ラヴリネンコフ氏大いに笑う
一般的に日本では知られることの少ないソヴィエト空軍のエースパイロットの中でも、ウラジーミル・ラヴリネンコフ(日本では後述の書籍の影響により「ラブリネコフ」と記される場合が多いが、本稿においてはロシア語の原音に近い表記で統一する)は比較的知名度の高い部類に含まれると言っていいだろう。最終撃墜機数は30機を超え、ソヴィエト連邦英雄の栄誉に2度輝く大エースだが、しかし彼の知名度はその堂々たる軍歴だけに由来するものではない。撃ち落とした敵機のパイロットを追いかけて自らも着陸、これを絞め殺してしまうという、広く知られた陰惨なエピソードの主こそがラヴリネンコフなのだ。
この逸話を紹介しているのは1970年にアメリカで出版されたThe blond knight of Germanyという書籍で、著者はレイモンド・トリヴァーとトレバー・コンスタブル。本書はドイツの撃墜王エーリヒ・ハルトマンの伝記であり、1986年には井上寿郎訳による日本語版『不屈の鉄十字エース』が朝日ソノラマから上梓された(2008年に学研M文庫から改訂版が刊行)。以下、「スターリンの鷹とその実力」と題する一章より、該当部分を引用してみよう。「ソ連パイロットの勇猛な敢闘精神を物語る一つのエピソードがある。それはラブリネコフ[引用者註:ロシア語と比べると明らかに誤った表記だが、原著の英語がすでにこのような綴りとなっていたのか、それとも日本語訳の段階で歪みが生じたのかは不明]中尉という、三十機の撃墜記録を持つ、若い“スターリンの鷹”の一人だが、オリョール付近の戦闘でBf109を撃墜した。ドイツのパイロットはどうにか平原に不時着すると、操縦席からはい出て、林の中の渓谷の茂みに逃げ込んだ。
これを低空から見ていたラブリネコフは、行動のおそいソ連陸軍部隊ではドイツ軍パイロットを探し出せず、逃してしまうだろうと見てとり、乗機をドイツ機の傍に着陸させると、捜索のソ連歩兵を率いて林のなかに分け入った。谷川の傍でドイツ軍パイロットを発見するや、やにわに飛びかかり素手で首を絞めて殺した。余りのすさまじさに、さすがのソ連歩兵も口を開いたまま黙って見ていた。ソ連軍パイロットはドイツ兵の死体を歩兵隊の足もとに残したまま、飛行機に戻ると土煙を上げて飛び立った」(学研M文庫版202~203ページ)一読して分かるように具体的かつ活き活きとした内容で、「口を開いたまま」「土煙を上げて」などは見てきたようなと言うしかない臨場感だ。しかし実際のところ、誰が現場を「見てきた」のかが問題である。絞め殺されたドイツの飛行兵を除くと、登場人物はラヴリネンコフその人とソ連歩兵しかいないわけで、当然のことながらこの話はソ連側が記録していなければ伝わりようがない。トリヴァーとコンスタブルがどのような経緯で情報を仕入れたかは分からないが、その原典となる史料がソ連に存在するはずである。
ところが、手許にあるロシア語書籍(もっともそれほど数が多いわけではない)やネット上の関連サイトを調べてみても、このような事実があったことは確認されない。のみならず、言及されている「絞殺事件」はいずれも、西側で流布したソ連に関する非現実的な伝説やプロパガンダの一例として取り扱われているのだ。さらに、航空史家ニコライ・ボドリーヒンが1998年に著した『ソヴィエトのエースたち』によれば、ラヴリネンコフは存命中にトリヴァーとコンスタブルの著作を読んでいるらしく、この一件は本人の耳にまで入っているのだという。身に覚えのない「事件」の存在を知ったラヴリネンコフは苦笑し、そしてこう言った。「そいつを食っちまった、ということにされなかっただけでもよかったよ」
ラヴリネンコフは1988年に亡くなっているので、1970年に出版されたThe blond knight of Germanyに目を通した可能性は充分にあるわけだが、本当にこうした天晴れな答えを返したのか、ちょっと出来過ぎという気がしないでもない。しかしいずれにせよ、ソ連/ロシアで「絞殺事件」の存在が否定されていることは確実と言っていいように思う。
