スタフカ代表ジューコフ


 ゲオルギー・ジューコフ元帥にとって主要な戦場は一体どこであったのか?この問いに答えることは、実はそれほどたやすい話ではない。ジューコフが関わりを持った戦場は広い範囲に散らばっており、時間的なスパンも非常に長い。1941年冬のモスクワ攻防から始まって、包囲下のレニングラード、転換点となったスターリングラードでの反攻、悲劇的なルジェフ作戦、天王山とも言うべきクルスクの戦い、バグラチオン、終局を形作ったヴィスワ・オーデル攻勢と、それからベルリン攻略。東部戦線の重要な戦いを取り上げてみると、そのほとんど全てにジューコフのいかつい顔がちらついて見える。
 一人の人間がこれほど多くの戦闘を指揮できるものなのか?そもそも、彼は本当に指揮していたのか?どのような兵団が彼の手許にあったのか?ジューコフをめぐっては(毀誉褒貶取り混ぜた)様々なイメージが流布しているが、大戦中の具体的な活動がどのようなものであったかは意外と知られていないようにも思われる。今回はその「具体的な活動」について突っ込んでみることにしたい。

 まずは、対独戦におけるジューコフの行動を洗い出してみよう。参考文献は2005年に出版されたジューコフ伝。伝統ある偉人伝シリーズの1冊で、軍事史家ウラジーミル・ダイネスにより著されたものである。巻末に詳細なジューコフ年表が付されているので、このうち大戦中に該当する部分のみ、煩をいとわず書き出すことにしたい。

1941年 ※6月22日の開戦時点では参謀総長兼副国防人民委員。

6月23日:総司令部の一員となる(7月8日に最高司令部と改称)。
6月23~26日:南西戦線の軍事評議会に対し、防御戦闘の組織化を支援。
7月29日:赤軍参謀総長辞任。
7月31日~9月9日:予備戦線司令官。
9月9日~10月6日:レニングラード戦線司令官。
10月6日~10月12日:予備戦線司令官。
10月13日~1942年8月28日:西方戦線司令官

1942年

2月1日~5月5日:西部方面総司令官。
8月26日:最高司令官(※スターリンのこと)代理に任命される。
8月31日~10月3日:スターリングラード戦線(10月1日にドン戦線と改称)の作戦を指導。
10月6日~12日:南西戦線司令部で活動。
10月21日~29日:カリーニン戦線司令部で活動。
10月30日~11月6日:スターリングラード地区におけるソ連軍の反攻準備状況を点検。南西戦線司令部及び諸兵団にて事前演習を行う。
11月6日~9日:ドン戦線諸兵団で活動。
11月9日~16日:スターリングラード戦線諸兵団の反攻準備状況を点検。
11月19日~12月6日:カリーニン戦線及び西方戦線による、ルジェフ・スィチョフカ方面の敵集団撃滅作戦を組織。
12月9日~29日:カリーニン戦線諸兵団で活動。

1943年

1月2日~9日:ヴォロネジ戦線司令部及び諸兵団で活動。
1月10日~24日:レニングラード封鎖の解除に向け、ヴォルホフ戦線とレニングラード戦線諸兵団の行動を調整。
1月18日:ソヴィエト連邦元帥に昇進。
2月6日~3月16日:北西戦線諸兵団及び司令部で活動。
3月17日~24日:ヴォロネジ戦線諸兵団及び司令部で活動。
3月24日~25日:中央戦線諸兵団及び司令部で活動。
3月26日~4月11日:ヴォロネジ戦線諸兵団及び司令部で活動。
4月18日~5月10日:北カフカース戦線諸兵団及び司令部で活動。
5月14日~26日:ヴォロネジ戦線・中央戦線諸兵団及び司令部で活動。
5月26日~7月31日:西方戦線諸兵団及び司令部で活動。
6月5日~15日:南西戦線諸兵団及び司令部で活動。
6月28日~30日:ヴォロネジ戦線諸兵団及び司令部で活動。
6月30日~7月9日:ブリャンスク戦線・中央戦線諸兵団及び司令部で活動。
7月9日~13日:ブリャンスク戦線・西方戦線諸兵団及び司令部で活動。
7月13日~28日:ヴォロネジ戦線・ステップ戦線諸兵団及び司令部で活動。
7月28日~8月1日:ブリャンスク戦線諸兵団及び司令部で活動。
8月1日~25日:ヴォロネジ戦線・ステップ戦線諸兵団及び司令部で活動。
8月27日~9月24日:ステップ戦線・ヴォロネジ戦線諸兵団及び司令部で活動。
9月27日~12月3日:敵キエフ集団の撃滅とキエフ奪還に向け、中央戦線とヴォロネジ戦線(10月20日よりそれぞれベラルーシ戦線、第1ウクライナ戦線と改称)、及び第2ウクライナ戦線諸兵団の行動を調整。
12月12日~12月31日:第1・第2ウクライナ戦線諸兵団及び司令部で活動。

