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【社会】

<孤児たちの闘い 東京大空襲74年>(上)飢え 物乞い 地下道生活 ずっと語れなかった 鈴木賀子(よりこ)さん(81)

戦争孤児だった7歳のとき身を寄せていた上野駅の地下道を訪れる鈴木賀子さん。「思い出すとつらくなるので、上野はあまり通らないようにしています」=東京都台東区で(木口慎子撮影)

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 半月か一カ月か。どれくらいそこにいたのか、はっきりは覚えていない。終戦から間もない一九四五年の秋、戦争孤児らであふれる上野駅の地下道に埼玉県川口市の鈴木賀子(よりこ)さん(81)はいた。東京大空襲で孤児となり、焼け焦げた布団で寝て、食べ物を盗み、飢えをしのいだ。生きるために。

 「朝起きると毎日誰かしら亡くなっていました。夕べ話したおじちゃんも。大人が何人かで死体を抱えて入り口の近くに置いていました」。鈴木さんは、記者と訪れた上野駅の地下道から、目を背けるように語った。「今も上野駅には来たくない。つらい過去を思い出してしまうから」。ここでの体験を、ずっと語れなかった。

 七歳だった。四五年三月十日、四つの弟と十四歳の二番目の姉とともに、東京都城東区(現江東区)の自宅近くの防空壕(ごう)に避難した。「大事な物があるから取りに行ってくるね」。そう言って、母と一番上の姉は防空壕を出ていった。

 間もなくB29爆撃機が次々と爆弾を投下する。「学校へ逃げろ!」。防空壕を飛び出し、火の海を走りに走った。服が腕から燃えていく。弟をおんぶして逃げた姉の顔は火膨れしていた。たどり着いた学校で朝を迎え、目にした町は至る所に死体が転がっていた。

 げたは履き捨てていた。熱を帯びた道は素足で歩けない。黒焦げの死体の上を歩き、たどり着いた自宅は焼け落ちていた。母も、上の姉も見つからなかった。

 約十五キロ離れた大井町の親戚宅へ行ったが、邪魔者扱いされた。高円寺で国鉄職員として働いていた姉と別れ、尾久にいる別の親戚宅に預けられた。

 ある日、その家の人ではない、女性が訪れてきた。遠い親戚だと言われたが、きれいな人だったことだけは覚えている。ニシンの干物をくれた。「一緒にいれば食べ物がもらえる」。空腹に耐えられず、弟とついて行くことを決めた。

 女性と電車に乗った。だが、いつまでたっても降りない。「どこに行くんですか」。たまらずに聞くと、「あんたたち、もらわれて、これから小樽へ行くのよ」と告げられた。

 北海道・小樽の家では毎日のようにいじめを受けた。二階の窓から投げ出されたこともある。雪があってねんざで済んだものの、右足には後遺症が残った。「かわいくなかったんでしょうね。でもね、空腹がどれだけつらいか。痛みはそのときだけですから」

 半年がたったある日、弟が姿を消した。小樽駅で弟を見つけると、「ご飯、食べられなくてもいいから、東京帰ろう」。姉の住む高円寺に向かう決意をした。

 何度も女性に帰郷を頼み込み、青函連絡船まで一緒に行って切符を渡されたが、「弁当を買いに行く」と言い残したまま戻ってこなかった。「おまえら、捨てられたんだよ」。船で雑魚寝していた男の人から突き放すように言われた。

 連絡船を下り、大人の後を追って駅の改札を擦り抜け、無賃乗車を繰り返した。おなかをすかせた弟はよく泣いた。「めぐんでください。食べ物を」。降りるたびに物乞いを続けた。「いつも、犬のように追い払われました。空襲後、一番つらい思い出です」

 小樽を出て何日後だったか。たどり着いた高円寺で再会した姉は号泣した。だが、転がり込んだ姉の寮で盗難が相次ぐと、弟と二人に疑いの目が向けられた。「もう行く所がなくなっちゃったね」と姉が言う。高円寺を後にし、向かった先が上野駅の地下道だった。

      ◇

 一夜で約十万人が犠牲になった一九四五年三月の東京大空襲では、多くの子どもたちが家族を失った。戦争孤児となった人や保護施設の関係者に焦点を当て、大空襲の裏面史を描く。

 東京新聞ホームページ「孤児たちの闘い 東京大空襲74年」コーナーで、連載で取材した人々が登場するドキュメンタリー動画を公開しています。

 

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