これを念頭に置きつつあらためて振り返ってみると、実は相当におかしな部分が多い話である。何しろラヴリネンコフは、敵パイロットが逃げおおせそうだと判断した時点で初めて適当な着陸地点を探し、飛行機を壊さないようそっと降ろし、安全ベルトやらクッション代わりのパラシュートやらを外して操縦席の外に出ると、歩兵たちとも合流し、それからドイツ兵に追いついたというのだ。そんな悠長なことをやっている間に逃げられたらどうするつもりなのだろう。単に相手を殺したいだけなら、空中から機銃掃射でやっつけてしまえばいいではないか。
仮に乗機の機関銃が弾切れだったとしても、個人装備の拳銃くらいはあるだろうし、周囲には武装した友軍の歩兵たちが控えている。どうして絞殺などというリスキーな手段に頼らなければならないのか。さらに、当時のソ連軍が捕虜からの情報を重視していたことを考えると、これほど有利な条件の中で敵兵を生け捕りにしない理由が分からない。とりわけ貴重な情報源となるはずのパイロットをわざわざ殺してしまうとは、下手をすると懲罰ものである。
要するに、The blond knight of Germanyで紹介されているラヴリネンコフのエピソードは、そのままの形では到底信じられないような代物なのだ。今まで鵜呑みにされてきたのが逆にいぶかしくなるほどに。しかし、それでは「絞殺事件」(すでに「絞殺伝説」と呼んだ方が適当かもしれない)の淵源はどこにあるのか。ラヴリネンコフがこの逸話の主人公として「狙い打ち」されたのは一体何故なのか。彼の経歴をたどってみると、これらの疑問に回答を与えてくれるかもしれない一つの出来事が浮かび上がってくる。
実は、ラヴリネンコフには捕虜となった経験がある(自伝でもこのことを書いているくらいだから、別に秘密にされていたわけではない)。それは1943年8月24日のことで、ラヴリネンコフはドイツの偵察機Fw189を攻撃中に誤ってこれと空中衝突し、パラシュートで脱出に成功したものの、不運にも敵地上軍の捕らえるところとなった。しかも、これまた自伝で正直に書いているのだが、ポケットに自分宛ての手紙を入れたまま出撃するというヘマをやらかしたため、彼の姓名はすぐ敵側へ知られてしまう。当時のラヴリネンコフはすでにソヴィエト連邦英雄の称号を授与(1回目)されたベテランであり、しばらく前には抜群の戦闘技量をノヴィコフ空軍司令官に認められ、軍の機関紙で空中戦に関する論文を掲載してもいる。その身許は隠しようがなかった。ドイツ軍も思わぬ大物が手に入ったことを知り、ラヴリネンコフを他の捕虜と共にベルリンへ後送しようとしたのだが、彼は隙を見て汽車から飛び降り、まんまと脱走に成功する。その後は味方のパルチザン部隊と合流、同年10月には原隊へ復帰し、何事もなかったかのように戦闘機乗りとしてのキャリアを積み重ね続けたのである。
上記ボドリーヒンの著作によれば、大魚を逃したドイツ軍は腹いせにラヴリネンコフの狡猾さをでっち上げる宣伝戦を展開し、これがめぐりめぐってアメリカ製の「絞殺伝説」に発展していったのだという。もっともこの説明では、ドイツ側が具体的にどのような宣伝を行ったのかが示されていないから、真偽のほどは分からない。しかしながら、降下した先の地上でドイツ兵と対面し、かつパルチザン部隊の一員としても敵と戦った特異な経歴が、敵戦闘機パイロットの絞殺云々という伝説のソースとなった可能性も否定できないのではないかと思う。もしもそうだとすれば、ラヴリネンコフは思いがけない形で捕虜経験に祟られたことになるわけだ。[註1]もう一つ、この逸話を世に広める役割を果たしたトリヴァーとコンスタブルの著作The blond knight of Germanyについても考えなければならないことがある。同書が出版された1970年、アメリカは泥沼のヴェトナム戦争の終盤を戦いつつあり、長い冷戦期の中でもとりわけ困難な時期の一つを迎えていた。共産主義とソ連の脅威は、当時は極めてアクチュアルなものであったのだ。空軍退役大佐であるトリヴァーもこうした危機意識を共有していたようで、本書の著書前書きはハルトマンへの讃辞を連ねた後、彼がソ連抑留中に経験した「悪魔的残酷さ」への言及と、皆がNKVDのような思考法をするようになったら世界は一体どうなってしまうのだろう?という(やや唐突な)憂慮の念とで締めくくられている。こうした感情は、当時のアメリカを取り巻く状況の中で理解されなければならない。
