1941年6月の戦線司令官たち
※北方戦線は6月24日、南方戦線は25日、残りは全て開戦初日の6月22日に編成。
◎北方戦線:マルキアン・ミハイロヴィチ・ポポフ中将
・生年月日:1902年11月15日
・終戦時:レニングラード戦線参謀長(大将)
・教師の息子として生まれる。多くの同僚たちと異なり、ポポフはロシア帝国軍で勤務した経験を持たないが、理由は生年を見ればお分かりいただけるだろう。1920年に赤軍へ入隊、当初は歩兵科、30年代以降は機械化部隊の指揮官・参謀としてキャリアを積み上げていく。また1936年にはフルンゼ記念軍事アカデミーを卒業しており、実戦経験こそないものの、受けた教育の高さは申し分ない。1940年に38歳の若さで中将へ昇進、41年1月にはレニングラード軍管区司令官という要職を任されている。
開戦直後は北方戦線、41年8月からはレニングラード戦線司令官として要地レニングラードの防衛を担うが、他の全ての戦線と同じく、同方面の戦局ははかばかしいものではなかった。当時、スターリンからモロトフに宛てた手紙の中では、ポポフに対する不満があけすけに語られている。結局9月には戦線司令官のポストを明け渡し、軍司令官へ格下げとなってしまうのだが、この後はヴォロネジ・スターリングラード方面の戦いで功績を残し、信頼の回復に成功。43年秋からは再び戦線の指揮を執るようになり、上級大将への昇進を果たしている。しかし沿バルト方面での失敗がたたって44年4月には大将へ格下げ、以後は戦線参謀長から司令官の間を行ったり来たりするという目まぐるしい軍歴を送る。戦後の1953年に再度上級大将となったが、元帥号を授かることは最後までなかった。
下層階級出身の荒くれ者が多かった赤軍指揮官の中にあって、ポポフは比較的高い教養を身につけ、人柄もソフトで親しみやすかったようだ。これは複数の同時代人が回顧するところである。一方、過度の飲酒という悪癖も指摘されており、事実であれば過酷な前線暮らしのストレスに負けたのだろうか。全体として線が細い印象を受けてしまう軍人ではある。
◎北西戦線:フョードル・イシドロヴィチ・クズネツォフ大将
・生年月日:1898年9月29日
・終戦時:ウラル軍管区司令官(大将)
・モギリョフ県の農家出身。ロシア帝国軍の歩兵士官候補生として、第1次世界大戦に参加するところからクズネツォフの軍歴は始まる。革命直後の1918年に赤軍へ身を投じ、対ポーランド戦や白衛軍との戦いを経験した。内戦終結後は26年に軍事アカデミーを卒業するなど高い軍事教育を受け、戦間期を通じて順調な昇進を続けている。対独開戦の際には最前線の一翼を担う沿バルト特別軍管区(開戦後は北西戦線に改組)を任されたのも、軍内部での高い評価の表れであろう。
しかしながら、クズネツォフは全くその期待に応えることができなかった。北西戦線の諸隊は、バルト海沿いにレニングラード方面を目指すドイツ軍によって押しまくられ、クズネツォフは7月6日に早くも司令官職を解かれてしまうのである。その後は軍司令官、戦線司令官、戦線副司令官、軍参謀長、参謀本部アカデミー校長などを歴任したが、前線では最後まではかばかしい戦績を示すことができなかった。ドイツ本土での最終決戦を目前に控えた45年2月、彼はウラル軍管区の司令官に任命され、戦争の第一線からは事実上身を引いたと言っていい。48年には早くも退役している。ちなみにその後任としてウラル軍管区を引き継いだのが、スターリンの不興を買って左遷されたジューコフ元帥であった。
◎西方戦線:ドミトリー・グリゴーリエヴィチ・パヴロフ上級大将
・生年月日:1897年10月23日
・終戦時:死亡
・戦間期にその活躍が知られる赤軍司令官の中でも、最も評価が分かれる人物の一人。農民の息子として生まれ、第1次世界大戦が始まると志願してロシア帝国軍に身を投じるが、1916年に負傷してドイツ軍に捕えられる。解放後の19年、今度は赤軍に入って内戦を戦い抜き、20年代には反革命派の軍閥を掃討するため中央アジアを転戦。当初は歩兵であったが、中央アジア時代から騎兵科に移り、28年に軍事アカデミーを卒業した後で機械化部隊へ転じる。これがパヴロフの軍歴に決定的な特徴を与えることとなった。36~37年のスペイン内戦では、派遣された戦車旅団の指揮を執っており、すでにソ連でも第一級の戦車将校という評価を受けていたのだろう。帰国後は赤軍装甲車両局長に任じられ、ソヴィエトの戦車行政を指導する。T-34やKVなど、後に対独戦で縦横無尽の活躍を見せる戦車は彼の局長時代に開発が始められたものである。同時に、戦車部隊の効率的な編成や人員の育成など様々な問題にも取り組んだ。
