2.1942年の歩戦訓集に見るタンク・デサント
(E.マトヴェーエフ『戦車兵の戦闘技術』[1942年])
1942年に軍の出版所から出された書籍だが、それ以上の詳細な書誌は不明。著者E.マトヴェーエフについてもよく分からない。内容的には、対独戦の過程で得られた戦訓に基づき、ソヴィエトの戦車兵たちが練り上げた戦術をまとめて紹介するというものである。先に取り上げた歩兵戦闘規則を教科書とするなら、こちらは副読本にたとえられるだろうか。おそらくマトヴェーエフも実戦を経験した現場の軍人か、あるいはそれに準ずる立場の人物と思われる(著名な指揮官が変名を使っている可能性もあろう)。
本書は全5章からなり、そのうちの第4章「戦車とタンク・デサントとの協同」が丸ごとデサント関連に割かれている。分量としてはそれほど多いものではない。
「今次大戦においては、タンク・デサントが広範に用いられている」との一文から始まる第4章は、まず冒頭部分でタンク・デサントの構成と主要な任務を簡潔にまとめている。これによれば、タンク・デサントになり得るのは歩兵、工兵、機関銃手、迫撃砲兵、それに短機関銃手。基本的には短機関銃手だけを想定していた歩兵戦闘規則よりも幅が広くなっている。迫撃砲兵まで戦車に乗せてしまおうというのは驚きだ。また、「タンク・デサントは戦車隊の指揮官に従属する」と明記されている。
一方、任務については『歩兵戦闘規則』のそれとあまり変わらない。より正確に言うなら、歩兵戦闘規則が定める短機関銃中隊の任務と似通っているわけだ。以下、その部分を抜き出してみることにしよう。
а.敵の所在地を突き止めるための偵察。
б.敵司令部、物資集積地、鉄道、駅、車列の撃破。
в.敵の後方及び側面を混乱に陥れること。
г.敵の退路を切断するため、必要な拠点もしくは道路の結節点を奪取すること。
д.渡河点及び隘路の占拠。
ご覧の通り、タンク・デサントは真正面から敵陣を破砕する正攻法とは異なり、敵の弱点を痛打して戦闘を有利に進める特殊部隊的な運用を目指していたことが分かる。撃たれながら進むのではなく、できるだけ撃ち返してこない相手を攻撃し、蹂躙する戦い方が理想とされたのである。
これより少し後の部分では、タンク・デサントの理念として「一気呵成、大胆不敵」を挙げると共に、「敵勢力圏内で行動するデサントは、敵の短機関銃手にとり恰好の獲物となりかねないものであるから、戦車指揮官はそのことを常にわきまえて慎重さを心がけるべき」と記されている。生身の人間を戦車に乗せるという行為の危険性は赤軍自身が認識しており、だからこそ守りを固めた敵陣に突っ込ませるのではなく、しかるべき任務と攻撃目標を選定することになっていた(少なくとも理念の上では)。
また、所定の目標を奪取した場合は主力の到着までこれを堅守する、短時間の攻撃を終えた後は歩兵を集合させ、射撃を行いつつ迅速に撤退するとの文言もあり、これらを見る限りは空挺部隊に近いセンスが感じられる。機動力を生かして敵の思いもよらない地点から攻撃を開始、風のように現れ風のように去っていく。もしくは、友軍のために要地を確保する。「主力の到着まで」と書いているからには、タンク・デサント自体は主力ではない、との認識があったわけだ。
本章ではまた、どの型の戦車に何人の歩兵を乗せられるかが図入りで解説されている。指揮官と機関銃の位置まで指定する丁寧さだ。これによれば、T-34とKVは12人、T-70は4人、英米からのレンドリース車両は7人から11人までを跨乗させることができた。T-26とBT、それにT-50は含まれていないが、前二者は旧式化が著しく、また後者は数が少なすぎたためと考えられる。
降車の際の手順としては、機関銃手がまず先に降り、他の兵士たちが降車し射撃態勢に入るまでこれを支援する。このため機関銃手は、戦車の車体後方に乗る決まりであった。一方、「戦況に応じては」降車しない可能性もあり、その場合には車体上で伏せたまま射撃を行うこととされていた。
当然のことながら、タンク・デサントは戦車と歩兵の緊密な協力なくしては成り立たない。これに関する記述の中では、歩兵が戦車を支援する方法として、「戦車が接近不可能な場所に潜む敵兵を排除し、同時に側面と後方を戦車駆逐隊(истребители танков)から防御する」というテキストが目を惹く。先にご紹介した『歩兵戦闘規則』の内容と非常によく似た文言であるからだ。赤軍上層部は明らかに、跨乗兵を組ませることで、戦車に対する敵の肉薄攻撃を無効化できるものと期待していた。
攻撃面のみが注目されがちなタンク・デサントだが、歩兵が戦車の弱点をカバーするという防御的な側面も見落とすことはできない。疾走する戦車にひたすらしがみついていればよしというわけではなく、移動中も油断なく周囲に目を配り、戦車に迫る危険をあらかじめ察知・排除しなければならないのだから、跨乗歩兵というのも大変な商売ではある。
