戦線司令官たちの大祖国戦争


 ソ連野戦軍における最大の編成単位は戦線(フロント、фронт)である。これは数個の軍に戦車軍、航空軍、場合によっては小艦隊をも指揮下に置く大規模な単位で、単独にて作戦を遂行する実力を持っている。日本語では「方面軍」「正面軍」等の訳語があてられる場合もあるが、素直に「戦線」でよいと思う。例えばドイツのGruppa Armeiなどはそのまま軍集団と訳出されているのだから、фронтをわざわざ方面軍と言い換える必要はないだろう。
 厳密に言えば、対独戦初期には一時的に数個戦線を束ねた方面(ナプラヴレーニエ、направление)なる単位が設けられているし、最高司令部から派遣された代表者が事実上の上級指揮官として複数の戦線を操っていたことは、ジューコフ論との絡みで前にも述べた通り。それでも戦線が特別なステータスを有していた事実には変わりなく、戦時にあっては参謀総長や国防人民委員(他国の国防相に該当)が戦線司令官へ横滑りしたケースさえある。ソヴィエトの著名な将軍たちの中でも、戦線の指揮権を手にした者はひと握りしかいない。
 ドイツとの長く厳しい戦いにおいては、こうした戦線司令官たちが前線の花形として指揮を執り、勝利に貢献した。本来であればその全てを取り上げるべきところだが、流石にそれは荷が勝ちすぎる。そこで本稿では、1941年6月1945年5月、すなわち戦争の始まりと終わりの時期にドイツ軍と相対する戦線を指揮した司令官につき、その略歴をご紹介することとしたい(極東やザバイカルなど、その時点で後方を形成していた戦線は除く)。ごく一部を除き、日本ではお世辞にも知名度が高いとは言い難い赤軍指揮官のイメージを作る上で、何がしかの参考になれば幸いである。また、戦線司令官リストを一覧した後の所感も記しておくので、興味を持たれた方はここへ戻ってきて続きをお読みいただきたい。

◎1941年6月の戦線司令官
 ポポフ、クズネツォフ、パヴロフ、キルポノス、チュレネフ

◎1945年5月の戦線司令官
 ゴヴォロフ、ジューコフ、ロコソフスキー、バグラミャン、コーネフ、マリノフスキー、トルブヒン、エリョーメンコ

 以上、簡略ながら開戦時5名・終戦時8名の戦線司令官たちを紹介した上で、自分なりに感じたことなどを書いておく。
 一見して明らかなのが、司令官たちの入れ替わりの激しさである。何しろ開戦時5司令官のうち、4年後まで対独戦の最前線で戦っていられた者は1人もいないのだ。そればかりか2人は非命に斃れ、1人は参謀長に格下げとなり、1人は後方の軍管区へ異動、唯一チュレネフのみが戦線司令官の地位を守ったが、彼にしてもカフカースから前へは出してもらっていない。
 逆に、戦勝の栄誉を担った8人衆を見ると、開戦時から戦線司令官を務めていた者は皆無である(ジューコフは特殊なケースだが、後述)。全て軍や軍団の司令官、参謀、アカデミー校長などから昇進した者ばかりで、階級もジューコフを除くと大将以上の者は1人もいない。バグラミャンに至っては大佐である。勿論、戦時の昇進の基準は平時とは異なるものだし、実戦の中で急激な出世を遂げたのもソ連の軍人ばかりではない(例えばアイゼンハワーなど)。しかし、開戦時と終戦時とでこれほどはっきり分かれてしまうのは、やはり注目すべき現象ではないかと思う。多くの司令官にとり、対独戦はあまりにも厳しい試練の場であったのだ。同時に、戦時の赤軍で極端なまでの実力主義が採られていたことも認めないわけにはいかない。
 唯一の例外がジューコフ、開戦時には参謀総長の要職にあり、戦線司令官よりもなお高い地位を占めていた。そこから出発して4年後まで第一線で働き、実績を残し続けるというのは、ソ連軍にあっては寧ろ例外的であった。これほど永続的な成功を収めたのはジューコフ1人なのだ。実戦では輝きを見せられなかった開戦時5司令官、さらにチモシェンコ、ブジョンヌイ、ヴォロシーロフといった戦間期の大物たちの履歴を考えると、あらためてジューコフの存在感の大きさが感じられる。