ラヴリネンコフのエピソードを収めた一章「スターリンの鷹とその実力」は、ソヴィエト戦闘機隊に対する著者からの評価をストレートに示したものとして注目できる。全体としてソ連の戦闘機乗りは高く評価されていると言ってよく、「数にものをいわせて」という通俗的イメージを残しつつも、同時にその旺盛な士気と優れた技量、使用機材の優秀性などを指摘している。しかしながら、著者が彼らに向けた視線は、結局のところは敵に対するそれでしかない。ソヴィエト戦闘機隊への高評価も、多数の「強敵」を倒したドイツのエースを称揚する材料としてまとめられ、消化されてしまう。一方のソ連側が何を考えていたか、という視点はまるきり抜け落ちているのだ。
同時に、敵とは「我々には理解できない」異質な存在でなくてはならず、ソ連の戦闘機隊員もそのように描写される。そして、敵の異質性の典型例という役割を振られているのがラヴリネンコフなのだ。確かに、ドイツのパイロットを血眼で追いかけ回した挙げ句に絞め殺してしまう彼の姿は異様そのものであり、読者の嫌悪感を誘うに充分である。トリヴァーとコンスタブルは、エピソードの選択と配置に関して優れた作家的手腕を発揮したと言えるだろう。問題は、本当にこのような出来事が起きたのか否かという点にあるのだが。
ラヴリネンコフの「絞殺伝説」は、以下のような形で締めくくられている。「“スターリンの鷹”の闘志は、落下傘で脱出する敵パイロットを撃たぬ、騎士道的精神にこだわるドイツのパイロット魂とは異種の恐るべき勇猛さを持っていた」
著者が当該エピソードにどのようなメッセージを込めようとしたかがよく分かる一文である。「彼ら」は我々のルールと価値観を共有しない、異質で獰猛な存在であるとの認識が、この上なく明瞭に示されている。「野蛮さ」ではなく「勇猛さ」と表現しているのはせめてものエチケットであろうか。
実際には、「ドイツ機は脱出するソ連パイロットを射撃したが我々はそんなことはしなかった」と回顧するソ連の元戦闘機乗りも存在する。どちらかが嘘をついているというような問題ではなく、元々カオスに満ちた戦場には様々な人種が存在するものであって、両軍共にパラシュートを撃ったり撃たなかったりしたのが本当のところだろうと思う。これを「ソ連軍は撃ったがドイツ軍は撃たなかった」「ドイツのパイロットは騎士道精神にこだわっていた」と決めつけるのはあまりにも不公平だが、しかし著者のそもそものスタンスからして公平さなどは期し難いのである。これまであまり意識されてこなかったのだが、我々が第2次世界大戦中のソ連軍を語る時、The blond knight of Germanyのように戦後のアメリカ(もしくはその他の西側諸国)での著作を情報源とするエピソードについては、実は相当の注意が必要ではないかと思う。冷戦期に流通していたソ連や共産主義に対する敵意が、戦争当時にまで遡及する形で様々に反映されている可能性があるからだ。そして、その目的に都合よくドイツ軍の武勇伝を利用することも。なまじ当事者ではないアメリカ人の口を通しているのだから余計に厄介である。
