博多港のすぐ近く、今のマリンメッセ福岡から少しだけ山側へ入ったところ。
現在では時間貸しのコインパーキングになっているあの場所に、それはあった。
あれだけのお笑いマニアを自負していたにもかかわらず、芸人になるまではその存在すら知らなかった、地元・福岡の演芸場。
その名も、博多温泉劇場。
客席は総畳敷きの座敷席で、キャパシティは消防法を無視してギュウギュウに詰め込んだとしても、最大で300人程度。
正面から入って右側の売店にはビールやおでんなどの軽食が並んでいて、入ってすぐの左側、玄関の横ぐらいにこの劇場最大の特徴である「温泉大浴場」への入り口があった。
普段は客席に長テーブルが置かれていて、等間隔に配置されたポットのお茶は無料だけれど、ここはせっかくの温泉であり、せっかくの風呂上がり。
どうぞ冷えたビールでも飲みながら、できれば軽く何かをツマミながら、ゆったりと舞台上の演目を楽しみましょうよという算段の、劇場というよりはスーパー銭湯の宴会場に近いこの空間で、僕は「芸人」という職業のイロハを叩き込まれた。
大浴場といっても、男湯は5人も入れば満員になってしまうような大きさで、売店のおでんはいつから煮込んでいるのか逆に心配になるほどに、どっぷりと味が染み込んでいた。
全部で7つあった楽屋は全て畳部屋で、そこでの宿泊が大前提なのだろう、どの部屋にも必ず押し入れが備え付けられていて、古びた旅館の客室のようだった。
舞台の大道具を一手に任されていた「棟梁」とは、この劇場に住み込みで働く老夫婦の旦那さんのことで、売店の業務と出演者の食事=いわゆる賄いを担当していたのが、その奥さんだ。
表玄関に掲げられた棟梁の手描き看板や、楽屋の廊下に置かれたピンク色の公衆電話からは、まだ平成になって2年とはいえ、いささか過剰なまでに昭和の匂いが漂っていた。
そんな博多温泉劇場でこれから向こう一年間、隔月ペースで丸ひと月間の「吉本新喜劇&バラエティーショー」が開催されることになったのだ。その公演の「出演者兼スタッフ兼雑用係」という役割で、僕は本格的に芸人としての第一歩を踏み出した。
元々、ここは地方回りの旅一座を興行のメインに据える大衆演芸場だった。
そんな劇場で行われたのが「三代目博多淡海・奮闘公演」である。遡ること2年前の1988年、デビュー直後から吉本新喜劇を間寛平さんと共に牽引していた希代の天才喜劇人、木村進さんが祖父からの名跡である「博多淡海」を継承。その襲名披露公演で全国を回っていたのだが、そのツアー最終日、奇しくも故郷・博多での凱旋公演中に主役の淡海さんは脳内出血で倒れてしまった。
一時は命も危ぶまれるほどの重症で、実際に左半身麻痺という後遺症が残ってしまったが、懸命のリハビリの末、奇跡的に舞台復帰が決定。
その復帰公演=奮闘公演の場所として選ばれたのが、あの日倒れた時と同じ「博多温泉劇場」だった。
淡海さんの再起を賭けた「奮闘公演」には、吉本の名立たる芸人さんが連日、ほぼノーギャラで応援に駆けつけた。
もちろん、地元で根強い支持を集めていた淡海さんであったから、これまでも福岡公演は常に満員だったというが、折しも時代はチャーリー浜さんの「……じゃ、あ~りませんか」が流行語大賞に選ばれるほどの吉本新喜劇ブームである。
その豪華な応援ゲスト陣の登場は、今まで劇場に足を運んでいなかったような、そんな新規のお客さんの背中を大きく押したのだろう。
客席は長テーブルを撤去しての超満員札止め状態で、強気になった劇場側が料金の値上げに踏み切っても、入場できないお客さんが車道に溢れ返ったというのだから、その熱狂ぶりは凄まじかった。
この公演でたっぷり儲けた温泉劇場側にしてみれば、設立されたばかりの福岡吉本から打診された隔月の「吉本新喜劇&バラエティーショー」なんてプログラムは、断る理由が見当たらない絶好のビジネスチャンスだったことだろう。
これを見学できたのは福岡吉本のオーディションで優勝した予備校生コンビの「竹山くんと田中くん」と、準優勝した元・航空自衛隊員の「羽田さん」だけであり、オーディションで箸にも棒にも引っかからなかった僕たちは関わりようがなかったのだ。
観客として見に行くこともできたが、この公演中に見学だけの予定が初舞台を踏み、それぞれの芸名が「ター坊・ケン坊」と「コンバット満」に決まったという報告を、オーディションで仲良くなっていた田中くんから受けていた僕たちは、とてもじゃないが3人の活躍を客席から見つめる気にはなれなかった。
そもそも、決勝の模様はテレビで放送されるというのに、福岡吉本のオーディションには30数組の応募しか集まらなかった。
その上——今だから告白するが——あまりにも出場者のレベルが低く、そこから上位8組を選んだところで、とてもテレビに出せる代物ではなかったのである。
