4.1957年の戦訓則に見るタンク・デサント
「春の泥濘期、森林・沼沢地において敵防御陣地の中間線を突破するため、歩兵大隊が実施したタンク・デサントとしての戦闘行動について」『歩兵大隊の戦闘行動:大祖国戦争戦訓集』[1957年])


 大戦終結から12年、指導者スターリンもすでになく、ソ連がフルシチョフの下で新たな政策に舵を切りつつあった1957年。軍の出版局より、大祖国戦争における歩兵大隊の戦闘行動をテーマとした論文集が出版された。これに前後して小隊編や中隊遍、連隊編も世に出ているので、軍当局としてはこの辺りで大戦当時の戦訓をきちんとまとめておこうという意図があったのかもしれない。大隊篇の執筆者は大佐や中佐、すなわち12年前の戦争では実際に最前線を駆け回ったであろう連中が名を連ねている(ただし誰がどの論文を担当したかは明記されていない)。
 本項で取り上げるのは、大隊篇の中でもタンク・デサントの戦いを回顧した一論文である。前の3項で主役を務めた諸文献と異なり同時代史料ではないし、取り扱われているのも1つの具体的な戦闘にすぎないという問題は残る。その一方で、全てが「過去の出来事」になってからの回顧であるため、より冷静かつ客観的な視点が期待できるかもしれない。
 以下、論文の流れに沿って内容をご紹介し、最後に筆者の所感を述べることにしたい。

背景

 本論文で描写されている戦いは、第249歩兵師団第917歩兵連隊第1歩兵大隊第35親衛戦車旅団と協同し、1945年3月18日から3日間にわたり展開したものである。当時の第249師団はレニングラード戦線第42軍の指揮下にあり、3月17日開始の第5次クールラント攻勢に参加していた。従い、この戦いは同攻勢の枠内で行われたことが分かる。なお、第249師団の将兵は大部分がエストニア人で、赤軍の中でもユニークな民族構成を持つ兵団であった。
 師団は3月18日までにナミティ[Намити、以下地名は原文のロシア語表記を参考として日本語に転写する]の西方5キロ地点まで進出し、ここから北西方向へ伸びる街道沿いに突破作戦を遂行するよう命じられた。師団の右翼に展開するのは第7歩兵師団、左翼側は第122歩兵軍団が受け持つ。また、第249師団と第7師団の接続部では第35親衛戦車旅団が活動している。そして、第249歩兵師団第917歩兵連隊の中から第1歩兵大隊が抽出され、臨時にこの戦車旅団へ配属、タンク・デサントとして攻勢の先頭に立つこととなったのである。
 周辺地域は森林と沼沢地が多くを占めている上、春の雪解けにより一面が泥濘と化し、戦車の通行は難しい。進撃路は道路上に限られるわけだが、当地の道路網は貧弱であり、広範囲での同時攻勢は期待できない。明らかに防御側有利の地形であった。

※地図はこちらを参照。

戦力

○第917歩兵連隊第1歩兵大隊
・歩兵中隊3個
・機関銃中隊
・対戦車銃小隊
・工兵小隊
人員合計377名、小銃107挺、短機関銃214挺、対戦車銃9挺、重機関銃12挺、50ミリ迫撃砲6門(砲弾2会戦分)。

○第35親衛戦車旅団
・戦車大隊3個
各大隊は中戦車9両、IS重戦車6両、自走砲3両からなる。旅団合計で中戦車27両、IS重戦車18両、自走砲9両、総車両数54両。

 3月17日午前7時、第35親衛戦車旅団長は麾下の諸隊を二手に分ける決定を下した。第一梯団は第2戦車大隊と第2・第3歩兵中隊からなり、ヴィディニ[Видини]とポイント124.4[отм. 124.4]を結ぶ敵の第一線を突破、北西に進撃して一挙にヤナムイジャ[Янамуйжа]、ピルス・ブリディエンス[Пильс-Блидиэнс]の各集落を陥れつつ、その日のうちにクイリ[Куйли]、カウラツィ[Каулаци]の線まで到達。敵軍の退路を切断する。
 第二梯団(旅団主力)は第1・第戦車3大隊と第1歩兵中隊、機関銃中隊、対戦車銃小隊、工兵小隊からなる。彼らは第一梯団に続いて進み、ピルス・ブリディエンス集落の手前から北東方向に躍進、ブリディンス駅[ст. Блидинс]を奪取する。これが歩兵大隊と戦車旅団合同の攻撃プランであった。
 対するドイツ軍は、第35親衛戦車旅団の攻撃予定ルート上に歩兵2~3個大隊、機関銃60挺と対戦車砲6~8門、迫撃砲8門、連隊砲3門、自走砲6~8両、戦車5~6両、師団砲12門を展開させているものと見られた。その第一線は2列の塹壕で守られ、各集落も防御陣地として改造されていた。

