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昭和6年に「桜会」というのがあった。
この会の設立の動機はロンドン海軍軍縮条約であった。発起人は参謀本部の橋本欣五郎、陸軍省の坂田、警備司令部の樋口の3人である。
この会は省部(陸軍省と参謀本部を合わせてこう呼んでいた)の壮年将校が中心となって「武力行使も辞さない国家改造計画」を目論んでいた会であった。
ロシア班長の橋本欣五郎、支那班長の根本博が有力な桜会のメンバーである。
永田鉄山の企んだ「三月事件」に桜会は利用されていた。
磯部浅一(いそべあさいち)と村中孝次(むらなかたかじ)という皇道派の青年将校がいる。後に二・ニ六事件の首謀者として処刑されることになるが、彼らの書いた『粛軍に関する意見書』に「十月事件」のことが書かれている。
「昭和六年十月事件は、三月事件において中堅的に行動した人物及び桜会の急進過激な一部が建川中将、小磯中将等を背景として永田鉄山少将、田中清少佐、池田純久少佐等を(日本変革の)建設方面の協力者として改めて計画したもので・・・
青年将校を巧みに操らんとしたもので、いかなる計画であったかは、当時参集していた私ども青年将校にはいまだ未明であります。
私共は世上に憤激し、維新に奉公せんとする考えから参集したのでありますが、ただただむやみに待合酒席に会合して幕僚側の大言壮言を聞かされたり、誓約の血判をさせられたりしたのでありますが、その中に、『酒席その他の資金は陸軍から出ている。陸軍の大世帯はこれくらいな金に困らぬ。決して不純な金ではない』とか、『諸君の論功行賞は我々で十分考慮している』とか、『弾薬は豊橋の佐々木到一連隊長が直前に持参することになっている』とか、奇怪な煽動的言辞が漏れ出したのみならず『大川周明に依頼して詔勅の文案が出来ている』とか大臣がどうの、戒厳司令官がどうのとか論議され・・」
さらに磯部はこう書いている。
「『我々は実行の後には二重橋前で切腹して申し訳せねばならぬと考えるが、幹部はどうするのか』と質問したるに対して『切腹はいやだ、せぬ』と答えた」
「青年将校達は幹部に対する非常な思想的疑惑、不信感となり、収拾がつかなかった」と磯部は書いている。
また磯部浅一は、橋本欣五郎や大川周明が軍幕僚(佐官)や青年将校(尉官)や政治右翼を引連れて、連日連夜、東京の花街で豪遊し、維新の志士気取りで秘密を芸妓にペラペラと得意げに話しているのを見て、
「連夜豪遊を極め、不謹慎千万にも明日をも知れぬ命云々と芸妓の前に口外するが如き等・・吾を失望せしめ・・」と書いている。
そして、磯部はじめ青年将校達は、出所不明の大金を費消して花街で豪遊する幕僚たちに反感を持つようになっていく。
この橋本や大川の大人数の連日の豪遊のための資金の出所は藤田勇であったと田中清少佐の手記に書いてある。
さらに、『別冊正論15』には、この藤田の資金の出所はレーニンのお金だと書いてあり、そこから「大川周明を通して橋本欣五郎らに流れた」とも書いてある。
いずれにせよ愛国の仮面をかぶり、酒色に溺れ、心身が荒みきった連中が、ソ連の資金で共産主義の国家破壊革命を日本でやろうとしていたということである。
1931年8月4日、橋本欣五郎中佐は田中清少佐にこう言った。
「本年9月中旬、関東軍において一つの陰謀を行い、満蒙問題解決の機会を作るべく、国内にはこれを契機として根本的変革を敢行せらるべきなり。此れの如きを以て軍部に政権の来るべき、更言すれば軍部が中心となり政権奪取のための計画案を九月初旬までに構成せられたし、政綱、政策は政権奪取後において攻究立案する」(『田中清手記』より)
ここにある関東軍の陰謀とは「満州事変」のことである。勃発する日時までも早くから設定されていたことが伺える。
この満州事変を契機として軍は国内でもクーデター(十月事件)を行い、政権を奪って国内革新(ボリシェビキ革命)を断行しようとしていた。
