1945年5月の戦線司令官たち


※レニングラード戦線は7月24日、第3ベラルーシ戦線は8月15日、第3ウクライナ戦線は6月15日、第4ウクライナ戦線は8月25日、残りは全て6月10日に解隊。

◎レニングラード戦線:レオニード・イリイチ・ゴヴォロフ元帥
・生年月日:1897年2月22日
・開戦時:ジェルジンスキー記念砲兵アカデミー校長(砲兵少将)
・学校の書記係の息子。ペトログラード技術大学在学中の1916年に応召、最初に送られたのがコンスタンチノフスコエ砲兵学校で、以後も大砲屋一筋の軍歴を送る。革命勃発後、一時的に退役し民間で働いていたが、今度はコルチャーク提督率いる白軍に召集され、革命政権と戦う。しかし政治信条が相容れなかったのか、程なく僚友と共に脱走して赤軍に合流、以後は白衛軍や反革命反乱との戦いで経験を積む。内戦終結後も勤務を続け、1933年にフルンゼ記念軍事アカデミーを卒業、赤軍を代表する砲術の大家へと育っていった。
 1941年にドイツとの戦いが始まると、ゴヴォロフは複数の戦線で砲兵部長を務めるが、10月に第5軍のレリュシェンコ司令官が重傷を負い、その後任に任じられたことが転機となった(この人事はジューコフの推薦によるものであったらしい)。諸兵科軍の指揮でも充分に務まることが証明され、43年6月にはレニングラード戦線司令官に就任。包囲するドイツ・フィンランド軍との撃ち合いが続く同戦線は、彼の能力を発揮するにはうってつけの場で、ゴヴォロフは最後までここから離れなかった。ただし、その階級は就任時の中将から大将、上級大将、さらにソヴィエト連邦元帥へと怒涛の昇進を見せている。戦後も引き続き軍の重要なポストを占め、防空軍司令官や国防次官などを務めた。

◎第1ベラルーシ戦線:ゲオルギー・コンスタンチノヴィチ・ジューコフ元帥
・生年月日:1896年12月1日
・開戦時:参謀総長(上級大将)
・ここでわざわざ説明する必要がないほど有名な人物ではあるが、一応。革職人の徒弟時代に第1次世界大戦を迎え、騎兵として従軍する。軍務は彼の天職であった。革命後は赤軍に加入し、内戦と反乱の鎮圧に活躍。平時の勤務においても、厳格な規律と訓練により部隊を鍛え上げることで知られた。1939年にはノモンハン事件で指揮を執り、高い評価を受ける。
 開戦時は参謀総長の要職にあったが、これは根っからの前線派であったジューコフの資質には合わない任務で、間もなく戦線司令官に転出している。エリニャ反攻やモスクワ防衛戦でその手腕を発揮した後は、専ら各戦線の作戦指導や行動の調整を行い、幾多の戦いを勝利に導く。フィナーレはベルリン攻略で、この成功により「勝利の元帥」の名声を不動のものとした。

◎第2ベラルーシ戦線:コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ・ロコソフスキー元帥
・生年月日:1896年(1894年説あり)12月9日
・開戦時:第9機械化軍団司令官(少将)
・父はポーランド人、母はベラルーシ人。早くに父を失って苦労したが、第1次世界大戦が始まると志願して軍に身を投じ、騎兵隊で戦ったのは他の多くの赤軍司令官たちと同じ。革命後はいち早く新政権を支持し、内戦でも練達の騎兵将校として活躍。ただし、理知的なイメージに反して参謀の経験はなく、軍事アカデミーも出ていない。ジューコフとは共に指揮官教育を受けた仲で、一時はその上官だった時期もある。しかし1937年、赤軍を襲った政治弾圧に巻き込まれて逮捕、厳しい拷問を受けるがこれに堪え、最後まで自白はしていない。この試練を乗り切ったのは、彼自身にとっても赤軍にとっても幸運なことであった。40年に釈放、現役に復帰を果たす。
 独ソ開戦後は機械化軍団から軍、戦線を指揮し、文字通り縦横無尽の活躍を見せる。とりわけ44年夏のベラルーシ攻勢は圧巻であった。ジューコフやヴァシレフスキーと異なり、最高司令部の代表として中央から派遣されるのではなく、文字通り前線一筋で戦局を支えた軍人。性格は冷静沈着、部下を押さえつけるのではなくイニシアティヴを重んじ、諸人から等しく愛されたのみならず、スターリンからも特別な敬意を受けていたという(彼から名+父称で呼ばれていたのは、ロコソフスキーとシャポシニコフの2人だけであった)。性格面ではあくの強いジューコフが毀誉褒貶にさらされているのと異なり、今日では一段と評価を高めたソヴィエト軍人の一人である。

