ソヴィエト勲章物語


 本稿で取り上げるのは、第2次世界大戦で活躍したソヴィエト軍将兵に授与された各種の勲章である。

 そもそも勲章とは、近代国家が自らに対する奉仕者を顕彰するために定めた制度であり、統治を補助する小道具の一つである。その中には為政者たちの色々様々な工夫が込められていると言っていいだろう。
 まず第一に、勲章はそれ自体が権威を持つ存在でなくてはならない。受勲がこの上ない名誉であると社会的に広く認知され、誰もが勲章を「欲しがる」よう仕向ける必要がある。そのために勲章の制定者たちは、自らの創作物と既存の民族的・国家的シンボル(宗教、伝説、歴史的英雄、建国神話その他)とを有機的に結びつけることを企図し、勲章の名称やデザインなどに意を払った。逆に、勲章を通じて新たな国家統合のシンボルを創造し、国民全体に周知せしめるという効果も期待されたであろう。
 第二に、勲章を与えられる基準や発行数、受勲に伴う恩典といった要素である。濫発しすぎると有難味が薄れるが、かといって絶対に手が届かないというイメージが定着することも望ましくない。頑張れば誰にでもチャンスがある、だから君も一生懸命お国のために働こう。この微妙なバランスが要求されるわけだ。また勲章とセットになった物質的な賞与も、モチベーションを高める効果は期待できるものの、過剰に至れば国の財政に好ましからぬ影響を与える。この辺りは勲章の制定というより、その後の運用に関わる問題ではあるのだろうが。

 そのような観点から見ると、ソヴィエト連邦の勲章はまことに興味深い存在である。国としての誕生が極めて新しく、その成り行きも革命という尋常ならざるものであったソ連では、既存のシンボルを利用することができない。建国神話、英雄、信仰の体系等々を一から作り上げなくてはならないのだ。勲章制定にとっては非常に不利な環境であったことになる。
 一方で、ソ連はその誕生以来幾多の戦乱に見舞われ、一度ならず国家存亡の危機を経験しなければならなかった。これを乗り越えるため、為政者たちは賞罰を併用しながら強引に国民総動員の体制を築き上げていったわけだが、「賞」の一環として勲章が重要視されたであろうことは容易に想像できる。ましてやナチス・ドイツとの生死を賭けた戦争となると、将兵の胸を飾る勲章も多様化し、戦意高揚のために無視できない役割を果たしていた。
 以下、第2次世界大戦で「活躍」した個性豊かな勲章を紹介すると同時に、ソヴィエト政府がこれらの勲章に込めようとした意義と、受勲者たる前線将兵からの評価についても若干の考察を加えてみたい。なお、主要参考文献は『ロシア・ソ連の褒賞の全て:勲章、メダル、バッジ』(M.A.イゾートヴァ、T.B.ツァリョーヴァ共著、ヴラディス出版、2008年)である。

I.戦前に制定された勲章

 ソ連における勲章の歴史は、革命翌年の1918年に始まる(厳密にはまだソヴィエト連邦が創設される以前の話であるが、「ソ連の勲章システム」にとっての起点であることは間違いない)。この年の1月に帝政時代の勲章が全て廃止され、9月には革命後初の勲章として赤旗勲章が誕生したからだ。これ以降、新政府は徐々に独自の勲章制度を整備し始め、第2次世界大戦開始時点では軍人を対象としたものとして4種類の勲章が存在していた。

☆赤旗勲章

 1918年9月16日制定。ソヴィエト国家の記念すべき勲章第一号で、「万国の労働者団結せよ!」と大書された赤旗に鎌とハンマーという、社会主義の祖国にふさわしいデザインが採用されている。受勲対象者は国家防衛のために特別の勇気と献身を示した者とされており、軍事的な色彩の強い勲章であった。2年後の1920年には、赤旗勲章と対になる形で、民間人を対象とした赤旗労働勲章が制定されている。これと区別するため、本来の赤旗勲章を「軍務赤旗勲章」と呼ぶケースもあったが、正式な名称は「赤旗勲章」で間違いない。また、個人だけでなく軍の部隊や軍艦にも授与される場合があった(この特徴はソ連のほとんどの勲章に共通している)。
 なお、既述の通り1918年当時にはソヴィエト連邦はいまだ存在せず、あくまでもロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国としての制定であったが、その後グルジアやアゼルバイジャンなどでも独自の勲章が誕生する。そして1924年8月1日には、これら全てをまとめ、ソ連の赤旗勲章として一本化するという作業が完了した。革命直後の不安定な状況と試行錯誤の時代を象徴する、興味深いエピソードと言えよう。
 以下に見ていくように、ドイツとの戦争が始まると多種多様な勲章が登場するのだが、赤旗勲章は一貫してそれらの新興勲章の上に立ち、勝利勲章を除くと最高位を保ち続けた。歴史と実力を兼ね備えた勲章なのである。

