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満洲語&清朝史普及計画

 清の太祖ヌルハチの一代記『満洲実録』から、挿絵を抜き出してアップロード。
 画像は以下の文献からの引用です。
 『満洲実録』(『清実録』中華書局、1985~87年) 

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 年代:明代初・中期~癸未年(1583年、明万暦十一年)

 「スクスフ部要図」、「満洲五部(マンジュ五部)境域図」以外の画像は、『満洲実録』第一巻から引用

dudu mentemu batangga niyalma be waha,

・左枠

[満:dudu mentemu batangga niyalma be waha,(ドゥドゥ=メンテム(都督孟特木)が仇の者を殺した)) ]
[漢:都督
孟特木計殺仇人(都督孟特木計(はかりごと)もて仇人を殺す)][:        ]

・挿絵 
 旗の上の文字 
 満:dudu mentemu(ドゥドゥ=メンテム) 

 ※下線部分は皇帝の諱を隠すため、付箋が貼られている個所。
  今西春秋『満和和対訳満洲実録』(盛京閣蔵本に基づく)を参考に補う。

 
 ファンチャ Fanca(樊察)は神のカササギによって命を助けられ、身を隠した。
 これにより、後世の満洲人はカササギを祖として敬い、危害を加えようとはしなくなった。
 
 ファンチャの子孫のドゥドゥメンテム Dudu Mentemu(都督孟特木、猛哥帖木児、肇祖原皇帝)は、オモホイ Omohoi(鄂謨輝、俄漠恵) の野のオドリ城 Odoli hecen(鄂多理城)の西千五百里の先にあるスクスフ河 Suksuhu bira (蘇克素護河。蘇子河。撫順市新賓満族自治県)のほとり、フラン=ハダ Hulan hada (呼蘭哈達)という山のふもとにあるヘトゥ=アラ Hetu Ala(ヘトゥアラ、赫図阿拉)の地に一族の敵をおびき寄せて半分は殺し、半分は人質とし、それ以来ヘトゥ=アラに住むようになった(下図「スクスフ部要図」参照)。
 
 後の後金・清朝の母体となるマンジュ Manju (満洲)の基礎はこのようにして定まった。明側からは「建州女真」と呼ばれる。マンジュはスクスフ Suksuhu 部、ジェチェン部、フネへ部、ワンギヤ部、ドンゴ部の五つの勢力に別れており、歴史上「マンジュ五部(満洲五部)」と呼ばれる。後にヌルハチを輩出するのはマンジュ五部の内のスクスフ Suksuhu 部である。

manju_gurun
満洲五部(マンジュ五部)境域図(今西春秋「Jušen国域考」第6図)
スクスフ部要図

承志・杉山清彦「明末清初期マンジュ・フルン史蹟調査報告――2005年遼寧・吉林踏査行」、【地図2】(今西春秋「Jušen国域考」第1図を基に作成)
 
 
 

 メンテムには、チュンシャン Cungšan(充善)とチュヤン Cuyan (褚宴)の二子があり、チュンシャンにはトロ  Tolo(妥羅)、トイモ Toimo(妥義謨)、シベオチ=フィヤング Sibeoci Fiyanggū(錫宝斉篇古)の三子があり、シベオチフィヤングには一子ドゥドゥ=フマン Dudu Fuman(都督福満、興祖直皇帝)があった。

 フマンには、デシク Desiku(徳世庫、長祖) 、リオチャン Liocan([王留]闡、二祖)、ソーチャンガ Soocangga(索長阿、三祖)、ギオチャンガ Giocangga(覚昌安、四祖、景祖翼皇帝、ヌルハチの祖父)、ボーランガ Boolangga(包朗阿、五祖)、ボーシ Boosi(宝実、六祖)の六子があり、ヘトゥ=アラの周辺に城を構えて住んでいた。彼らはニングタのベイレ Ninggutai Beise(六王、六祖)と呼ばれる。