ラヴリネンコフのエピソードにしても、仮にこれが戦時中、しかもドイツ側の記録に現れたものであったなら、「ナチスのプロパガンダ」として一応は警戒の対象となり、ここまで無批判に受け取られることはなかったかもしれない。問題は、戦後25年を経たアメリカという、一見中立的な舞台で登場してしまった点にあるのだ。実際はなかなか中立どころの話ではなく、ここで展開されている宣伝戦においては、ソ連はアメリカとドイツに対し1対2の不利に立たされているわけなのだが。トリヴァーとコンスタブルの著作などは、米独手を携えてソ連を撃つ典型例と言えるだろう。もっとも、この件に関して彼らを非難する気にはあまりなれない。当時はソ連についてそのように書くことが是認(もしくは奨励)されており、また手に入る情報も現在よりはるかに限られていたからである。そもそも人間は、自らが生きる時代・自らが属する社会の価値観に束縛されるか、少なくとも影響を受けずにはいられない生き物なのだ。冷戦のように精神的な緊張がとりわけ強かった時代であれば尚更である。逆に、同時期のソ連では、アメリカに関する悪意と偏見に満ちた馬鹿馬鹿しい著作が量産されていたのだろうと思う。
我々とても、同時代の社会に固有の価値観で縛られているという点では彼らと大差なく、そう威張れたものではないだろう。しかしながら、少なくとも今は1970年ではないし、ここはアメリカではない。このこともまた事実である。彼らを束縛した偏見を我々が繰り返さねばならない理由などどこにもないはずだ。にも拘わらず…先に触れた通り、ラヴリネンコフの「絞殺伝説」などは、お世辞にも巧妙な反共プロパガンダと呼んでいい代物ではない。およそ現実味に乏しいおとぎ話で、ちょっとでも突っ込んで調べればたちどころに馬脚を現すはずである。しかしながら、その「最低限の突っ込み」がなされぬまま冷戦が終わり、ソ連が消滅し、それからさらに20年もの歳月が流れようとしているのだ。
我々は「ソ連の宣伝」を熱心に暴き続けてきたのに対し、「ソ連に対する宣伝」の清算にはほとんど手をつけていないのではないか、というのが個人的な感想である。勿論、かつての日本は「ソ連の宣伝」に備える側であったわけで、その時身についた癖が抜け切らないのだろうとは思う。ましてや冷戦の勝者となった立場であるから(Победителей не судят!)、中々我が身を省みる気になれないのも不思議ではない。
だが、それにしても早や20年。もうそろそろ、もうちょっとくらい何とかなってもいい時期ではある。依然として荒唐無稽な「絞殺伝説」を無批判に受け入れ続けるのであれば、それこそ故ラヴリネンコフ氏から大笑いされかねない。「ソ連兵ならやりかねない」という思い込みを捨てて、あったこと・なかったことを虚心坦懐に探っていけば、今まで見えなかったものも見えてくるのではないだろうか。
註1:なお、ラヴリネンコフの自伝にはもう一つの注目すべきエピソードが含まれている。彼は捕虜となった後でドイツの飛行場へ連行され、敵の搭乗員と言葉を交わしたのだが、そのうちの1人はソ連の戦闘機に体当たりされたことがあると述べた上でこう続けたという。
「もしもあんたが俺をやったんだったら、自分の手であんたを絞め殺してやるところだったんだがな…」
どうやらドイツ空軍はソ連戦闘機隊の体当たり攻撃に相当の嫌悪感を覚えていたらしく、ラヴリネンコフは捕虜尋問官からも「Fw189との接触は故意の体当たりではないのか?」と執拗に問いただされている。この事実自体も興味深いものであるが、上記のシーンで我々の関心を惹くのは、「敵搭乗員との地上での対決」に際して「絞め殺す」というキーワードが当事者(ただしドイツ側)の口から発せられたことであろう。
もっとも、ラヴリネンコフの自伝『大空への回帰』は1974年に刊行されており、1970年出版のThe blond knight of Germanyに引用されることはあり得ない。しかしながら、偶然の一言で片付けるにはあまりにも奇妙な一致で、「絞殺伝説」と何らかの関わりを持っている可能性も否定できないため、取り敢えずご紹介しておく次第である。これは全くの憶測にすぎないのだが、もしかすると当時の実戦パイロットの間では、「絞め殺してやる」という表現がアグレッシヴな感情を表すものとして広く流行していたのかもしれない。(11.11.25)
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