまでタンク・デサントに関わる文献4点(ソ連軍当局による規定集2点、戦中及び戦後に書かれた戦訓集1点ずつ)と、跨乗兵経験者を中心とする同時代人の証言をご紹介してきた。次項ではこれらを総括した上で、デサント像の再構成を試みることにしたい。
(14.09.24)
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