☆レーニン勲章

 1930年4月6日制定。ソヴィエト連邦最高の勲章。革命の父・レーニンの横顔を中央に配しているが、細部のデザインは数度にわたって変更されている。受勲対象は赤旗勲章よりも幅広く、革命運動や祖国防衛、諸民族の友好、あるいは献身的な労働等々、「ソヴィエト国家と祖国に対する功績」が認められればレーニン勲章をもらうチャンスがあった。つまり、軍人だけの勲章ではなかったわけだ。
 また、個人ばかりでなく様々な団体や都市なども受勲する場合があり、現に史上初めてレーニン勲章を授かったのは新聞「コムソモーリスカヤ・プラウダ」紙であった(1930年5月23日)。
 名誉という点では文句の出るはずもない勲章だが、元軍人の談話などから判断する限り、一部では意外にネガティヴな見方をされるケースがあったらしい。「雌牛の乳をたくさん搾ったってもらえる勲章なんだぜ」と放言した者さえいた由。この言い種から察するに、レーニン勲章が「純軍事的」な性格を持つものではなく、戦場での手柄も民間人の労働もいっしょくたに評価されてしまうという事実が武人たちのプライドを傷つけたと考えられる。とは言え、このように贅沢な不満を述べられるのは航空兵など勲章をもらうチャンスが多い連中だけで、大多数の将兵にとっては素直に喜ばれるものであったのだろうが。

☆赤星勲章

 1930年4月6日制定(レーニン勲章と同日)。赤い五芒星の中心に銃を持つ赤軍兵士を描き、見るからに軍人のための勲章という印象を与える。実際、受勲の資格を持つのは国防及び国家の安全保障に貢献した者のみで、つまりは軍・治安関係向けの勲章なのである。また、個人だけでなく軍艦や部隊、各種組織に対して与えられる場合もあった。
 軍関係の褒賞としては赤旗勲章に次ぐ歴史あるものだが、ランクとしてはさほど高くもなく、開戦後に新たな勲章が数多く現れると、その下位に位置づけられることとなった。逆に、高位の将官の中には意外にもらっていない者がいるようだ(例えばジューコフなどは赤星勲章未受勲である)。どちらかといえば「庶民的な」勲章、と表現できるかもしれない。

☆ソヴィエト連邦英雄

 ソヴィエト連邦英雄は勲章ではなく称号の一種なのだが、しかし兵士たちの意識の中では勲章と同列に扱われる場合が多く、また金星メダルという形で具現化される存在でもあるから、ここで紹介させていただく。
 1934年4月16日制定。記章としての黄金の星メダルは1939年8月1日に導入された。この称号を与えられるのは「ソヴィエト国家及び社会に対し、個人もしくは集団で貢献をなしたる者」という甚だ曖昧なカテゴライズだが、しかしそのハードルは非常に高い。文字通り決死的な行為により功業を挙げるか、もしくは一軍の司令官として抜群の戦果を挙げた者でもなければ授与されない。ソヴィエト連邦英雄の持つステータスの高さは、勲章類を胸に飾る際、英雄称号の象徴である金星メダルを左胸の最も高い場所に吊すというルールからもうかがい知れよう。とにかく別格の扱いなのである。なお、ソヴィエト連邦英雄称号と金星メダルのイメージは分かち難く結びついており、英雄称号の受賞を「星をもらう」と表現することもあったようだ。またソヴィエト連邦英雄となったパイロットの一部は、自らの乗機に金星マークを描き入れていた。
 ソヴィエト連邦英雄は「特典」のユニークさで際立っており、2度受賞した者は故郷の町に、また3度受賞した者はモスクワのソヴィエト宮殿に胸像を建ててもらうことができる(ソヴィエト宮殿は結局未完成のまま終わったのであるが)。さらに、1回目の英雄称号授与に際しては、レーニン勲章も同時に贈られることになっていた。
 これほどレベルの高い称号であるにも拘わらず、意外に「階級性」が薄いのもソヴィエト連邦英雄の特徴かもしれない。大作戦を指揮した元帥や将軍たちのみならず、小戦闘で勇猛果敢に戦った兵や下士官なども受賞の対象となっているからだ。命と引き替えに功業を残した者が、死後に英雄称号を追贈されるケースも少なくない。他方、戦後になると一連の高級将官が具体的な英雄行為なしに星をもらっているが、これは過去の業績に対する功労賞のようなものである。例えばセミョーン・ブジョンヌイなどは1958年、63年、68年と3度受章しており、これは彼の75歳、80歳、85歳の年に該当することから、正真正銘の「お疲れさん英雄」と理解していいだろう(それまで一度ももらっていなかったことの方が驚きだと言えなくもない)。
 史上最も多くソヴィエト連邦英雄の称号を受け取っているのはジューコフ元帥とブレジネフで4回ずつ。ただしジューコフといえども第2次世界大戦中の授与は3回だけで、最後の1回は1956年だからやはり功労賞的な性格が強い。ブレジネフの方はまあ冗談みたいなものだ(ちなみに授与されたのは全て共産党書記長就任期間中で、名実共にお手盛りの英雄であった)。
 3回授与は上記ブジョンヌイの他、有名な撃墜王アレクサンドル・ポクルィシキンとイヴァン・コジェドゥープの3人。ポクルィシキンとコジェドゥープはいずれも戦争中もしくは終戦後すぐに英雄称号をもらっており、純粋な武勲によるものだと言っていいだろう。
 なお、ソヴィエト連邦英雄の称号を与えられるのは軍人だけに限られてはおらず、抜きんでた英雄行為を成し遂げた者であれば誰でも英雄となるチャンスがある。論より証拠、史上初めてこの称号を獲得したのは、遭難した砕氷船チェリュースキン号の乗員救助に活躍した7人の民間パイロットであった(1934年4月20日)。

