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2019-03-09

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・3月になると、11日のことを意識する。
 明日の日曜日には気仙沼に向かう予定なのだけれど、
 どういう準備をしていこうかとか、
 あまり考えずに、ともだちのところに行くような感じで、
 今日の土曜日を過ごすことになる。
 実際に、ともだちのところに行くわけだけれど。

 ともだちたち、よくやってきたなぁと思う。
 どこまでがマイナスからゼロへの時間で、
 どこからゼロからプラスにする時間なのかは知らないが、
 「できるだけあかるくしていよう」という姿勢は、
 彼らは、ずっと続けているように思う。

 まだ頻繁に余震が続いていたころ、
 食べるものや水をどう補給するかというような時期に、
 東京にいながら、ぼくは避難所のようすを想像した。
 ぼくの頭のなかの避難所には、
 「しょうがないおじさん」がいた。
 未曽有の災害のなかにいてなお、場ちがいにも、
 そのおじさんはしょうもない冗談を言っているのだ。
 時として、そういうおじさんは迷惑だろう。
 場合によっては叱られたり殴られたりするかもしれない。
 ただ、あくまでも想像でしかないのだけれど、
 そういうおじさんが、いたらいいなぁと思っていた。
 ところが、のちに気仙沼の人たちと知り合ったら、
 いまもともだちでいる人のほとんどが、
 「そういうおじさんだった」ということがわかった。
 外側にいるものには口に出せないようなギャグが、
 ぽんぽんと飛び出してくる。
 先に笑うのは、必ず気仙沼の人たちのほうだった。
 ときには、そのほんの30秒もあとに涙声になって、
 目尻を濡らしていたりもするんだけどね。

 あれが、姿勢というものだったんだよな。
 あれは、かっこいいなと、ずっと思っている。
 3月11日の午後には、冗談ばかり言っていた彼らが、
 黒い服を着て集いの場に向かうことも、知っている。
 「できるだけあかるくしていよう」という姿勢は、
 やせがまんでも、無理しているのでもないはずだ。
 たぶん「生きるにいちばんいい方法」を選んでいるのだ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
生きるにいちばんいい方法を選べることが、知的の意味だ。


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