 次に、司令官たちの年齢にも注目してみたい。これは開戦時・終戦時を問わないのだが、彼らの特徴はとにかく若いこと。最年長者は終戦時のエリョーメンコだが、彼にしても53歳にすぎず、最年少は開戦時のポポフで弱冠39歳(!)。戦線という巨大単位の司令官としては異例と言っていいのではないか。また、戦死してさえいなければ「勝利の司令官」の仲間入りを果たした可能性が高いニコライ・ヴァトゥーチンが1901年生まれ、イヴァン・チェルニャホフスキーは1906年生まれで、彼らを加えると平均年齢はもっと下がることになる。
 試みに、バルバロッサ作戦時に軍集団を指揮したドイツの将軍たちの生年を列挙してみると、レープが1876年、フォン・ボック1880年、ルントシュテット1875年で、対峙するソ連の戦線司令官とは親子ほども年が離れている。他の著名な軍集団指揮官でも、マンシュタインは1887年生まれ、クライスト1881年、クルーゲ1882年と全般的に年齢が高い。若々しい印象のロンメルでさえ1891年に生まれており、赤軍13司令官の誰よりも年取っている。この差は一体どこから出てきたのだろうか?
 一つの理由として、戦前の赤軍統帥部を壊滅させた大粛清の影響を挙げたくもなるのだが、しかし粛清犠牲者の中でも特に階級の高かった者を見ると、まずトゥハチェフスキーが1893生まれ。他にもブリューヘル1890年、エゴーロフ1883年、ウボレヴィチとヤキールが1896年、フリノフスキー1898年、ベローフ1893年で、エゴーロフを除くと軒並み若く、対独戦で活躍した戦線司令官と実はそれほど変わらない。つまり、赤軍の指導層は戦前から「若者たち」によって占められており、粛清による若返りも限定的なものでしかなかった。
 ここはやはり、革命政権による建軍という赤軍特有の事情を考えるべきなのだろう。旧体制の支柱であったロシア帝国軍の将校団は、当然のことながらソヴィエト政府に協力する道を選ばず、その多くが亡命し、あるいは内戦の戦場に斃れた。一方、初期の赤軍をリードした指揮官たちは多くが一介の兵卒や下士官上がりで、これは13人の戦線司令官の履歴からもお分かりいただけるだろう。彼らの多くは社会下層に生まれ、第1次世界大戦の前後に召集された年齢層で、革命が起きると赤軍に加入、その後でようやく高度な軍事教育を受けることとなった。早くから士官学校で学び、第1次大戦ですでに高級将校としての経験を積んだドイツ軍指揮官とは対照的である。こうしたバックボーンが、両者の年齢の差に直結しているわけだ。
 ソ連側でも長らく参謀総長を務めたシャポシニコフ元帥などは例外的な存在で、1910年にロシア帝国の参謀本部アカデミーを終え、第1次世界大戦中に師団長まで昇進した。彼の生年が1883年だから、経歴的にも年齢的にもドイツの指揮官連中と釣り合いが取れている。それでもルントシュテットなどと比べるとかなり若いのだが、当時のソ連では長老的な軍人という位置づけだったのである。
 対独戦当時の赤軍は、基本的には「叩き上げの軍隊」であった。その将校団は若手ぞろいで、実戦で鍛えられた猛者ばかりだが指揮官としての経験には乏しく、手探りのまま理論と伝統を積み上げていくしかなかった。戦勝8司令官の急速な昇進を見ると、戦場で頭角を現したものは躊躇なく高い地位につける、という柔軟性にも事欠かなかったようだ。若々しく荒削りだが吸収力に富み、戦いの中で急速に成長した実力主義の集団という印象。冷戦期ソ連軍の硬直したイメージとは全く異なっており、時代による組織のあり方の変遷をたどってみると、ソヴィエト軍事史の分野で新たな知見が開けるかもしれない。

 それにしても、開戦時5司令官と終戦時8司令官でここまで明暗が分かれたのは一体どうしてだろうか?このような場合はとかく個人の資質が持ち出されがちで、「粛清により有能な指揮官が根絶やしにされ、スターリンにおもねる無能な者どもが跋扈した」という(ステレオタイプ的な)言説でもって開戦時の赤軍敗北を説明する向きもある。しかし考えてみれば、大戦後半の司令官たちだって同じように粛清を生き延びてきたわけで、この伝でいけば彼らも「無能」組に含めるしかなくなってしまう。それに、年齢や経歴の特徴は5人と8人とでほとんど変わらない。旧時代の遺物が一掃されて優秀な若手が台頭したかの如き構図がまるきり当てはまらないのだ。
 本件に関しては、司令官の個性ばかりでなく、その置かれた状況やめぐり合わせについても考える必要があると思う。開戦当時の赤軍は、未曾有の大粛清がもたらした様々な問題(経験ある指揮官の不足や規律の弛緩など)を克服すると同時に、軍隊の規模を大幅に拡大していくという困難な課題をつきつけられていたわけで、そこに新機材への転換までもが重なっている(T-34もIl-2も導入はちょうどこの頃であった)。かてて加えて、対独挑発を極度に恐れるスターリンのせいで部隊に警戒態勢を取らせることさえできない。一方のドイツ軍は、戦力においても経験においても力の絶頂と言うべき時期を迎えていた。
 以上の諸々を考え合わせると、1941年の赤軍で戦線司令官(戦争が始まるまでは軍管区だが)の栄に浴した人々は、実はものすごく不運だったのではないかという気がする。なまじ高い地位についていたから、敗北の責任を他に転嫁することができず、上層部からは厳しい詮議を受けなければならない。また、本人の自信や威信の喪失という意味でも、打撃はすこぶる大きかった。パヴロフとキルポノスに至っては命を失っているし、その他の者たちも開戦時の敗北から最後まで立ち直ることができなかった。
 片や戦勝8司令官の方はどうか。赤軍の一員として緒戦の敗北を味わった点は同様であるものの、ジューコフを除くと比較的低い地位にあり、ために戦線司令官たちほど責任を問われずにすんだ。バルバロッサの衝撃をやりすごした、と言えるだろうか。その後は彼らも戦線司令官に任じられ、散々苦労しなければならなかったのだが、初動で比較的プレッシャーのかからないポジションにいたこと、ある程度の実戦経験を経た段階で戦線を任されたことは大きかったように思う。
 無論、個人の資質という要素を無視するわけにはいかない。だが、1941年の戦線司令官が偶然みんな「無能」であり、45年のそれが全て「有能」であったかの如き決めつけはどうだろうか。キルポノスやパヴロフも、あるいはロコソフスキーやバグラミャンも、同じ赤軍という軍隊で評価を受け、抜擢された軍人なのだ。彼らが与えられた役割を全うできたか否かについては、当人の意思と力を超えた様々な状況が作用していたことを考慮しなくてはならない。才能に恵まれ、かつそれを活かす所を得た者は幸いである。