40年6月、パヴロフはベラルーシ特別軍管区の司令官に任命される。この重要ポストを任されるにあたり、機械化部隊運用の手腕と知識に期待がかけられたことは想像に難くない。しかしながら、現実は無残なものであった。ちょうど1年後の41年6月22日、ドイツ軍が電撃的な対ソ侵攻を開始すると、敵主力を迎え撃つ形となった西方戦線(ベラルーシ特別軍管区を改組)はなすすべもなく壊滅し、早くも28日にはミンスクへの突入を許している。パヴロフの運命はこれで決まった。30日付で司令官職を解かれ、7月22日には他の西方戦線司令部職員らと共に銃殺されてしまうのである(逮捕当初の容疑は反ソ陰謀罪であったが、最終的な罪状は職務不履行とされた)。戦争の全期間を通じ、戦線司令官の逮捕・処刑は後にも先にもパヴロフのこの一件しかなく、ベラルーシでの敗北がどれほどスターリンに大きな衝撃を与えたかが見て取れる。1957年になって名誉回復は果たされたものの、パヴロフが開戦劈頭の大敗にどの程度の責任を負うべきかについては、今でも論者の間で意見の一致を見ていない。
◎南西戦線:ミハイル・ペトロヴィチ・キルポノス大将
・生年月日:1892年1月12日
・終戦時:死亡
・貧農の家に生まれる。1915年からロシア帝国軍での勤務を開始したが、革命が起きると兵士ソヴィエトの代表に選出されたため、上層部からにらまれて一旦除隊。間もなく赤軍に参加し、歩兵将校として活動した後、1927年に軍事アカデミーを卒業し、さらにキャリアを積んでいく。1939~40年のフィンランド戦争には第70師団を率いて参加、功績が認められてソヴィエト連邦英雄の称号を与えられた。これが上層部の目に留まり、41年2月にはキエフ特別軍管区の司令官に抜擢されている。ウクライナは来たる対独戦で敵の攻撃正面になるものと予測されており、ここへ1年前までは師団長にすぎなかった人物を最高指揮官として据えたわけだから、彼の評価が図抜けて高かったことが理解できよう。ちなみに同軍管区の前任者はジューコフ、さらにその前任はチモシェンコで、キルポノスも所謂「出世コース」に乗ったと言えそうである。
しかしながら、肝心の戦争における彼の指揮ぶりに関し、あまりよい評判は聞こえてこない。急速な昇進を遂げたため、大部隊の司令官としての経験が欠如していた点を指摘する向きもある。ともかく、各戦線の中でも最大級の戦力を与えられた南西戦線は、西方戦線と異なり一瞬で壊滅することこそなかったものの、主導権は早い段階でドイツ軍に奪われた。その崩壊の時期は9月に訪れ、最高司令部がキエフ防衛の見極めを誤ったこともあり、60万以上の将兵を失う最悪の結果で幕を閉じた。そしてキルポノス自身も、敵の包囲環から脱出を試みて果たせず、9月20日に戦死している。
◎南方戦線:イヴァン・ウラジーミロヴィチ・チュレネフ上級大将
・生年月日:1892年1月28日
・終戦時:ザカフカース戦線司令官(上級大将)
・シムビルスク(現ウリヤノフスク)県で兵士の息子として生を受ける。帝国軍の竜騎兵部隊で下士官を務め、第1次世界大戦中に功績を挙げて4級のゲオルギー十字章全てを拝受したという経歴は、かのブジョンヌイ元帥と全く同じ。しかし革命後すぐに赤軍へ合流しているから、元々革命派へのシンパシーがあったものらしい(彼の父は1905年の第1次革命時に官憲から追われた経験がある)。内戦期には初期赤軍の花形であった第1騎兵軍の一員となり、24年には早くも師団長を拝命。1940年の階級制度改定において、チュレネフはジューコフ、メレツコフと並び、赤軍初の上級大将に任じられた。開戦時はモスクワ軍管区司令官を務めていたが、6月25日には新設の南方戦線を任され、ドイツ・ルーマニア連合軍と対峙することとなる。
しかし8月29日にドニエプロペトロフスク方面の戦闘で重傷を負い、以後しばらくは後方で編成などの任務に従事。本格的な前線復帰は1942年で、5月15日にザカフカース戦線の司令官となって以降、戦争の全期間を同じポストで戦い抜く。彼の戦線はドイツ軍の猛攻からカフカースの油田地帯を守り切り、最終的な勝利に貢献した。地味だが重要な役割を果たした司令官の一人である。戦後も平穏なキャリアを重ね、78年には長年の功労に対しソヴィエト連邦英雄の称号を贈られたが、最後まで元帥にはなっていない。
(14.04.30)
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