1944年

1月1日~2月18日:第1・第2ウクライナ戦線諸兵団のコルスニ・シェフチェンコ攻勢における行動を調整。
2月20日~3月1日:第1ウクライナ戦線諸兵団及び司令部で活動。
3月2日~5月24日:第1ウクライナ戦線司令官。
4月10日:1回目の勝利勲章受勲。
6月5日~7月26日:第1・第2ベラルーシ戦線及び第1ウクライナ戦線(7月18日~29日)諸兵団の行動を調整。
7月29日:2回目のソヴィエト連邦英雄称号受賞。
7月30日~8月26日:第1・第2ベラルーシ戦線及び第1ウクライナ戦線諸兵団の行動を調整し、作戦を指導。
9月3日~11日:第3ウクライナ戦線諸兵団のブルガリア攻撃準備を指導。
9月15日~19日:第1・第2ベラルーシ戦線及び第1ウクライナ戦線諸兵団の行動を調整し、作戦を指導。
9月19日~20日:第4ウクライナ戦線司令部及び諸兵団で活動。
9月20日~10月31日:第1・第2ベラルーシ戦線及び第1ウクライナ戦線諸兵団の行動を調整し、作戦を指導。
11月14日:第1ベラルーシ戦線司令官に任命される。

1945年

3月30日:2回目の勝利勲章受勲。
5月9日:ドイツの無条件降伏を受諾。

 「煩をいとわず」と言いつつ、実際にやってみたらえらく面倒でした…読む方も大変だとは思うが、今回はこれがネタ元になるので、我慢しておつき合い願えれば幸いである。

 さて、この年表を大雑把に眺めると、「○○戦線司令部及び諸兵団で活動」「行動を調整」「作戦を指導」という文言が目を惹くのではないだろうか。該当する戦線は、その時々の焦点となる戦場(スターリングラード、ルジェフ、クルスク、ベラルーシその他)で中心的な役割を果たしているものばかりであり、ジューコフがこれらの戦いに深く関わっていたことが分かる。ソヴィエトを代表する司令官というイメージは伊達ではないのである。
 だが、戦線の司令部や諸兵団で「活動する」とはどういうことだろうか?もう少し年表を詳しく見てみると、1942年8月28日に西方戦線を離れてから1944年11月14日に第1ベラルーシ戦線を任されるまで、ジューコフはいかなる兵団も指揮していないのである(44年3月2日から5月24日まで第1ウクライナ戦線の司令官を務めたのは、前任者のニコライ・ヴァトゥーチンが重傷を負ったことによる緊急措置)。つまりこの間、彼は司令官以外の身分で様々な戦線を訪れていたわけだ。42年8月26日には最高司令官(スターリン)代理という要職を任されているが、これだけでは彼が各戦線に出没した説明にはならない。
 
 鍵となるのは、最高司令部(スタフカ)代表という概念であろう。これは非常に興味深い、ソ連軍の統帥を特徴づけるシステムの一つではないかと思う。すなわち司令官の職から離れていた時期のジューコフは、スタフカ代表として前線に派遣され、実戦部隊の指導を繰り返していたのである。彼の「代表時代」は戦争の半分以上を占め、しかもスターリングラードやクルスク、ベラルーシなど、対独戦の帰趨を決する重要な戦闘がこの時期に含まれる。
 このように中央と前線を往来したスタフカ代表は、実はジューコフ一人ではない。例えば参謀総長ヴァシレフスキー。彼は後方にあって計画を練り上げるだけでなく、スタフカ代表として実戦の場へ赴く機会も多かった。彼の名が(ジューコフと並び)各種作戦の責任者として頻繁に言及されるのはそのためである。また、スターリングラード戦の時には空軍総司令官のノヴィコフと遠距離空軍のゴロヴァノフ司令官、赤軍砲兵部長ヴォロノフが前線へ派遣され、来たる攻勢の中で空軍と砲兵隊が果たすべき役割を調整した。この時期、スターリンはジューコフに対し「航空支援の態勢が整うまでは攻撃を開始してはならない。空軍の準備状況に関してはノヴィコフに判断させよ」との命令を送っている。これを見る限り、同じスタフカ代表でもジューコフが作戦全体を統括したのに対し、ノヴィコフの方は空軍に責任を負う、という形で一種の住み分けがなされていたことが分かる。
 これ以外にも、戦争中には大小様々なソヴィエト軍人がスタフカ代表の資格で活動した。例えばヴォロシーロフやチモシェンコなどは、司令官としては半ば一線を退いた(駄目を出された)後でこの役目を与えられたが、逆にシテメンコは若手の参謀将校時代にスタフカ代表を経験している。さらに、これはイレギュラーなケースだと思うが、第1ベラルーシ戦線司令官のロコソフスキーはキエフ解放の後でスターリンの意を受け、司令官の身分はそのままにスタフカ代表としてお隣の第1ウクライナ戦線(司令官ヴァトゥーチン)の様子を見に行っている。つまり、スタフカの意向次第で、いつでも誰でも代表を任される可能性があったわけだ。