II.戦時中に制定された勲章

☆祖国戦争勲章(1~2級)

 1941年6月22日、ソ連はナチス・ドイツとの長く苦しい戦いに突入する。開戦劈頭から無惨な敗北を繰り返した赤軍だが、強大な敵の圧迫に耐えながら態勢を立て直し、反撃の機会をうかがっていく。同時に、奮闘する将兵の士気を鼓舞するため、勲章の中にも新戦力が現れるに至った。
 そうした「新顔」の第一号が祖国戦争勲章であり、1942年5月20日に制定された。ドイツとの戦争自体は「大祖国戦争」と呼称されたが、勲章の名前には何故か「大」がついておらず、単なる「祖国戦争」勲章であるのがまぎらわしい。デザインは鎌とハンマーを中心に据えた五芒星、そのバックで交差するサーベルと小銃というもので、見たところはそれほど個性的なものではない。個々の将兵ばかりでなく様々な部隊や組織、あるいは後方で働く軍需関係の労働者も資格があった。ただし1947年の政府訓令により、民間人への祖国戦争勲章授与は廃止されている。
 戦時中の新勲章にふさわしく、祖国戦争勲章は従来の勲章にはない様々な特徴を備えていた。まずは受勲者の勲功に応じ等級が定められていた点。戦前の勲章には1級・2級といった区分けはなかったから、これは祖国戦争勲章からの新機軸なのである(もっとも帝政時代の勲章には等級を持つものがあったので、古い伝統の復活だと言えなくもない)。また、受勲に値する勲功が具体的に定められたのもこの勲章が最初である。煩雑にわたるため具体的な引用は控えるが、敵機○○機撃墜、敵戦車○○両破壊、破損した味方車両の戦場からの回収、敵の弾雨を冒しての架橋等々、受勲に必要な条件が極めて細かく規定されていた。これを見る限り、受勲者として想定されているのは兵卒か下級部隊の指揮官レベルで、元帥や将軍がもらうような勲章ではないようだ。もう一つ、他の勲章が受勲者の死没後は国家へ返納すべきものであるのに対し、祖国戦争勲章は遺族が記念として手許に保持できる唯一の勲章であった(もっとも1977年にルールが変わり、他の勲章も遺族の下へ残されるようになっている)。
 ヴァシーリー・エメリヤネンコ氏が『戦うIl-2』で回想しているところによれば、初めて祖国戦争勲章をもらった時、「見たことのない新しい勲章」だというので戦友たちからたいそう珍しがられたらしい。戦前の勲章体系は意外とシンプルなものだったから、新勲章の出現が大ニュースとなったことは想像に難くない。しかし祖国戦争勲章の制定は、この後に続く新勲章ラッシュの先駆けにしかすぎないのであった。

☆スヴォーロフ勲章(1~3級)