作戦準備

 17日の9時から11時にかけ、第1歩兵大隊長オゼチキン大尉と支援各隊の指揮官は敵の第一線を偵察した上で、協同に必要な打ち合わせを実施した。攻勢開始の時間と戦闘中に出されるべき信号、砲兵による移動弾幕射撃、予想される敵の反撃と対策などがそのテーマとなった。
 諸隊は攻撃発起点であるナミティ西方の森に集合した。各戦車に跨乗する兵員の数は以下の通り。
・中戦車:5~6名
・重戦車:8~9名、もしくは機関銃1個分隊、もしくは対戦車銃2個分隊
 第1歩兵大隊長は第2戦車大隊の大隊長車に同乗した。
 歩兵たちは、戦車と自走砲の性能や、森林・湖沼地帯での戦闘の特殊性、協同に不可欠な信号についての説明を受けた。また攻勢開始に先立ち、大隊長は第249師団長及び政治将校からのメッセージを読み上げ、兵士らの士気向上に努めている。

3月18日の戦闘

 1945年3月18日13時15分、30分の予定で準備砲撃が始まった。これにより敵第一線の火点は沈黙し、塹壕の一部が破壊された。砲撃終了5分前(13時40分)、歩兵1個小隊の跨乗する戦車3両が偵察のために前進を開始。しかしポイント124.4の前面0.5キロ地点で敵の砲と迫撃砲から攻撃され、戦車は左に向きを変えて街道上から逃れたが、泥濘のため行動不能となった。一方、歩兵小隊は即座に戦車から降りて散開、果敢に敵の第一線へ突撃をかけ、1列目の塹壕を占拠した。この戦いで小隊は敵の将兵20名を倒している。
 しかしながら、偵察隊は当該地区における敵の火点を全て暴き出すには至らず、任務自体は不成功に終わった。道路上を不用意に行軍縦隊のまま進んだため、適切な時期に戦闘隊形への転換ができず、結果として敵の砲兵から不意討ちを受けたことがその原因である。

 14時、第2戦車大隊と第2・第3歩兵中隊(1個小隊欠)からなる第一梯団が前進を開始した。中戦車が先頭に立ち、次がIS重戦車、自走砲はしんがりを務めるという隊列であった。梯団がポイント124.4に接近したところで、大隊長の座乗する先頭車両は、道路脇に擬装されていた敵自走砲の攻撃を受け撃破された。第2歩兵中隊は街道沿いに展開して敵を攻撃、また戦車は街道から左右に下り、各車両が相互に30メートルずつの距離を取りながら、敵自走砲及び砲兵との間に射撃戦を開始した。敵戦力は合計6両の自走砲、また後方のヤナムイジャ集落からも1門の砲が戦闘に加わった。およそ3時間にわたる激戦の後、18時までには敵自走砲の全てが撃破もしくは捕獲された他、約60人の将兵が殲滅された。撃ち漏らされた敵(1個中隊以下)はヤナムイジャを放棄、我が第2歩兵中隊はこれを追って同集落を占拠し、守りを固めた。
 一方、18時には敵の自走砲5両と1個中隊の歩兵がポイント124.4付近で反撃に出、ヤナムイジャへ突入した第2歩兵中隊と戦車隊の先行車両を包囲するため、街道を切断しようと試みた。これに対し、後続の第3歩兵中隊は味方の戦車及び自走砲の支援を受けつつ果敢な攻撃を開始、敵の意図をくじいて第2中隊との連絡線を確保した(18時20分)。敵は30人の死体と破壊された自走砲1両を残して潰走、第3中隊の追跡を受けポイント124.4西方の森へ逃げ込んだ。
 かくして作戦初日、第2戦車大隊と第2・第3歩兵中隊は敵陣へ2キロまで食い込み、ヤナムイジャとカンゲリ[Кангери]の占拠に成功した。ただし、当初計画では同日のうちにより後方まで進撃し、ピルス・ブリディエンスやカウラツィまで到達することになっていたから、この戦果は最低限度のものでしかなかった。夜間の攻撃は実施されず、各隊は機材の整備と弾薬の補給、負傷者の後送に務めた。