 軍のナンバーツーたる最高司令官代理や参謀総長、空軍総司令官といった高位の軍人たちまでがスタフカ代表として腰軽く前線へ出入りする様は、我々の見慣れた軍のあり方に比べると異質に感じられる(少なくとも大戦中の日本軍では考えられない)。このやり方は果たして効果的だったのだろうか?
 コンスタンチン・ロコソフスキー元帥などは、ジューコフを念頭に置きつつ、その回想録『兵士の本分』の中でスタフカ代表制度を厳しく批判している。曰く、戦線のことは戦線の司令官に任せてもらいたい。スタフカ代表などというものがやって来て、作戦結果に責任も持たずに口だけはさんでくるのは煩くてたまらない。命令は最高司令部から一本化して出せばそれでいいはずなのに、どうしてわざわざ代表を現地に送り込んでくるのか。ましてや最高司令官代理(ジューコフ)という大物がやって来た日には、戦線司令官の権限は著しく制限されてしまうし、中央から信頼されていないのか、という疑念にも駆られる…
 司令官として現場一筋で戦い抜いたロコソフスキーならではの見識であろう。確かに、何でもかでも中央から人を送りこんで末端を統制・指導しようという方法は、下からのイニシアティヴを殺してしまう部分がある。やりにくい、と感じていた司令官は多かったのではないだろうか。ロコソフスキーのように有能かつ独立不羈の人物にとっては尚更である。万事につけてトップヘビーなソヴィエト連邦の問題点が、こんなところでも現れているのかもしれない。
 他方、このシステムにはこのシステムなりの長所もあったように思う。例えばスターリングラード戦で空軍の責任者(ノヴィコフ)と砲兵の責任者(ヴォロノフ)を直接前線に送り込み、それぞれの分野で攻勢準備の支援にあたらせたというのは、現場の司令官にとってはありがたい手助けになったはずである(現金なもので、この時ドン戦線司令官だったロコソフスキーは、彼らの助力を高く評価している)。作戦上必要とあらば空軍総司令官にも陣頭指揮をやらせてしまう思い切りのよさは、スタフカ代表制度と結びついて重要な成果を挙げることができた。
 また、戦争後半にいくつもの大規模攻勢作戦を実施したソ連にとって、複数の戦線の動きをコーディネートするスタフカ代表の存在は必要不可欠であった。ソ連軍が膨大な戦力を擁したにもかかわらず、戦線(日本では方面軍に該当)以上の編成単位を持たなかった(厳密には数個戦戦線をまとめた「方面」が存在したが、これは大戦初期の一時的な方策でしかない)のは奇妙に映るかもしれないが、実はスタフカ代表が手品の種であったのだ。ジューコフを初めとする代表たちは、事実上の上級司令官として複数の戦線を束ね、大作戦を成功させていった。わざわざ司令部組織を編成する必要がないから非常にフレキシブルだし(上記スターリングラード戦の例ではジューコフが臨時の総司令官、ノヴィコフが航空参謀の役割を果たしていたと言えるかもしれない)、機密保持の観点から言っても好ましい。やる気と能力にさえ恵まれていれば、スタフカ代表は重要な役割を果たすポテンシャルを持っていたのである。