 1942年7月29日制定。クトゥーゾフ勲章、アレクサンドル・ネフスキー勲章との一括制定であった。
 ロシア帝国屈指の名将(そして変人)として知られたアレクサンドル・スヴォーロフの名を冠した勲章。いかに優れた軍人とはいえ、帝政時代の将軍を勲章にするなど戦前には考えられない話だが、なりふり構わず歴史や伝統を利用してまで難局を克服せんとするスターリンの決意を物語っているようでもある。畢竟、為政者というものは歴史を国民動員のアイテムとしないではいられない存在なのだ。当然のことながら、勲章の中央にはスヴォーロフの肖像が配されている(レーニン勲章と同じ左向きの横顔)。
 スヴォーロフ勲章の特徴を一言で言えば、これは指揮官のための勲章である。受勲者は個人的な武勲ではなく、麾下部隊の統率や指揮、作戦の遂行能力を評価されることになる。もらえる等級は受勲者の階級によって異なり、1級は戦線と軍、2級は軍団、師団、旅団、3級は連隊と大隊の各指揮官と司令部(本部)スタッフを対象としている(1943年2月8日の規定変更により、中隊長もスヴォーロフ3級勲章を受けられることになった)。従ってスヴォーロフ1級勲章を受ける資格は高位の軍人に限られ、受勲例は戦争の全期間を通じて346例にとどまる。また個人ばかりでなく、部隊もスヴォーロフ勲章を授けられることがあった。

☆クトゥーゾフ勲章(1~3級)

 1942年7月29日制定。スヴォーロフ勲章、アレクサンドル・ネフスキー勲章との一括制定。ただしこの日に定められたのは1級と2級のみで、3級は1943年2月8日に追加された。ソヴィエトの勲章の中で制定日が複数にまたがったのはこの勲章が唯一の例である。
 スヴォーロフと並ぶ帝政期の名将ミハイル・クトゥーゾフの名を冠した勲章で、クトゥーゾフ本人の肖像をあしらっている(スヴォーロフ勲章と同じく左向きの横顔)。指揮官限定の勲章である点も同じくで、1~3級の授与対象者のカテゴライズはスヴォーロフ勲章のそれと等しい。ただし勲章としてのランクはより下位に位置づけられる。
 クトゥーゾフ勲章に値する功績の規定を読むと、1級は「戦線・軍レベルの作戦を成功させ新たな線まで進出すること」、2級は「数において優越する敵軍の攻勢に対し頑強な抵抗を示すこと」、また3級は「与えられた任務の中で主体性を発揮し、敵軍に大きな損害を与えること」等々と細かいルールが書かれている。が、現実の受勲にあたってどれだけ細かく審査されたのかは分からない。漠然と「スヴォーロフ勲章より低位の指揮官用勲章」と理解されていた節もあるような気がする。例えばジューコフとロコソフスキーの両元帥はいずれもスヴォーロフを受勲しているが、クトゥーゾフの方は持っていない。「最高位の将軍にはスヴォーロフ勲章」という暗黙の了解があったことをうかがわせるような事例である。
 個人ばかりでなく、部隊も受勲の対象とされた。また民間企業の中では、戦車生産に尽力したことで知られるチェリャビンスク・トラクター工場が、1945年にクトゥーゾフ1級勲章を授与されている。
 
☆アレクサンドル・ネフスキー勲章

 1942年7月29日制定。スヴォーロフ勲章、クトゥーゾフ勲章との一括制定。他の2勲章と異なり等級は存在しない。
 先に紹介した如く、スヴォーロフもクトゥーゾフもツァーリ時代の将軍であったが、アレクサンドル・ネフスキーに至っては君主にして聖人という、常識的に考えればソ連の世界観とはおよそ相容れないはずの人物である。スターリンもそれだけ腹を据えて総動員プログラムの中に「歴史」を組み込もうとしたのだ。ただしネフスキーはドイツ騎士団に対する勝利で知られているため、対独戦の英雄としては使い勝手がよく、現に戦前の段階でエイゼンシテインが映画化した実績がある。デザインはスヴォーロフ・クトゥーゾフ両勲章と同じく左向きの横顔の肖像だが、実際のモデルはエイゼンシテインの映画で主役を演じた俳優ニコライ・チェルカソフなのであった。古い時代の人物だからリアルな似顔絵は残っていないし、流石にイコンを使うわけにもいかなかったのだろう。
 受勲の資格を持つのは師団から小隊に至る各級兵団・部隊の指揮官で、スヴォーロフ・クトゥーゾフ両勲章に比べるとランクは低い。評価項目にも、指揮能力の他に「個人としての勇気」が含まれている。つまりは最前線を駆け回った現場クラスの指揮官が対象となっているわけで、受勲者の戦死率は極めて高かったという事実が物悲しい。しかしそれだけに、前線将兵の間で高く評価される勲章でもあったようだ。部隊レベルでの叙勲もあり、有名なところではフランス人パイロットによる戦闘機隊「ノルマンディー・ニーメン」がアレクサンドル・ネフスキー勲章を授与されている。
 ちなみに、同名の勲章は帝政時代にも存在していた(1725年制定)のだが、そちらの正式名称は「聖アレクサンドル・ネフスキー公勲章」であり、ソヴィエト版ネフスキー勲章と全く同じものではない。
 