 四男(四祖)のギオチャンガの子はリドゥンバトゥル Lidun Baturu(礼敦巴図魯) 、エルグウェン Erguwen(額爾袞)、ジャイカン Jaikan(斎堪)、タクシ Taksi(塔克世、顕祖宣皇帝、ヌルハチの父)、タチャ=フィヤング Taca Fiyanggū(塔察)の五人である。

 タクシには最初の妻との間にヌルハチ(Nurhaci 努爾哈赤、努爾哈斉、太祖高皇帝)シュルガチ Šurgaci(舒爾哈斉)、ヤルガチ Yargaci(雅爾哈斉)の三子があり、その他の妻との間にバヤラ Bayara(巴雅喇)、ムルハチ Murhaci(穆爾哈斉)の二子があった。

 以上が『満洲実録』の伝えるヌルハチの代までの愛新覚羅氏の家系である。

 このうち、ファンチャ~トロ、トイモの部分は建州女真の建州左衛を継承した家系の系譜である。明朝は建州女真を三つの衛所(建州衛、建州右衛、建州左衛)に分け、有力者に都督という称号を与えて間接統治を行っていた。メンテムの名の前につく「ドゥドゥ」は漢語の「都督 dudu」である。

 明側の史料によるとメンテムは宣徳八年(1433)に亡くなっているので、おおむね明初、14世紀末~15世紀前半の人物らしい。ドゥドゥ=メンテムはヌルハチの六代前の先祖とされ「肇祖原皇帝」の称号を追贈されている。

 『明実録』においても、建州左衛の都督の家系に連なるものとしてファンチャ、メンテム、チュンシャン、チュヤン、トロ、トイモの六人がそれぞれ「凡察」、「猛哥帖木児」、「董山」、「綽顔」、「脱羅」、「脱原保」として登場する。ただし、『明実録』や朝鮮側の史料では、ファンチャはメンテムの祖先ではなく弟で、トイモはトロの弟ではなく子となっている(三田村泰助『清朝前史の研究』)。

 ところが16世紀はじめになると従来の建州三衛は没落し、建州左衛の系譜もこの時期からたどれなくなってしまう。トロの後にトイモが都督を継ぎ、正徳元年(1506)から嘉靖二年(1523)まで明に朝貢したが、それ以後一族の消息は不明である。

 シベオチ=フィヤングとドゥドゥフマンにあたる人物は明や朝鮮側の史料には見出せない。特にドゥドゥ(都督)という称号をもつほどの有力者のフマンが明側の記録に現れないのは不自然である。

 これに対し、フマンの第四子のギオチャンガ(ヌルハチの祖父)とタクシ(ヌルハチの父)は明側の史料にも現れている。

 このことから、シベオチ=フィヤングとドゥドゥ=フマンはヌルハチ一族の出自を名門の建州左衛に結びつけるために、清朝が創作した人物との見方も成り立つ。ヌルハチ一族とメンテムを初めとする建州左衛の家系との関係は実際はかなりあいまいなものらしい(三田村泰助『清朝前史の研究』)。

 祖父ギオチャンガ、父タクシ、ヌルハチが生きた16世紀から17世紀にかけての東アジアでは貨幣経済の発達による一大商業ブームが起きており、それはジュシェン Jušen(女真) 社会にも波及した。 
 当時は遼東地方各地に「馬市」と呼ばれる明の貿易市場が設置され、ジュシェンが主に馬、薬用人参、貂皮、淡水真珠等を輸出し、明が主に農具、耕牛、生活用品等を輸出していた。ジュシェンと朝鮮との貿易もおおむね同様だったらしい。
 こうした
商業ブームにより、ジュシェン社会では旧勢力が没落し、経済力と軍事力をたくわえた新興勢力が台頭していった。