 ロコソフスキーも批判しているように、スタフカ代表制度が数々の問題を抱えていたことは確かである。けれども、軍隊という中央集権的な巨大組織を動かしていく上では、それなりの合理性は持っていたように思う。ましてやソ連では、何でも中央に上げないと物事が円滑に進まない傾向があったから、それなら逆に中央の代表を末端に送り込んでしまえ!というのは、乱暴だが効果的な方策である。超トップダウン方式を突き詰めると、このような発想に逢着するものなのかもしれない。
 また、このシステムが円滑に機能するためには、代表を派遣する側のスタフカにも高い能力が求められる。代表たちの全ての活動を裏づけするのは、言うまでもなくスタフカ本体なのであるから。スタフカ代表が現地で下した決定を実行に移すため、中央では数多くの司令部職員が事務作業に奔走し、その結果に責任を負わなければならなかった。そして大戦後半の実績を見る限り、ソ連軍の指導部が能くこの重責に堪える力量を身につけていたことは間違いない。

 ジューコフ個人について言えば、彼はスタフカ代表にうってつけの人材であったと思われる。年表でも確認できたように、スタフカ代表は繰り返し激戦地への出張が求められる過酷な任務で、身体強健な人物でなければ到底務まらない。また上はスターリンその人に意見を具申し、下は海千山千の司令官たちからの突き上げを押さえるという精神的なタフさも要求される。ジューコフはこれらの点で合格だったわけだ。
 さらに、彼は千軍万馬の古強者(第2次世界大戦は彼にとって通算4度目の戦争であった)であり、ノモンハン[註1]など数多くの戦いで司令官としての力量を磨いたが、対独戦の直前には一転して参謀総長に任じられている。これは明らかに彼向きの仕事ではなかったものの、参謀本部にあって赤軍全体の戦力、配備、作戦計画、各級指揮官の個性を把握する機会を得たことは、決して無駄にはならなかった。後にスタフカ代表として戦場を往来した際、これらの知識は彼の支えとなったはずだ。指揮官の経験と参謀総長の知識を併せ持ち、最高司令官(スターリン)の代理という絶大な権威をも身にまとったジューコフは、前線で遺憾なくその手腕を発揮することができたのである。

 同時に、スタフカ代表という経歴が、一般的なジューコフ・イメージに与えた影響についても考えなければならない。彼は一度に複数の戦いを監督しなければならなかったから、長大な前線の各所に現れ、多くの将兵と接する機会があった。元ソ連軍兵士のインタビューなどで、ジューコフに対する具体的な印象や目撃談が頻繁に語られているのはそのためであろう。しかも、司令官として自らの部下を見舞うのではない。あくまでも中央の代表者として現場の状況を確認し、監督するためにやって来るのである。
 こうした事情が、ジューコフの個人的な資質(性格の激しさ、気難しさ、部下に対する要求の多さ)と相まって、彼の前線来訪に強烈な印象を与えた可能性は否定できない。実際、兵士たちの回想に見えるジューコフは、敬意と恐れが入り混じった独特のオーラを身にまとっていることが多い。神出鬼没のスタフカ代表・ジューコフは、前線に姿を現すだけで、将兵からは神話的な恐れをもって受け入れられたのではないか。

 試みに、同時代人の証言として、ソ連を代表する戦闘機エースの1人であったニコライ・スコモロホフの回想をご紹介しておきたい。1944年秋、最前線でジューコフの護衛任務を与えられたスコモロホフは、当時の状況について以下のように書いている。

ニコライ・スコモロホフ著『戦闘機乗りは戦いに生きる』より

 スコモロホフがこの本を出版したのは1975年、すなわちジューコフ逝去の翌年のことである。ゴーゴリの『検察官』に匹敵するような悲喜こもごもの一幕で、緊張に満ちた「ジューコフ体験」の顛末が活写されている。一般的なジューコフ像形成の過程では、このような回想録の類も(公刊戦史とは異なるラインで)大きな役割を果たしたはずであり、決して無視できるものではない。