3月19~20日の戦闘

 3月19日の夜明けと共に、第2歩兵中隊と第2戦車大隊はピルス・ブリディエンス方面(ヤナムイジャから見て北西方向)を目指し、街道に沿って攻勢を再開した。短機関銃やパンツァーファウストで武装した敵の小集団が街道脇に潜み、抵抗を試みたものの、歩兵火器や戦車に装備された対空機銃により迅速にこれらを制圧することができた。第2歩兵中隊は9時にピルス・ブリディエンスへ到達、短時間の戦闘の後にこれを占拠した。
 時を同じくして、敵軍の2個歩兵中隊がヤナムイジャ北東400メートル付近の森に集結し、ピルス・ブリディエンスに向かった部隊の右翼に回り込み後方を遮断すべく反撃の機会をうかがっていることが判明した。この情報は後尾自走砲分隊より、第2戦車大隊長に対し無線で伝えられた。戦況を案じた第1歩兵大隊長は、歩兵1個小隊と機関銃1個小隊を抽出して街道の右側に配置、この方面を押さえるよう指示を下した。
 9時30分に始まった敵の反撃は、成功裏に撃退された。敵戦車3両が街道への突進を試みたが、側面からIS重戦車の砲撃を受け、引き返してヤナムイジャ北東の森の中へ逃げていった。

 12時、第3歩兵中隊と戦車3両、第2歩兵中隊と1両の戦車が、ピルス・ブリディエンスから北東方向へ分岐する道に沿い前進を開始した。その先にはブリディンス駅があり、これを占拠し鉄道の連絡線を切断する任務を帯びての出撃であった。
 ブリディンスに近づいたところで、第3中隊は駅の守備隊から銃撃を受けた。第2・第3中隊は戦車の援護射撃を受けながら散開、ブリディンスに突入し、白兵戦を含む激しい戦闘の結果駅を占拠することに成功した。この攻撃は完全に敵の意表を衝くものとなり、ブリディンスでは無傷の電話線と重要な文書が我が軍の手に落ちた。また、ドイツ軍将兵70名が戦死もしくは捕虜となっている。
 予期される敵の反撃に備え、第2・第3中隊はブリディンスにおいて防御円陣を組み、壕を掘って機関銃と自走砲のための射撃陣地を構築した。16時、東北東のスカパリ[Скапари]地区より、戦車に援護された歩兵2個中隊の敵が逆襲してきたが、多大な損害を被ってクイリ(ブリディンス駅の北1キロ)方面へ退却した。我が第3歩兵中隊の1個小隊と支援の戦車がこれを追跡、一挙にクイリを陥れた。この戦いで無傷の敵自走砲2両を鹵獲、2個小隊の歩兵を倒すことができた。
 任務を完了した第2・第3歩兵中隊と第2戦車大隊は、後から進出してきた第7歩兵師団第300歩兵連隊にブリディンスとクイリを引き渡し、自らはピルス・ブリディエンスに集結した。

 一方、第3戦車大隊と第1歩兵中隊、機関銃中隊、対戦車銃小隊は、ピルス・ブリディエンスから北西に伸びる街道上を進撃し、18時頃に森林地帯の端部に差しかかった。ここで前衛の歩兵1個小隊と戦車1個小隊は、敵の砲と迫撃砲による射撃を受けた。戦車は街道から野原に下りて戦闘隊形を取り、また歩兵は戦車から飛び降り散開すると、戦車に続いて攻撃に向かった。この戦闘で敵の6連装迫撃砲[ロケット砲]陣地が殲滅され、街道に対する脅威を排除することができた。
 第1歩兵大隊長は、第1歩兵中隊(1個小隊欠)、機関銃中隊(1個小隊欠)、対戦車銃小隊及び第3戦車大隊に対し、新たな命令を下した。このまま北に向かってペリエ[Перие]とカウラツィを奪取し、第7歩兵師団の到着までこれを確保せよ、というのである。18時30分、跨乗歩兵を乗せた戦車はペリエ南方の森まで進出したところで、ペリエ南端の塹壕に陣取る敵軍から銃撃された。戦車と自走砲は街道上に停止したまま砲撃を行い、一方の歩兵は降車して突撃、塹壕に手榴弾を投げ込んでこれを占拠すると、逃げる敵兵を追ってペリエに突入した。
 19日から20日にかけての夜、第1歩兵中隊の1個小隊と機関銃2個小隊及び戦車3両、自走砲2両は、カウラツィ攻略の任務を与えられた。攻撃隊は敵に気づかれぬままカウラツィに接近し、一挙に同集落へ突入、激戦の末4時20分にこれを制圧した。小隊はカウラツィで防御円陣を構築、北側には地雷を敷設している。この戦闘では敵の将兵125名を倒し、SS第19師団長の副官を捕虜とした上、作戦地図を入手するという戦果が挙げられた。