☆ボグダン・フメリニツキー勲章(1~3級)

 1943年10月10日制定。この時期はソヴィエト軍によるウクライナの奪還が進んでいた時期であり、これを記念する形で誕生した。勲章の創設を推進した者の中に、当時は第1ウクライナ戦線の政治将校を統括していたニキータ・フルシチョフがいる。
 ボクダン・フメリニツキーは17世紀の人物で、当時ウクライナを支配していたポーランドに対する反乱が起きた時、これを指導したことで知られる。この際フメリニツキーはロシア帝国に接近、後にロシアがウクライナ地方を併合するきっかけとなった。ソ連がウクライナ奪還のタイミングでフメリニツキーの名を冠した勲章を制定したのも、こうした歴史的背景が考慮されたのだろう。勲章の真中には正面を向いたフメリニツキーの肖像を配し、ウクライナ語で「ボフダン・フメリニツィキイ」と書かれている。ソ連の勲章の中でロシア語以外の表記を採用した唯一の例である。
 スヴォーロフ及びクトゥーゾフ勲章と同じく、ボクダン・フメリニツキー勲章も受勲者の地位によって等級が異なる「階級的」勲章なのだが、しかしその範囲は先の両勲章に比べて広い。すなわち1級は戦線、軍、艦隊、小艦隊の司令官と司令部職員、2級は軍団から連隊に至る各兵団・部隊の指揮官と司令部・本部職員、そして3級は大隊以下の部隊長・本部職員から下士官、兵に至るまでがその対象とされた。正規軍に加えてパルチザン運動の参加者に与えられたのもフメリニツキー勲章の特徴である。また、授与の対象となる武勲を定めた規定中に「ドイツ占領軍の手からソヴィエトの国土を解放するにあたっての貢献」という文言が含まれているのは、フメリニツキー勲章制定の過程を踏まえたものと言えるだろう。個人だけでなく部隊単位での受勲もあり得たのは他の勲章と同じ。
 もう一つ、これは受勲規定には全く触れられていない部分なのだが、ボグダン・フメリニツキー勲章を与えられた将兵の大部分はウクライナ戦線(第1~第4)麾下の諸隊に属していたと言われる。公式にも非公式にも、ウクライナでの戦いと強い結びつきを持つ勲章なのであった。

☆勝利勲章

 1943年11月8日制定。「勝利」という大胆極まりない、そしてこの時期ではまだ気が早いんじゃないかというようなネーミングである。しかしクルスクにドイツ軍の夏季攻勢をしのぎ、ウクライナから敵軍を撃攘しつつある当時のソ連軍は、それだけの高揚感に包まれていたのだろう。ただし、当初は「祖国忠誠勲章」の名称で計画されていたが、後に勝利勲章へ改められたという経緯がある。
 ソヴィエトの勲章のチャンピオン。その受勲者は大規模な作戦を遂行し、戦局に著しい寄与を行った司令官に限られる。デザインは五芒星の中心に円形のメダルを置き、その中にクレムリンのスパスカヤ塔とレーニン廟が描かれているが、星の端から端までが72ミリという巨大サイズ。また星の部分はルビーでできており、その他にも様々な貴金属や宝石(重さは合計16カラットに達する)がちりばめられている。様々な意味で桁外れの勲章なのだ。なお、モスクワのクレムリンに行ってみると分かるのだが、その一角には歴代受勲者の名を記した記念のパネルがはめ込まれている。これも他の勲章には見られない特別扱いだ。
 初めて勝利勲章を授与されたのはジューコフ、ヴァシレフスキーの両雄と御大スターリンで、1944年4月10日のことである。右岸ウクライナ解放の功によるもので、制定日から半年近く経ってからようやく受勲者が出たわけだ。これ以降も大作戦が成功する度に司令官の受勲が続いていくが、それでも勝利勲章の栄に輝いた者は外国人も含めわずか17人にすぎない。そのうち上記3人は2度もらっているから、授与回数はのべで20回ということになる。意外に思われるかもしれないが、3人の中で最初に2回目の受勲を成し遂げたのはヴァシレフスキーであった。
 勝利勲章を受け取った17人のうち、2011年10月10日現在で存命なのはルーマニアの元国王ミハイ1世ただ1人である。また最後に受勲したのはブレジネフ(1978年)だが、これは流石にやりすぎだというので、ゴルバチョフ時代の1989年に取り消しが決定された(彼を除くと受勲者の合計は16人になる)。
 
☆栄光勲章(1~3級)