 
ヌルハチ一族もそうした時流にうまく乗った新興勢力の一つだった。

 祖父ギオチャンガはニングタのベイレにおける最有力者で、 明側の記録によると、毎回二十数名から四十数名程度の商人を引きつれ、農繁期等の季節に制約されることなく、一、二ヶ月に一回という高い頻度で撫順の馬市を訪れている。
 このことから、ギオチャンガは農民や狩猟民ではなく、専業の貿易商人だったと思われ、ヌルハチ一族は商人的性格が非常に濃かったことがわかる(河内良弘『明代女真史の研究』)。
 ヌルハチはやがてジュシェン各勢力を征服し、明を破り、遼東地方を制覇するが、その軍事力の基盤もまた貿易により得た富だった。
 

manjui mukdeke da susu

・左枠

[満:manjui mukdeke da susu, (満洲の興った根源の故郷)
[漢:滿洲發跡之處( 滿洲發跡の處)
:        ]

・地図上の説明(左から)
 満:suksuhu bira(スクスフ河)  
 漢:蘇克素護河

 満:janggiya(ジャンギヤ)   
 漢:章佳

 満:nimalan(ニマラン)    
 漢:尼瑪蘭

 満:ligiyai bira(リーギヤ河)
 漢:里加河

 満:hetu alai hecen…(印刷が小さく判読困難)(ヘトゥ=アラ城)
 漢:赫圖阿拉

(絵図の下の山:判読困難)

 満:šoli ala(ショリ岡) 
 漢:碩里崗

絵図の下の山:判読困難)

 満:holo gašan(ホロ村)
 漢:和洛噶善

 満:giyaha bira(ギャハ河)
 漢:嘉哈河

 満:giorca(ギョルチャ)
 漢:覺爾察

 満:hūlan hada(フラン=ハダ)
 漢:呼蘭哈達

 満:aha holo(アハ=ホロ)
 漢:阿哈和洛
 
 

 ヌルハチは1559年(己未年 明嘉靖三十八年)に当時スクスフ部内の一勢力の首長だった父タクシと母ヒタラ Hitara 氏(喜塔拉氏)の間に長男として生まれた。『満洲実録』によると、母は身ごもってから十三月後にようやくヌルハチを産み落としたとか、生まれつき「鳳眼大耳、面如冠玉」(切れ長の目で目尻がやや上がり気味、耳が大きく、玉のような顔)という吉相だったとも記されているが、この手の話は王朝の始祖や英雄を賞賛する型どおりの美辞麗句なのであまりあてにはならない。

 ヌルハチが十歳のころ生母が亡くなり、タクシが迎えた後妻がヌルハチにつらくあたったらしい。十九歳になったとき、ヌルハチはトゥンギヤ Tunggiya 氏のハハナ=ジャチン Hahana Jacing を妻に迎え、同時に父から自立した。だが、父はヌルハチに奴僕・家畜を分与するとき、嫉妬深い後妻の言葉に従って、少ししか与えなかった。その後しばらくは何をしていたのかよくわからないが、農業や商業活動などで生計を立てていたらしい。

 だが、1583年(癸未年 明万暦十一年)、ヌルハチの運命は急転することになる。

 ヌルハチが登場する以前、マンジュ五部(建州女真)には王杲という有力者がおり、ギオチャンガ、タクシとも関係が深かった。だが王杲は明の役人を殺した事から、遼東の明軍を預かる遼東総兵官李成梁の報復を受け、その勢力は一気に衰退する。
 その息子アタイ Atai(阿太)は復讐を誓い、周辺部族と協力して明領へ攻め入った。これに対し、李成梁はアタイを討つ事を決意。アタイは自身の拠点グレ Gure(古埒)城に立て篭もり、明軍はグレ城を包囲した。


 アタイの妻はギオチャンガの孫娘だったので、孫娘を救出するためギオチャンガは、タクシを伴って包囲下のグレ城に入っていった。だが、そのときに明軍の総攻撃が始まってしまい、グレ城は陥落。混乱の中、ギオチャンガとタクシは城の住民ともども明兵の手にかかって殺された。

 グレ城へ明兵を引き入れ、祖父と父の命を奪う結果を招いたのは、ニカン=ワイラン Nikan Wailan(尼堪外蘭)という者だった。ニカン=ワイランは、スクスフ部のトゥルン Turun (図倫)城の城主であり、この戦いでは明軍に加わっていたが、城内にいたギオチャンガとタクシを救出するどころか、明兵を利用して殺害させてしまったのである。