* * *

 論文の締めくくりの部分では、3月18日から20日に至る一連の戦闘に関し、概略以下のように総括されている。
 第249歩兵師団第917歩兵連隊第1歩兵大隊は、第35親衛戦車旅団との協同の下でタンク・デサントとして活動しつつ、敵防御線を突破して6キロの前進を果たし、ブリディンス地区で鉄道の連絡線を寸断、第8歩兵軍団(第249師団の上級兵団)の爾後の攻勢を容易ならしめた。
 この戦闘の特徴は、歩兵と戦車・自走砲との緊密な協力が実現したことであった。周辺に森と湿地が広がり、かつ春の泥濘期であったため、攻勢は道路沿いに実施するしかなく、敵はこれを利用して幾度となく友軍の後方へ回り込み後続との連絡を断とうとした。しかし、この試みは全て失敗に終わっている。
 我が歩兵大隊は銃撃を行いながら突進し、白兵戦をも厭わぬ果敢な攻撃により成功を収めることができた。
 第1歩兵大隊長は、部隊を指揮するにあたり戦車の無線を有効に活用した(大隊長自身は指揮戦車に同乗していた)。また戦闘の最中、大隊長及び中隊長らは直接協議するか、信号ロケットを用いて意志の疎通を行った。
 一方、攻勢開始の段階で偵察活動に不備があったことは問題点として指摘しなければならない。

所感

 戦訓として紹介の栄に浴した作戦であるが、必ずしも当初の計画通りに推移したわけではない。本来は初日(18日)のうちにカウラツィ奪取の予定であったのが、実現したのはようやく20日に入ってから。ブリディンス駅の制圧と鉄道の切断も19日にずれ込んでいるし、よく見ると第一梯団と第二梯団の役割が入れ替わっていて、いかに想定外の流れであったかがよく分かる。論文の目的は関係者の顕彰ではなく、この戦闘を教材に正しく学ぶことであるから、「失敗もあれば成功もあった」くらいがちょうどいいのかもしれない。その意味ではあまり事実を粉飾せず、リアルに描写しているテキストではないかと思う。

 我々の関心の対象であるタンク・デサントの運用法についても、本論文は多くのヒントを与えてくれる。例えば、戦車に跨乗する歩兵の人数につき中戦車=5~6名、重戦車=8~9名と具体的な数字を示している点。1942年発行の『戦車兵の戦闘技術』のデータ(T-34とKVには12人が跨乗)と比べるとかなり少ないが、その時々の状況や戦力に応じて違いがあったのだろう。

 また、跨乗兵は会敵すると速やかに戦車から降りていたこともよく分かる。敵に撃たれる→即座に降車・散開→戦車隊の火力支援を受けながら戦う、という流れが作戦の全期間を通じて幾度も繰り返される。盛大に撃たれながらひたすら戦車にしがみつく通俗的なタンク・デサントのイメージには、やはり疑問が持たれるところだ。
 無論、すぐ降りるから安全などと言えるものではない。敵の効果的な待ち伏せを受けた場合、跨乗兵が下車するより早く戦車がやられてしまう危険性があった。例えば攻勢の最初の場面、ポイント124.4で敵自走砲により撃破された先頭車両などがこのようなケースに該当する。ただし、当該戦車に乗っていた第1歩兵大隊長は健在で以後も指揮を執り続けているから、戦車の撃破=デサント全滅、では必ずしもなかったようだ。
 首尾よく戦車から降りられたとしても、その瞬間にタンク・デサントの持ち味である機動性は失われてしまう。上記ポイント124.4の戦闘など、待ち構えていた敵との射撃戦に引き込まれ、突破まで実に3時間を要している。初日の攻撃計画が狂った原因は、この撃ち合いにあったと言っても過言ではない。撃たれ弱く、損害を避けるためには速度を犠牲にしなければならない点がタンク・デサント運用上の問題であった。
 逆に、一連の戦いの中でもブリディンス駅攻略とカウラツィ夜襲に関しては、奇襲効果を発揮することで大きな戦果が得られた。タンク・デサントの潜在力を引き出すには、敵の意表を衝き防備の弱い場所を攻める必要があったのだ。44年版の装甲・機械化軍戦闘規則で述べられているように、デサントが夜間攻撃へ投入されているという事実も興味深い。