 1943年11月8日制定。すなわち勝利勲章と同日に誕生したわけだが、その性格は真逆としか言いようがない。勝利勲章が最高級の司令官たちの勲章であるのに対し、栄光勲章は最も手の届きやすい「兵隊の勲章」なのだ。
 デザインはソヴィエトの勲章にお定まりの星形で、中央にはクレムリンのスパスカヤ塔が浮き彫りで描かれている。こう言ってしまうと先の勝利勲章と似通っているようだが、しかしあちらが宝石をふんだんに使った豪華極まりない代物であるのに対し、栄光勲章の星は見るからに飾り気が少なく、星形のクッキーを作る型で整形したかのような素朴さが却って印象的だ。また1級は金、3級は銀、2級は銀に中央のスパスカヤ塔のレリーフ部分のみが金と、等級により分かりやすくグレードがつけられているのも特徴か。さらに、勲章はオレンジと黒の縦縞という目立つ色合いのリボンに吊されるのだが、このリボンもまた栄光勲章を語る際に欠かせないアイテムである(後述)。
 栄光勲章の授与対象は一般の兵卒と曹長以下の下士官。空軍であれば少尉も有資格者となる。これ以上の階級を持つ士官は、決して栄光勲章を与えられることはない。他の勲章のように、各種の組織や部隊、軍艦などが受勲することもない。純粋に最前線で戦う兵士たちのための勲章なのである。受勲に値する行為は事細かに規定されているが、優れた指揮能力や作戦の遂行などでは勿論なく、「炎上する戦車の中で戦闘を続行」「部隊の危機に際して軍旗を敵の手から守る」「対戦車銃により2両以上の敵戦車を戦闘不能に追い込む」「危険をかえりみず敵陣に一番乗り」「夜間の切り込みで敵軍の資材集積所を破壊」等々、やたらと具体的かつ危険な行為ばかり。これは確かに、高級将校の手に負える勲章ではないだろう。
 この勲章のユニークな点は他にもあって、他の勲章の等級が功績や階級のレベルに応じて定められているのに対し、栄光勲章の場合は1回目の受勲では常に3級、2回目が2級、3回目が1級とレベルアップしていくことになっている。つまり、栄光1級勲章をもらうためには必ずや2級と3級をも手にしていなければならないわけだ。そして3つの栄光勲章に輝いた者には昇進が約束されているという、何やらスタンプラリーのような恩典さえ定められていた(上級軍曹以下→曹長、曹長→少尉、空軍少尉→中尉)。もっとも、栄光勲章を3つ持っているだけで、昇進などせずとも前線では絶大な権威を獲得できたであろうことは想像に難くないが。
 一説によれば、栄光勲章制定のイニシアティヴを取ったのはスターリンその人で、勲章の多くが将軍や指揮官たちに独占されていることを案じ、一般の兵士にも叙勲の機会を与えるよう望んだのだという。いかにも「思いやりのある指導者」にふさわしいようなエピソードで、事実かどうかは正直よく分からないのだが、しかし兵士たちをよりよく戦わせるため、栄光勲章のように手の届きやすい褒章の必要性をスターリンとその政府が理解していたことは事実であろう。勲章界の頂点に達する勝利勲章と同時制定である点もまことに興味深い。
 また、オレンジと黒の縦ストライプに染められたリボンは、これは帝政時代の軍人に人気を博した聖ゲオルギー勲章(及び、それと同系列だが下士官・兵向けの褒章であったゲオルギー十字章)と同じカラーなのである。ソ連政府が士気高揚のために過去の歴史的遺産をフル活用してきたことはすでに繰り返してきた通りだが、栄光勲章のリボンもその典型的な一例と言えよう。なお、「ゲオルギーのリボン」のイメージは現代ロシアの為政者によって再び喚起されており、毎年5月9日の戦勝記念日が近づくと、オレンジと黒の縞模様が勝利のシンボルカラーとして街中を埋め尽くすに至っている。
 かくして、ソヴィエト勲章システムの中でも特異な存在感を示す栄光勲章だが、その受賞が必ずしも喜ばれないケースがあった。それは何らかの不祥事により階級を剥奪され、懲罰隊などで戦うことになった将校が、功績を認められて栄光勲章を授かった場合である。本人は懲罰隊で「罪を贖い」さえすれば再び元の階級を戻してもらえるのだが、その際に栄光勲章を胸にぶら下げていると甚だ見栄えがよろしくない。どうしてあの人は将校なのに兵隊用の勲章なんかもらったんだろう?そりゃ、懲罰隊でお勤めをしたことがあるからに決まっているじゃないか!というわけで、懲罰隊を経験した将校の中には栄光勲章を故意に佩用せず、その前歴を隠そうとした者もいたようだ。これもまた「兵隊の勲章」ならではの逸話と言っていいだろう。

☆ウシャコフ勲章(1~2級)

