人気ブログランキングに参加しています。

まずはここをポチッとお願いします。

 

 

 

永田鉄山

 

学校で教わることはないが、日本人として知っておくかなければならない歴史的事実がある。

 

その一つが1918917日、モスクワでユダヤとボリシェビキのイルミナティ会議が開催されて「日支闘争計画案」が交付されたことである。

 

ここには「日本の内部破壊を図るとともに、日本と支那を武力闘争に発展させ」と計画されており、日本を戦争させる当事者とされていた。

 

1928年のコミンテルン会議では「極東で邪魔なのは日本と米・英をバックにした蒋介石である。そこでまずは日本と蒋介石を戦わせる(=支那事変)。そうすれば支那の背後にいるアメリカとイギリスは必ず乗り出してくる」として、ソ連にとって邪魔な日本を潰す多めに日本に戦争をさせるように計画された。

 

1931年に日本の内と外で事件が起きた

 

国内で起きた事件は三月事件十月事件である。国外では満州事変である。

 

この内・外の事件を共に推し進めていたのは永田鉄山であった。

 

三月と十月の事件は当時、ほとんどの国民は知ることはなかった。

 

当時、この事件を国民が口にすると「反軍!」ということでひどい目に遭ったからだという。この事件は軍が秘密にし、公になることを神経質なほど警戒して取締まっていた。

 

 

戦前の陸軍の統制が乱れ、それが表面化するのは1931年の三月事件であった。

 

これは陸軍の大物であった宇垣一成大将が軍事参議官の時にクーデターによって自ら政権をとろうとした時に始まる。

 

193127日午後3時過ぎ、橋本欣五郎、二宮治重、建川美次、小磯国昭、大川周明らが品川にある重藤大佐宅に集合した。

 

この時の協議の結果、「国家破壊計画」を策定した。

 

その内容は次の通りであった。

①大規模に無産三派連合(社会民衆党、社会大衆党、全国労農党)の内閣糾弾の大演説を日比谷で開催し倒閣の気勢を昂揚する。

 

②政友会、民政党の本部や首相官邸を爆撃する。

 

③大川の計画による一万を動員して八方から議会に向かってデモを行う。

 

④軍隊を非常収集して議会を保護すると言ってこれを包囲し内外一切の交通を遮断する。

 

⑤某中将は小磯、建川少将のいずれか一名以下数名の将校を率いて議場に入り、「国民は今や浜口内閣を信任せず、宇垣大将を首相とする内閣のみ信頼する」と総辞職を決行させる。

 

⑥陛下の大命は宇垣に降下するようにあらかじめ閑院宮殿下や西園寺公望に策動する。

 

この破壊計画の策定は小磯國昭の下で永田鉄山が作成した。

 

この時、永田の帷幕に参画したのが東條英機と鈴木貞一等であり、この系統を継承したのが後の「統制派」である。

 

三月事件は日本の過去の事件よりも大規模であり、「国家破壊」という明確な意図を持っていて、単なる政権獲得を目的にしたものではなかった。

 

「政友会や民政党や首相官邸を襲撃!」

 

「第一師団を出動させて戒厳令を敷き、浜口内閣の総辞職を要求し、宇垣陸相の軍事政権を樹立する!」

 

この国家破壊計画に第一師団長・真崎甚三郎が断固として反対した。

 

真崎は三月事件の計画を第一師団参謀長の磯谷廉介から聞くと「それはけしからん、とんでもないことだ」と言って、磯谷から永田に警告させた。

 

さらに真崎は警備司令官に「もし左様な場合には自分は第一師団長として警備司令官の指揮命令を奉じない。あるいは大臣でも次官でも逆に自分が征伐するかもしれんから左様ご諒承を」と通告した。 

 

これでこの計画は崩れた。

 

さらに決定的にしたのは教育総監部課長・山岡重厚の反対であった。

 

永田は計画の実行にあたり中堅将校を同士として参加させるために、その同意と協力を必要とした。

 

そこで永田は麹町区内幸町の「飛行会館」に中堅将校を集めて、計画の秘策を打ち明けて参加を求めた。

 

その時、この中にいた山岡は「陸軍の首脳部が左様な陰謀を計画するとはけしからん。永田! 貴様から俺が縛ってやる」と怒鳴った。

 

永田は機敏だから形勢不利となると直ちに計画をもみ消した。

 

これで宇垣ら首脳は躊躇したため、クーデターは未遂となった。

 

事件後、真崎が断固反対したことで宇垣、南、小磯、杉山らの反撃を受けるようになる。

 

三月事件を抑えた山岡重厚は二・ニ六事件後に予備役にされた。

 

この三月事件の失敗で国家改造計画は二派に分かれた。ひとつは合法的に政権を操るようにし、その政治力で革新を断行していく「統制派」と、もう一つは国家革新は過激な直接行動で行うべきだという「清軍派」である。

 

よく間違われるが、「清軍派」を「皇道派」と呼ぶ識者がいるが間違いである。皇道派は革新ではなく、日本の伝統・文化を尊重して守り、國體を大切にする日本精神そのものであった。

 

しかし統制派も清軍派も人間は相通じており、両者は一つと見ることができるのは、両派に属する名前が昭和10年の雑誌『維新』一月号に列挙されていたからである。

 

「永田鉄山、橋本欣五郎、小磯国昭、南次郎、東條英機、樋口季一郎、長勇、根元博、池田純久、片倉衷、植田鎌吉、松井石根、建川美次、板垣征四郎、影佐禎昭、佐藤幸徳、田中隆吉、田中清、渡辺錠太郎、寺内寿一、重藤千秋」

 

三月事件が失敗したため、永田鉄山は考えを変え、同期生閥を形成させた。

 

永田鉄山、東條英機が十六、七期の同期生を同士として集め、十八、九期の山下奉文、今村均らが同期を集う。次は石原莞爾、鈴木貞一、さらに武藤章、池田純久らが作る。そうして同期生閥を上から下に貫き、一つの勢力を結成させた。

 

統制派はこの組織の力で、合法的に政治に近づき、財閥と連絡し合い、民間の左翼知識層を誘引し、政権獲得と国家革新を推進し、合法的に反対勢力の皇道派に弾圧を加え、排斥し、策を弄して失脚させるという陰険な手段を講じた。

 

その手段まさに共産主義的、コミンテルンの手法ともいえるものであった。

 

三月事件は軍が徹底的に秘密にしたため世間にも漏れず、事件関係者の処罰もされず、責任をとった者もいなかった。

 

・・・・・

人気ブログランキングに参加しています。

二・二六事件は奥が深い、と思った方はここをポチッとお願いします。