 唯一、19日朝のピルス・ブリディエンス進撃においては、跨乗兵が戦車から降りたという描写がない。これはおそらく、敵が少人数のグループであり、かつ戦車の足止めを目的としていたことが明らかなので、こちらも動きを止めず跨乗歩兵と対空機銃の火力で敵を制圧しながら押し通ったのではないかと思う。街道脇に分散したパンツァーファウスト兵が戦車を待伏せるなど、戦争末期のドイツ軍を髣髴させる戦術だが、当然ソ連軍の側も戦訓を得ていたはずである。戦車を敵の肉薄攻撃から守ることは、一貫してタンク・デサントの重要な機能であり続けたのだ。

 論文の総括でも述べられている通り、歩兵大隊長は麾下の各隊へ命令を下すにあたり、戦車の無線を活用している。レンドリースの進展に伴い、赤軍戦車の無線装備率が向上した大戦後半ならではの話であろう。このような、タンク・デサントと無線の関係にはもっと注目した方がいいように思う。
 緒戦のつまずきはあったが、第1歩兵大隊長オゼチキン大尉の指揮ぶりは全体として見事なものであった。ドイツ軍の反撃を悉く読み切ってその意図をくじき、逆にカウンターで戦果を拡大してさえいる(迅速に追撃戦を開始できる点もタンク・デサントの強みの1つと言っていいだろう)。この際、離れた位置にいる部下から報告を受け、あるいは指示を出す上で、戦車の車載無線は決定的な役割を果たした。戦車は歩兵を物理的に支援すると同時に、指揮官からの命令の伝達手段ともなったのである。

 もう一点、この戦闘に参加した各隊の編成についても注目しておく必要がある。タンク・デサントに戦車と歩兵の双方が欠かせないことは理の当然だが、今回のケースでは両者の所属が完全に異なっているのだ。すなわち戦車は第35親衛戦車旅団、歩兵は第249歩兵師団から抽出されており、これを組み合わせて集成タンク・デサント部隊が編成された形になる。残念ながら、誰がその決定を下したのかは明記されておらず、上級司令部からの命令か、それとも現場レベルの合意であったのかは分からない。ただし、占拠したいくつかの集落が後続の第7歩兵師団へ引き渡されるなど、この作戦の参加兵力は見かけ以上に大きい。意外に高いレベルからの指示だったのかもしれない。
 調べてみると、第35親衛戦車旅団はその編成の中に元々歩兵1個大隊を抱えていたことが分かる。注目すべきはこれが「自動車化短機関銃手大隊」(Моторизованный батальон автоматчиков)と呼ばれている事実で、短機関銃手とタンク・デサントとの相性のよさを考慮すると、この大隊は最初から跨乗任務に専念すべく配属された、いわば「デサントのプロ集団」だったのではないかと思う。だが、本論文で描写されている一連の戦闘の中で彼らが働いた形跡はない。この時までに消耗してしまったのか、何らかの理由で部隊に追随できなかったのか。
 いずれにせよ、第35親衛戦車旅団は第249歩兵師団から急遽人員を回してもらい、タンク・デサントを構成したわけである。攻撃開始前の3月17日、丸々一日を割いて綿密な打ち合わせを行っているのもそのためだろう。跨乗兵のチームを組むにはそれなりの準備が要ったことをうかがわせる記述で、彼らが元から戦車隊と「同じ釜の飯を食う」仲間同士であれば、状況は異なっていたかもしれない。このようなデサントの編成面に目を向けさせてくれたという点でも、非常に興味深いテキストであった。

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(14.08.05)


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