 1944年3月3日制定。同名のメダルとナヒーモフ勲章が同じ日に誕生している。
 独ソの激闘は大部分が陸上で展開され、戦いの中で功績を残し受勲の栄に輝いた将兵の多くが陸軍に属していたことは不思議でも何でもないのだが、小なりとはいえ海軍もまたソヴィエトの戦力を構成する不可欠の要素の1つであり、質量共に勝るドイツ海軍を相手に奮闘していた。その海軍の軍人を対象とした勲章が、大戦後半に至ってようやく誕生したのである。当時の海軍人民委員クズネツォフ提督が回想の中で書き残しているところによれば、1943年半ばの段階ですでにウシャコフ・ナヒーモフ両勲章の制定をスターリンに提案していたらしいのだが、実現には翌年まで待たされたわけだ。
 勲章が捧げられた相手としては、言うまでもなく歴史的に有名な海軍軍人が選ばれている。フョードル・ウシャコフ提督は18世紀後半から19世紀にかけて活躍し、主に地中海方面で瞠目すべき戦果を挙げた艦隊司令官である。もっとも勲章ができた時点では必ずしも広範な知名度を得ていたわけではないらしく、慌ててウシャコフの偉業を称揚するビラを作ったり、戦後は本人を主人公にした歴史映画を作ったりなんてこともやっている。ウシャコフはまた信仰心の厚さと慈善行為でも有名で、2001年にはロシア正教会から列聖されるに至った。ソ連当局にとっては図らずもということになろうが、アレクサンドル・ネフスキーと並び2人目の「勲章聖人」が誕生したわけである。デザインは五芒星の真ん中にウシャコフの肖像(正面向き)、すなわちソ連勲章に共通のパターン。ただしよく見ると肖像画を囲む縁飾りは錨をあしらった意匠で、海軍らしさをアピールしているかのようだ。
 ウシャコフ勲章はスヴォーロフ勲章の海軍版として構想されたもので、受勲の資格を持つのはスヴォーロフ勲章と同じく士官のみであるし、評価項目も作戦や指揮能力となっている。もっとも勲章としての序列はスヴォーロフの方が上だったから、やはり赤軍の主体は陸軍というのが共通認識であったのだ。また、個人ばかりでなく部隊や組織もウシャコフ勲章を受勲することができた。
 なお、ウシャコフ勲章は制定年が遅かった上、海軍の高級士官を対象としていたために受勲者の数は比較的少ない。とりわけウシャコフ1級勲章は47回しか授与例がなく、勝利勲章に次ぐ少数派の勲章である。結果としてコレクターの間で珍重される貴重品になっており、退役した海軍提督を殺害して勲章を奪う悲劇的な事件さえ起きたことがあるという。

☆ナヒーモフ勲章(1~2級)

 1944年3月3日制定。同名のメダルとウシャコフ勲章が同じ日に誕生している。
 ウシャコフ勲章と全く同じ経緯で制定された海軍独自の勲章である。名を冠しているパーヴェル・ナヒーモフは19世紀に活躍した海軍の司令官で、とりわけトルコ艦隊を相手としたシノープ海戦の勝利は有名。どちらかと言えばウシャコフよりも知名度が高く、ナヒーモフ勲章の方を上位に据えた方がいいのではという意見もあったらしいのだが、どういうわけかクズネツォフはウシャコフを上に持ってくるよう強く主張したためこのような並びになったのだそうだ。デザインは星+肖像画(左向き横顔)のソ連スタンダードに沿ったスタイル。星のそれぞれの先端部が錨型に整形されているので、一度見たら忘れられないインパクトがある。またナヒーモフ1級勲章の星形部分にはルビーが使われており、勝利勲章以外では宝石をちりばめた唯一の勲章となった。何でもスターリンが初めてこの勲章の図案を見た時、「この部分をルビーにした方が見栄えがいいんじゃないのかね?」と言ったからであるらしいのだが、何故そのような贔屓を示したのかはやはり分からない。ちなみに2級勲章の同じ部分はエナメルで処理されている。
 ウシャコフ勲章が陸のスヴォーロフ勲章に該当するのに対し、ナヒーモフの方はクトゥーゾフ勲章と対になるように定められている。対象者はやはり士官のみ。個人ばかりでなく部隊や組織に与えられた点でも共通している。

 勲章の項を締めくくるにあたり、これまでご紹介してきた各勲章の序列をご紹介しておくことにしよう。ただしソヴィエト連邦英雄は勲章ではなく称号なので、当然この中には含まれていない。またレーニン勲章も、軍事ではなく「ソ連邦に対する社会的貢献」という別カテゴリーなので、同様にこの階梯には名を連ねていない。