もちろん、自分たちを棚に上げるつもりはない。僕たちも相当に酷かった。
ネタの途中でふたりとも不合格を悟るほどダダ滑りしてしまい、後半は声すら出ていなかったと思うが、しかし他も同じだったのだ。
プロのネタをそのままやっている人、ハゲづらを被って変なメイクをしただけの人、そこら辺で売っている手品セットで失敗する人、普通にカラオケを歌って終わりの人……応募者全員が「どんぐりの背比べ」であり、本当の意味での「目くそ鼻くそ」だった。
「大阪とは違うやろなと思うてましたけど、想像以上ですわ」
5組づつのネタ見せが終わり、質疑応答に入る直前のタイミングで聞こえてきた関西弁。困り果てた顔で苦笑しながらそう答えていた男性の前には、無機質なゴシック体で「吉本興業福岡事務所・吉田武司」と書かれたコピー用紙がぶら下がっていた。
どうやら地元のテレビ局側から感想を聞かれたらしい。年齢は30過ぎといったところか。
その片棒を担いでいるくせに、想像以上を叩き出した張本人のくせに、僕は少しだけこの「吉田さん」に同情した。
そりゃあ、そうだろうなあ。こんなの、お笑いのオーディションとは呼べないよ。いくらなんでも酷すぎる。
無責任な言い方だけど、このままじゃ番組どころかオーディション自体が中止かもしれないぞ。大丈夫かな、福岡吉本。
あまりの惨状を受け止められなかった僕は、すぐにオーディションを客観視した。
物事を俯瞰で見れば、責任をなすりつける対象はいくらでも見つかるということを、いつの間にか学習していた僕にとって、この行為は条件反射に等しかった。
落研のみんなの手前、とにかく「不合格」だけは避けたい。
しかし、僕たちのネタでさっきの吉田さんはもちろん、審査員は誰一人として笑わなかった。クスリともしなかったのだから、合格するわけがない。
だからといって周りに負けているとも思えなかったが、それは周りが酷すぎるからであって、僕たちが優れている理由にはならないだろう。
それならば、いっそのことオーディションが中止になってしまえば「不合格」は「無効」に変わる。
言わずもがな、この差はデカい。
無効なら落研のみんなにいくらでも言い訳ができるのだ。全てが丸く収まるんだから、どうかその方向で決まりますように。
仮にもオーディションの参加者だというのに、まだオーディションの途中だというのに、僕はオーディションの中止を心から祈っていた。
「受かったばい!」
後日。
僕たちの連絡先となっていたサロンの元に一通の封書が届いた。
表面上は合格通知だというので耳を疑ったが、その中身は合格とはほど遠い「条件付き参加券」だったから、僕は妙に納得した。
というのも、やはりこのままではオーディションはともかく、番組は絶対に成立しない。そこで「選んだ8組を福岡吉本に通わせて、徹底的に稽古をつけた上で本番に臨む」という打開策が新たに取られていたのである。
応募者の中で唯一の現役大学生だった僕たちは、番組的に「大学生コンビ」という肩書きが欲しいという地元テレビ局の意向もあり「たくさん稽古をして、ネタをイチから作り変えるのなら」という条件つきで、その8組の中に選ばれたのだ。
そこから本番までの数週間、僕たちは福岡吉本の事務所に通い詰めた。
吉本の作家さんにネタ作りを手伝ってもらい、あの吉田さんには舞台上の立ち位置などを手取り足取り教えてもらいながら、連日遅くまで稽古に励んだ。
しかしこんなオーディションに何の意味があるのだろうか? やっていることはドーピングと同じなのだ。急場凌ぎのこの先に、オーディションという言葉の対義語であろう「輝かしい未来」の気配は、微塵たりとも感じなかった。
ただし、吉本に通うという行為は落研を遙かに凌駕する芸界の疑似体験であったから、それだけでも十分に楽しかった。
顔を合わせる内に他の出場者とも打ち解け、特にひとつ年下の竹山くんと田中くん、そしてひとつ年上の羽田さんとは気が合い、これから先も友人として繋がっていけるような予感もした。
もっといえば、この2組には最初から高評価が下されていて、実際に稽古中も頭ひとつ抜け出ていてから、どちらかがオーディションで優勝するだろうということは、もはや既成の事実だったのだ。
当然、3人の行く末には注目せざるを得なかった。
「ありがとう! お世話になりました」
なんのサプライズもなく、オーディションは終わった。
3人は福岡吉本の所属芸人になることを打診されたが、僕たちはこんな言葉を吉田さんにかけられただけだった。
終了と同時に、お役御免。
関西弁のイントネーションなのに標準語というその行間には、渡しそびれていた「不合格通知」がそっと挟み込まれていた。
(撮影:隼田大輔)
次回、3月20日更新予定
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