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真崎甚三郎
「国家破壊計画」の三月事件を潰した真崎甚三郎は栄転という名目で8月に台湾軍司令官に左遷させられて、関東軍司令官には本庄繁となった。
本来は先任の真崎が関東軍に赴任し、本庄繁が台湾に赴任する順序であったが逆にされてしまった。
それは“8月”に大きな意味があった。
永田鉄山らは既に「満州事変」を計画しており、真崎が関東軍司令官になると満州事変が潰されて出来なくなると思い、真崎を台湾に追い出したと言われている。
1931年9月18日、奉天市外の柳条湖で満鉄が爆破された。柳条湖事件である。
この爆破はレール1メートル、枕木2本、爆破から30分後に急行列車が無事通過したくらいの程度であった。
満州事変は本庄軍司令官の同意を得ず、統制派と気脈を通じた満州組の板垣征四郎、石原莞爾と軍事課長・永田鉄山の連携で起きた。
直ちに関東軍は張学良司令部の奉天城と兵営の北大営を攻撃した。一方、張学良30~40万人は関東軍1万5千人の夜間攻撃に逃げさせ関東軍は一夜で占領した。
統制派が起こした満州事変は、満州から支那大陸に進出して、北京まで占領する計画であった。
この満州事変を起こしたのは皇道派の真崎甚三郎や荒木貞夫だと言われていたが、それは間違いである。満州事変を起こしたのも、支那事変も、大東亜戦争も、一貫して指導したのは永田鉄山とその志を継いだ統制派であった。
満州事変が起きて、日本の政界は若槻内閣から犬養内閣となる。荒木貞夫は熊本の第八師団長から陸軍大臣となった。
参謀総長は閑院宮殿下となり、宮の下に参謀次長として真崎甚三郎が台湾から戻って来た。
統制派は満州事変を長期戦として華北工作から支那奥地へ進攻していく予定でしたが、荒木と真崎の皇道派コンビで満州事変は片付けられた。
真崎参謀次長は宮中に召され陛下に「なぜ事変が速やかに終息せぬか」と叱責された。
意を決した真崎は閑院参謀総長宮に「万里の長城に立って自分を撃ち殺してからやれと止めてくるから現地に赴くこと」の許しを請うと「それは最後の手段だ」と言われて渡満は出来なかったが、真崎の同郷の佐賀の先輩である武藤信義関東軍司令官の努力と相まって満州事変を抑えた。
真崎が満州事変を早期に片付けたことが「真崎はけしからん」と板垣征四郎や小磯国昭は死ぬまでこれを言い続けたのです。
真崎は支那と戦うべきではないと考えており、常々こう言っていた。
「日本は支那や南方の国と戦争するようにはなっておらん。日本はどうしてもソ連と対決するように運命づけられている」
大東亜戦争が起きる前から真崎は一貫してこのことを訴えてきた。真崎を知る者はこのことを耳にたこができるほど聞いたという。大東亜戦争の結果を知る今となってはこの真崎の言葉が真理であった。
大東亜戦争が開戦された直後、日本がシンガポールを落とし蘭印を攻略し、旭日昇天の勢いの最中に真崎はこのように言った。
「この戦争は無理だ。日本は伸びきっている。・・・先日、小畑(敏四郎・皇道派)が来て、この戦争は負けると言った。補給だよ、船舶だよ。小畑の計算に間違いないと俺は思う」、そして「粛軍の方向を誤り、永田の『支那を一度叩け』の論から支那事変となり、ずるずると大東亜戦争に落ち込んだのだ」と断言した。
二・二六事件で真崎ら皇道派は軍の中枢から追い出された。二・二六事件以降は皇道派は軍の末端として、統制派の命令のままに戦う以外になかった。
ならば「なぜ皇道派は二・二六事件を起こした」という人がいるかもしれない。それは「はめられたからだ」である。
正しい日本精神の持ち主が軍部内で葬り去られて日本は戦争へと進んでいく。その裏にはコミンテルン、ユダヤの国際金融勢力がある。
日本は彼らの思う方向に突き進んで敗戦に向かっていった。
後に近衛上奏文を執筆する岩淵辰雄は「軍閥の系譜」でこう書いている。
「幕末の日本はペリーの来訪を契機に暁の鐘が撞(つ)かれたが、(帝国)日本の晩鐘は三月事件によって鳴りはじめたのである」。
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