 ヌルハチは祖父と父を一度に失い、一足飛びに祖父の遺業を継承することになった。

 ヌルハチは、ただちに明に抗議し、明側もその非を認めて二人の遺体を返還し、三十通の勅書(貿易許可証)と三十頭の馬を賠償として支払った。

 だが、ヌルハチは満足せず、祖父と父の仇であるニカン=ワイランの引渡しを要求した。

 しかし、そのために明はかえって態度を硬化させ、ニカン=ワイランを支援するようになった。スクスフ部においてギオチャンガの地位は磐石なものではなく、彼が亡くなると離反するものが多かった。さらに明がニカンワイラン支持に傾くと、今まで模様眺めを決め込んでいた勢力も次々とニカンワイランの側につき、そしてなんとヌルハチの同族のニングタのベイレ一族もニカン=ワイランについた。

 ギオチャンガは自らの勢力を拡大する過程で多くの敵を作り、一族からも恨みを買っていたらしい。ヌルハチは孤立無援に陥ったかに見えた。

 だが幸いなことにニカンワイランに恨みを持つものが次々とヌルハチのもとにはせ参じ、スクスフ部はヌルハチ派とニカン=ワイラン派の真っ二つに割れることになった。

 

 ヌルハチはニカン=ワイランに報復するために早速兵を挙げた。
 『満洲実録』によるとこのとき父がヌルハチに残したのは鎧わずか十三であったという。これはのちに「遺甲十三副」として長く語り継がれることになる。鎧を着ていない兵士を含めてもせいぜい数十人~百人規模だっただろう。
 
 後に東アジアのほぼ全域を支配する大清帝国はここから始まった。

 

 1583年(明万暦十一年)五月、ヌルハチはニカン=ワイランの拠るトゥルン城を攻め落とした。このときの兵力は鎧わずか三十、兵は百人だった。

 だがそのときにはニカン=ワイランはすでに妻子を伴って脱出し、明の国境沿いのギヤバン Giyaban(嘉班)に 逃亡していた。

 

taidzu tuktan deribume turun i hoton be gaiha,

・左枠

[満:taidzu tuktan deribume turun i hoton be gaiha,(太祖は初めて起ちトゥルンの城を取った)
[漢:太祖初舉下圖倫(太祖初めて舉げ圖倫を下す)
:        ]

・挿絵
 右側城門 
 満:turun i hecen(トゥルンの城)
 漢:圖倫城


 しかも、この戦いでは、あらかじめサルフ Sarhū (薩爾滸)城のノミナ Nomina(諾密納) と共同で攻める手はずとなっていたが、ニングタのベイレの一族の
ソーチャンガ の子ロンドン Longdon(龍敦)がノミナをそそのかして出兵させず、そのために脱出を許す結果となった。

(つづく)

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史料・参考文献

史料
『満洲実録』(『清実録』中華書局、1985~87年)
今西春秋訳『満和和対訳満洲実録』刀水書房、1992年

参考文献
(中国語)
閻崇年『努爾哈赤伝』北京出版社、1983年
(日本語)
今西春秋「Jušen国域考」『東方学紀要』2、天理大学おやさと研究所、1967年
河内良弘『明代女真史の研究』東洋史研究叢刊四十六、同朋舎出版、1992年
承志・杉山清彦「明末清初期マンジュ・フルン史蹟調査報告――2005年遼寧・吉林踏査行」『満族史研究』5、2006年
松浦茂『清の太祖 ヌルハチ』中国歴史人物選、第十一巻、白帝社、1995年
三田村泰助『清朝前史の研究』東洋史研究叢刊十四、東洋史研究会、1965年

追記:『満洲実録』の引用画像をより鮮明なものに差し替え、マンジュ五部の地図を追加しました。また、本文に加筆訂正を行いました。
(2015.2.1)