◎第3ベラルーシ戦線:イヴァン・フリストフォロヴィチ・バグラミャン上級大将
・生年月日:1897年12月2日
・開戦時:南西戦線副参謀長兼作戦部長(大佐)
・戦線司令官たちの中では唯一の非スラヴ系で、貧しいアルメニア人の家に生まれる。彼もやはりロシア帝国軍の騎兵上がりだが、2月革命後に独立を宣言したアルメニア国軍の一員としてトルコと戦うという珍しい経歴を持つ。赤軍側に移ったのは1920年。知能型の軍人で、戦争が始まる前に2つのアカデミーで学び、一貫して参謀畑を歩んだ。しかし、全く違うタイプのジューコフともウマが合ったらしく、彼にとり最も親しい友人の一人であったというのが面白い。またバグラミャンは38年に参謀本部アカデミー卒業した後、2年にわたり教官として留め置かれたため、同僚たちに比べると出世は遅かった。
 開戦時は南西戦線の作戦部長としてキエフにあり、ドイツ軍の包囲環に閉じ込められたが、司令官キルポノスと異なり脱出に成功。これが運命の分かれ道であった。その後も参謀務めを続けた後、42年には軍、43年には戦線の司令官を任され、ここでも高い能力を発揮する。活動の舞台は主に沿バルト方面で、西に向かって攻め上がる赤軍の右翼を担い、一連の攻勢作戦を成功させた。第3ベラルーシ戦線司令官着任は45年4月3日で、この段階ではケーニヒスベルクの激戦もほぼ終了しており、言ってみれば「お疲れさん」ポスト的な人事ではあるが、それまでの指揮ぶりで充分に評価は固まっていた(何しろ4年間で大佐から上級大将にまで昇進したのだ)。清廉な人柄で、他の司令官たちと異なり戦利品収集の悪癖に手を染めることはなかったという。戦後は国防次官や参謀本部アカデミー校長などを歴任し、1955年にはソヴィエト連邦元帥の称号を与えられている。

◎第1ウクライナ戦線:イヴァン・ステパノヴィチ・コーネフ元帥
・生年月日:1897年12月28日
・開戦時:第19軍司令官(中将)
・ヴォログダ県で農民の家に生まれ、15で働きに出る。1916年に応召、砲兵下士官として第1次世界大戦を戦う。革命後は赤軍に参加、主にシベリアと極東で白軍や日本軍と対峙するが、当時のコーネフは政治将校を務めており、指揮官職に移ったのは30年代以降のことである。アカデミーでの教育も受けて順調に昇進し、40年には軍管区司令官を務めるまでになっていた。
 開戦後は第19軍を率いてベラルーシにおける苦しい戦いを堪え抜き、41年秋に西方戦線司令官へ就任。ヴャージマ地区での大敗で評価を下げたものの、引き続き中部ロシア方面でいくつかの戦線の指揮を執る。彼の才能が真に発揮されたのは43年のクルスク戦以降で、主にウクライナ方面での反攻を担当、44年には複数の攻勢を主導して一気にカルパチアまで到達する。ベルリン攻防戦でジューコフと熾烈な先陣争いを演じたことはあまりにも有名。戦後も陸軍総司令官や国防次官、ワルシャワ条約機構統合軍総司令官などの要職を歴任し、華麗なキャリアを重ねた。『無敵!T-34戦車』ではジューコフと並び称される将星という扱いで、猛将型のジューコフに対し冷静で理知的な人物であるかのように描かれているが、実際にはコーネフも負けず劣らず激しい性格の持ち主だったようだ。