しかし肝心の国内革新の具体的内容と目標は出来ていなかった。
「政綱、政策は政権をとってから考える。それよりもどうやって政権をとるかだ」
つまり国家の破壊しか考えていなかったのだ。
9月18日に柳条湖の満鉄爆破を口実に満州事変となる。ここで重要なのは国内クーデター(十月事件)における革新計画と国外の満州事変が別個のものではなく、内外相呼応して計画されたことにある。
柳条湖事件が起きた日の朝、田中清少佐は橋本欣五郎中佐に「今回の国内変革は行わない」と言われた。
田中は橋本の言うことを信じ、国内変革は行わず満州事変に邁進すると思った。
しかし、10月3日の夜、橋本から速達が届き「明日4日に森ヶ崎の万金に集合」と書いてあった。
翌日そこに行くと支那駐在武官の長勇少佐、参謀本部ロシア班の田中弥大尉、小原大尉の3名がいて「国内変革決行する」と言われ、「陸軍省、参謀本部、近衛、第一師団等すべて国内変革に向かって準備中、海軍も然り。まずクーデターにより政権を軍部に奪取して、独裁政権を布き、政治改革を行う」と言われた。
それに対して田中清少佐は聞いた。
「国内変革は如何なる内容のものか?」
「それは秘密で示すことはできない」
「君らが日夜画策するものは何の計画か?」
「破壊計画である」
「破壊計画というものは建設計画を明らかにしてその範囲でつくるべきではないか。建設計画を明らかにせず破壊計画とは不合理ではないか」
「建設計画は他で立案中である」
「他とは?」
「大川周明博士を主体とする一派」
「大体、いかなる破壊を行うのだ?」
「海軍爆撃隊による威嚇、首相官邸で大臣全員の惨殺、警視庁の急襲・・・」
「何のために破壊が必要なのか?」
「元凶の一掃のため」
この問答からクーデターは10月21日前後に実施するということがわかった。
田中は翌日3人を説得した。「計画は著しく国家に不利益をきたし、国軍を破壊し、国際関係も不利益となり、国内産業や財政経済を悪化させ、しかもこの計画の成功は絶望である」。
しかし、彼らは柳条湖の9月19日以来、連日連夜待合に起居し青年将校を集めては士気を鼓舞していた。
この破壊計画は結局、発覚して未遂に終わった。同士の一人がこの計画は不利だと悟って上官に内容を打ち明けてしまった。
この計画を知った南次郎陸軍大臣、杉山元次官、二宮治重参謀次長らは、本来陸軍の命令系統からすれば彼らが説得すべきだが、身の危険であると察知して荒木貞夫に説得を頼んだ。
計画では荒木貞夫は十月事件後の新政権の首相兼陸相にされていた。無断である。
早速、荒木貞夫は橋本欣五郎らがいる京橋の旗亭に説得に行くと、橋本欣五郎ら5名は車座になって物々しい気配であった。
事件はその後、旗亭で憲兵隊が検束し計画は抑止された。この事件も三月事件のように処罰はしなかった。
罰どころか優遇した。彼らは刑務所ではなく料亭に収容されて毎日豪遊し、軍法会議もなく、極刑といっても橋本欣五郎の謹慎20日、長勇は10日で他は無罪放免であった。
「三月事件の責任者をそのままにしているので、十月事件だけを始末するわけにはいかない」ということである。
しかし、その結果がこの事件の延長として五・一五事件に発展し、陸軍の人事が乱れることになっていく。
この事件の後、内閣が更迭したので、新たに犬養内閣となり荒木貞夫を陸軍大臣として指名、真崎甚三郎を台湾から戻して参謀次長にした。
十月事件は最初でも書いた通り青年将校は参加していない。それ以上に青年将校達は出所不明の大金とその裏にあるソ連の存在を勘繰るようになっていた。
このことが統制派が青年将校を目障りになり、真崎甚三郎同様に排除しようと策を弄して、二・二六事件につながっていくのである。
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