 さて、長期にわたりスタフカ代表の役割を担い続けたジューコフだが、1944年11月14日には第1ベラルーシ戦線司令官に任じられて久々の現場復帰を果たし、自らベルリン攻略戦を指揮している。ベルリン入城により「勝利の元帥」ジューコフのイメージは完成したと言ってよく、同司令官への任命はスターリンからの温情采配(あるいはえこひいき)の結果と見なされることが多い。それまで第1ベラルーシ戦線を率いて活躍したロコソフスキーを押しのけての人事だから尚更である。
 ところが意外なことに、ジューコフ自身はスターリンのこの決定に必ずしも満足してはいなかったらしい。考えてみれば確かに、スタフカ代表時代のジューコフは戦線司令官を指南する事実上の上級者であったから、ここで再び戦線を任されるのは一種の降格と見えなくはない。スタフカ代表のままロコソフスキーやコーネフらを手足の如く操り、ベルリン攻略の最高責任者として歴史に名を残すという可能性もあったはずである。最終局面で一司令官としてコーネフと功を争う羽目になったのは、ジューコフ本人としてはかなり不本意だったのではないか。
 当時の状況について、彼は自らの回想録の中で次のように振り返っている。曰く、この人事の前段階で、ワルシャワ蜂起軍の救援を望んだスターリンに対し、ジューコフとロコソフスキーは軍の疲弊を理由にこの要請を拒むという出来事があり[註2]、2人ともスターリンの不興を買っていたことは事実である。だが、第1ベラルーシ戦線司令官の交替は、両者の不服従に対する懲罰だけを目的に行われたものではない。戦争の最終局面を迎えるにあたり、スターリンは勝利の栄光を独占しようと目論んでいた。最早スターリンには、前線へ代理を派遣する必要はなく、自らの名が讃えられればそれでよかったのだ。スタフカ代表・ジューコフの存在は、スターリンには目障りとなりつつあった…
 ジューコフのこの推測が当たっているかどうかは、スターリン本人に聞いてみるしかないだろう。だがもしも彼の言う通りだとしたら、スターリンの「努力」はむなしく終わったことになる。今日我々は、ベルリン攻略の責任者としてはやはりジューコフの名を想起するわけで、それも第1ベラルーシ戦線での陣頭指揮によるインパクトが大きい。スターリンなどはお呼びではなく、戦後に自らベルリンへ乗り込むとんでもないプロパガンダ映画を作らせて笑い者になる始末。全能の指導者といえども、流石に後世のイメージ操作までは思い通りにいかなかったようだ。

註1:興味深いことに、司令官としては初の「大舞台」となったノモンハン戦において、ジューコフは後のスタフカ代表とよく似た形で戦場に向かっている。すなわち、初動において戦況が思わしくなく、しかも現地からの情報が乏しいことに苛立った国防人民委員ヴォロシーロフが、状況把握のためにモンゴルへ送ったのがジューコフであった(同様の目的で、他にも2人の将校が現地入りしている)。必要があれば現地軍の指揮を継承するという「オプション」つきではあったのかもしれないが、当初の目的はあくまでも視察と報告、助言である。正式な派遣命令が下ったのが5月24日、現地で第57特別歩兵軍団の司令官に任命されたのが6月12日のことで、この間のジューコフはヴォロシーロフ宛ての報告活動に専念している。
 当時のソヴィエト軍の統帥は相当に混乱していた印象があり、ジューコフの前任者として第57軍団を指揮していたニコライ・フェクレンコは、ヴォロシーロフから「モスクワの指示がない限り積極的な行動には出るな」とくぎを刺される一方、戦況不利となるとその責任だけを追及されてしまい、かなり苦労したようだ。またジューコフ着任後も、砲兵隊の監督として国防副人民委員グリゴーリー・クリークを送り込むという、いわば屋上屋を架すようなことをやっている。しかもクリークが現場の状況に応じて指示を出すと、今度はヴォロシーロフから「勝手な動きをするな」との叱責が飛ぶ有様であった。当時は、全てをコントロールしようとする中央と振り回される前線の双方が強いストレスを感じていたのではないだろうか。後のスタフカ代表制度がこのストレスを完全に取り除いたかどうかは分からないが、しかしノモンハン段階での混乱に比べると格段に進歩した、よくできたシステムであったと思う。

註2:ジューコフのこの認識は、「スターリンがポーランド支配を確立するためワルシャワ蜂起軍を故意に見捨てた」とする見解とは大きく食い違う。考えてみれば、我々は後知恵でワルシャワ蜂起が失敗したことを知っているわけだが、リアルタイムでこれに直面したスターリンにとってみれば、事態は全く違って見えたのではないか。彼にとって最も恐ろしいのは、ソ連が関わらないうちに蜂起軍が勝利することであり、だからこそジューコフらの尻を叩いてでもワルシャワに向かわせようとしたのだ。
 最終的に蜂起は失敗に帰し、ソ連側にとっては都合のよい展開となったわけだが、これをスターリンの計算通りと捉えられるかどうか。結果からさかのぼって全てを解釈してしまうのは、後世の人間の悪い癖である。スターリンが全てをコントロールし操っていたかのような見方は、却ってこの人物を人間離れした「悪の天才」として神話化(もしくは悪魔化)することにつながるのではないかと思う。勿論、これは他の全ての歴史的人物にも当てはまるのだろうけれど。

(13.06.25)


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