◎第2ウクライナ戦線:ロジオン・ヤコヴレヴィチ・マリノフスキー元帥
・生年月日:1898年11月22日
・開戦時:第48歩兵軍団令官(少将)
・オデッサ出身。「マリノフスキー」は母の姓であり、父親はよく分かっていないらしい。少年時代は小間物屋の売り子をして糊口をしのぐ。第1次世界大戦では機関銃手として従軍したが、正規の応召ではなく、前線に向かう部隊へ勝手にくっついていったのが真相であるようだ。1916年には帝国軍のフランス遠征部隊に採用され、以後19年に帰国するまでヨーロッパで戦うという「エキゾチックな」軍歴を送った。この間の17年には兵士の反乱に加わっているから、元々革命派に近い心情の持ち主だったのだろう。事実、ロシアに戻るとすぐさま赤軍に身を投じて内戦に参加、30年にはアカデミーを卒業し、軍内部の階梯を上っていく。また37~38年には軍事顧問団に加わりスペイン内戦を経験している(変名「マリノ大佐」)。
 ドイツ軍侵攻時はモルドヴァで歩兵軍団の司令官を務めており、41年末には南方戦線司令官に就任する。しかし42年春のハリコフ攻勢で大敗を喫し、軍司令官に降格。信頼を取り戻すきっかけとなったのはスターリングラード戦で、積極性に溢れた果敢な指揮によりドイツ軍の包囲撃滅に功を立てた。43年に南方戦線司令官へ復帰、以後は南ウクライナからルーマニア、ハンガリー、オーストリアに対し一連の攻勢作戦を成功させている。またドイツ降伏後はザバイカル戦線の司令官に転じ、ゴビ砂漠を越えて満洲国遠征を指揮した。
 コーネフと同様、彼は戦後のキャリアにも恵まれている。いくつかの軍管区司令官と陸軍総司令官を歴任した後、1957年のジューコフ失脚に際し、後任の国防相となったのはマリノフスキーであった。以後、67年に亡くなるまでそのポストを務め上げている。オデッサの母子家庭の息子が、最高位の軍人として生涯を終えたのだ。

◎第3ウクライナ戦線:フョードル・イヴァノヴィチ・トルブーヒン元帥
・生年月日:1894年6月16日
・開戦時:ザカフカース軍管区参謀長(少将)
・ヤロスラヴリ県で子沢山な富農の家に生まれ、第1次大戦前はペテルブルクで経理の職についていた。大戦勃発後に応召、最初はオートバイ運転手を務めた後に准士官教育を受け、大隊長にまで累進。赤軍の司令官たちの中では例外的に、帝国軍時代から比較的恵まれたキャリアを積んでいる。しかし革命が起きるとすぐに赤軍の側へ移り、参謀将校として内戦を戦った。1934年に軍事アカデミー卒業、その後も参謀畑での勤務が続いた。
 開戦後しばらくは戦線参謀長として働いたが、1942年夏頃から指揮官に転じ、まずは軍司令官で実績を残した後、43年以降は戦線を任されるに至る。彼の率いる第3ウクライナ戦線は、マリノフスキーの第2ウクライナ戦線と歩調を合わせて戦うことが多く、ウクライナ解放からバルカン、ハンガリー、オーストリアを転戦した。45年3月、ハンガリーのバラトン湖畔でドイツ軍の反攻(「春の目覚め」作戦)に直面しながらもこれを乗り切ったのは彼の戦線である。戦後4年目の1949年にモスクワで死去。栄光の「勝利の司令官」たちの中で、最も早くこの世を去ることになった。

◎第4ウクライナ戦線:アンドレイ・イヴァノヴィチ・エリョーメンコ上級大将
・生年月日:1892年10月14日
・ 開戦時:第16軍司令官(中将)
・エカテリノスラフ(現ドニエプロペトロフスク)の貧農の家に生まれる。1913年に召集を受け、第1次世界大戦では兵卒・下士官として戦った後除隊、18年にはウクライナに進駐してきたドイツ軍と戦うパルチザン部隊に参加した。程なくして部隊は赤軍に合流、エリョーメンコもこれに従い、有名な第1騎兵軍の一員となる。内戦終結後の1924~25年にレニングラードで騎兵指揮官の技能向上研修を受けるが、この時の同期にはジューコフ、ロコソフスキー、バグラミャンなどの逸材がそろっていた。さらに35年にはアカデミーを終え、指揮官たちの中でも順調な出世コースを歩んだ。
 開戦時は軍司令官としてベラルーシにあったが、ドイツ軍の攻勢を受けて敗退を続ける赤軍を立て直すため、エリョーメンコにも戦線司令官の役職が回ってくる。41年夏にはブリャンスク戦線を率い、ドイツ第2装甲集団の足止めを期待されながらこれを果たせず、結果キエフ包囲の悲劇を招いたばかりか、自らも危ういところで脱出を果たした。その後しばらくは軍司令官暮らしが続くが、42年8月から再び戦線司令官に復帰、スターリングラードの戦いで重要な役割を演じる。病気療養の期間を挟んだ後、43年以降は沿バルト方面と南方とで交互に軍司令官及び戦線司令官職を務めたが、大戦後半のソ連軍を特徴づける大攻勢を単独で指揮した経験はなく、同僚たちほどのインパクトは少ない。戦後の1955年に至り、ソヴィエト連邦元帥の称号を授けられた(バグラミャンやチュイコフなどと同時期)。

→戦線司令官たちの大祖国戦争

(14.04.30)


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