1.勝利勲章
2.赤旗勲章
3.スヴォーロフ勲章
4.ウシャコフ勲章
5.クトゥーゾフ勲章
6.ナヒーモフ勲章
7.ボグダン・フメリニツキー勲章
8.アレクサンドル・ネフスキー勲章
9.祖国戦争勲章
10.赤星勲章
11.ソヴィエト連邦軍における祖国功労勲章
 ※戦後(1974年)制定の勲章であるため本稿では取り上げていない。
12.栄光勲章

III.メダル

 狭義の勲章の他にも、ソ連政府は多種多様なメダルを世に送り出している。それらの大多数は特定の出来事の参加者に配られるもので、単なる記念品の域を出ないはずなのだが、しかしその「出来事」が重要な会戦であったりすると話は別である。戦争関連のメダルは勲章に準ずる存在として重んじられた、と見なしてよい。
 ちなみに、旧ソ連で戦争を体験したお年寄りたちが祭日などに「勲章ジャラジャラ」状態で闊歩することはよく知られているところであるが、そのほとんどの正体はメダルである。流石に勲章はそれほど簡単に授与されるものではない。また、戦後も「戦勝○○周年記念」という形で次々に作られたから、あのように膨大な量のメダルが一個人の胸を飾ることになったのだ。
 勲章に比べると注目される機会は少ないかもしれないが、メダルもまた戦時の将兵たちにとっては苦楽を共にした「戦友」たちであった。以下、1945年以前に制定された軍関連のメダルを列挙しておきたい(カッコ内は制定年月日)。

○労農赤軍20周年メダル(1938年1月24日)
○勇敢メダル(1938年10月17日)
○戦功メダル(1938年10月17日)
 ※この2つは記念品ではなく、具体的な戦功や英雄的行為に対して与えられるものであり、事実上勲章の一種であったと見てよい。
○レニングラード防衛メダル(1942年12月22日)
○オデッサ防衛メダル(1942年12月22日)
○セヴァストーポリ防衛メダル(1942年12月22日)
○祖国戦争パルチザンメダル(1943年2月2日)1級及び2級
○ウシャコフ・メダル(1944年3月3日)
○ナヒーモフ・メダル(1944年3月3日)
 ※この2つは同名の勲章と同時に制定された。
○カフカース防衛メダル(1944年5月1日)
○モスクワ防衛メダル(1944年5月1日)
○ソヴィエト北極圏防衛メダル(1944年12月5日)
○1941-1945年大祖国戦争における対独戦勝メダル(1945年5月9日)
○ベルリン占領メダル(1945年6月9日)
○ブダペシュト占領メダル(1945年6月9日)
 ※ベオグラード以下の東欧首都が「解放」の対象となっているのに対し、ブダペシュトのみが「占領」扱いである点は興味深い。
○ウィーン占領メダル(1945年6月9日)
○ケーニヒスベルク占領メダル(1945年6月9日)
 ※各国首都以外で占領もしくは解放が記念された唯一のメダル。
○ベオグラード解放メダル(1945年6月9日)
○ワルシャワ解放メダル(1945年6月9日)
○プラハ解放メダル(1945年6月9日)
○対日戦勝メダル(1945年9月30日)

★  ★  ★

 以上、第2次世界大戦終結までを1つの区切りとして、ソヴィエト連邦が制定した勲章(及びメダル)を概観してきた。
 あらためて、ソ連の勲章は興味深い存在であると感じている。単に種類が豊富だったりデザインが凝っていたりというだけの理由ではない。多彩な勲章のひとつひとつに、ソ連政府が国民を統合し、戦時にあっては兵士としてよく戦わせるために払った努力と苦心の痕跡が見えるからである(その行為の是非は措くとして)。統治者たちは歴史や文化の動員に知恵を絞り、あるいは将官と下級兵士たちの表彰のバランスにも腐心しなければならなかった。その結果が数多くの勲章となって現れているのである。
 勿論、勲章制定や叙勲のルールはルールとして、実際の戦場では様々な「ニュアンス」があったようである。栄光勲章の項目で触れた、懲罰隊送りになった将校と同勲章との微妙な関係はその典型であろう。また、元兵士の回想の中では「隊長や政治将校が恣意的に受勲推薦リストを作っていた」「上層部が勲章を独占してしまっていた」等々と怨嗟の声が聞かれることも珍しくない。さらに、赤軍が負けに負け続けていた1941~42年頃は叙勲の機会が激減し、このため当時であれば勲章どころか勇敢メダルを授与された者でさえ英雄扱いであった、という談話もある。
 こうしたルール以外の部分も念頭に置きつつ、今後はソ連の勲章を見る際に、拙稿が多少なりとも参考になればと思う。彼らは決して元兵士たちの胸を埋め尽くす無意味な金属の塊ではなく、個性豊かな歴史の証言者たちなのである。

(11.10.10)


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