 最後に、「所を得なかった」開戦時5司令官について、もう一言つけ加えておきたい。緒戦の大敗は確かに彼らの評価を下げ、戦後のキャリアも戦勝8司令官よりは恵まれぬまま終わったのだが、しかし逮捕・処刑という形で厳しく責任を問われたのは、実は西方戦線のパヴロフ司令官のみ。彼と戦死したキルポノスを除くと、残りの3人は退役に追い込まれることもなく、様々なポストで戦い続けた。あるいは「使い倒された」という表現の方が適当かもしれない。
 失敗したら即処断という通俗的なイメージと異なり、戦時中のソ連高級将校は、多少の敗北でその地位を失うことは滅多になかった(下級将校や兵は厳しく責任を問われるケースが多かったのだが)。例えばセヴァストーポリ防衛の指揮を執ったイヴァン・ペトロフ少将は、街の陥落に際して潜水艦による脱出を果たし、引き続き司令官としての活動を続けている。また42年4月にルジェフ・ヴャージマ攻勢で戦死したエフレモフ第33軍司令官は、敵の包囲下に陥りながら後退を拒否し、麾下将兵と運命を共にしたことが美談として語り継がれているが、裏を返せば彼の振る舞いはそれだけ異質なものだったわけだ。最高司令部はエフレモフを逃がすために飛行機を用意しており、その気になれば問題なく戦場を後にできたばかりか、再び司令官として戦うチャンスももらえたはずである(ペトロフがそうであったように)。
 考えてみれば当然の話で、大部隊を指揮できる高級将校は一朝一夕に育つものではないから、どこの軍隊でも司令官は大切にされるし、最後の最後まで死なないものだ。上記のような理由で指揮官不足に悩まされてきた赤軍なら尚更である。部下と生死を共にする将軍の姿は確かに美しいが、最高司令部としては「それは困る」と言うしかないのかもしれない。ソヴィエト司令官たちの優遇は、逆に軍という組織のシビアな側面を物語っているように思う。この点では赤軍も、他の各国と何ら変わるところのない普通の軍隊であった。
 逆にパヴロフ司令官(とその部下たち)は、当時としては異様に厳しく罪を問われたわけだ。何が国家指導部、就中スターリンをしてこのような処置を取らしめたのか。今となっては知る由もないのだが、1つのきっかけとしてミンスク失陥が考えられる。軍事史家アレクセイ・イサエフの指摘によれば、開戦後のスターリンは激務をこなし、執務室でも連日の接見を続けていたのだが、ミンスクが落ちた6月29日から30日にかけてのほぼ1昼夜、面会簿に空白が見られるという。もって彼が受けた衝撃の大きさが知れよう。開戦後わずか1週間にして主要共和国(ベラルーシ)の首都を失ったという事実は、ソ連敗北を鮮やかに印象づける出来事であり、政府の威信は大きく損なわれた。この報を受けてスターリンが味わったであろう憤怒と屈辱、そして恐怖が、最悪の形で西方戦線司令部に振り向けられたのである。パヴロフは極めつけに不幸な役を振られたのだ。
 ちなみに、同じく緒戦でひどい負け方をし、パヴロフとほぼ同時期に解任された北西戦線司令官クズネツォフは、裁きを免れたばかりか再び部隊を指揮して戦場に立つことができた。同戦線にはミンスクに匹敵する「敗北のシンボル」が存在せず、この一点が彼をスターリンの怒りから救ったことになる。パヴロフは不運でありクズネツォフは幸運だった。あの異常な大戦争の中で生を全うするには、個々人の資質や力量ばかりでなく、運という要素も極めて重要だったのではないかと思う。

(14.04.30)


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