「戦車とタンク・デサントとの協同」の後半は、効果的なデサント活用の模範例として、グルパン少佐なる戦車指揮官の戦闘記録が紹介されている。これも極めて興味深く、また貴重なテキストである。以下、かいつまんでご紹介することにしたい。
ドイツ軍は某集落に第1の防御陣地を構え、かつ後方の第2陣地に予備の部隊を配置しておき、ソ連軍が集落を攻撃した場合、予備隊がその側面から反撃を加える手筈になっていた。偵察情報により敵の意図を察知したグルパン少佐は、敵防御陣地の後方にあって第1陣地への接近路を管制できる高地へタンク・デサントを送り込み、これを奪取することで予備隊をインターセプトするという作戦を考案した。
作戦に先立ち、跨乗歩兵と戦車兵たちは協同のための綿密なトレーニングを実施した。
攻撃開始。友軍の戦車と歩兵が敵の防御ラインに穴を開けると、あらかじめ準備を整えていたタンク・デサント部隊はこの穴に向かって猛進する。敵軍はかくも大胆な突破を予期しておらず、タンク・デサントは損害を受けぬまま8キロを走破し、短い戦闘の後に高地を占拠する。戦車隊はすぐさま、集落への全ての接近路を掃射することができるよう、射撃陣地を構築した。
その間にも集落(敵の第1陣地)では彼我入り乱れての激戦が展開されており、後方の第2陣地からはドイツ軍の予備隊が車列を組んで近づいてきた。しかし、彼らはタンク・デサント部隊の射撃を受けて四散し、退却していった。また、何両かの敵戦車が高地の奪還を試みたが、壕に身を隠した友軍戦車1両の砲火により阻止された上、側面から他の戦車の攻撃を受けて潰走した。
夜の間中ずっと、タンク・デサント部隊は敵の反撃から高地を守り抜いた。一方、敵の第1陣地を制圧した友軍主力は、莫大な戦利品を手に入れ、高地まで進出することができた。
この戦闘で勝利の鍵となったのは、敵防御陣地の後方深くまで切り込むという正しいデサントの使用法であった。これにより、敵軍は予備戦力を投入することができず、各個撃破されたのである。
以上がグルパン戦車隊による攻撃作戦のあらましである。
残念ながら、戦闘の舞台となった地区名や敵味方の戦力、被った損害に関するデータはないし、重要な情報をもたらした偵察隊の活動がほとんど描写されていない等、実戦の記録としては不満が残る。一本の記事としてまとめるために細部をはしょり、あるいは書き換えている可能性が高い。見方を変えれば、軍首脳にとっての理想的なタンク・デサント像が、より抽象化された形で現れたものと言えるかもしれない。
そして実際、グルパン少佐によるタンク・デサントの使用法は本章の記述と完全に合致する、お手本通りの内容である。作戦前に行なわれた入念な準備。ポイントを絞った攻撃。大胆かつスピーディな進撃により敵の意表を衝き、重要な拠点を無血で奪取すると、戦局を有利に進めると共に、主力の到着までこれを守り切る。戦車と歩兵の密接な協力。1両の戦車は壕に身を隠していたとの記述があり、当然歩兵たちも穴掘りを手伝ったのだろう。一方、敵戦車襲来の際にはこの戦車が相手をしたわけだから、貸し借りなしと言っていい。全てが無駄なく効率的に行われ、戦車と歩兵の持つ可能性を最大限まで引き出している。
一般的なイメージとは異なり、タンク・デサントは大損害覚悟で撃たれながら突っ込ませるものではなく、あるいはトラック不足を補うため歩兵を戦車に跨乗させるという消極的な手段でもなく、機動力を活かした奇襲前提の強力な攻撃ユニットであった。1942年に軍当局が発行した2冊の書籍からはそのように判断できる。グルパン少佐の戦いぶりは、タンク・デサントのモデルケースとなり得る理想像であった。
無論、理想は理想であって現実とは異なる。タンク・デサントが本当にいつもこのような戦い方をしていたのだ、損害も少なかったのだ、などと主張するつもりは毛頭ない。上記の戦例でも「正しいデサントの使用法」(правильное использование десанта)とわざわざ書かれているのは、逆に「正しくない」使い方が問題となっていたとも考えられる。理想と現実の齟齬については、項を改めて検証したい。
だが少なくとも、赤軍が何を考えてタンク・デサントを多用したか、その動機づけの部分は理解しておく必要があるだろう。まして、これは対外的な宣伝ではなく軍内部の刊行物に記された内容で、軍上層部の考え方を比較的ストレートに反映していると見てよいと思う。どうも赤軍は、我々が考えている以上にエレガントで美しいタンク・デサントの絵を描いていたようなのだ(それが逆に恐ろしくも感じるのだが…)
ただし、これらは全て1942年段階の構想であり戦例であって、大戦後半になると軍上層部のタンク・デサント観には微妙な変化が見られる。具体的に言えば、ソ連が防衛から攻勢段階に入るという局面に合わせての変化である。次項ではその点を取り上げていきたい。
(14.06.23)
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